私をモナコに連れてって

しまおか

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第五章~剛

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 明日香がお義父さんに呼ばれて外出をした。彼女の実家と往復するだけでも約一時間はかかるため、すぐには戻って来られない。その間、悪いとは思ったがパスワードを入力して彼女のノートパソコンを開いた。
 二人は一緒に暮らし始める時、隠し事は極力しないという取り決めの中で、携帯とお互いのパソコンを開く為のパスワードは、万が一緊急で使わなければならない時の為に、と教えあっている。
 だからと言って何もない時にこっそり覗き見ることはルール違反だ。しかし確認をするだけで、今回だけは許して欲しいと心の中で謝りながら、履歴を見る。
 すると思った通りモナコ関連の検索ばかりで、かなり詳しいことまで調べていることが判った。泊まるホテルはエルミタージュにほぼ決めたらしく、フランクフルト経由の便でニースまで行くコースとのセットが一番お手頃のようだ。
 かかる旅行代金は以前漠然と聞いていた金額とそう大差はない。式にそれほどお金をかけなかったので、その分旅行を奮発する計画だったからこれは想定内だ。
 あとケリーバッグのことも調べていた。彼女が長年新婚旅行までモナコ行きを我慢していた話のついでにバッグの由来についても聞いている。未だ持っていないことの理由は義母からこっそりと情報を仕入れて知っていた。しかしまだ彼女からは買って欲しいとは言われていない。
 以前調べたことはあるが、もう一度そのサイトで金額を確認してみる。やはり百万円弱はするようだ。購入時期の為替レートにもよるけれど、国内のエルメスショップで買うより、モナコで買った方が安いかもしれない。
 それならモナコでエルメスのお店に入った時に、お望みのバッグをプレゼントするよと言えば、彼女はとても喜ぶのではないかと考えていた。旅行代でそれなりの額を使う予定だが、六月にボーナスが入ったばかりだ。貯蓄からすれば、決して払えない額ではない。
 もちろんこれからは今までと違う。二人で生活をしているのだから、勝手な無駄遣いなどできない。だが彼女が想い焦がれているバッグの為に使うのなら、決して怒りはしないだろう。
 そう考えながらパソコンを閉じて電源を切ったところで、無意識に自分の頬が緩んでいることに気付いた。ああ、だめだ。彼女が望んでいることだし、歓喜するかもしれない。もちろん剛だって彼女の喜ぶ顔を見たいし、夢を叶えてあげたいに決まっている。
 だがそれを実行するには苦手とする飛行機に乗り、フランス語圏の国に行かなくてはならない。その為には過去に味わった屈辱に耐え、平然と振る舞わなければならないのだ。果たしてそんなことができるのだろうか。
 あの悪夢からもう十年余り経った。あれ以来、国際便は乗っていない。国内便は、去年の熊本地震対応の応援で福岡便を一回だけ往復で使った。福岡にいた時に起こった東日本大震災における応援でも一度だけ仙台空港までの往復便に乗っている。その時は短時間だったこともあり、薬を飲んで何とか無事に済ますことができた。
 しかし今度は長時間乗る国際便だ。乗り換えも含め十数時間を飛行機の中で過ごすことになる。さらに問題はフランス領のニース空港についてからだ。フランス人とそうでない外国人を見た目で瞬時に判別できる能力など無いが、あの忌まわしいフランス語は耳にしただけで判る。
 その言葉を喋る人達と遭遇した場合、自分自身がどういう行動に出るかが全く想像できなかった。最悪過去に犯した過ちを繰り返してしまうかもしれないのだ。そうならないよう、自分をコントロールできるかどうかの自信がない。
 宿泊する五つ星ホテルのコンシエルジュなら英語だけでなく、おそらく日本語でも対応してくれるだろうから心配ないだろう。問題はモナコの店に入った時、店員達がどういう対応をするかだ。
 フランス領でなくても、多くの人達はまず公用語のフランス語で話しかけてくるだろう。その時英語で話して通じる相手であれば、英会話なら多少自信があるから対応できる。例えフランス語しか理解できない人がいても、明日香が話せるからやり取りに心配することも無いだろう。
 心配なのは話しかけられた時、自分の体がどう反応するか、だ。十一年前のトラウマがどれだけ残っているのだろう。思ったほどの拒否反応が出ない可能性だってある。
 しかし、万が一予想する最悪の反応、または予測不可能な事態になった時はどうするか。何も知らない彼女が剛の晒す醜態を目にした時、どういう反応を示すだろう。前妻のように、それこそ百年の恋が一瞬で冷めるような事態になるかもしれない。
 その危険を避ける方法は二つだ。一つは素直に告白し、明日香には事前の覚悟をしてもらうこと。もう一つはモナコ行き自体を回避することだろう。しかし後者の壁はとても高く、クリアすることは難しい。無理をすれば嫌われてしまう。そうなれば元も子も無い。
 彼女に失望され、嫌われたくないからこそ隠し事は極力しないという約束をしたにもかかわらず、今まで言えないでいるのだ。
 頭の中で同じ悩みを堂々巡りさせながらソファで横になり、読みかけの小説の本を開く。午前中は予定通りの掃除をして少し疲れたので、横になって寝た。午後は家に明日香がいれば色々話をしたりするか、彼女が他のことで忙しくしていれば読書する予定を立てていた。しかし本を読み出したところで、文章が頭に入ってこない。
 この苦悩を解決するため誰かに相談しようにも、秘密を知っている人間はごく限られている。一度は真剣に心療内科へ行こうかと悩んだこともあった。それを知っている人間は剛の知る限り加奈くらいだ。彼女が両親や友人達に告げている可能性はあるが、誰に話したかなど聞いていないし、聞ける訳もない。
 ただ少なくとも今の自分の近くにはいないと思われる。剛自身も自分のプライドが許さず、両親を含めて周囲の友人達にも事件の詳細は隠し続けてきた。ならばどうするか。そこで頭の片隅にうっすらと前妻の顔が浮かぶ。彼女には明日香と結婚する際に、一応再婚するとだけは手紙で知らせた。
 なぜなら彼女が再婚した際に、向こうからもそういう葉書が福岡にいた頃届いたからだ。文面は素気ないものだった。今度結婚しました、同じ会社の人です、とだけ書かれていた。そこでこちらからの連絡は文面を他人に見られたくなかったので手紙にして封書で送り、ほぼ同様の内容を書いて送った。
 葉書をもらってから数年経っていたが、相手の住所を正確に知っていたのは、四年前に彼女のいた保険会社と剛との会社が合併したため、彼女の夫とは同じ会社の同僚となったからだ。その為社内のパソコンで社員名を入力し検索すると、今は転勤で千葉にいることが判った。また保険契約などから住所も調べられる。 
 同じ千葉のビルにいる同期の話から聞いたところ、二人には四歳と一歳になる子がいるらしい。加奈は剛の時とは違い、結婚したと同時に会社を辞めたようで、今は専業主婦として二人の子育てで忙しいようだ。
 彼女の今の夫と面識は無いが、年は剛より一つ下だという。彼女とは同い年だから年下の男を捕まえたということだろう。役職は剛と同じ課長代理だ。しかしやや規模が小さい先方の会社にいた彼女の夫がその役職に上ったのは、剛よりもっと遅れてかららしい。
 くだらないことかもしれないが、彼女の夫と同じ会社でもこちらの方が年次も役職の経過年数も上だということだけが、辛うじて剛のプライドを守ってくれていた。
 彼女は剛の大きな弱点を握っているのだから、そんなことでも無ければ精神的なバランスがとれない。なぜならその夫もまた、剛の過去に犯した醜態については知っていると考えて間違いないからだ。
 それで役職も年次も上の人間だったら、目も当てられない。同じ会社だから今後いつかどこかで一緒になったり、近くの職場になったりする可能性がある。そんな時言いふらされ、馬鹿にされることを想像した時、文句の言える立場である事は決して小さくはない。
 ちなみに人損課課長の坂東は剛と同じ会社出身だが、支店長の北川と尾上は加奈の夫と同じ会社出身だ。合併したこととバブル期に採用された社員が多かったためか、合併直後の会社では管理職のポストが相当不足していたと聞く。
 そこで以前の損害課は課長一人だったが、合併後は物損チームと人損チームがそれぞれ課に昇進し、そこへ課長や課長代理が配置されるようになったのだ。尾上は非主流派の会社出身だが、年次は坂東より上だったために損害課全体の統括課長になった。そして会社で生き残るために必死だったのか、同じ非主流派の会社出身である支店長に取り入ったのだろう。
 そう言った経緯もあり、剛だけでなく坂東のことも尾上や北川は敵視していたと思われる。ありきたりな派閥抗争なのだが、そこで剛はふと彼女に話してみたらどう言うかを聞いてみるのも手かもしれない、と思いついた。あの頃は愛想を尽かした彼女だが、剛も彼女もまだ二十代半ばと若かった。
 それにあの事件はあまりにも不運なことが重なりすぎた結果だ。それから時が経ち、今でもあの最悪な事態のことを彼女は軽蔑して馬鹿にする程、剛に対して嫌悪感を持っているかどうかを尋ねてみたくなった。
 そして三十になる明日香が過去の話を聞いた場合どういう反応をするかを、同じ女としてどう思うか質問してみることも悪くないと考えたのだ。黙っておいた方が良いと言うだろうか。それとも長い付き合いになると考えれば、今の内に言っておいた方が良いと言うだろうか。
 加奈の答えを想像し始めていた所で、ドアの鍵が開く音がした。明日香が帰ってきたようだ。時計を見るとまだ二時過ぎだから、実家には一時間もいなかったことになる。 
 夏でドアを開けっ放しにしてあるリビングに、彼女が姿を現した。少しばかり疲れた顔をしている。
「お帰り。早かったね。どうした? 外は暑かった?」
 会社ではクーラーがガンガンかかっていることもあり、二人とも家ではなるべく冷房をかけたくないタイプだ。今日くらいの気温だと朝から窓を開けておけば十分快適に過ごせるため、扇風機もまだ回さないで済ましている。室温は二十五度をやや超えていた。
「ううん、日差しはあったけど、そんなに暑くない。それよりちょっと疲れちゃった」
 そう呟いて、剛が空けたソファのスペースにドサリと座った。
「何? 実家でお義父さんに何か言われた?」
「うん、ちょっとね。でもそれとは別に、話している間や帰ってくる電車の中でも考えたけど、私、異動先で働くのを辞めようかと思って。そうすると九月末で正式にこの会社を辞める手続きをしないといけなくなるとか考えていたら、それだけで疲れちゃったの。だって引き継ぎ書を作ったりもしなきゃいけないし、退職の書類を出したりして色々と忙しくなるでしょ」
 彼女は仕事を辞めるという決断に至った、実家での話の流れを説明してくれた。頷きながら聞いてみると彼女の言う通り、腹立たしいことはいくつかある。昨夜もそんなことを言っていた。
 だから一通り話を聞き終わってから、彼女に告げた。
「いいよ。明日香がそうしたいと思ったのなら、それでいいと思う。赴任先の職場環境は不明だし、はっきりしてからというのも中途半端な気がするのも判る。それに辞めると決めた方が先方に確認を取らずに済むから、人事も異動先の職場も気が楽だろう。明日香も初めての土地で変な不安を抱えるよりはいいかもしれない」
「そうよね。正直言ってそんなに働き続けなければいけないと思うほど、この会社に思い入れがないから。剛には申し訳ないけど」
「それはいいよ。俺だってそんな強い思い入れがあるかと言われれば、そうでもない。嫌なことや辛いことだって、責任感もあるけれど、仕事だから我慢してやっていることには間違いないからね」
「じゃあ、月曜日に出社したら矢口課長にはそう伝えるから」
「ああ。俺の方もそういう話になったと、坂東課長を通じて言っておくよ。そうすればそれぞれの課長から支店長へ話を上げてくれるだろう。ついでに九月の休みの件も伝えておけばいい」
「何か言ってくるかな?」
「北川支店長か? 別に何か言ってきても気にすることはないと思うし、今更そんな必要もないだろう。おかしなことを言ってきたら、それこそお義父さんの言っていたことを伝えておけばいいじゃないか。そしたら支店長も震え上がって、慌てて企営課の課長と一緒にお義父さんの会社へ飛んでいくかもしれないよ」
「言えば必ずそうすると思う」
「でも向こうが変なことを言ってこない限りは厄介だから、異動する直前まで契約の件は黙っておいたほうがいいよ。俺達がいなくなってから騒がしておけばいい」
「判った。そうする」
 彼女は一つ懸案事項が片付いたと笑い、着替えてくると言って寝室へと向かった。彼女が実家からどんな用件で呼び出しを受けたのか気になっていたが、気にするほどの話では無かったことが判りホッとする。そこで再びソファに横たわり、読みかけの本を開いた。
 今度は余計なことを考えなくなったからか、すらすらと頭に入っていく。夢中になっている間にリビングへと戻ってきた彼女は、再びパソコンを開いて何かを調べていたようだ。 
 三時過ぎに小腹が空いたね、と彼女が帰り道で買ってきたという和菓子を二人で食べ、また本を読み始めた剛は切りのいいところで栞を挟み、洗濯物を取り込む手伝いをした。
 彼女が畳んでしまっている間に、剛は自分のデスクトップのパソコンを立ち上げ、少しばかりニュースなどを閲覧した後、調べておきたかったことを検索する。洗濯物を片付け終わった彼女は次に夕飯の支度をし始め、台所で作業をしていた。
 剛はネットを見終わってシャットダウンした後は、夕食が出来上がるまでの間、夕方のニュースを見ようとテレビをつけてソファに寝転がる。
 夕飯を食べ終わった後にはお風呂に入り、二人共上がり終わると少し話をしながら、録画してあったお気に入りのバラエティなどを観る、といういつもの週末の生活パターンを過ごして、その日は就寝したのだった。
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