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第二章 紗栄子・高1 

28 アクシデント

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 紗栄子にとっては予想外の騒動だった翌日。
 練習後の蓮へのマッサージを始めようとしていると、室内プールに誰かが慌ただしく入ってきた。
 どうせ慌てた様子の大志だろうと、紗栄子が背中を向けていると、蓮の方が反応した。
「お前、野球部の…。」
「野球部の川口祐介です。失礼します。」
 同い年にも関わらず、えらく礼儀正しい彼の登場に、紗栄子も蓮も驚いている。
「川原、急にごめんね。実は大志の奴、練習中に怪我しちゃって。」
「えっ!?」
「多分捻挫だと思うんだけど、かなり痛がってるし、医者に行った方がいいと思って。」
「紗栄子。」
 祐介の息継ぎの隙を突いて、蓮が鋭い声を出す。
「マッサージはいい。後片付けも俺がする。早く工藤の様子を見に行け。」
「…ありがとう!」
 怪我、捻挫、かなりの痛み。
 耳がわんわんする。
(大変な怪我だったらどうしよう!!)
 足がもつれそうになるのを必死にこらえながら、祐介の後を追う。
 室内練習場に入ると、マネージャーにアイシングをしてもらっている大志の姿が目に入った。
「大志…!」
 予想外の、紗栄子の声に、大志はびくりと体を震わせる。そしてその反動で、足が痛んだらしい。思い切り顔をしかめた。
「大志、怪我したんだって?川口君が教えてくれたよ。」
「ああ、ごめん。心配かけて。」
 すると、恋人同士の会話に割って入る人物がいた。
「大丈夫よ、川原さん。‘マネージャー’の私が処置したから。」
 ‘マネージャー’のところに置かれたアクセントがずいぶんと重い。
 1年の女子マネ、広田志保だ。過去に大志に振られている。そのことが紗栄子に子供じみた対応をさせるらしい。
 普段なら苦笑いをしてやりすごす紗栄子だが、大志の怪我という一大事だ。こらえきれずにため息が漏れる。
「大志。」
「なに。」
「お父さんに診てもらおう。まだクリニックに残ってるか聞いてみる。」
 紗栄子の父親―――川原俊彦は、整形外科医をしている。市内のN中央病院に長年勤務し、この秋に医療モールのクリニックの院長におさまった。その医療モールは城北高校からほど近いのだ。
「いや、紗栄子、そんなわざわざ…。」
 大志の止める言葉など耳に入らず、紗栄子はケータイを取り出す。迷わず‘父’の通話ボタンを押す。
≪もしもし、紗栄子か。≫
「お父さん!?紗栄子です。まだクリニックにいる?」
≪ああ。どうした?≫
 父親がクリニックにいることに安堵し、紗栄子は息を吐いた。
「あのね。うちの高校の野球部の子が、足を捻挫したかもしれないの。ううん、すごく痛がってるから、もしかして骨折かもしれない。診てくれる?」
≪早く連れてきなさい。≫
 そう言って、紗栄子の父親はあっさりと電話を切った。
「ちょっと川原さん、そんな勝手に…。」
 志保はまだぐずぐずと言っている。すると、祐介が進み出た。
「志保、ここはあれこれ言ってる場合じゃねえよ。川原のお父さんが診てくれるっつうんならありがたい話じゃねえか。クリニックなら完全に時間外だろ、今。迷惑がらずに引き受けてくださるんだ。」
「―――。」
 言い返せなくなった志保に構わず、祐介は紗栄子に提案をする。
「川原。実は今、監督が車出すって言って、体育教官室に鍵を取りに行ったとこなんだ。どうせならその車で、一緒に行ってくれるか?俺も行くし、色々話が早いだろう?」
「うん。私、保健室かどこかで松葉づえ借りてくる。」
「それなら大丈夫。もう用意してあるんだ。」
 祐介と紗栄子があっという間に準備を整え、大志は松葉づえで監督の車へと向かうことにした。
 大志に合わせてゆっくりと進み、ようやく車へとたどり着き、3人は野球部の監督の車に乗り込んだ。ほどなくクリニックにつき、大志は再び松葉づえをつく。
「あ、お父さん。」
 看板の明かりを落としたクリニックから、父の俊彦が現れた。車いすを押しながら。
「これを使って。」
「すみません、…川原先生。」
 頭を下げながら、でも痛みのためにやや乱暴に、大志は腰を下ろした。
 手早く足首周囲のレントゲン写真を撮り、俊彦は診察室のモニターにデータを呼びだす。じっくり眺めて、居並ぶ面々を振り返った。
「折れてない。捻挫だね。」
 ほーっと、その場にいる全員が胸をなでおろした。
「おいおい、安心するなよ。しばらく激しい運動は厳禁だぞ。」
「えっ!!」
「ああ、もちろん足首に負担をかけない筋トレなんかはいいさ。でも、普通に歩いたり走ったりするのは禁止。いいですね、監督さん。」
「ありがとうございます、先生。」
 深々と頭を下げ、みんなさっさと引き上げることにした。なんといっても時間外の無茶なお願いなのだから。
「紗栄子。」
 俊彦は紗栄子だけ呼び止める。
「一緒に帰るか?」
「ううん、学校に自転車あるし。カバンも着替えもなんにも持ってきてないし。大丈夫よ。」
「そうか。しかし…おまえ、野球部のマネージャーだったか?」
 探るような目が紗栄子を見つめる。彼氏がいるという話は、気恥ずかしく、俊彦には直接言っていなかった。ただ、母親から聞いているのだろう。いや、聞いていなくても、これだけ血相を変えて現れた紗栄子の顔を見れば、察しがつこうというものだ。
「とにかく、お父さん、時間外なのにありがとう。」
「かまわん。こういうときのための医者だ。」
 娘らしくなく、恭しく頭を下げて、紗栄子は診察室を辞した。
 学校に戻る車の中で、野球部の監督はしきりに紗栄子にお礼を言った。
「いや、川原の機転で助かったよ。本当にありがとう。」
「とんでもない。これを機に父のクリニックの患者さんが増えたらいいなっていう…作戦です。営業活動です。腹黒くてすみません。」
 大志の怪我が最悪の事態ではなかったことで、紗栄子も冗談を言う余裕が出てきたようだ。 
「いやいや、うちの部員を行かせる行かせる。もちろん、ちゃんと時間内に。」
 にこにこと笑いながら監督に対応する紗栄子の横顔に、大志は声をかけた。
「紗栄子、本当に…ありがとう。」
「私が診たわけじゃないから。」
 少しぎこちなく、それでも微笑みあう二人を見て、監督が素っ頓狂な声を上げる。
「なんだ。お前ら付き合ってんのか?」
「…じゃなかったらおかしいでしょう。」
 祐介が恐れを知らずに、突っ込みを入れ、大志も紗栄子も大きく笑った。



 紗栄子が更衣室に向かおうとすると、まだ室内プールの明かりがついていた。そっと覗きこむと、蓮が一人でストレッチをしている。
「蓮…。まだいたの?」
 紗栄子に声を掛けられ、蓮は体をゆっくりと起こす。
「ああ、まあ、やらないで帰るのも気持ち悪いからな。しかしそういうお前は早いな。工藤、大丈夫だった?」
「うん。お父さんに診てもらったの。捻挫だって。軽いけがじゃないけど、骨折じゃない分、まだ良かったかな。」
「そうか。…で、彼氏ですって紹介したの?」
 紗栄子の顔がさっと赤くなる。
「そんな余裕あるわけないでしょ。だいたい、なんでお父さんに紹介しなくちゃなんないの。」
 ケラケラと蓮が笑う。
「そっか。そうだな。工藤は泣いて喜ぶだろうけど。」
「大げさねえ。」
「大げさじゃねえよ。あいつはお前にベタ惚れなんだろ。」
「やめてよ。悪いけど、本当に先に帰るね。」
「ああ、もちろん。余計に疲れただろ。お疲れ。」
「お疲れ様。」
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