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6.-10

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 その日、副官二名は、朝からたいへん不運だった。

 前夜の戦勝祈願パーティには出席を許されていた二人は、しこたま飲み、食べ、愛する妻や友との歓談を楽しんだ。ここまではよかった。
 グラディウス一族はなかなか柔軟な思考の持ち主が支配者であるためか、公的な宴のあとは当番の者達を除き、文官、武官問わず普段より遅めの出勤が許されている。
 エヴァンジェリスタ公の二名の副官も、多少の胸やけがする程度で済んだからだに鞭打って、いつもよりちょっとゆっくりめ(それでも、その他大勢に比べたらずっと早い)に、彼らの勤務先である公爵の執務室に向かったのだが。

 既に、レオン・エヴァンジェリスタ公爵は出勤しておられた。

 公私ともに仲良しの二人は、連れ立って執務室に入ろうとして──衛兵に、注意された。
 閣下は二刻ほど前にお見えです、と。

 なぜだ!?

 と、二人は顔を見合わせつつ、努めて平静に「おはようございます」「(本来なら遅くないけれど)遅くなりましてもうしわけありません」と、ちょっとだけ上ずった声であいさつしながら入室したところ、

 じろり。

 と、盛大に睨まれた。

 普段は快活で気さくな彼だが、何しろ各国の王侯貴族さえ跪かせる、最高位の権力者である。有能で冷徹な政治家であり、出陣をすれば名将と名高いエヴァンジェリスタ公の迫力は、目力ひとつで卒倒しそうなレベルだ。
 二人は、訳も分からず、無意識に詫びたりぺこぺこしながらそれぞれの持ち場に腰を据えると。

 通常の三倍はあろうかという書類が詰まれていた。

 一瞬信じられず、二人、顔を見合わせ、それから恐る恐る彼らの上司に視線を移せば。

 ──こちらを、見つめていた。底光りする、金色の双眸で。

 ひい!と声にならない叫びを上げた二人に対し、公爵は、

 「優秀なお前達なら昼までにできような」

 と、情け容赦なく言った。

 (我々が何をした?)
 (閣下に、何があった?)

 頭の中は疑問符でいっぱいだったが、彼らに拒否などできるわけもなく、力なく頷き、泣きたい気持ちでとりかかる。出勤の遅い日は、業務量も多少加減する、してくれるのが常だった。なのに。

 試練は続いた。調査、報告まで、あと数日は猶予があるはずの案件について、次々と進捗状況のチェックが行われたのだ。いつもより早いくらいの公爵様のご出勤、普段より山積する書類。やたら短い制限時間。精神的にも肉体的にもダメージが大きいのに、さらに二人を追い詰める鬼チェックである。冷や汗をかきながら応答したが、言葉につまったときが一番恐ろしい。

 じいいいいいっ

 と、猛禽のような鋭い目で見つめられるのだ。それはもう、いっそひと思いに殺ってくれ、と思うほど。

 昼が近くなっても指示された仕事は到底追いつかず、常ならば休憩時間に鷹揚な公爵様なのに、「俺は食欲がない」と言い捨てて立つ気配もないため彼らも食事をとることも気が引けて、空腹と、けれど神経性の腹痛に悩まされながらひたすら目の前の業務をこなし続けて数刻。

 ドアの外の衛兵が、カルナック大佐の来訪を告げた。


****************


 大佐殿!!

 彼らはこのときほど無表情なカルナック大佐を歓迎したことはなかったかもしれない。弾かれたように立ち上がり、敬礼をして、「我らは退室したほうがよいのでは?」と全身で訴えてみる。トゥーラ准将の副官として出向して以来、そうそう頻繁に大佐はこちらには現れない。余程のことがなければ自ら足を運ばない。出陣を控えたこのところは、特にそうだったので、彼らの忖度はあながち的外れではない。

 結果として、彼らの予想と期待はアタリだった。礼をとる二人に目もくれず、カルナック大佐はまっすぐに公爵の執務机の前に歩み寄ると、人払いを、と公爵に促したのだ。

 彼らにとってはまさに「天啓!」だったが、かろうじて、公爵が軽く頷いて退室を命じるのを確認してから、無礼になる一歩手前の速さで執務室を後にした。助かった、でも今日はいったい公爵様はいかがなされたのか、と内心首を傾げながら。



******



 「リヴェア様が発熱されています。ご存知でしょうか」

 ドアの閉まる音と同時に、単刀直入にオルギールは言った。
 声の調子はいつも通り平坦そのものに聞こえるが、紫水晶の瞳は剣呑な光を湛えている。

 「発熱するかもしれないとは、思った」

 美貌の元筆頭副官の視線を淡々と受け止めて、公爵は斜めの回答をした。
 ほんのわずか、オルギールが柳眉を寄せる。

 「高熱です。夜か、明日には下がると思いますが」
 「ならば安心した。……カルナック医師が言うなら間違いなかろう」

 万能のひと・オルギール・ド・カルナックは、医薬にも長じている。当然、医師の資格も持っていて、公爵の返答は皮肉でも冗談でもない。
 
 「俺は今日は遅くなる。見舞いの品でも届けさせるか」
 「レオン様」

 どことなく浮薄に言葉を紡ぐ公爵を、オルギールの感情を表さない声が遮った。
 いつもよりもどことなく熱の籠った紫色の瞳で、公爵を正面から見据える。

 「何を、なさっているのです。出陣は、明後日。発熱するほど無体を強いるとは、あなたらしくもない」
 「……」
 「ついでに申し上げますと」

 公爵の返答は期待していないらしく、オルギールは続けた。

 「愛しまれたのなら、まだよろしい。そうでは、なかったはず。……あれは、暴力です」
 「!?お前、……」
 
 さすがに、公爵は気色ばんだ。
 「あれは」?とはいったい。

 「何を知ってる」
 「医師として。失礼ながらお胸元を拝見しましたので」
 「ぬけぬけと、何を言うか!」

 公爵は吐き捨てるように言ったが、あきらかに勢いは失っていた。ほとんど夜明けまでぶっ通しで彼女を犯し続け、最後は完全に気絶させたあと、風呂に入れて新しい寝衣を着せたが、全身に散らばる痛々しい暴虐の痕跡は、さすがに呵責の念をかきたてられずにはいられないほどだったのだ。たとえ、一連のきっかけが、彼女の不用意な発言だったとしても。

 「都合のいいときだけ医師になるな。油断も隙もない」
 「侍医より私のほうが優秀です」

 こういうところ、オルギールはまったくの平常運転だった。
 そうだろうさ、と 公爵は肩をすくめて横を向く。

 それ以上の追求を拒否するかのように、公爵は席を立ち、窓辺に移動した。

 「──オルギール。……あいつを守ってやってくれ」

 オルギールに背を向けて窓辺に立ったまま、公爵は言った。
 磨かれた窓に、オルギールの姿が映っている。相対していないだけで、十分、オルギールの表情も窺うことができる。
 以前にも、オルギールに頼んだな、と思い出す。あの時は、シグルドに触れさせるな、と。
 それどころではない。

 生きて、戻らせなくては。

 「あいつは、強い。生存本能も、おそらく戦士としての才能も、天性のものだ。戦えば、相手を打ち負かすだろうが」
 「味方のためにはたやすくお命を捨てる覚悟でおられますね」

 オルギールは静かに首肯した。
 なるほど、と心中呟く。おそらく、昨晩の暴力のきっかけはこの辺りの会話が原因か。
 
 想像がついた。戦地へ送り出すことさえ、種々の事情からようやく納得したに過ぎないのに、きっと彼女が後に残る公爵の気持ちも考えず 不用意なことを言ったのだろう。

 「お任せを、レオン様」

 わずかに、頬を緩めてオルギールは言った。
 
 「私がついております限り。必ずや生きて、五体満足で、リヴェア様を連れ帰ります。戦地ですので、危険な目にあわせないとは誓えませんが、わが身に替えてもお守りします」
 「頼む」
 「ご命令には及びません。それよりもレオン様」

 最後はかなり明らかに、苦笑交じりにオルギールは口調をあらためた。
 窓外を見る格好だが、たぶんまったく景色など目に入っていないであろう公爵の背中に向かって言う。

 「さすがに、今夜はお控えを。出発前夜は……まあ、リヴェア様の体調次第というところでしょうか」
 「余計な世話だ」

 少々無礼な元筆頭副官を振り返ることなく、公爵は憮然として言った。
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