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番外編 重ねる日々
恋人に好かれたい男の奮闘 side E
しおりを挟む『パックって、フェイスパックのことかい?』
電話の向こうから届いた友人の声がとても不審そうだったので、エリオットは今回の相談をすでに後悔していた。
「キャロルが……」
『レディが?』
「パックがいいっていうから」
『きみたち、スキンケアの相談までする仲なの?』
きっかけはただの世間話だ。冬は肌が乾燥するから嫌だというキャロルに、そういえば最近、バッシュがしつこいくらいボディクリームを塗りこんでくる、と愚痴を返したのだ。
「そうしたら『肌のケアくらい自分でしなさい』って怒られた」
『きみのダーリンに、荒れた肌にキスさせるつもり? とか?』
「……盗聴してた?」
ナサニエルが愉快そうに笑う。
『なるほど。それでぼくにお呼びがかかったわけだ』
「友達が少なくてね」
『イオリに頼めばいいじゃない』
「それは……恥ずかしいだろ」
いままで肌の手入れなんて微塵も興味がなかったのに、急にメンズ用のパックが欲しいなんて。思春期の子どもじゃあるまいし。
だから、おしゃれに詳しく自分磨きを怠らない友人に電話をした。それだって、たっぷり半日は迷ったが。発信ボタンを押させたのは、やはりキャロルの言葉だ。エリオットはバッシュの、ひげを剃ったばかりのさらりとした頬も、ちょっと伸びかけのしょりっとした頬も好きだけど、思い返すと彼はよくエリオットの頬を揉みながら「もちもちだな」とご機嫌でいっている。つまり、もちもちの頬が好きなのだ。……たぶん。
ならば、それを維持する努力くらいはしてやってもいい。
エリオットの機微を適当な相槌でいなしたナサニエルは、「いくつか持って行ってあげるよ」と請け負ってくれた。
◇
翌週。カルバートンへやって来たナサニエルは、お茶を出したロダスが退室するのを待ってトートバッグから次々に箱やパウチを取り出した。
「最初から色々いっても、きみ飽きるだろう? とりあえず、シートマスクと洗い流すタイプを持って来たよ」
「なにが違うの?」
「シートのほうは、きみがイメージするパックだと思うよ。顔にぺたっと貼るタイプ。主に保湿とか美容成分の補充が目的だね」
CMで見るようなマスクの写真が載っている薄い箱を取り上げて、裏の説明書きを読む。
ヒアルロン酸、コラーゲン、セラミド?
あ、ティーツリーのエキスはなんとなく分かる。
「お風呂の後に十分くらい貼るだけ」
「簡単だな」
「だろう? で、こっちが洗い流すマスク。クレイマスクね」
ドン、とテーブルに置かれたのは、エリオット御用達の栄養補助ゼリーに似たパウチだった。
「クレイ?」
「泥パックってやつだよ。シートマスクが保湿で、こっちは角質や毛穴の汚れを落とす目的」
「これ、中は泥ってこと?」
グレーっぽいパウチの中身を指さすと、ナサニエルがうなずく。
「そう、必要なだけ出して顔に塗る。これは五分から十分くらいおいて、軽く乾いたら洗い流してね」
どちらも普段の洗顔や保湿にプラスして使うものだから、週に二回くらいでいいらしい。それならエリオットにも続けられそうだ。
「でも、なんでこんなに種類があるの?」
「肌に合う合わないもあるから、いくつかメーカーの違うものを持って来たんだ。どれもお勧めだから、順番に試してごらん」
「分かった。ありがとう、ニール」
「こういうことならいつでも」
エリオットがクレイマスクのパウチを揉んでいると、ようやくティーカップに口をつけたナサニエルは、その端をくいっと上げた。
「塗り方も教えてあげようか? もちろん手取り足取り」
「手と足は取らなくていいけど教えてほしい」
「オーケー、ハニー。バスルームへ行こうか」
◇
シートパックの袋を手に、エリオットは洗面所からルードを呼んだ。
「ルード、おいで」
ちゃっちゃっと爪の音を立てながら、鼻先で扉を押し開けたルードの頭を撫でる。そして袋から出したパックを広げて見せた。
「いまからこれをつけるからな」
タイルの床にお座りしたルードが、「どうぞ?」というように首をかしげる。
別に愛犬に許可を取らなくてもパックくらい勝手につけたらいいのだが、ニールに教わりながら初めて白いパックを顔に張り付けたエリオットに遭遇したルードに、「ヒャアアァ!」と犬らしからぬ鳴き声を上げて逃げられた前科があった。
さすがにかわいそうだったから、飼い主だと分かるようにパックをつけるところを見せることにしている。
ヒアルロン酸とコラーゲンとセラミドと──とにかく肌にいいらしい成分がたっぷりしみ込んでいるパックを、鏡を見つつ額から順番に顔全体へ張り付けていく。濡れタオルで覆うようなひんやり感が、風呂上がりの頬に心地よかった。
「どう?」とルードを見やる。
前回は「ひゃん……」と後ずさったルードは、三回目にしてどうやら飼い主が変なものを顔に張り付けているだけだと理解したらしく、「わふっ」といつもの返事をしてくれた。
よしよし。
きょうはこの後、バッシュが来る予定だ。夕飯は出先ですませるとかで、侍従から聞いている到着時間まで残り三十分ほど。パックの効果は十分得られるし、証拠を隠滅する時間もたっぷりある。彼がこの部屋の扉をノックするころには、できたてもちもちの頬を提供できるというわけだ。
エリオットはルードを連れ、意気揚々と洗面所からベッドルームへ出ると──。
「うお、びっくりした。お前か」
「ぴ……」
いるはずのない恋人が立っているのを見て、悲鳴を上げた。
「ぴゃああああぁ!」
◇
「おーい、エリオット。エリー? そろそろ出て来ないか?」
「うっせーバーカ! あっち行け!」
コンコンとノックされる扉へ、洗面所に立てこもったエリオットは怒鳴った。
「十時過ぎるんじゃなかったのかよ! 嘘つき!」
「驚かせて悪かった。思ったより早く会食が終わったから、その足で来たんだ」
パックから滴る美容液で冷やされたはずの頬は、いまにも火を噴きそうなほど熱い。
エリオットは洗面台の下に座り込み、一緒に閉じ込められて迷惑そうなルードにしがみついた。
最悪だ。
「う~」とうなっていると、また扉がノックされた。
「パックするくらい、恥ずかしいことじゃないだろう。おれだってピールオフくらいするぞ」
「そんなのただの身だしなみだろ!」
おれの決意を、その他大勢に見せるためのものと一緒にするな。
「おれは内緒でもちもちになるつもりだったの!」
「……もちもち?」
「あ、あんたがいつもひとのほっぺ揉みまくって『もちもちだ』とかいうから、その楽しみに貢献してやろうとしたんだよ!」
なのに、まさか本人に製造過程を見られるなんて、予想外もいいところだ。
次のノックまでには、少し間があいた。
「あー、エリオット? その努力を無駄にしないために教えるが」
「なんだよ」
「フェイスマスクは、長時間貼りすぎると逆に肌が乾燥するぞ」
「早くいえ!」
乾きかけたシートを、慌てて顔から剥がした。
脱皮した後の抜け殻をゴミ箱に投げ込むと、のんびりしたバッシュの声が尋ねる。
「とったか?」
「……とった」
「なら、こっちに来て効果を確かめるってのはどうだ?」
エリオットは唇の内側を噛み、ベッドルームに繋がる扉をにらんだ。鍵なんてついていない──向こうから開けようとすればなんの障害もない、薄い扉。
ため息をひとつ。膝を押して立ち上がった。
◇
ノブを回して軽く引けば、隙間からヒスイカズラの瞳に見下ろされた。
発光しているような虹彩はいつまでも見ていたいほど美しく、小さめの瞳孔には時折見せる苛烈さの片鱗が窺える。驚くくらい魅力的だ。
解放されたルードが、足元を通り抜けてバッシュの周りをぐるりと回ってあいさつし、そのままシッティングルームのほうへと去って行った。
薄情者め。
「ただいま」
「おかえり」
侍従がみなそうでるように、仕事終わりのバッシュは深いV字のベストを着込んだスリーピース姿だった。エボニーっぽい渋い色味は、彼にしては珍しい。
「それで?」
力強い眉に期待を込めて分かりきったことを聞くので、エリオットは「ん」と顎を上げた。
「……触らせてやってもいい」
「それはどうも」
ゆっくりと持ち上がったバッシュの両手が、救い上げるようにエリオットの両頬を包んだ。肌に触れる直前、石鹸の匂いがして静電気のようなかすかな痺れが走った。
「おお、これはまた……」
バッシュが驚いて瞬きする。
パックの効果でしっとしと吸い付くような手触りを確かめるように、バッシュはゆっくりと頬をこねた。
「すごいな。いつもの三倍はもちもちだぞ」
「一枚十五ユーロらしい」
高え!
エリオットの頬を捕まえたまま、バッシュは顔いっぱいの笑いで天井を仰いだ。
「満足したか?」
「ああ。いや、もう少し触らせろ。本当にヤバい」
指先で頬をつまんだり、手のひらで挟んだり、クリームを塗るようにぐるぐると撫でたり。ブロックを積む子どもみたいに、心から楽しそうだ。
まぁ、ここまでお楽しみいただければ、恥をかいたかいもある。同じ頬なら、エリオットは目の前の男みたいな精悍さがほしいものだけど。
相手が見つめて来るのと同じだけの距離で高い頬骨を観察していると、気が済んだのかバッシュの手が離れた。
近かった顔が更に寄せられ、マッサージされてぽかぽかする頬に唇が触れる。
「これは。おれのためのもちもちってことでいいんだな?」
「……あんた以外にそんな物好きいねーだろ」
肩をすくめたエリオットの耳に、低いささやきが吹き込まれた。
「お前のそういうところ、めちゃくちゃ可愛い」
あんたのそういうところ、めちゃくちゃ癪だけど、仕方ないからまたパックしといてやる。
応援ありがとうございます!
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