来し方、行く末

紫乃森統子

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四.志野

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 与十郎は足を踏み込み、気合と共に右肩から刀身を振り下ろした。相手が身体をしならせるのが僅かに速く、刀身は僅かに腕を掠めた。
 即座に足を引き構え直すと、間髪を入れずに相手の竹刀が殺到し、与十郎は後ろへ飛び退くと間合いを取った。
 それを追うように果敢に斬り込んで来た相手の刀身を躱し、与十郎は引き足を使って相手の額に打ち込んだ。
「やはりまだ鈍っているようです」
 与十郎は汗を拭いながら平井に言ったが、平井は笑い飛ばした。
「なに、こんなものだろう」
 道場稽古も、何だかんだ立ち合った門下から一本取られるようなことはなかったが、それでも自らの剣捌きには納得がいかなかった。
「それで、御前試合の相手はどなたなのですか」
 平井に促され、道場から渡り廊下で繋がる母屋の客間で尋ねると、平井はまあまあと勿体をつけて言い渋った。
 間もなく平井の娘が茶を運んでくると、平井はその退室を引き止め、にんまり笑う。
「志野、お前も顔を合わせたことがあるだろう。覚えておるか」
 志野が淹れた茶を前に、与十郎は謀られたなと思った。
 婿を探しているという例の娘だ。
「勿論です。家中に島崎与十郎どのを知らぬ者はおりませんでしょう」
 悪評を指して言われたのかと思ったが、どうもそうではないらしかった。
「私もいつか、お手合せ願いたいと思っておりましたから」
「お前はまたそういうことを。だからいつまでも婿が決まらんのだぞ」
 平井はしまったとばかりに天を仰いだが、志野のほうはけろりとしている。
 手弱女たおやめという雰囲気はないが、そこまで男勝りな印象もない。凛とした気配の、ごく普通の娘だ。
 二十歳を数えて縁組のない娘は稀だが、三十路も目前の与十郎にしてみればまだまだ若く美しい娘に見えた。
「差し出がましいようだが、女手が無いとなると支度にも手間取るかと思うてな。お上の御前に出るのに、そのなりでは……」
 言い難そうに尻窄みになった平井の声に、与十郎ははっとして恥じ入る。
 日々の多忙に感けて袖の綻びも繕えずにいるし、髪も解れて如何にも不格好な様になっていた。
「いや、これは──、面目無い」
 改めて自分の姿を認識させられ、与十郎は俯いた。
「与十郎どのさえお嫌でなければ、当日のお支度は私がお手伝い致しますよ」
「それは有り難いが……、しかし、志野どののお手を煩わせるわけには──」
「父の言い付けのために申し上げているのではありませんから、どうぞお気になさらずに」
 志野はにっこり微笑んで言うと、与十郎の返答も待たずあっさり退室してしまった。
 その気配が遠退くのを待ってから、平井は徐ろに顔を寄せる。
「すまんな。志野はあの通りずけずけと物を言う質で、婿を取るにもなかなか良い返事を貰えんのだ」
「いえ、私のような者にまで気遣ってくださって、──良いお嬢さんではありませんか」
「よせよせ、お嬢さんなどという齢ではないのだぞ」
 そう言いつつも、平井は娘を褒められたことに気を良くしたのか、決まり悪そうに笑う。
 これ以上志野の話題に触れるとまたぞろ婿になどと言い出しそうで、与十郎は調子を切り替えて先の質問を繰り出した。
「それで、相手の方は」
「それが決まったら苦労はせん。お主が条件に頷いてくれればすぐにも決まるんだが」
「……いえ、志野どのの御相手ではなく、御前試合の話です」
 苦笑する与十郎に、平井は目を丸くしてからひとつ咳払いをした。
「ああそうか、その話だがな」
 平井は途端に難しい顔をして視線を落とした。
「金森道場の赤沢幸之助を知っておるか」
「赤沢……」
 耳に覚えのある名だった。
「次席家老の三男だ」
 屋敷町を出て堀を越えたところに馬場があるが、金森道場はその界隈に看板を掲げている。割合大きな道場で、平井道場に匹敵する数の門弟を抱えていた。
 赤沢はその高弟で、相当に腕が立つという。
 実際に立ち合ったことはないが、赤沢に関してあまり良い話は聞いたことがない。
 二十二、三ほどの齢だったはずだが、昼日中から茶屋や料亭に入り浸っているようで、剣は強いが遊びが過ぎると噂される人物だった。
「お主、知らぬわけではあるまい。剱持家老や八巻家老の温情あるご処分を押し退けて、彦之進殿の降格を強硬に唱えたのは赤沢家老だぞ」
 それさえなければ、島崎家は精々が百石に落とされ城での勘定方に役替えされる程度で済んでいたはずだったという。
 父の口から詳らかに赤沢家老との因縁めいたものが語られたことはなかったが、酒が過ぎるとたまに赤沢を怨嗟するような口振りで喚くことがあったのは確かだ。
「与十郎、この試合に勝て。少しは親父殿の悲憤も安らぐかもしれん」


 
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