来し方、行く末

紫乃森統子

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六.因縁

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 二の丸の広場での御前試合は、粛々と進んでいた。
 与十郎の身支度は志野がすべて世話をしてくれたお陰で、一つの綻びもない。
 離れた桟敷席には藩主が、その周囲には小姓も控え、幔幕を背に試合の行方を見守っている。
 重職席も十ほど設けられ、その中には赤沢家老の姿もあった。
 見物人は家中から軽輩に至るまで大勢が集まり、勝負の合間にざわめきが立つ。
 正月のまだ寒々とした風が時折砂塵を巻き上げて吹き抜ける中、熱気を放つほどの人出だ。
 藩主や重職の席には火が焚かれたが、勝負に臨む与十郎と、その相手方には床几が与えられたのみである。
 試合は三本勝負で、初めの一本を与十郎が、次の一本を赤沢幸之助が取った。
 前二本ともが殆ど相討ちのような僅差で、速さもほぼ互角といったところだ。
「与十郎どの、鉢巻が緩んでいます」
 道場主の平井の後に控えた志野が、床几に掛けた与十郎に言う。
 志野も今は平井道場の一門人として席を賜っていた。
 今朝、平井道場で衣装を整えることは愚か、月代の手入れに至るまで志野の世話になった。
 それは二の丸の広場に着いてからも変わらずで、相手方に見劣りのせぬよう細心の注意を払ってくれている。
「汗も拭われたほうがよろしいでしょう」
 言いながら、志野は自らの手拭地を差し出した。
 寒気の漂う中だったが、身体は疲労と緊張で上気して汗が滲んでいる。
 遠目には分からぬだろうが、志野はそれに気付いていたらしかった。
「速さは互角だが、体力においてはお主のほうがやや上回るようだな」
 見てみろ、と平井が目配せた。
 既に二本の勝負を終え、互いに疲労の色はある。
 だが、対陣の赤沢幸之助は今の二本目を取るのに随分と消耗した様子であった。
 鉢巻を固く結び直し、与十郎は最後の勝負のため中央へ出る。
 それに遅れて赤沢もまた前へ出た。
「なかなかやるではないか。次もおれが貰うぞ」
「………」
 すっかり息は整えたようだが、平井の言う通り持久力で差があるとすれば、次は早々に勝負を決めに来るだろう。
 与十郎は静かに息を吸い込んだ。
 行司役の声が上がり、青眼から暫し睨み合う。
 じりじりと摺り足で出方を窺うが、切先はぴたりと吸い付くように合わさったまま、寸毫も離れない。
 与十郎は赤沢が仕掛けてくるのを待った。
 二の丸の広場は張り詰めた静寂に満ち、見物人も固唾を呑んで対峙する二人の様子を見守る。
「親父殿は狂人だと専らの噂だが、本当のところはどうなのだ」
「………」
「母親も最期は自害だそうだな」
「………」
「狂人などに操を立てるから、そんな最期を迎えるのだ」
 赤沢はにやにやと薄笑いを浮かべた。
 あきらかな陽動だ。
 下卑た笑いと煽り立てるような文句に、与十郎は一瞬眉根を寄せる。
 二親をそのようにしたのは、他でもない赤沢家老である。
 その口振りから察するに、あらましは知っているものだろう。
 人を食ったような赤沢の態度にはひどく腹が立ったが、しかし与十郎は寸でのところで激憤を押し殺した。
 低俗な戯言に踊らされるには、与十郎はこれまでの長きに亘る不遇を耐え忍びすぎていた。
 やがて煽動出来ぬと痺れを切らしたか、赤沢は一歩跳躍し、与十郎の刀身を弾くと颯の如く右肩から斬りかかった。
 来た、と思うと同時に与十郎は身体を撓らせて退き、次の瞬間には裂帛の気合と共に赤沢の額に打ち込んでいた。
 赤沢の鉢巻に血が滲み、額から鼻梁にかけて一筋流れた。
 
   ***
 
 赤沢幸之助を打ち負かしたところで、晴れやかな気分になれるわけでもなかった。
 平井道場の門人からは口々に寿がれ、藩主からは褒賞が出たが、このことで赤沢の恨みを買ったのではと考えたからだ。
 事実、額を打たれた赤沢の目は、憎々しげに与十郎を睨めつけていた。
 平素遊びに興じて憚らないわりに、剣は相当使う。
 立ち合ってみて感じたのは、一見自堕落なようでいて、肚の底には何か野望のようなものを秘めている。
 何をするか分からないような男だ。敗北悔しさに真剣勝負を挑んでくるかもしれない。
 それならばまだましで、平井道場そのものに怨恨を持たれては困るな、と与十郎は思った。
「ただいま戻りました」
 いつも通り暗がりの奥に声を掛け、与十郎は背筋が粟立つのを感じた。
 玄関を潜った時から妙な気配があった。
 それが何であるかを今悟った。
「父上……!?」
 襖を叩き付けるように開け放った先に蹲る、影。
 瞬時にはそれが人であるとの理解が追い付かなかった。
「──何ということを」
 血溜まりの中で前にのめり伏した、父の姿だった。
 仏壇に灯された二本の蝋燭が隙間風にちらちらと揺れ、闇を一層濃く見せる。
 既に事切れていることは一目見ただけでも分かった。だがそれでも、与十郎は父の肩を抱き揺すった。
 傍らに転がった脇差で、腹を切ったのだ。
 べっとりと血に濡れた懐紙が、刀身に張り付いていた。
 隠していた刀の在処を、父は知っていたのだと思った。
 与十郎と赤沢の勝敗も聞かず、部屋には書き遺した物もなかった。
 ただ変わったところと言えば、母の位牌が仏壇の茶湯台から経机に降ろされ、父の死を見守るようにそこに置かれてあったことだった。
 
  
 
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