桜蘂ふる

紫乃森統子

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三.高鍋

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 関小八郎・次右衛門父子は定府であるらしかった。
 小八郎を当主に、その妻女と嫡子の次右衛門のみの家族である。
 勤番者が起居する侍長屋とは異なり、御殿から幾らも離れぬ一画に役宅を得て、一家はそこに暮らしていた。
 関家では小者も数人抱えていたが、源之丞一人増えたところで、暮らし向きが大きく変わるようなことは無いようだった。
 兵部が小八郎父子に源之丞を任せたのは、そうした関家の事情も熟知していたためであろう。
 居宅の規模はそれなりだが、風呂付きの立派なものだ。
 それだけでも関家の家格が知れる。
 ふつう、藩邸内に暮す者は敷地内の共同の風呂に入るか、あるいは藩邸から外出して銭湯に行く。
 共同の風呂は身分ごとに入浴の時間を決められていたし、銭湯へ行くにも二刻以内には藩邸へ戻らねばならないという門限付きだ。
 定府の者は外出も比較的自由で、重臣ともなると、藩邸の外に抱え屋敷を持つ者もあったが、それでも監視の目は厳しい。
 江戸市中における家中の行動に目を光らせているのは、何も高鍋藩に限ったことではない。
 他藩も皆、同様である。
 その上幕府の目付もあることから、華やかなばかりではおれないのが実情のようだ。
 市中で問題を起こし、或いは巻き込まれ、藩の名が挙がりでもすれば、即刻公儀の知るところとなる。
 藩の体面を保つためにも、特に参勤で江戸詰めになったような勤番者には、締め付けが厳しかったのである。
 江戸詰めとなっても月に数回の外出が許されるのみで、のんびりと遊山など出来るわけでもない。
 勤番長屋には、囲碁や将棋、貸本を眺めて無聊ぶりょうを慰める藩士がごろごろといた。
 源之丞が暮らしたような裏店とは比較にもならない立派な大名屋敷だが、長屋門の付近には時折出入りする商人の姿も見えて、外の風を運び入れているようでもあった。
 
   ***
 
「兵部さまの御取り成しにより、おまえは今後、我が関家の親類の子という体で預かることになった」
「はい、お世話になります!」
 塵一つない関家の居間で、小八郎に対座し、源之丞は背筋を伸ばした。
 対する小八郎は、何とも言い様のない面持ちで一つ吐息する。
 その控えに座した次右衛門は、相変わらず腹のうちを読めない変化に乏しい表情で、じっと源之丞を見詰めていた。
「まったく、兵部さまの溺愛ぶりにも困ったものだ。次右衛門、おまえも少しは側役として御諌めせねばなるまいぞ」
「いい加減お諦めください、父上。弟君を慈しむ兵部さまの御心にケチをつけないで下さいませぬか」
「いや、そういうんじゃなくてだな」
「殿も若殿もお許しになったんですから、四の五の言っても始まりませぬ」
「兵部さまもどさくさに紛れて、随分な無理を通されたものよ」
 秋月の藩主父子が、もう三日の後には日向国高鍋の領地へ帰国するという時であった。
 一度国入りすれば、この先一年は戻らない。
 帰国の支度に慌ただしい中を、兵部が源之丞の一件をさらりと捩じ込んだのが目に浮かぶようである。
「兵部さまの悪口は聞きかねますぞ、父上」
「悪口ではないわ。おまえも大概、兵部さまに甘い奴よな」
 父子共に、源之丞を引き受けるのに乗り気でないのを隠しもしない。
 が、不思議と小八郎にも次右衛門にも、底意地の悪さのようなものは感じられなかった。
 二人の様子から窺い知れるのはただ、二人共に、それぞれの仕える主に何だかんだと結局弱い。
 それだけである。
「心配いりません。俺はきっと、立派な秋月の侍になってみせます!」
「………」
「………」
 父子は揃って怪訝な面持ちのまま、源之丞を見た。
 呆れたような、それでいて哀れむような、奇妙な居心地の悪さを感じさせる視線である。
「……うむ。まあ、励むがよい」
「少なくとも兵部さまは容易くお見捨てになる方ではないが、先のことは分からん。おまえ次第だ」
 小八郎は渋い顔を崩さずに頷き、次右衛門がやれやれと首を左右に振った。
 兵部さまは、と、敢えて言うあたり、当の万作がこの先どう出るかは量り兼ねるということだろう。
 源之丞を側に置こうという万作の要望も、よくある子供の気紛れと考えているらしい。
 しかし、気紛れだろうと何だろうと、源之丞にとっては漸く叶った仕官である。
 未だ年少ゆえ、叶ったと言っては語弊があるが、その道が開かれたことには違いない。
 数々訪ね廻った大名旗本の屋敷で、野良犬を追い払うがごとくあしらわれてきたのが嘘のようだった。
「俺も万作さまの側近として、気合入れますんで」
 決然と宣誓した源之丞に暫し注目してから、父子は互いに目を交わす。
 すると、小八郎は一つ咳払いすると、改めて源之丞に向き直る。
「よいか源之丞。万作君以前に、主君は我が殿、秋月佐渡守さまだ。佐渡守さまは大変に優渥なる御方でな。また、争いを好まれぬ」
 小八郎の声には、主君に対する敬愛が滲み出るようで、源之丞は思わず聞き入る。
「今は亡き大殿の御家督の頃に、御家を揺るがす騒動があったのを聞いたことがあるか」
「秋月の、御家騒動? ……さあ」
 大名家の御家事情などとは無縁のところに生きており、源之丞には今ひとつ思い当たることはない。
 相当な醜聞ならば市中でも噂になるものだが、そういう類の話を見聞きするには、源之丞はまだ稚すぎたのだろう。
 加えて亡き大殿の家督の頃の話とすれば、それは源之丞が生まれるよりもずっと昔の話である。
「時の家老、坂田五郎左衛門の逆心が発端であったが、随分と尾を引いてな。そのために死んだ者は、五百にも登る」
「五百!?」
 源之丞は瞠目した。
 想像も及ばぬ数である。
 小八郎は静かに頷き、源之丞の目をじっと覗く。
「先々代にはお世継ぎがなく、姫君に婿養子を迎えられたことが発端であったが……」
 娘夫婦に男子が生まれれば、これに家督を継がせる──。
 先々代は娘婿を迎える際、そういう約定を交わしたという。
「ご養子を采女うねめさまと申されたが、そこへお生まれになったのが大殿、種春公だ。約定の通りに大殿へ家督が譲られる段になると、家老がこれに異を唱えてな。本来采女さまこそ、御家督すべき御立場であると唆したのだ」
 為に、父子で家督を争う構図が出来上がった、ということらしい。
 万作ら兄弟から見れば、曽祖父と祖父が敵対していたわけだ。
「結局、家督は采女さまではなく、種春公が継がれたのだが、後々まで遺恨が残ってな。家中が互いに反目し殺し合うさまを、殿は肌で感じ取って来られたのだろう」
 烈しい諍いは、多くの悲哀と虚しさを色濃く残したのに違いない。
 先代・種春公は、万治二年にその波乱に満ちた生涯を終えた。
 その遺領を継いだ現当主・佐渡守種信は仁政を志し、秋月の家中も国許も、漸く安定してきたところだという。
「ゆえに、我が殿は再び騒動の起らぬよう、常に家中に御心を配っておいでなのだ」
「万作さまのお父上はお優しいひとなんですね」
「うむ。殿には多くの御子息がおられるが、万が一にも跡目争いなど起こさぬよう、それは御心を砕いてこられた」
 屋敷に入ってすぐに源之丞が目通った、人の良さそうな兵部の様子を思い出す。
 弟の万作を慈しみ、万作もまた次兄の兵部を心から慕っているのが傍目にもよくわかった。
 嫡男やその他の兄弟を見たわけでないが、あの二人の様子を見るに、彼ら兄弟が反目し合うさまは夢想だに出来ない。
 傍らの次右衛門も、深々と頷く。
「ふむ、父上の仰る通り! 御二男の兵部さまも、いずれ兄君の治世を支えてゆく御決意は固い。万作君には少々甘いところもおありだが、それ即ち殿のお教えの賜物でもある、ということですな」
「……いや、わし自ら説いておいて何だが、此度の兵部さまは、ちょっとさすがに甘すぎるとは思っとるぞ」
「何を仰る、兵部さまはそれだけ万作君を信じておられるのです」
 素晴らしいことではないですか、と、次右衛門は些か不満気な顔を見せる。
「ま、ともかくだ。源之丞。おまえも万作君にお仕えすると誓ったならば、こうした殿のご意向を努努ゆめゆめ忘れるでないぞ」
 小八郎は眉間に皺を寄せ、威厳を取り繕うように言い聞かせたのであった。
 
 
 【四.へ続く】
 
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