桜蘂ふる

紫乃森統子

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四.兄弟

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 関家に身を寄せると同時に、源之丞には他の定府の子弟と等しく、手習や剣術の習得が許された。
 殆ど関家の養子同然の扱いである。
 じっと座しての手習や素読は性に合わなかったが、武芸のほうは、やはり身体に馴染んでいただけあって、日々の早朝稽古も苦にはならなかった。
 このほか、万作の求めに応じて側に上がることも多々あったが、齢の近い子供同士、主従と呼ぶよりは兄弟か友のような間柄となっていったのである。
 御殿に併設の庭園が主な遊び場となっていたが、池の魚を眺めたり、梅や桜に登ったりと、二人で跳ね回るのは楽しかった。
 木登りはあまり得意でないらしい万作と、率先して高みに登ってみせる源之丞の張り上げる声が頻りに響く。
 池には鯉をはじめ、水辺の生き物が多くいたし、源之丞が虫を捕まえては万作がその名を教える。
 一つ年下なのにも関わらず、万作は実に色々なことを知っていた。
「なあ。万作さまは、佐久間家で何してるんだ?」
 はしゃぎ回って疲れてくると、二人は池のほとりに腰を下ろしてあれこれと話をする。
 不思議と、万作の声を聴くのは心地が良かった。
 源之丞がついつい粗暴な口を利いても穏やかに受け止めて、寧ろそれを包み込んでしまうような鷹揚さがあったのだ。
「んー、安房守さまとお話をしたり、学問をしたり……。それから、利宇姫と一緒に遊んだりもするよ」
「安房守って、長沼佐久間家の殿さまだろ?」
「うん、良い方だよ。お会いしに行くと、いつも喜んでくださるんだ」
 安房守に会わせれば、きっと源之丞のことも気に入ってくれるはずだ、と万作は言う。
 源之丞が関家に身を置くことになって以後も、万作は度々、佐久間家への同行を望む言動を繰り返していた。
 貧しい長屋住まいの長かった源之丞の粗野さを懸念しているのか、その許しが出ないままになっていたのである。
 それでも多少は改善されてきたはずだと自負しているが、主家や関家の面々にとってはまだまだ及第とはいかないらしい。
 同行をせがんでは却下され、その度に万作がしょんぼりと肩を落とすのは、見るに忍びないものがあった。
「そっか。佐久間の家にも、早く一緒に行けるようになるといいんだけどな。ごめんな、万作さま」
「ううん。きっともうすぐお許しが出るよ。源之丞は剣の稽古をすごく頑張ってるって、兵部兄上も褒めていたもの」
「兵部さまが?」
 万作の相手として側に上がると、時折兵部も次右衛門を従えて顔を出すことがあった。
 戯れに過ぎないのだろうが、源之丞に自ら稽古をつけてくれることさえあり、その腕を褒めてもくれる。
 元は浪人の子に過ぎない源之丞に対しても、万作に対するのと然して変わらぬ姿勢で、若いながら雅量に富んだ人物である。
「あとはお作法を覚えれば、どこに連れてっても大丈夫だって」
 万作ははにかんだように笑みを浮かべた。
「……あ。やっぱりそれ」
 兵部の目にも結局は、源之丞の礼儀作法が隘路あいろと映っているらしい。
 源之丞が肩透かしを食らった気分で、かくりと項垂れると、万作は弁解でも試みるかのように慌てて言葉を繋ぐ。
「他にもね! 私はあまりお会いすることはないのだけど、伊勢千代の兄上にも源之丞のことをよくお話しになるって仰ってたよ!」
 伊勢千代というのは、秋月の若殿・出羽守種恒の幼名である。
 当然既に元服しているが、未だ幼名を用いて気安く呼ぶのを許しているのか、そこにも兄弟の仲の良さが窺えるようだった。
 嬉しげに頬を染めて兄を語る万作を見ていると、御家騒動の気配など微塵も窺えない。
 源之丞に兄弟はなかったが、万作や兵部を見ていると、これほど穏やかで仲の良い兄弟は他にないだろうとも思う。
 だが。
 午後の日差しの中に二人並んで語らう庭園へ、招かざる者の足音と同時にやや粗暴な声が割り込んだ。
「万作。おまえ、まだそんな者を側に上げておるのか」
 刺々しい声に呼ばれると、同時に万作の肩がびくりと跳ねる。
 草履が砂利を踏む音が背後に近付くのを聞き、源之丞は反射的に振り返った。
「十三郎さま」
 顎を上げ、権高で冷酷な眼をしたは上から睨み落とすように源之丞へ注がれる。
 しかしその眼はすぐに逸らされ、今も背を向けたままの万作を捉えた。
 三兄、十三郎であった。
 角前髪の、細目の鋭い秋月家の三男である。
 他の兄弟に似ず、団子のような鼻に皺を寄せ、険しい面立ちをしていた。
 最初はなから心に剣を含んだような様子に、万作などは振り向く前から竦んでいるらしかった。
 源之丞は一応の礼を取るべく、その場に膝を着いて頭を低くする。
 しかし、十三郎は文字通り源之丞の目と鼻の先に立ち、ふんと鼻を鳴らした。
 よもやこのまま顔面を蹴り上げられるのではないか。
 そう思うと、背筋がひやりと寒くなった。
「貴様のような孤児を、父上も兄上も何故にお取立てになるのか。俺にはまったく解せん。いつまで秋月に居座るつもりなのだ」
 憎々しげに睥睨を寄越す十三郎に、源之丞は身構えつつもただ無言で顔を伏せる。
 元服を目前に控える十三郎の態度は、兵部や万作には似ても似つかぬ冷酷なもので、目の前に立たれるだけでもただならぬ威圧感が漂う。
「礼儀も成らん無宿の父無し子が、秋月で武家づらをしようなんぞ反吐が出るわ」
 忌々しげに唾棄しながら、十三郎は伏した源之丞の背に草履の足を載せるや、矢庭にその背を蹴り飛ばした。
「目障りなやつよ」
 従三郎の足蹴にされた拍子に、源之丞は耐え切れず横倒しになる。
 咄嗟に体勢を戻そうと地面を掴んだが、十三郎の足は更にその背を踏みつけた。
「兄上!! おやめください!」
「おまえ、佐久間さまの御屋敷にまでこいつを連れて行こうとしているらしいな? こんなわっぱを御前に連れ出すなんぞ、秋月の恥じゃ! 調子に乗るでないわ」
「そんなことは──!」
 万作が庇って源之丞の側に寄り添うと、踏みつけた足に更に力が籠ったようで、背に一層の重圧がかかる。
 腹は立ったが、源之丞はしかし、意に介さなかった。
 寧ろ仲裁に入った万作にまで危害が及ぶのではという危惧のほうが勝り、源之丞は足の下から声を張り上げる。
「畏れながら! 俺は万作さまの御相手役を仰せ付かってますが、佐久間家への同行のお許しは出てません。これ即ち、殿もまた十三郎さまと同じ御心配をされているからこそと存じます!」
 すると漸く十三郎の足が離れた。
「分かっておるなら、今少し身を慎んでおれ」
 苛々と吐き捨てるように言い、十三郎は荒い足運びで踵を返していった。
 さすがに目立った騒ぎにまでするつもりはなかったらしく、不機嫌をぶつけて去って行ったような格好だが、それでも万作には震えが来るような出来事だったらしい。
 先まで嬉しそうに長兄や次兄を語っていた頬は、すっかり強張って青褪めてしまっていた。
「……ごめん、源之丞。痛かったでしょ」
 源之丞の背を支えながら、万作は薄らと目を潤ませながら詫びる。
 蹴飛ばされた背は痛かったが、そういう万作が何となく嬉しくて、源之丞は思わず笑った。
「怖かったのは万作さまのほうだろ? なのに、庇ってくれてありがとうな」
 事実、万作が三番目の兄を語ることはなく、十三郎については源之丞もよくは知らない。
 ただ、今の一幕を見る限り、あまり好感触な相手でないことは明白だった。
 周囲の大人たちから、品位に欠ける挙措や言動を咎められることも間々ある源之丞だが、内心、この三男よりはよほどましなほうだと自負する。
「万作さまは気にすんな。俺だって、今に立派な武士になって、どこへでもお伴できるようになるさ」
 そう言って慰める傍ら、源之丞は万作の両肩を捕まえて真っ直ぐにその目を覗く。
「悔しいけど、十三郎さまの指摘も当然だ。俺はもっと、万作さまの側に相応しいやつにならなきゃいけない」
 賢いが、些か頼りなげな万作を支え得る、そんな武士になりたい。
 源之丞は改めてそう心に誓うのだった。
 十三郎はこれ以後も、目につくたびに源之丞に絡んだが、万作のためと思えばそれも平伏してやり過ごした。
 これまでの暮らしの中で身に付いたものは、早晩改まるものでもなかったし、気を付けたつもりでも、ややもするとうっかり伝法な物言いが飛び出してしまう。
 十三郎に限らず、関父子からも屡々注意を受けていた。
 作法を何とか形にすることに躍起になり、源之丞はその身に叩き込むべく励んだのである。
 そうした源之丞の奮励が実を結んだのは、万作が佐久間家への同行を再三頼み込んで一年が経ってからであった。
 
 
 【五.へ続く】
 
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