新選組秘録―水鏡―

紫乃森統子

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第3部

第二十八章 因縁果報

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 非番が減った。
 いや、非番は今まで通りにあるのだが、実質勤務状態と言って良い。
(これ、労働基準法的にどうなんだろう……)
 などという考えが浮かぶのも、未来の社会からの名残だろう。
 その日、伊織は一人京の往来を黒谷へ向かっていた。
 名賀姫を訪ねると言い置いてきたのだが、出掛けに斎藤からこっそり用事を言い付けられた。
(斎藤さんも割といいように使うなぁ……)
 非番の日に堂々と本陣を訪れることが出来る立場にあることを、有効に使っているようだ。
 雪のちらつく中、吐く息は白く後ろへたなびいてゆく。自然、足取りは速くなった。
 
   ***
 
「名賀姫様、お久しゅうございます」
 黒谷、金戒光明寺へ赴くと、伊織はまず本来の目的である、名賀に目通った。
「まあ伊織殿。お久しぶりね! その後は大事ない?」
「はい、お蔭様でこの通り」
「そう、それは良かった。あの後も色々とあなたの話を聞かせてもらったけど、随分忙しいようね?」
 平素の隊務──ほぼ雑用だが──の他に、剣術の稽古、そして会津への報告役。
 加えてこうして名賀の話し相手と、確かに多忙と言えば多忙だろう。
 名賀は労うような眼差しを向ける。
 上質な着物を纏い、側室に相応しい身支度を整えた姿は、やはり可愛らしく美しい。
 着飾ることと無縁な生活をする伊織にとっては、ちょっとした羨望も感じる。
「あれだけ伊織殿に厳しかった広沢も、最近は少し寂しそうにしていたわよ?」
「え、あの広沢さんが……?」
「そうそう。何だかんだ目を掛けていたんだもの、あれで結構情に篤いところもあるんだから」
「……へぇ」
 何となく疑ってしまう。
「たまには広沢にも会ってやってね! 顰めっ面しながら内心安堵すると思うから!」
 この後梶原には面会するが、広沢に会う用事はない。
 なんてことを言うと、名賀に叱られそうなので黙っておく。
 伊織が曖昧に笑うのは意にも介せず、名賀は更にぽんぽんと話を接いだ。
「そういえばね、わたくしと伊織殿がよもや良い関係なのでは、と殿がお尋ねになったことが──」
「ホァア!? とっととと殿が私をお疑いに……!?」
 ぎょっとして、思わず後ろに仰け反った。
 不義密通の嫌疑をかけられたら、それこそ打ち首ものではなかろうか。
 その仰天振りが面白かったのか、名賀は声を上げて笑う。
「大丈夫よ。処罰するとかじゃなく、寧ろ逆に謝られてしまったわ」
「……へ?」
「窮屈な思いをさせているのではないか、本当は他に思う相手がいたのではないか、とね」
「…………」
 名賀を思い遣る容保の姿が目に浮かぶようで、一転して胸がじんわり温かくなる。
 第一印象はちょっと大丈夫かなと一抹の不安を感じたものだが、やはり会津の殿は穏やかで素敵な殿方だ。
「だからね、私も言って差し上げたわ。私は私なりの覚悟を決めておりますって」
 つんと顔を上げて胸を張る様子が、側室と言えど年相応の少女のそれであり、微笑ましく思う。
 無論、その内に秘める覚悟は凡そ現代の感覚では計り知れないものであろう。
「奥に入ったばかりの頃は、そりゃもう鬱陶しいことの連続で、辟易したものよ。やれしきたりだ、やれ作法だと、新しく覚えることもホントに多くて。奥での序列も頭に入れなきゃいけないし? そんなもん知らないわよ、どうでもいいじゃないの。ねえ?」
「えっ、いやその……」
 女ばかりの中にいると、女の悪い所も出やすくなる。
 名賀は矢継ぎ早に愚痴を溢し、あまつさえ伊織に同意を求めてきた。
「序列はいつの時代にも根深いですからね」
 同意してしまうとまずい気がする。
 少なくとも封建制度の序列社会の中では。
「伊織殿のところはどう? 男ばかりというのもむさ苦しいかしら」
 そう問われて、伊織は咄嗟に三浦の顔を浮かべた。
 男所帯もなかなかどうして、嫉妬や嫌味や嫌がらせのある場所だ。
 男も女もなく、人のあるところにはいずれにせよ厄介事も付き物なのかもしれない。
「新選組に限っては、殺伐としてるかもしれませんね。ただ、嫉妬や勘繰り、嫌がらせは男所帯にもございますよ」
 嘘ではない。
 聞くやいなや、名賀は盛大に苦々しい顔をする。
「そうなの? 嫌ぁねえ。男の嫉妬など、ケツの穴が小さい証拠よ」
(名賀様、言い方……)
 こうしたところも、きっと何度も叱られてきたのだろうな、と心密かに納得する。
「妬み嫉み、また貶めるのは、人の品位によるところです。老若男女関係なく、品の無い人間はいるということですね」
 なんとか失礼のないように言葉を選ぶが、結果当たり障りのない返答になってしまう。
 遠慮していることは、名賀も気が付いているだろう。
 部屋の隅に控える女中のほうへ目を向けるが、名賀の言葉遣いや振る舞いに口を挟むどころか、しっかり目と耳を塞いでいるような雰囲気だ。
 以前のように出奔されるよりましだと思っているのだろう。
「ところで、ねえ伊織殿?」
「はい」
 俄かに、名賀の声音が一段と落ち着く。
「あなたが向き合うべき相手とは、きちんと向き合えたのかしら」
 あ、と伊織が視線を上げると、小首を傾げて窺い見る名賀と視線が絡む。
「そうですね。私の場合は、これから先もその人の側で働き続けていくことが、向き合うことになり得るかと──」
「ふふ、そうね。あなたがそこまで言う相手ですもの、きっとそれに見合う芯のある方なのね」
 その様子から察するに、本当に腹を括ったらしい名賀もまた、満足げに見えた。
 
   ***
 
 梶原との面会は、本当についでだ。
 出掛けに斎藤から言い付けられなければ、態々目通ることはなかっただろう。
 任せられる内容なら、堂々会津の本陣に出入り出来る伊織に任せてしまう方が斎藤にとっても都合が良いだけのことだ。
(そして楽だもんね……)
 当然、緊急の事や重大事になると斎藤自身が人目を誤魔化して本陣を訪れる。
 我ながら伝書鳩だなと思うが、こればかりは他の隊士に露見するわけにもいかない。
 万が一にも露見した場合は、斎藤に斬り捨てられるという恐ろしい事態になる。
 ぼんやり遂行するには危険な任務である。
 案内された部屋に入ると同時に、伊織は眉を顰めた。
「御無沙汰しておりま──、って、居ないんかい!!」
 そこに梶原の姿は無かった。
「おかしいですね、確かにこちらにいらっしゃると……」
 お次役を買ってくれた女中が、恐縮したように伊織の顔を窺う。
 彼女が悪いわけではないだろうに、申し訳無さそうに肩を竦めている。
「まあまあ、梶原さんも忙しいんでしょう。大丈夫ですよ、暫くこちらで待たせてもら──」
「おー! すまんすまん! 久しいなー、まだ生きておったかぁ!」
「いやちょっと、随分なご挨拶ですね!」
 正に今、急ぎ足で外廊下をこちらへ向かってくる梶原の姿が見えた。
 本陣内なので構わないのだろうが、全く人目を憚るつもりが無さそうである。
 もう大丈夫、と女中へ目配せると、伊織と梶原にそれぞれ一礼して下がって行った。
「ああ寒い寒い! 積もる話も多かろう、中で火にあたりながら聞いてやる」
 遅れてきたくせに、ぐいぐいと伊織の背を押して室内に入る。
 手前の部屋から更に襖を経て奥の間へ押し込まれた。
 一応の配慮なのか、人払いも既に済んでいるようだ。
 ぱたりと襖を閉めると、梶原は長火鉢の傍らに進み、伊織にもすぐ側を勧める。
「それで、今日はどうした?」
「いやぁ、既にご存知かとは思いますが、伊東甲子太郎なる者の一派が入隊致しました」
「ああ、先日そちらの局長殿もそのように報告を上げてきたな」
 うん、と頷いて梶原は先を促す。
「隊士も五十名ほど増え、かなりの大所帯になってきております。そのために局長もこちらへは増員の報告と、給金についても触れたかと。現時点で特別目立ったことはないものの、先日も局長の名で三橋楼へ加賀屋さんを呼び付けて、問屋筋に十五万両の献金を申し付けたようです」
 後半になるにつれ、伊織も襖の向こうや廊下の気配のないのを感じ取りつつ、声も極力抑えた。
「なんだ、またか」
「はい、またですね」
 いつもの事と言えばいつもの事だ。
 昔のように押掛けて散々の迷惑行為を働いて金を巻き上げていた頃とは異なるものの、その額はなかなかに膨れ上がっている。
「しかし十五万両とはなぁ……」
「莫大な金額ですよねぇ」
 戻ってからも近藤が方々へ出掛けて行っている様子であることは気付いていたが、献金申し付けの件は斎藤から聞かされるまで気が付かなかった。
「とはいえ、局長には特に会津へ仇を為すような気配もありませんし、何分大所帯となっておりますので」
 ただ、と伊織は続ける。
「一つよろしいでしょうか」
「うむ、何だ?」
 顔色が変わったことに勘付いたか、梶原もぴくりと眉を上げる。
「先日、会津からの紹介で入隊した者が一名おります」
「ぁあー……、うん。いたな」
 梶原はそろりと伊織の顔から視線を逸らし、心なしか気まずそうな面持ちで頷いた。
(これは知ってるな……)
 深く突っ込まれるのを警戒しているように見えてしまう。
「あれ何とかなりませんか」
「んー…………。ん、ならんな! 考えてもみろ、何とかなったら態々新選組に預けたりせんだろう」
「!? ちょ、梶原さん開き直るの早っ!」
「だぁって、仕方ないだろう? 面倒臭いんだぞ、ああいうの。その点、近藤なら佐久間象山の名でコロッとなっちゃうだろうし、本人も仇討ちがぁーって言ってるし、ちょうど良いかなって」
 流石は梶原。大目付のその目と実力は紛い物ではなかったようだ。
「良くないですよ、いや仰る通り局長的には気に入ってるんでしょうけど、他の隊士からは総スカンですよ!?」
 かく言う伊織もあれは頂けない。
 仇討ちとか大層なことをかしてはいるが、そんなものは格好だけだろう。
 威勢が良いのは自らが安全地帯にいる間だけだ。
 だからこそ父親の名を使い、局長である近藤に取り入ろうと画策するのである。
「そもそもあの人、本当に仇討をする気があるんでしょうか?」
「えぇ? 本人がそう言ってただろう?」
 一応は、そうだ。
 だが、佐久間象山を斬ったのは、かの有名な河上彦斎。
 幕末の人斬りとして後世にまでその名を遺す、ちょっと危険そうな人物だ。
 伊織の知る限り、三浦は終ぞ仇を討つことなく河上は斬首されることとなる。
 無論、河上の斬首は今から随分と先のことになるのだが、三浦は河上の命を狙っているというだけで、具体的に仇を討つべく行動するようになるのかは少々疑問だった。
「佐久間象山を斬った男、結構サクサクと人を斬り捨てる人物のようですし、対峙したところであのぼんぼんが勝てるとは思えないんですが」
「ああ……、まあ、あの者も一応は皆伝免許を持っているのだろう? それでなくとも、とりあえず父御を殺されているのは事実であるし、本人の前で言ってやるでないぞ……?」
 梶原は苦笑しつつも、伊織を窘めにかかる。
「まあ下手人がどのような人物かよくは知らぬが、お主は知っておるのか?」
「え、いえ。私も会ったことはありませんよ。ただ、話に伝え聞く限りでは女や子供には優しいらしいんですが、その反面、人を斬るのに全く躊躇がないとも──それはもう、野菜を収穫するのと同じように」
 とは、後々かの勝海舟が語り残したらしい河上彦斎紹介の要約である。
「それは……恐ろしい奴だな」
「でしょう?」
「相当の手練れでなくば返り討ちだろうな」
 と、梶原は閉口するが、相当な手練れであっても難易度の高い相手であろう。
「時に、佐久間家ってどうなってるんですか? 正直、適当に松代へ追い返せって土方さんも言ってるんですよ」
「ああ、断絶となっているそうだぞ」
「えぇ……じゃあどうするんですか、あのぼんぼん」
「いやぁ、会津ウチに言われても……」
「大体、象山の開国派の印象を暈すために佐久間から三浦に改めたんでしょうに、あの人父親の名前全く隠す気ないですよ」
 それも近藤のお墨付きを得たためだろう。
 攘夷派の部類に入る新選組の中にあって、開国派の影がちら付けばやり難い。
 しかし近藤に取り立てられていれば、そんなものは瑣末な事だった。
「なかなか横柄に振る舞っているようだが、新選組には厳しい規律があるだろう? それには抵触せずに済んでいるのか」
「今のところは、ですね。まだ大人しくしているほうではないかと思いますよ」
 しかしそれも時間の問題であるかに思える。
「彼が新選組に居着くことはないでしょうね。私も土方さんがそう望んでいる以上は、そのように動くつもりでおりますし、この話は黙認頂きたく存じます」
 局を脱するを許さじ、と定められた禁令がある。
 通常、一度入隊すれば脱退することは叶わず、脱走した者は切腹を申し付けられる。
 命を取られることなく松代へ帰されるのは幸いな事だろう。
「揉め事を起こして私闘にでもなれば、それもまた切腹となるのだろう?」
 梶原の問いに、伊織は一つ頷く。
 すると梶原はまた嘆息して、座したまま背筋を伸ばした。
「いずれも一筋縄では行かない者ばかりであろうが……、内側から瓦解するようなことのないよう気を付けることだ」
「重々、承知致しておりますよ」
 大方の話を終え、伊織は暇を請うて席を立つ。
 が、部屋を出る直前に足を止めた。
「梶原さん」
 首だけを巡らし、肩越しに梶原を見遣る。
「ん? なんだ?」
「もし、……もし、ですよ?」
「んん?」
 言い淀む伊織に怪訝な目を返し、梶原も覗き込むように首を傾げた。
「もし、会津に仕えたいという隊士があったなら、お取次ぎ頂けるでしょうか」
 あくまでも仮の話であり、そして伊織自身が出仕したいというわけではない。
「……それは、確約は出来かねるな。人物如何によっては取り次ぐかもしれんが、今話したぼんぼんのような奴では門前払いとなるぞ」
 伊織は答えを聞き終えると、しっかり梶原を振り返った。
「あー、そりゃそうですよね。すいません、誰というわけではないんです。何となく気になって訊いちゃいました」
 一笑して改めて礼を述べると、伊織はそのまま部屋を後にした。
 
   ***
 
 もう一人、会っておきたい人物がある。
 伊織は再び本陣の奥へ赴いた。
 本当ならばもう少し早く会って話をしたかったが、京を出立するという話は聞こえてこなかったし、まだこの本陣に留まっているはずなのだ。
「時尾さん?」
 失踪から一転、立ち戻ったとあれば内部でも様々に事情を聴かれているだろう。
 中から一言、入室を促す返事が聞こえ、伊織は障子戸を滑らせる。
「失礼します」
 きっちりと女性の装いを身に纏い、居住まいを正して時尾はにこりと笑いかけた。
 珍しく髪を結っているのは、父の小十郎にでもどやされたのだろう。
「……こうして見ると、本当に顔だけはそっくりですね」
「全くだわ。変な縁よね、輪廻転生なんて私個人は特に信じてはいないんだけど」
「いやそれ、単なるあなたの勘ですよね。私だって別に信じちゃいないですよ」
 同じ顔が膝を突き合わせ、片や女性、一方は男装をしている奇妙な光景だ。
 互いに含み笑い、どちらからともなく本題を切り出す。
「それで、山ほどあるんでしょう?」
「ええ、そりゃもう」
 時尾が誰の目にも見える身体を伴って目の前に現れてから、いつ尋ねて良いものかと思っていた。
 それまで、時尾は伊織と時実にしか見えてはいなかった。
 一時ふと姿を見せなくなったと思ったら、この急な再会だ。
「ふふ。私も何となく予測はついてるわ」
「なら話は早いですね。どういうことなんです? 私の周囲にもぱったりと現れなくなったし、かと思えば唐突に時実と一緒に現れた──。あちらに、いたんですよね」
 生真面目な問いに、時尾はふっと柔らかく笑う。
 笑い事ではない。
 未来の時代にいたはずの時尾が今ここに実体として存在しているということは、何らかの方法で時を遡ってきたということになる。
 大体、長い間姿を消していたことを、父である小十郎には何と説明したのだろうか。
 時尾が実際に先の世へ行ったのは間違いないだろう。
 そうでなければ、彼女があちらの時代の風景や、伊織の両親や友人を知り得るはずがない。
 滅多に人を入れることもない伊織の自室と、そこに並べた本の数々。
 疑うべくもない決定的な証拠に、時尾は幕末というこの時代がどう動いていくかを知っている。
 未来へ行き、それでも時尾はまた彼女の時代に戻ってきた。
(つまり、条件さえ揃えば或いは──)
 自分もまた同様に元の時代へ帰れるのではないか。
 ごくりと固唾を呑んだ伊織に、時尾は吐息ながらに肩を竦めた。
「そう簡単ではないわよ」
「人の内心見透かさないでもらえますかね」
 多分、考えたことがそのまま顔に出ていたのだろうとは思ったが、時尾は心を読んだかの如く鋭く的確な答えを投げ返す。
「今……というのもおかしな話ですが、私も時尾さんもこうして実体を伴ってここにいる」
「ええ、そうね」
「すると、あちらでは私の存在は……」
「多分、欠落かけおち者扱いかなぁー」
 からりと言ってのける時尾に、伊織はあんぐりと口を開けた。
「は!? か、かけおち……って。え、なに? 何したんですかあんた……」
「あのねぇ、欠落っていうのは家や身分を捨てて姿を消すことを言うのよ。突然いなくなった感じになっちゃったからね」
「あ、そういう……」
 かけおち、という言葉の響きから真っ先に連想するのが、男と女が手に手を取って云々というもの。
 てっきり時尾があちらで誰かと恋仲になり、逃避行にでも走ったのかと疑ってしまった。
「何もかも、見たこともないものばかりだったわ。周りが私を高宮伊織だと信じ切ってくれていたから何とか乗り切れたようなものよ」
 京から会津へ連れ戻され、静養を余儀なくされたが、会津だというその場所は、当然時尾の見知った風景ではなかった。
「記憶の混濁や喪失を全力で心配されたけれど、転落して一命を取り留めたことの喜びのほうが強かったみたいね」
 時尾は乾いた笑いを溢す。
「あなたの御両親、良い方々ね。結果的に騙し通してしまった上に、私はこうして戻って来てしまったから、今頃またご心痛かと思うとやっぱり胸が痛むわ」
「それですよ。どうやってこちらに戻ったんです?」
「え? 一か八か、あっちでまた清水寺から落ちたのよ」
「!? ……落ちたんですか、二度も」
 語尾を強調すると、ちょっと羞恥を感じたのか、時尾の顔にみるみる紅が差す。
「何よ、何か言いたげな顔ね? 結果戻ってこれたんだからいいでしょう」
「いやぁ、すごい猛者ですね」
 一か八かと言うあたり、落ちたというより自ら飛び降りたと言ったほうが正しい。
 かく言う伊織も、以前、再び飛ぶべきか悩んだことがある。結局、飛べはしなかったのだが。
「ああ、でもね、ただ飛んだわけじゃないわよ」
 あの鷹が先に舞台の下目掛けて滑空し、真下へ向かう途中で姿を消すのを見たが故の決断だった。
 ということらしかった。
「あぁー……」
 何となく、合点がいく気がした。
 時実が舞台から滑空し、中空で消えるのを確かに目にしたことがある。
 思い詰め、完全に途方に暮れたときにあの光景を見たなら、自分も再度身を躍らせていたかもしれない。
 その機会が時尾にはあり、自分にはなかった。それだけの違いだ。
「それで、あなたはどうするの」
「えっ──?」
 じっと見返された双眸に、伊織はたじろいだ。
「あなただって、十分に知っているはずよね」
「……それは、勿論」
 時尾の眼差しは思わず息を呑むほどに鋭いものになっていた。
「先のことを知りながら、最後まで指を咥えて、ただ傍観を決め込むつもり?」
「私一人の力で為せることには、限りがあります。私には、身分も実力も、実績もない。大きな流れに逆らうには、相応の大きな力が必要です」
「けれど新選組って、そういう人には最適なところでしょ?」
 時尾の言う通り、出自を理由に入隊を断るようなことは確かにないだろう。
 入隊する者は殆どが武芸に精通しているし、学問に通じている者も目立つようになってきている。
 実力主義の集団とも言えるだろう。
「新選組自体が、未だそこまでの力を持っていないんです。もっと時間があれば分かりませんが、時代はそこまで待ってはくれない」
「だから何もしないというの」
 時尾の声にやや呆れが混じる。
 端からすべてを諦めているように見えるのだろう。
 事実、何も出来ていない自分が何を言い返したところで言い訳にしか聞こえないであろうことは重々承知の上だ。
 伊織は一つ深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「私に大局を変える力はありません。でも、もしかしたら、ほんの身近なことなら変えられるかもしれない」
「と、言うと?」
「例えば、誰かの死を回避する」
 個々の歯車が変わる事があれば、大局に響く何かが起こり得るかもしれない。
「もちろん、そうした先の未来は分かりません。違う未来があるかもしれないし、一石を投じたとしても、結局は時流に呑み込まれるかもしれない」
 しかし、現実にこの時代に身を置いている以上、誰にも何にも干渉せずに済むことなどありはしない。
 先を知るがゆえの、未知の歴史を辿ることへの恐れ。
 腹の底に澱のように沈むそれにも、伊織は薄々気が付いていた。
 いずれどこかで打破すべき課題である。
 それに向き合う時は近い。
 すると、時尾はふと鋭い眼差しを緩め、破顔した。
「この世の全ては、因縁果、よ。覚えておくといいわ」
「因縁、果? ですか」
「あなたが今もこの時代にいるということは、何らかの縁があってのことよ。この時代の全ての人も物も、あなたが出会うものは、すべて縁あればこそ。そこにあなたが結びついて初めて、先の世となる果実が成るわ」
「はぁ……、え、何の話ですか」
 急に方向性の違う話を始めたように思えたが、時は構わず続ける。
「あなたは現に今、この時代にいる。名賀姫様のことだって、あなたが関わったからこそ、良い方向に落ち着かれた。だったら、恐れずに関わりなさいって話よ」
「………」
 にこりと微笑む時尾に、伊織はあんぐりと口を開く。
 確かにその通りだった。
 大局ばかりを気にし過ぎて、既に関り、投じている影響がある。
 今更何を恐れる必要があろうかと、時尾はそう断じたのだった。
 
   ***
 
 ちらついていた雪は止み、黒谷の重厚な寺院に僅かな西日が差す。
 殆ど日は落ちかけて、整然と敷かれた石畳の上には昏い夜の影が浮き出すようであった。
 日のあるうちに屯所へ帰るつもりでいたのが、すっかり時間を食ってしまった。
(しまったなぁ、急いで帰らないと)
 提灯もなく、人通りの少ない壬生村の界隈に戻る頃には、辺りは宵闇に包まれていることだろう。
 西日のその色ばかりが暖かさを滲ませるが、風は肌を切るように冷たい。
 冷気に肩を震わせてから歩調を速めた、その時だった。
「会津に仕えたいという隊士とは、誰だ?」
 足音が重なったと同時に、声が訊ねた。
 伊織は自らの右に人の気配の添うのを感じ、咄嗟に身を強張らせ、しかしすぐにその警戒を解く。
 斎藤である。
「なんだ、斎藤さんじゃないですか」
「会津に仕官したい、などと言ってる奴がいたか」
 双方歩みは止めず、横並びに屯所へ向かう道を歩き続けていた。
 これまでなら思わず立ち止まっていたところだが、気配を汲んで自然を装う身熟しが伴うようになっていた。
 我ながら、少しは成長したように実感する。
「……どうしてその話を?」
 梶原との会談で匂わせた程度の話題を持ち出され、伊織は狼狽を覚えつつも訊ね返す。あの時は完全に人払いが済んでいた。
 その上で、周囲の気配には伊織も、そして恐らく梶原も終始警戒を解かずにいたというのに。
「全く気付きませんでしたよ。ホントに何者なんですか」
「? 斎藤一だが」
「いや、そうじゃなくてですね……。時々素面でボケますね」
 何を考えているか一見して分かりにくいこの男の表情は、伊織の丁寧な突っ込みにも眉一つ動かさない。
「結局来るんなら、私に頼む必要なかったじゃないですか……」
「それで、誰のことだ」
 有耶無耶にはされてくれそうにない。
 人払いした部屋で、大声など上げてもいない会話をどうやって聴いたのか。
「特に誰のことでもないですよ。勿論、私でもないです」
「何かなければあんな話は切り出さないだろう。新選組内部に、何か気掛かりがあるんじゃないのか」
 斎藤に対して隠し事は出来ないらしい。
 思考感情は無論のこと、どこまでを見透かしているのか読めないところが多過ぎる。
「斎藤さんは名監察だと思いますよ本当に……」
 この調子では、時尾との会話も筒抜けなのではないか。
 会話の内容がどう受け取られているかはさて置き、斎藤にはあえて泳がされているような、そういう感覚に陥ることが間々あった。
 会津との関りを共有する今も、それは依然として変わりがなかった。
 斎藤は会津側深い繋がりがあり、近藤や土方らの一門である最古参の隊士の一人である。
 だからこそ慎重にならざるを得ない面もあるが、打ち明けてしまえれば、そして間諜同様に協働出来ればこれほど心強い人間はないだろう。
「他言、しませんか」
「口が軽いように見えるか」
「見えませんけど」
「それとも信用に値しないか」
「逆ですね。斎藤さんにとって、私が信用に値しないのではないかと考えてますから」
「ほう。よく気付いていたな」
 じろりと睨め上げると、斎藤は無感情な眼で一瞥を返す。
「言っておくが、三浦を会津へ突き返そうと目論んでも無駄だぞ」
「分かってますよ。梶原さんも困るって即答してましたから」
 どうやら三浦敬之助絡みとでも思ったのだろう。
 斎藤は半ば呆れた色を声に乗せていた。
「……山南さんの様子が、少しおかしいです」
 漸く声に出した一言は、入相の風に掻き消されるようにか細く、伊織の喉を震わせた。
「………」
「伊東参謀と親し気にしているようですが、山南さん自身は、局中での身の置き処に、人知れず悩んでいる素振りがあるように感じます」
「それで、会津か」
 馬鹿々々しい、というように斎藤は肩を竦める。
「ほんの一かけらで構いません。三浦啓之助なんぞより、山南さんに注意を向けていて頂けませんか」
 日の落ちかけた、寒風の吹く往来には人通りも疎らだった。
 屯所への道程は長い。
 斎藤と連れ立って歩く道中、伊織は見聞きした山南と伊東の様子を具に説き続けたのであった。
 
 
【第二十九章へ続く】
 
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みんなの感想(1件)

クサナギ・モトハル

初めまして。私、この8月から、同じくアルファポリスさんの「SF小説」カテゴリーに作品を登録・更新しておりますクサナギ・モトハルと申します😄

こちらの『新選組秘録―水鏡―』とあなたのお名前は、ここ最近、「あなたの作品を読んでいる方は、こんな作品も読んでいます」として紹介されて気になっており、この度、お邪魔させていただきました。

それで、まず序章と第一章を続けて読ませていただいたのですが……その前に、失礼ながらあなたのペンネーム(ですよね?)である「紫乃森統子」の読み方についてお尋ねしたいのです。つまり、私としては「しのもり・のりこ」さんとして読み、漢字変換をしたのですが、それで間違いはないでしょうか? 
むろん、単に漢字表記する場合、ペンネームの読み方など問題ではないかもしれませんが、やはり個人的にはそういうところから気になってしまうもので……どうもスミマセン😅🙏

また、どうやら私がこちらの作品に対して初めて「感想」を書くことになるようですが、その一歩目を私如き物知らずが汚してよいものやら、それも心配になってしまいます。
というのは、序章、第一章と読ませていただいて、あなたの新選組とその主要人物たち(特に土方歳三)に対する知識と愛情が並々ならぬものだということはよくわかりましたし、その意味で、単なる歴史・時代小説好きでしかない私が、あなたやこの作品に向かってイイ加減な感想や意見などを書くこともできません。

ただ、「SF小説」としてこちらのお話を読ませていただいた時、正直、これだけありふれた設定の作品が作者であるあなたの愛情と知識、そして軽妙な文体で実に読みやすい物語として展開され、純粋に面白く思えたことは確かです。
そして私自身、新選組の面々は基本的に好きですし、特に個人的には、沖田総司という不世出の剣士には「好感」を通り越し、どこか幼い日に別れたような親族に対するものにも近い感情を抱いてしまうことも多いのです💙😢

ともあれ、現代の女子高生(しかも新選組マニア!)と本物の新選組の面々による物語、男性視点では気づかない(わからない)展開も含めて非常に気になりましたし、今後もぜひ続きを読みにお邪魔したいと思います🐦🎵
どうも失礼しました。それでは、また🌸

解除
1 / 5

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