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本編

第二話 忘れちゃってたの、許してね

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 「ふわぁ~…おはようございます…パパ…」

 燦々と春の陽が降り注ぐ朗らかな日の朝。ブラック伯爵家のダイニングルームでは当代の伯爵閣下が苔を生やして幽鬼の如く項垂れていた。支給されている騎士制服に身を包み、半開きの目以外は頭の先から爪先までぴっしりと整えた伯爵の一人娘─オリヴィアが朝の挨拶を告げると、口から魂を逃しかけていた伯爵は魂を飲み込み慌ててオリヴィアに詰め寄る。

 「…はっ!オオオオリヴィア!!一体全体、これはどういう事なんだっ!?」
 「パパ…唾が飛び散ふわあぁ…から…大口開けて、叫ばないで…ねむぅ…」
 「あ、ごめんね……じゃなくって!これ!これこれ!」

 欠伸を連発しながらも定められた席につき、磨き上げられたナイフとフォークを手にしたオリヴィアはわざわざ隣に移動してきて喚き散らす自身の父親にむにゃむにゃと眉をひそめながら目前に突きつけられた新聞にちらりと視線を遣る。

 「今朝の新聞だね…わぁ!公立動植物園に双子の虎が誕生だって。これは王女殿下が興味を示しそう…仕事増えるなぁ…」
 「誰がそんなしょうもない記事を読めと言ったのだ!!そんな小さい記事ではなく、中央!一面!!!」

 大型猫化動物の絶滅危機が問題になっている昨今、双子の虎誕生の記事の何がしょうもないことか、と小さく腹を立てながらオリヴィアは父親に言われた通りに眼前に押し付けられた新聞の一面を読み上げる。

 「【我が国に咲き誇る白薔薇の騎士、オリヴィア・ブラック伯爵令嬢に噴き出る不祥事の数々!浮気、賭博、果てはコネを使い不正に出世か…。不正を暴き勇気ある告発を行った婚約者プラット男爵家三男は傷心のあまり倒れる…。婚約破棄を宣言…】」

 オリヴィアは合間合間に朝食を口に放り込み咀嚼する。糖分を取り込み顎を動かす事で、段々とはっきり目覚めてきた意識の下淡々と読み進める。そんなオリヴィアの隣では伯爵がびちゃびちゃに雫が滴るハンカチを目に当てて咳払いを一つすると、静かに娘に問いかける。

 「オリヴィア。パパに何か言うことは?」
 「情報が出るスピードが早すぎるね。恐らくダン自身か彼の近しい者のタレ込みじゃない?」
 「そういう事じゃなくって、内容についての釈明はないのかね!?!?」
 「こんな面倒臭い不正をちまっちまするくらいなら、正攻法で努力した方が楽よ。私がやるわけないじゃない」
 「まぁ…オリヴィアちゃんならそうだね…そんなしちめんどくさい事はしないね…」

 普段のオリヴィアをよくよく知っている父親はそうかそうかと頷く。なんだ根も葉もないやっかみによる嫌がらせの出鱈目記事か、と伯爵はほっと胸を撫で下ろしついでとばかりに軽く確認を付け足す。

 「ダン君との婚約破棄うんぬんも、本当近頃の者はその手のホラ話が好きだねえ!」
 「……こんやくはき…」

 はて、とオリヴィアは首を傾げる。最近、その単語を聞いたような言われたような…と考えたところでボヤボヤ~と顔を真っ赤に何かを大声で捲し立てる男の顔が脳裏に浮かび上がる。

 「…そういえば婚約破棄の方は先週くらい…にダン本人に言われた気がする…。多分…。何か言いに来てたっぽい…来てたな」
 「オリヴィアちゃん!?え!?そっちはデマじゃないの!?えっ!?先週!?どうしてそういう大事な事をきちんと覚えていないの!?どうしてパパに報告してないの!?何の対処も出来ずに新聞の記事になってしまったよ!?」
 「だって完全オフの日にいきなり乗り込んでこられたから……忘れてたわ」

 おんおんと涙を流して縋りついてくる伯爵を相手にしながらもしっかりと朝食を摂る手を休めていなかったオリヴィアは部屋に置かれた時計の針を確認するとキュッ、と最後に口わまりをナフキンで拭いて立ち上がる。

 「失礼。出仕時間になりますので今朝はこれにて。本件につきましては、本日帰宅後に別途お時間を頂戴頂ければと思います、お父様」
 「オリヴィアァァ…」

 ダイニングに入ってきた時の猫背はどこへやら、ビシッと背筋を伸ばしたオリヴィアが颯爽と部屋を出て行く。その姿を見送って、給仕をしていた伯爵家の使用人一同は毎度の事ながらもはや特殊技能だよなぁ…と内心で感心する。こうも他人レベルでオンオフのスイッチの切り替えが激しい人もそうはいまい、と。
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