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二つの生命
しおりを挟む──もし、あの時、流産しなければ、あの子と同じ歳よね…。
エレオノーラは、エリュックとエスメローダらと遊んでいるパトリックを見つめながら、戻らない過去を思い出している。
それは10年前に喪った大切な生命。
ルドヴィックとの間に出来た愛しい子供。
まだお腹に宿したばかりの子供をあの日、エレオノーラは永遠に喪った。
奇しくもオースティンが川に転落して行方が判らなくなった日に…。
エレオノーラとルドヴィックが婚約式を終えると、満足したように、王妃カテリーナはこの世を去った。
同時にオースティンは、王妃の喪中ということもあり、メディアとの婚姻は書面を交わすだけの簡素なものとなった。
晴れて王太子妃となったメディアは、エレオノーラを目の敵にし始める。
メディアにとって、エレオノーラは邪魔な存在でしかないからだ。
誰もが自分に熱い視線を送り、美辞麗句を並び立てているのにオースティンだけは違った。彼の心だけは決して手に入らない。
エレオノーラと婚約中のオースティンは、庭園の花をエレオノーラの髪に挿し、額に口吻ていた。
そして何より、その瞳が物語っている。
──エレオノーラを愛していると…。
自分には向けられないその想いを妬み苛立ちとなる。
ルドヴィックを度々呼び出し、その仲の良さをエレオノーラに見せつけることで、メディアは自分の溜飲を下げていた。
エレオノーラとルドヴィックは、王妃カテリーナの喪が明けた一年後に婚姻したが、初夜にルドヴィックは、エレオノーラの花嫁のベールを取ることなく、行為に及んだ。
それは、女性を悦ばす為のものではなく、男性が一方的に精を吐き出して終わるだけの行為だった。
果てる時、いつもルドヴィックはある呪いの様な言葉を口にした。
──メディア……──
事が終わると自室に帰り、一度も夫婦の寝室で共寝をした事がない。
苦しい時には、オースティンがくれた聖なる薔薇で作ったしおりを握りしめながら、
『私はまだ大丈夫…』
そう自分に言い聞かせていた。
何か月もの間、苦痛でしかないルドヴィックとの閨事も終わりに近付いている。
理由はエレオノーラの懐妊である。それと同時にエレオノーラを更なる悲しみに突き落とす前触れでもあったのだ。
エレオノーラは、体調が芳しくないことに気付き、医師の診断を受ける事にした。
「おめでとうございます。妃殿下はご懐妊されております」
その言葉にエレオノーラは安堵した。
──これで、ルドヴィック殿下との閨はなくなる。無事子供が生まれれば愛情はその子に与えればいい。それに、良く似た兄弟だから、もしかしたら、オースティン殿下に似ているところがあるかも知れない。これからは、お腹の子は、彼との子供だと思って大切に育てよう。
エレオノーラの心はこの頃には限界が来ていた。
懐妊の知らせに王子宮は喜びに包まれていた。
結婚して一年経った頃のことであった。
王妃カテリーナが亡くなると、後を追う様にルードリッヒ国王も死去し、空の玉座にオースティンが中継ぎの国王としてその座に着くことになる。
エレオノーラが懐妊した日に、オースティンは、父ルードリッヒの最後の言葉を実行していた。
大公家の遺児の行方が判り、国境近くの神殿にその夫人を、迎えに行く途中であった。
しかし、ローガン侯爵の細工した馬車が山岳道で、車輪の脱輪により、オースティンが転落したとの急報が王宮を駆け巡った。
ルドヴィックは、兄の急な事故の知らせを聞き、最初に頭を掠めたのは、王妃メディアのことだった。
その夜、ルドヴィックの元にメディアが取り乱して、呼んでいるとの知らせを受けると、ルドヴィックは急いで王妃メディアの元に行こうとした。
そのことに対して、エレオノーラが苦言を呈する。
「いけません!殿下のなさることは、陛下の行方を一刻も早く探し、貴族や民衆の動揺を鎮める事が先なのです。それに、こんな夜更けに兄嫁である王妃殿下の元に行かれれば不貞を疑われます」
エレオノーラは、何とかルドヴィックを思いとどまらせようと、行く手を阻んだ。
「無礼だぞ!!兄の行方が分からなくなって、心細い思いをしているのだ。お前はなんて思いやりのかけらもない女何だ!その髪と同じで冷たい人間なのだな」
そう言って、エレオノーラを突き放した。
エレオノーラは王子宮の回廊に飾ってある花瓶に身体をぶつけて転んだのだ。
それを見ていた侍女や護衛の騎士達がすぐさま、エレオノーラを助け起こそうとしていたが、彼女のドレスのは血が滲み出ていた。
その場にいた使用人達が慌てふためいて、王子宮は騒然となっているにも拘らず、ルドヴィックは振り返る事もせずに王妃メディアの元に向かったのだ。
その夜、エレオノーラの最初の子供は流れた。
一晩経ってもエレオノーラの状態は安定せず、侍女達が交代で看護した結果、ようやく明け方になり、命を取り留めた。
何も知らないルドヴィックは、ようやく明け方に帰って来た。
出迎えがない事に疑念を抱きながら、どこかホッとしていた。
ルドヴィックは昨夜の事を執事長や侍女長に問い詰められたくなかったからだ。
自身で浴室でシャワーを浴びた後、仮眠を取っていると、執事長に急に起こされた。
「殿下、今頃御帰りなのですか。さぞかし楽しい夜だったのでしょうね」
「な…何の事だ。王妃がなかなか気を落ち着けてくれなかったからこのような時間になったのだ。特に疾しい事などない」
「さようですか。ですが、殿下の首筋に付いているものはなんですか?」
ルドヴィックは部屋にある姿見の鏡で自身の姿を見ると、執事長が指差した首には情事の痕がありありと残っていた。
冷たい汗が頬を伝わるのを感じながら、
「殿下が愉しい夜をお過ごしの頃に、妃殿下は殿下のお子を流産されました。せっかく授かったお子を失って、妃殿下の状態も宜しくありません。暫くはお会いになれませんので、その痕を見られずに済んで良かったですね」
長年、ルドヴィックに仕えている執事長は、嫌味たっぷりルドヴィックに言い放つ。
「…流産…だと…。エレオノーラは懐妊していたのか…?どうしてそんな事に……」
「おや、殿下が妃殿下を突き放した所為ではないですか。殿下が手を振り放った反動で妃殿下は花瓶に身体をぶつけて倒れられました」
事実を突き付けられて、ルドヴィックは驚愕していた。
エレオノーラが懐妊していた事は知らなかった。だが、妻が流産した原因は間違いなく自身にあるのだという事に……。
そして、深く後悔した。
あの時、振り返ってエレオノーラを見れば良かったのではないか。
そもそもメディアに呼ばれたからとて自身が出向く必要があったのか?
行ってもメディアを拒んでいれば……。いや、メディアに泣いて縋られれば拒みきれないだろう。
同じ過ちを何度も行うかもしれない。
どんなに後悔しようとも起きてしまった事をなかった事には出来ないのだ。
その日一日中、ルドヴィックは自責の念に駆られることになる。
そして、ようやくエレオノーラに会えるようになった頃、病み上がりの痛々しい姿のエレオノーラは寝台の上で、
「メディア王妃殿下は落ち着かれましたか?」
弱弱しい声で、静かに微笑んでいた。その月の様な美しさにルドヴィックはただ見とれていた。
「す…すまない。子供の事は残念だ。これからは君をもっと大切にすると約束する」
「殿下、私の事はお気になさらずに…殿下の気持ちは理解しております。どうぞこれからもメディア王妃殿下を助けてあげてくださいませ」
エレオノーラは、何かを吹っ切った様な清々しい微笑みを浮かべながら、ルドヴィックを見ている。
その微笑みを見て、ルドヴィックは、赦されたと勘違いをした。
エレオノーラの中で最早、ルドヴィックへの想いは一片の欠片も残っていなかった。
ただその事に気付かなかっただけ……。
その数か月後に、ルドヴィックは更なる後悔に見舞われる事になる。
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