極左サークルと彼女

王太白

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 翌日から、上級生の寅雄への教育が始まった。まずはエンゲルス『反デューリング論』から始まる。
「この本は、エンゲルスの思想が凝縮された本だから、内容を暗記するぐらい学ぶようにしろ。特に、『我々の目的は、できるだけ完全な理想社会をでっちあげることではなく、階級的矛盾の原因を突き止めることにある』という一文を心に留めておけ」
 実際、寅雄は『反デューリング論』に興味を惹かれた。特に、「労働力は、労働時間に応じた価値ではなく、労働の生産性による使用価値である」という文章には、技師の給料を肉体労働者並みに下げてしまった毛沢東の過ちを指摘しているようで、エンゲルスの偉大さを感じた。
 ただ、一回生はひたすら書籍を読んで勉強するだけで、全くサークルの運営に参加させてもらえないのは、寅雄にとって不満の種だった。
「先輩、なぜ、俺は演説の草稿を書いたり、立て看板を作ったり、学生の前で演説をさせてもらったりできないんですか? もう本ばかり読まされるのは飽きちゃいました。俺も三年生の先輩方みたいに、さっそうと演説してみたいです」
 寅雄の不満には、辰夫が優しい口調で答えた。
「寅雄の気持ちはよくわかる。僕も一回生の頃はそうだった。でも、理論武装もしていない、学識の乏しい輩が、きちんと演説できると思うか? 仮に演説の途中で、学識豊かな論敵に議論をふっかけられたとして、ちゃんと反論できると思うか? もともと、マルクス主義の学習は、一介の学生には手に余るものだ。本を二冊や三冊読んだ程度で、簡単に身につくほど生易しくない。演説で良いかっこをしたがる前に、まずは自分を救うための勉強が必要なんだ。そこをわかってほしい」
 辰夫が頭を下げたので、寅雄も自分のわがままを引っ込めざるを得なかった。
以来、寅雄は前にも増して勉強し始めた。
「見てろよ。俺は一日も早く、マルクス主義の理論家として、先輩方に俺を認めさせるんだ。正直、今のサークルのあり方には、いろいろと不満がある。他のサークルの支持を得るためだと言って、サークル棟の雑用を率先してやりすぎだ。これじゃ、雑用に時間と労力をとられて、本業であるはずの演説の草稿を書く時間もとれない。俺がサークルを変えなきゃ、誰が変えるってんだ?」
 寅雄は、ドイッチャー『トロツキー伝三部作』、ボリス・スヴァーリン『スターリン』、ダニエル・ゲラン『現代のアナキズム』など、何冊もの長い本に挑戦し続けた。読んでいくうちに、ロシア革命やボルシェビキというものが、教科書に書いてあるほど輝かしいものではなく、むしろ教科書とは反対の陰惨な内情であったのを知った。もっとも、それを辰夫に言うと、辰夫は真面目に答えた。
「いや、寅雄は一回生でありながら、よくそこまで勉強していると思うよ。正直、僕は嬉しい。でも、ここだけの話、僕らはある極左組織の下で動いているんだ。だいたい、サークルが配布しているビラの費用とか、立て看板を作る費用とかが、どこから出ているか、考えたことがなかったか? 月に千円の部費だけじゃ、とうていまかなえない額だぜ」
 さすがの寅雄も驚いた。
「中国革命の父と呼ばれた孫文だって、日本人の同志から、どれだけの金や武器の援助を受けていたか、調べたことがないのか? とにかく、革命ってのは金がかかる事業なんだ。極左組織の意向に逆らえば、軍資金をもらえなくなるだけじゃ済まない。場合によっては、裏切り者として制裁を受けることもあるんだ。それが僕ら下っ端の悲しさだよ」
「ちょっと待ってください。いくら俺らが下っ端だといっても、サークル内には言論の自由はあるじゃないですか。なら、サークル員が皆で団結して反旗を翻せば……」
「それができりゃ、苦労はしないよ。要するに、サークル員の中には、極左組織のスパイが紛れ込んでるんだ。そいつらは、サークル員個々の思想をチェックしていて、怪しいとみなしたら極左組織に密告するのさ。そうなれば、極左組織が粛清に乗り出す。かつてレーニンは、第三インターナショナルを創設する際に、『組織に不可避的に入り込んでくる小ブルジョア分子を、定期的に掃除しなければならない』と説いた。僕らは、いつ粛清の標的にされるか、わからない立場なのさ」
 ひょっとしたら、自分はとんでもないサークルに入ってしまったのではないかと、寅雄は背筋が寒くなった。
「じゃあ、なぜ先輩は、俺をサークルに誘ったんですか? それに、革命後のディストピアを描いた小説も部室に置いてあるのに、なぜ極左組織に逆らえないまま、現状を変えようとしないんですか? しょせん、活動費のためですか? なら、サークル員のやっていることは、革命という名のお遊びに過ぎないんじゃないですか?」
 一気にまくしたてたために、寅雄は、ハァハァと荒い息をしていた。
「勘違いするな。僕はあくまで寅雄に、サークルを内側から変えてほしいから、サークルに誘ったんだ。中国共産党だって、創立当初の陳独秀などの指導者は、スターリンに表立って逆らえる度胸はなかった。毛沢東がスターリンの押し付けた路線を拒否し、『実事求是』(現実に応じて方法を変える)を主張したから、中国は東欧のようにスターリンの属国にならずに済んだ。寅雄には、サークルを極左組織から独立させてほしいんだ」
「そんな……俺みたいなオタクでヒキコモリ気味な一回生に、何ができると言うんですか? 先輩みたいに弁が立つわけでもなく、紅一点のくるす来栖さんみたいな美人でもないのに……。俺みたいなペーペーが上級生に反旗を翻したって、アリみたいに踏み潰されるのがオチですよ」
「そこが寅雄の悪い癖だ。いつも自分を卑下してしまう、奴隷根性とでもいうのか……。そもそも寅雄は、弱い自分を変えたくて、サークルに入ったんじゃないのか? それとも、単なる伊達や酔狂で、革命ごっこがしたかっただけなのか? 寅雄は昔から三国志などが大好きだったんだろう。劉備や諸葛亮は、私をなげうって、革命に人生を捧げたのではなかったか? 自分も変われるのでなければ、思想を理解したことにはならんぞ」
 その日はそれで別れたが、それが、寅雄が辰夫と交わした最後の会話になろうとは、このときの寅雄には想像もつかなかった。
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