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 次の小説のテーマは、「義」にしようと決めた。あれから『三国志』も漫画をパラパラと読んでみると、劉備が仁義に厚い君主なので、優菜も「仁の次は義だ」と単純に決めてしまったのだ。孔子は「義を見てせざるは勇なきなり」と言っているので、義について考えるのはかっこいいことだと思えたのもある。
 ただ、義を書くにあたって、最も考えなければならないのが、「何が正義か? 何のために人は命をささげるのか?」という問題だ。その関係で優菜は、孔子の生きた春秋戦国時代の中国について調べていると、「士は己を知る者のために死す」という言葉に興味を引かれた。
「自分をよく知っている者のために死す、か。私は、命を懸けられるような人すらいないし、よくわからないな……」
 優菜は優斗の部屋に行き、「お兄ちゃんは、命を懸けられる人って、いるの?」と尋ねた。
「難しい問題だな。しかし、優菜もよく、そんな問題に行き着いたもんだ。それで俺自身について言えば、俺もそんな人を見つけていない。誰にも愛情を注いでいないから、愛されることもないというところだな。まあ、俺には愛情を注ぎたい人なんて、家族ぐらいしかいないが。だからこそ、俺みたいな若者は、『三国志』みたいな古典の世界に、それを求めるんだろうな」
 優菜はまず、孔子を扱う小説をインターネットで探してみると、中島敦『弟子』が出てきたので、『弟子』を読んでみた。孔子の高弟である子路の話だ。子路が最後に主君を守るために戦って死んだり、孔子が弟子に「死後の世界はどうなっているのか?」と尋ねられ、「いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らんや」と答えるあたりを読んで、ハッとしたものだ。
(今さらながら私にも見えてきたけど、儒教はこの世での価値ある生き方を定めたもので、死後のことは全く規定していないんだな。つまり、この世で無様な生き方や死に方は許されないということだ)
 問題は、それを踏まえたうえで、どんな話にするかである。優菜は数日間も考えこんでしまった。
「あるところに、一郎くんという男の子がいました。母子家庭のうえ、下に弟や妹が何人もいるので、面倒をみるのに明け暮れており、宿題やテスト勉強をやる時間もとれず、成績はクラスでもビリでした。一郎くんはクラスメイトの良恵ちゃんが大好きでした。なぜなら、一郎くんが宿題をやってこないとき、誰も意地悪して写させてくれないのに、良恵ちゃんだけは写させてくれたのです。おかげで、一郎くんは担任に『勉強しないバカ』としていじめられることが減りました。担任は視野の狭い輩で、『生徒がなぜ勉強する時間がとれないか?』まで考えられなかったからです。いつしか、一郎くんと良恵ちゃんは付き合い始め、よく二人でつるんで遊ぶようになりました。良恵ちゃんは美人でもなく、むしろ色黒で太めでしたが、一郎くんは良恵ちゃんの心根の優しさを誰よりも熟知していたので、喜んで付き合っていました。そんなある日、良恵ちゃんが学校に来なくなり始めました。理由は、クラスメイトの瑞穂ちゃんの彼氏が、『瑞穂って自分勝手な性格だし、他人の悪口を平気で言うからウザい。まだ良恵のほうがブスだけど性格は良い』と言って、瑞穂ちゃんをふってしまったからです。良恵ちゃんの父親は、瑞穂ちゃんの会社の下請けの町工場の社長なので、瑞穂ちゃんは父親に『良恵にいじめられた』と泣きついたのがきっかけで、良恵ちゃんの町工場は、一方的に仕事を回してもらえなくなり、思いつめた父親は金策に走り回りましたが、どこからも金を借りられず、仕事も回してもらえずで、もう死んで生命保険で良恵ちゃんの養育費を出すしかないと絶望していました。たまたま、良恵ちゃんの家に遊びに行った一郎くんは、町工場の苦境を知り、助けたいと思いましたが、子供である以上、方法が思いつきません。帰宅して母親に相談すると、『じゃあ、マスコミに発表すれば良い。マスコミなら、瑞穂ちゃんの親会社の不正をあばいてくれる』と言ったので、一郎くんは週刊誌に事実を公表する手紙を書きました。以来、瑞穂ちゃんの自宅には、週刊誌の記者たちが押しかけて、大騒ぎになりました。一郎くんはインターネットにも書き込んだので、インターネット上でも炎上しました。しかし、瑞穂ちゃんの父親は、弁護士や裁判官に金を積んで、裁判で勝とうとしました。もっとも、これは一郎くんの両親が、地元の名士である県会議員に訴えたので、瑞穂ちゃんの父親の敗北に終わりました。その県会議員は、瑞穂ちゃんの親会社の支持する与党とは敵対していた野党だからです。むしろ、贈賄でつるしあげられたのは、瑞穂ちゃんのほうでした。面子をつぶされた瑞穂ちゃんの父親は、最終手段として、良恵ちゃんの家にヤクザを差し向けて暗殺しようとしました。その日は風の強い夜でした。ヤクザは風の音にまぎれて、良恵ちゃんの家に近づいていきます。そして、ヤクザはついに、良恵ちゃんの家の塀を乗り越えて窓から侵入しようとしました。ところが、急に背後から物干し竿で殴られました。転んで後ろを振り向いたヤクザは、物干し竿をかまえた一郎くんの姿を目にしました。『こんな強風の日は、必ず良恵ちゃんを狙ってくると思って、良恵ちゃんの家に泊りがけで見張ってたんだ。見事に読みが当たったよ』と一郎くんは不敵に言いました。しかし、それが強がりに聞こえたヤクザは、ナイフを抜いて一郎くんに斬りつけようとしたので、二人は乱闘になりました。もっとも、物音に気づいた良恵ちゃんが警察を呼んだので、駆けつけた警官に、ヤクザは逮捕されましたが、一郎くんはナイフで腹などを刺されて重傷です。それでも、心配そうに顔をのぞきこむ良恵ちゃんを元気づけるために、『こんな傷、へっちゃらさ。それより、良恵ちゃんが無事で良かったよ』と笑みを浮かべました。その直後、一郎くんは気を失い、三日間も寝たきりでしたが、四日目に目を覚まし、順調に回復していきました。一方、瑞穂ちゃんの父親の親会社は、暗殺計画がバレたこともあり、殺人未遂とのことで、起訴されてしまい、事実上営業停止になってしまいました」
 優菜は三日間かけて、ようやく書き上げた。企業のことを全く知らない以上、想像で書くしかなかったのが痛い。早速、優斗に見せに行く。優斗は読み終えると、真顔で言った。
「企業のことを初めて書いたにしては、よく書けている。でも、企業がヤクザを暗殺に差し向けるのは、無理があるな。企業間の抗争なんてのは、優菜が思っているほど単純なものじゃない。すぐ暴力をふるう子供とは違って、一目ではわからないように裏で暴力をふるうのが企業だ。だいたい、すぐに暴力をふるっていたら、警察に捕まってしまうぞ」
 優斗のいつになく辛口の批評に、優菜は恥じ入る思いと、反発したくなる思いとが、ごちゃ混ぜになった気分だった。だが、優斗は辛口の批評の後は、ニコリと笑った。
「でも、最初はこんなもんだと思えば良い。優菜はこれから嫌というほど練習を積み重ねれば良いんだ。伸び代はまだまだあると思うぞ。まあ、腐らずに書き続けろ」
 優菜は少しだけ気を取り直すと、優斗の部屋を出た。
(よし、これからも書いて書いて書きまくってやる)
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