いつかの空を見る日まで

たつみ

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第2章 彼女の話は通じない

歩み寄れないものばかり4

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 周りから、大勢の人の声が聞こえた。
 雨や風がひどくて、目が開けられない。
 わかるのは、ザイードの手につつまれていることだけだ。
 こんな暴風雨の中でも、その手は暖かかった。
 
「む、無理だよ、ザイード……っ……壁は壊れない……っ……」
「なに、もう間もなく穴が空こう。しばし、辛抱しておれよ、キャス」
「私が投降して攻撃をやめさせる! ザイードだけなら逃げられるから!」
 
 ザイードが、繰り返し、壁に体当たりをしている。
 というより、頭突きに近い。
 キャスは、無理に目を開いた。
 手の甲に、ぴちゃぴちゃと、なにかが落ちてくる。
 
「血……血が……」
 
 紫色のそれが、雨で流されていた。
 が、新しい血が、またキャスの手を濡らす。
 周囲から攻撃も受けていた。
 微かに銃声が聞こえ、そこここから、金属音が響いている。
 
 硬い鱗に覆われている体。
 
 とはいえ、無傷というわけではないのだろう。
 何度も撃たれれば、鱗も傷むに違いないのだ。
 現に、キャスを抱えている手からも血が流れ落ちている。
 
 フィッツを最後に抱きしめた時の、手の生温さを思い出した。
 キャスの顔から、血の気がなくなる。
 ぎゅうっと、ザイードに強くしがみついた。
 
 『平気ですよ、この程度。目に入ったとしても、視界が奪われることは……』
 『平気ですよ。このまま3日でも走り続けられます』
 
 フィッツは、いつも彼女を安心させてくれた。
 けれど、ちっとも大丈夫ではなかったし、平気でもなかったのだ。
 
 『知っていましたか? 姫様が笑うと、私も笑っているのです』
 
 最後に見た、フィッツの笑顔。
 にっこりして、そして。
 
「嫌だ……嫌だ! やだ……っ……あんなのもう、嫌だよ……っ……!」
 
 胸が苦しい。
 つらくて、悲しかった。
 自分のせいで、と思いたくないのではない。
 自分のために、と思うのが、つらいのだ。
 
「ザイード! もういいから! 本当に……っ……もういいんだよ……っ……」
 
 自分のために誰かが犠牲になる必要なんてない、と思う。
 それなら、自分が死ねばいいのだ、と思う。
 自分がいなければ、守ろうとする誰かを犠牲にすることだってないのだから。
 
「キャス。余が、帰りたいのだ。そなたとともに、ガリダに帰りたいのだ」
「死んだら帰れないじゃん! こんなに血が出てるのに……っ……?!」
「そうだの」
「ザイードが、ここで死んでも、人は魔物の国を襲う! わかるでしょ?!」
「そうよな」
 
 ザイードが動きを止め、キャスのほうに顔を向けた。
 その姿は、まるきり「龍」だ。
 象徴的な2本の長い髭はないものの、長くて大きな口に、鹿のような2本の角。
 濃い緑の鱗と、大きくて黒い目に、金色の縦筋になった瞳孔。
 
「だが、余は魔物なのだ。やりたきようにやる。譲れるものもあるが譲らぬものもある。余は、これまで、そのように生きてきた。これからも、そのように生きる」
 
 反論しかけたキャスの横で、ひゅるんっと音がした。
 片方の角にワイヤーが絡まっている。
 
「カサンドラを離せ、この魔物がっ!」
 
 ティトーヴァが地上で叫んでいる。
 どうして理解しようとしないのかが、わからなかった。
 
 おそらく、ザイードが本気を出せば、皆殺しにできる。
 ほかの魔物たちと、ザイードは違うのだ。
 
 この姿を見れば、どれほど大きな力を持っているかは想像できる。
 範囲が限られているとしても、今、この場にいる者たちの命を奪うことくらいは容易にできるはずだ。
 
 雨に打たれた「人間」に雷を落とせば、どうなるか。
 
 たいした知識がなくても、わかることだった。
 なのに、ザイードは、ただ壁を越えようとしている。
 攻撃してくる人間に反撃し、殺してしまったほうが、逃げ易いのに。
 
(あいつは……そういう奴なんだ……結局、本質は変わってない……)
 
 ティトーヴァは「悪い奴」ではないのかもしれない。
 本物のカサンドラのことも、事実を「知らなかった」だけで、悪意で刑に処したのではないのかもしれない。
 ちゃんと話し合えば、分かり合えることも、たくさんあるのかもしれない。
 
(でも、いつだって……自分のことにだけ、一生懸命なんだよね、あんた……)
 
 カサンドラを取り戻したいという気持ちに、必死になり過ぎている。
 そのせいで、肝心な「カサンドラ」の言葉にすら耳を貸そうとしなかった。
 選択において、ティトーヴァは、常に「見たいもの」しか見ないのだ。
 どれだけ反省しても、後悔しても、それは変わらない彼の本質なのだろう。
 
(……絶対に許さない……私には関係ないって……思ってきたけどさ……)
 
 嫌悪感や忌避きひ感はあっても、ティトーヴァを憎んではいなかった。
 彼女は「カサンドラ」ではなく、この世界の住人とは無関係。
 だから、無関心の元、突き放していられた。
 
 けれど、フィッツの存在で、彼女は、この世界と繋がりを持ったのだ。
 そして、キャスという名によって、この世界の住人となっている。
 もう無関係ではいられない。
 
(ザイードは、私に気を遣ってるんだ。人の国には私の同胞がいて、悪い奴ばかりじゃないって思ってくれてるから)
 
 手加減をしているのは、そのためだろう。
 相手は、手加減も容赦もしないのに。
 
「背を撃て! 一斉に同じ場所を狙うのだ! 鱗など、すべて剥がしてしまえ!」
 
 ティトーヴァの声に、ふつふつと怒りがこみあげてくる。
 カサンドラに好意を寄せているとしながら、己のことばかりではないか。
 結局、「幸せ」になりたいのは、ティトーヴァ自身なのだ。
 
(1回目のこと、どっかで覚えてて、後悔してるのかもしれないけど……なんで、あんたの贖罪に、私がつきあわされなきゃならないんだよ……!)
 
 すうっと息を吸い込む。
 フィッツの、にっこりした顔が思い浮かんだ。
 ザイードの血で、全身が濡れている。
 
 大事なものはなにか。
 
 それは「人」という種別で括られるものではなかった。
 自分にとって、特別な存在足り得る相手だ。
 下で騒いでいる者たちは、その範疇にはいない。
 
 壊してしまえ。
 
 キャスの心に、その言葉が響く。
 どうせ、相手には聞く耳などないのだ。
 言葉が通じなくても、気にすることはない。
 
「キャス」
 
 ザイードの声に、ハッとなった。
 緑の体が、ほとんど紫に変わっている。
 血だらけだからだ。
 
「余を、くすぐってはならぬぞ? よいな」
 
 キャスは、言葉を失った。
 力を使おうとしているのを悟られたらしい。
 頭の中に、いくつもの言葉が浮かぶ。
 
 なぜ、どうして、でも、だって。
 
 だが、そのどれひとつ口にできなかった。
 ザイードが、注意深く、指先でキャスの頬を撫でる。
 
「どうしてもという時と、そなたは言うておったろう? 今は、その時ではない。ゆえに、使わずともよい。仕舞うておけ」
 
 傷だらけでボロボロのザイードに、涙がこぼれた。
 これだって、ザイードの「思いやり」だ。
 そのくらいは、わかる。
 
「帰ろうぞ、キャス。ガリダの地に」
 
 バキンッと、ひと際、大きな音が響く。
 見上げた先に、雲もなく雨も降っていない暗い空が見えた。
 
「行かせるなっ!! 鎖を投げ打てっ!!」
 
 後ろからティトーヴァの声が追いかけてくる。
 だが、ザイードは、なにもかもを振り切った。
 ふっと、空気が変わる。
 
「あの壁というのは、頑強なものだの」
 
 空に浮いたまま、ザイードが振り向いていた。
 ティトーヴァの声も、騎士たちのざわめきも聞こえない。
 ザイードは、確かに壁に穴を空けたのだろうが、その穴はなかった。
 入る時に見た、あの灰色に、遠くまで覆われているのが見えるだけだ。
 
「キャス……すまぬが、ちと……休むと、いたそう……」
 
 ひゅうっと、ザイードが地面に降り立つ。
 キャスが手から離れた途端、体がガリダの姿に戻った。
 龍の姿になったため服は破れ飛んでしまったのだろう。
 横倒しになった体を覆うものはなく、ただ紫に染まっている。 
 
「すぐに……ダイスが……来るゆえ……」
「ザイード……ザイード……っ……」
 
 見れば見るほど、酷い怪我だ。
 尾は半分ちぎれているし、右足はなく、体中から血が流れている。
 ザイードは目を伏せ、大きく胸を上下させていた。
 ダイスが来るまで持ちこたえられないかもしれない。
  
 キャスは、なにかないかと周りを探す。
 少し離れた場所に、袋が落ちていた。
 あの中に傷を癒すための装置があるだろうか。
 
 そう思ったが、あったとしても、自分には、すぐに使えるほどの「知識」がないと気づく。
 それでは間に合わない。
 
「そ、そうだ、ミネリネ! ミネリネなら……っ……」
 
 キャスが力を使えば、ファニが集まって来る。
 ファニの移動は、一瞬だ。
 ここなら壁の外だし、攻撃を受ける恐れもない。
 なんでもいいから「言葉」を使おうとしたのだけれど。
 
「この傷だと、ファニでも癒すのは、厳しかろうねぇ」
 
 びくっと、体をすくませる。
 いつの間にか、見知らぬ男が目の前に立っていた。
 その姿に、一瞬で理解する。
 キャスの考えを理解したように、男が微笑んで、言った。
 
「やっと会えて嬉しいよ。私とフェリシアの落とし子。愛しい娘」
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