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前編
新しい道を前にして 1
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サマンサは、鏡の前で、ラナに髪を梳かれている。
眠る前の、お手入れだ。
鏡に映る自分を見ながら、半月後のことを考えていた。
「どうかされたのですか?」
ラナが気づかわしげな表情で、サマンサを見ていた。
いつもなら、あれこれと話をしている。
屋敷であったことを聞いたり、本邸の様子を訊いたりすることもあった。
とくに、彼の婚約者ではなくなり、ジョバンニとの関係が進展したアシュリーがどうしているかは、たびたび訊いている。
もっとも、彼に言わせれば、元々「彼の」婚約者ではなかったらしいが、それはともかく。
だが、今夜は、芝居を観に行く日のことを考えていて、ぼんやりしていた。
押し黙ったままでいるサマンサを、ラナは心配しているのだろう。
「王都にある劇場は知っている?」
「はい。入ったことはございませんが、劇場前を通ったことはございます」
ラナは、元は王都の屋敷で勤め人をしていた。
街にある劇場を知っているのは当然だ。
サマンサが街に出ない暮らしをしていたので、知らないだけだった。
彼女の立ち回り先は、ものすごく限られている。
別の貴族の屋敷で開催される夜会にしか行ったことがない。
街を出歩くなんて考えたこともなかった。
貴族の居住区と街とは距離がある。
あえて馬車を使い、出かけなければならないのだ。
そうまでして「見世物」になる気にはなれなかった。
勤め人であるラナのほうが出歩く機会も場所も多かっただろう。
「今度、お芝居を観に行くことになったのよ」
「それは楽しみでございますね。旦那様とご一緒なら、ご安心でしょうし」
「違うのよ、ラナ」
サマンサは、ほんの少し考える。
いずれここを出て行く日が来るのだ。
ラナも含め、誰にも「交渉」のことは話していない。
去る時にどういう言い訳をするかは、まだ考えていなかった。
(でも、一般的に愛妾が邸を出るのは、主に見捨てられた時よね。飽きられたとか、別の愛妾ができたとか……そうなると、彼の品位が疑われるわ)
ここにはサマンサの意志で来たのだ。
彼は、たいして利もないのに受け入れてくれている。
想像以上に早く、そして良い形で目的は達成されていた。
家族を失望させるだろうとの不安も、ほぼ解消されている。
なのに、彼にも責任の一端があるとはいえ、マチルダのことでは彼の評判を下げてしまった。
ただでさえ、サマンサ連れでの夜会のことがある。
おかしな趣味嗜好、奇行に走る人物だと思われかねない。
さらなる「悪評」を広めるのは気が進まなかった。
「別の男性と行こうと思っているわ」
「え……? ですが、サマンサ様……」
「毎日、彼とばかりいてもつまらないでしょう? それに、彼も気晴らしは必要だと言ってくれたわ」
「さようにございますか……」
ラナに落胆されるのは心が痛む。
だが、彼がサマンサを捨てたのではなく、サマンサが彼の元を去ったと思わせておくほうがいいと判断した。
貴族界隈はともかく、自分のせいで彼が勤め人から悪く思われるのは防いでおきたい。
「当日はジョバンニが王都の屋敷に送ってくれるのだけれど、あなたも一緒に行かない? 久しぶりに王都の屋敷に帰るのもいいのじゃないかと思って」
「ありがとうございます。しばらく帰っておりませんから、お供をさせていただければ嬉しく存じます」
「私は向こうには泊まらないと思うわ。でも、あなたは1日くらいゆっくりして来れば? 帰りは彼に頼むから、心配しなくていいわよ」
「そんな……私などのために旦那様を煩わせることはできかねます……」
ラナは気後れした様子だが、サマンサは平気な顔をして言う。
「いいのよ。彼ったら、役に立つ魔術師だって私に思われたがっているのだもの」
彼との会話を思い出し、くすくすと笑った。
彼が特異な魔術師だというのは、誰しもが知っている。
とはいえ、彼は、なんでも魔術ですませていると思われるのを好まないようだ。
そのくせ、魔術で新しい花に取り換えたり、紅茶を淹れ替えたりする。
「それに、もし彼が忙しくしていたら、ジョバンニが行くわよ」
「でしたら……お言葉に甘えさせていただきます」
彼に対しては気後れしていたラナの調子が変わった。
ジョバンニは王都の屋敷も切り盛りしているのだが、アドラント本邸の者ほど親交はないと聞いている。
サマンサに当たりの強かったジョバンニに、ラナは厳しい目を向けていた。
「ここに籠り切りではね。とくに、あなたは私についてくれているから、どこにも行けないじゃない? お休みは必要だと思うの」
「私よりもサマンサ様のほうが……そうですわね。気晴らしは必要ですわ。少し前まで日中に中庭に出ることもできずにいらしたのですから」
ジョバンニのせいで。
という声が聞こえてきそうだ。
ジョバンニと顔を合わせたくなくて、外には出ないようにしていた。
アシュリーとは話したかったが、ジョバンニが常に傍にいたため、気楽にお茶に誘うこともできなかったのだ。
「それで、その……どなたと、ご一緒されるのですか?」
ラナが、少し言いづらそうにしつつも、訊いてくる。
それはサマンサも知りたいところだった。
「当日のお楽しみよ、ラナ」
彼に言われた台詞を、そのまま使う。
実際、サマンサも知らないのだから答えようがない。
「では、ドレスはいかがいたしましょう? こちらで着替えられてから、王都に行かれますか?」
なるほど、と思う。
ラナが言いづらそうにしながらも、相手の男性について訊いてきた理由だ。
エスコートの男性の年齢や身分に応じて、こちらはドレスを吟味する。
見劣りせず、かと言って、不釣り合いなほど華美であれば、相手の立場を害してしまう。
どうしようかと考えていて、ハッとなった。
半月後、予定では、サマンサは体型が変わっている。
今あるドレスは、どれも着られない「はず」だ。
さりとて、心配することはないと、すぐに思い直した。
「新しいものを用意しているの。きっと数日前には届くのじゃないかしら」
彼は、先を見越して動く。
すでにドレスは手配済みと見て間違いはない。
「かしこまりした。こちらで着替えをなさるかどうかは、ドレスの出来次第ということにございますね」
「そうなの。手直しが必要かもしれないし、思ったよりも着崩れてしまうかもしれないから、1度、試しに着てみて判断するわ」
ラナが納得してくれて助かった。
それで、気がつく。
体型の変化が、いつ頃に現れるのかはわからない。
だとしても、ラナを心配させるだろう。
(いきなり、どっとくるのか、これから、じわじわ来るのかはともかく……)
仕えている相手が、急に痩せ始めたら、まず病気を疑うはずだ。
無駄に心配させるのは気が引けた。
あまりに変わりがないので、今まで、そこに気が回らずにいたのだ。
「ラナ、私が、これから、ほっそりしてきても驚かないでちょうだい」
「なにかお薬でも、お飲みになられるのですか?」
ラナは、すでに心配顔をしている。
確かに、とサマンサは思った。
街で売っていた痩せる薬の効果は、熱病にかかったような苦痛だけだったのだ。
値段には、ちっとも見合わなかった。
「違うわ。彼に……体質改善の魔術を使ってもらったのよ。でも、効果はすぐにはあらわれないみたい。時間がかかるらしいわ」
「さようにございましたか。旦那様がなさったことであれば問題ありませんね。お時間がかかっても、効果があらわれるに違いありませんわ」
「だから、急に体型が変わっても心配しないで」
「わかりました。この話は内密にしておいたほうがよろしいでしょうか?」
別邸の勤め人のほとんどが、サマンサによくしてくれている。
体型が変わって心配するのは、ラナだけではないだろう。
とくに料理人たちは顔を蒼褪めさせるかもしれない。
「あまりに大袈裟にならなければ大丈夫よ。食事に問題があったなんて思わせるのは本意ではないの」
「騒ぎ立てないように、それとなく話しておきます」
ラナであれば、うまくやってくれるに違いない。
サマンサは、ラナを信頼している。
ティモシーのことがあり、人を信じる怖さを知った。
だが、誰も彼もを疑いたくはない。
自分が誠実であれば、相手もまた誠実さを返してくれると信じていたいのだ。
「あなたには感謝しているわ、ラナ。嫌がらずに私を引き受けてくれて」
「サマンサ様……私は、サマンサ様が、ここに留まってくださることを望んでおります。ずっとお仕えしたいと思えるかたですから」
「私に、そういう野心はないの」
「存じております。ですが……だからこそ期待してしまうのでしょうね」
ラナが少しだけ寂しそうに微笑む。
サマンサも、ここを去る時には寂しい思いをするだろうと感じていた。
ティンザーの屋敷とは違う、暖かみがあるからだ。
(突然に現れた“特別な客人”に、みんな、礼儀正しく、優しくしてくれている……冷たくされる覚悟はあったけれど、やっぱり嬉しいものだわ)
ティンザーの屋敷の者たちは、古くから勤めていて、産まれた時からサマンサを知っている。
ある意味では、サマンサにやわらかい対応をしてくれるのが当然の人たちだ。
だが、ここの人たちは、いずれ去るであろうサマンサと親しくする義理はない。
そのため、ラナや、ほかのみんなが、サマンサを支えようとしてくれるのが嬉しかった。
(いつか……私が嫁ぐ家も、こうであってくれるといいのだけれど……)
眠る前の、お手入れだ。
鏡に映る自分を見ながら、半月後のことを考えていた。
「どうかされたのですか?」
ラナが気づかわしげな表情で、サマンサを見ていた。
いつもなら、あれこれと話をしている。
屋敷であったことを聞いたり、本邸の様子を訊いたりすることもあった。
とくに、彼の婚約者ではなくなり、ジョバンニとの関係が進展したアシュリーがどうしているかは、たびたび訊いている。
もっとも、彼に言わせれば、元々「彼の」婚約者ではなかったらしいが、それはともかく。
だが、今夜は、芝居を観に行く日のことを考えていて、ぼんやりしていた。
押し黙ったままでいるサマンサを、ラナは心配しているのだろう。
「王都にある劇場は知っている?」
「はい。入ったことはございませんが、劇場前を通ったことはございます」
ラナは、元は王都の屋敷で勤め人をしていた。
街にある劇場を知っているのは当然だ。
サマンサが街に出ない暮らしをしていたので、知らないだけだった。
彼女の立ち回り先は、ものすごく限られている。
別の貴族の屋敷で開催される夜会にしか行ったことがない。
街を出歩くなんて考えたこともなかった。
貴族の居住区と街とは距離がある。
あえて馬車を使い、出かけなければならないのだ。
そうまでして「見世物」になる気にはなれなかった。
勤め人であるラナのほうが出歩く機会も場所も多かっただろう。
「今度、お芝居を観に行くことになったのよ」
「それは楽しみでございますね。旦那様とご一緒なら、ご安心でしょうし」
「違うのよ、ラナ」
サマンサは、ほんの少し考える。
いずれここを出て行く日が来るのだ。
ラナも含め、誰にも「交渉」のことは話していない。
去る時にどういう言い訳をするかは、まだ考えていなかった。
(でも、一般的に愛妾が邸を出るのは、主に見捨てられた時よね。飽きられたとか、別の愛妾ができたとか……そうなると、彼の品位が疑われるわ)
ここにはサマンサの意志で来たのだ。
彼は、たいして利もないのに受け入れてくれている。
想像以上に早く、そして良い形で目的は達成されていた。
家族を失望させるだろうとの不安も、ほぼ解消されている。
なのに、彼にも責任の一端があるとはいえ、マチルダのことでは彼の評判を下げてしまった。
ただでさえ、サマンサ連れでの夜会のことがある。
おかしな趣味嗜好、奇行に走る人物だと思われかねない。
さらなる「悪評」を広めるのは気が進まなかった。
「別の男性と行こうと思っているわ」
「え……? ですが、サマンサ様……」
「毎日、彼とばかりいてもつまらないでしょう? それに、彼も気晴らしは必要だと言ってくれたわ」
「さようにございますか……」
ラナに落胆されるのは心が痛む。
だが、彼がサマンサを捨てたのではなく、サマンサが彼の元を去ったと思わせておくほうがいいと判断した。
貴族界隈はともかく、自分のせいで彼が勤め人から悪く思われるのは防いでおきたい。
「当日はジョバンニが王都の屋敷に送ってくれるのだけれど、あなたも一緒に行かない? 久しぶりに王都の屋敷に帰るのもいいのじゃないかと思って」
「ありがとうございます。しばらく帰っておりませんから、お供をさせていただければ嬉しく存じます」
「私は向こうには泊まらないと思うわ。でも、あなたは1日くらいゆっくりして来れば? 帰りは彼に頼むから、心配しなくていいわよ」
「そんな……私などのために旦那様を煩わせることはできかねます……」
ラナは気後れした様子だが、サマンサは平気な顔をして言う。
「いいのよ。彼ったら、役に立つ魔術師だって私に思われたがっているのだもの」
彼との会話を思い出し、くすくすと笑った。
彼が特異な魔術師だというのは、誰しもが知っている。
とはいえ、彼は、なんでも魔術ですませていると思われるのを好まないようだ。
そのくせ、魔術で新しい花に取り換えたり、紅茶を淹れ替えたりする。
「それに、もし彼が忙しくしていたら、ジョバンニが行くわよ」
「でしたら……お言葉に甘えさせていただきます」
彼に対しては気後れしていたラナの調子が変わった。
ジョバンニは王都の屋敷も切り盛りしているのだが、アドラント本邸の者ほど親交はないと聞いている。
サマンサに当たりの強かったジョバンニに、ラナは厳しい目を向けていた。
「ここに籠り切りではね。とくに、あなたは私についてくれているから、どこにも行けないじゃない? お休みは必要だと思うの」
「私よりもサマンサ様のほうが……そうですわね。気晴らしは必要ですわ。少し前まで日中に中庭に出ることもできずにいらしたのですから」
ジョバンニのせいで。
という声が聞こえてきそうだ。
ジョバンニと顔を合わせたくなくて、外には出ないようにしていた。
アシュリーとは話したかったが、ジョバンニが常に傍にいたため、気楽にお茶に誘うこともできなかったのだ。
「それで、その……どなたと、ご一緒されるのですか?」
ラナが、少し言いづらそうにしつつも、訊いてくる。
それはサマンサも知りたいところだった。
「当日のお楽しみよ、ラナ」
彼に言われた台詞を、そのまま使う。
実際、サマンサも知らないのだから答えようがない。
「では、ドレスはいかがいたしましょう? こちらで着替えられてから、王都に行かれますか?」
なるほど、と思う。
ラナが言いづらそうにしながらも、相手の男性について訊いてきた理由だ。
エスコートの男性の年齢や身分に応じて、こちらはドレスを吟味する。
見劣りせず、かと言って、不釣り合いなほど華美であれば、相手の立場を害してしまう。
どうしようかと考えていて、ハッとなった。
半月後、予定では、サマンサは体型が変わっている。
今あるドレスは、どれも着られない「はず」だ。
さりとて、心配することはないと、すぐに思い直した。
「新しいものを用意しているの。きっと数日前には届くのじゃないかしら」
彼は、先を見越して動く。
すでにドレスは手配済みと見て間違いはない。
「かしこまりした。こちらで着替えをなさるかどうかは、ドレスの出来次第ということにございますね」
「そうなの。手直しが必要かもしれないし、思ったよりも着崩れてしまうかもしれないから、1度、試しに着てみて判断するわ」
ラナが納得してくれて助かった。
それで、気がつく。
体型の変化が、いつ頃に現れるのかはわからない。
だとしても、ラナを心配させるだろう。
(いきなり、どっとくるのか、これから、じわじわ来るのかはともかく……)
仕えている相手が、急に痩せ始めたら、まず病気を疑うはずだ。
無駄に心配させるのは気が引けた。
あまりに変わりがないので、今まで、そこに気が回らずにいたのだ。
「ラナ、私が、これから、ほっそりしてきても驚かないでちょうだい」
「なにかお薬でも、お飲みになられるのですか?」
ラナは、すでに心配顔をしている。
確かに、とサマンサは思った。
街で売っていた痩せる薬の効果は、熱病にかかったような苦痛だけだったのだ。
値段には、ちっとも見合わなかった。
「違うわ。彼に……体質改善の魔術を使ってもらったのよ。でも、効果はすぐにはあらわれないみたい。時間がかかるらしいわ」
「さようにございましたか。旦那様がなさったことであれば問題ありませんね。お時間がかかっても、効果があらわれるに違いありませんわ」
「だから、急に体型が変わっても心配しないで」
「わかりました。この話は内密にしておいたほうがよろしいでしょうか?」
別邸の勤め人のほとんどが、サマンサによくしてくれている。
体型が変わって心配するのは、ラナだけではないだろう。
とくに料理人たちは顔を蒼褪めさせるかもしれない。
「あまりに大袈裟にならなければ大丈夫よ。食事に問題があったなんて思わせるのは本意ではないの」
「騒ぎ立てないように、それとなく話しておきます」
ラナであれば、うまくやってくれるに違いない。
サマンサは、ラナを信頼している。
ティモシーのことがあり、人を信じる怖さを知った。
だが、誰も彼もを疑いたくはない。
自分が誠実であれば、相手もまた誠実さを返してくれると信じていたいのだ。
「あなたには感謝しているわ、ラナ。嫌がらずに私を引き受けてくれて」
「サマンサ様……私は、サマンサ様が、ここに留まってくださることを望んでおります。ずっとお仕えしたいと思えるかたですから」
「私に、そういう野心はないの」
「存じております。ですが……だからこそ期待してしまうのでしょうね」
ラナが少しだけ寂しそうに微笑む。
サマンサも、ここを去る時には寂しい思いをするだろうと感じていた。
ティンザーの屋敷とは違う、暖かみがあるからだ。
(突然に現れた“特別な客人”に、みんな、礼儀正しく、優しくしてくれている……冷たくされる覚悟はあったけれど、やっぱり嬉しいものだわ)
ティンザーの屋敷の者たちは、古くから勤めていて、産まれた時からサマンサを知っている。
ある意味では、サマンサにやわらかい対応をしてくれるのが当然の人たちだ。
だが、ここの人たちは、いずれ去るであろうサマンサと親しくする義理はない。
そのため、ラナや、ほかのみんなが、サマンサを支えようとしてくれるのが嬉しかった。
(いつか……私が嫁ぐ家も、こうであってくれるといいのだけれど……)
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