花に祈り

海乃うに

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 型の内側にパイ生地をぴたりと沿わせたら、卵クリームをたっぷりと。
 アゼリアは自身に言い聞かせながらクリームを注いでゆく。その慣れた手つきは母親がわりに自分を育ててくれたセシリアから仕込まれたものだ。オーブンが温まるまでの短時間であっという間に準備が済み、焼成を待つだけの段階になったものがずらりと並ぶ。
 ヴィラ・フロレシーダの伝統菓子、ミモザのパイ。
 外側のぱりぱりした食感とクリームの優しい甘さで食べた人を虜にするお菓子である。
「ああ、だめよアゼリア。これはだめ。おいしくて困るわ」
 初めて口にしたときにそう抗議したエリザベスの顔をアゼリアはいまでも時々思い出してしまう。文字通りおいしくて困った、と顔中で表現していたあの顔はあまりにも愛らしかった。人形のように美しく触れたら壊れてしまいそうなエリザベスが、一口パイを食べたとたん村の少女と同じ無邪気な表情になったのだ。
「おいしいのなら良いではありませんか」
「だって本当においしいんだもの。止まらなくなりそう」
「では奥さまのわからないところに隠しておきます」
「もう、意地悪を言うのね」
 ふたりが出会ったのは去年の暮れのことだった。
 ここヴィラ・フロレシーダは森に囲まれた静かな村で、村の名家バレット家が代々管理してきた。しかし半世紀ほど前からバレット家は馬車を二日ほど走らせたところにある大きな町ジャルディン・ダ・ライーニャに居を構えるようになった。現在この村を治めているローズ・バレットも例にもれず、事実上の管理は司祭に任せてほとんど村を見放しているような状態である。
 確かにヴィラ・フロレシーダは自然こそ豊かであるものの、服飾で財を成したバレット家にとって家業を営みづらい土地でもあった。どれだけすてきなドレスをつくろうとも商売相手は皆ジャルディン・ダ・ライーニャのような都会にいるのだ。それでもいざというときの財産として残されているほとんど忘れられたこの村で、しかし村人たちは慎ましやかに、そして穏やかに暮らしていた。
 冬の気配が近づき村人たちが保存食づくりに忙しくし始めた頃だった。司祭のもとへ一通の手紙が届いた。内容はバレット家から女性がひとり、療養のためヴィラ・フロレシーダへ越してくるというものだ。突然の知らせに村民が驚いたのは言うまでもない。しかし手紙から与えられた情報は女性がエリザベス・バレットという名であること、それから誰かひとり、彼女の身の回りの世話をする者をつけてほしいというだけだった。どのような病気であるかも伝えられず、ただわかるのはバレット家の人物であるということだけだ。司祭を中心に村中の人間で話し合った結果、むかしバレット家が使用していた屋敷を掃除し、アゼリアという娘が世話係に決定した。
 初めてエリザベスがこの村へ来たとき、馬車から降り立った彼女を見て村人たちはその美しさに目を奪われてしまった。白い肌に華奢な体、きれいに結われたブロンドの髪が冬の日差しにきらきらと輝く。エリザベスは出迎えの村人たちひとりひとりの手を取り挨拶をした。
「お忙しいなか集まってくださったのね、ありがとう」
 手紙には療養と書かれていたが彼女には病気らしいところなどひとつも見受けられなかった。確かに儚げな雰囲気を携えてはいるが、どう見ても健康な女性である。
 もしかしたら、と誰も口にはしなかったが考えた。もしかしたらバレット家のような大きな家の中でなら派閥などがあるのかもしれない。物騒な話だが邪魔になった人間を田舎へやってしまおうということだって考えられる。
「奥さま、これからこちらのアゼリアが奥さまの身の回りのお世話をいたします」
 司祭のメイソンは事情がわからないため必要以上の会話を避け、まずはアゼリアを紹介した。となりに立っていたアゼリアが軽く頭を下げた。
「アゼリア・メロでございます」
「まぁ、可愛らしい人。よろしくね」
 エリザベスの好意的な印象にメイソンをはじめ村人たちは一安心した。その後すこし立ち話をしていたところに教会で働くセシリアがやってきた。現在ヴィラ・フロレシーダの教会は司祭のメイソンとセシリアによって管理されている。
「奥さま、今夜はお疲れでしょうから教会にお泊りください。明日お屋敷へご案内いたします」
 いまでこそ多くの人が村を離れてしまったが、そのむかしヴィラ・フロレシーダの修道院は有名で、ジャルディン・ダ・ライーニャなど大きな町から名家の少女たちを受け入れ教育を施していた。現在はその建物が教会として使用されているが、おかげで客間など部屋数には余裕がある。ときおり村を訪れる旅行客にも宿として提供していた。
 翌朝、早速アゼリアがエリザベスの部屋を訪れた。手に抱えたカゴには大量の卵が入っている。
「ええっと、お名前はアゼリア、だったわね?」
「はい。アゼリア・メロでございます」
「よろしくね。まだきちんと自己紹介していなかったわ、エリザベス・パウレタよ」
「え?」
 アゼリアはつい聞き返してしまった。事前に聞かされていた名前はエリザベス・バレットである。しかしエリザベスはアゼリアの不思議そうな表情は気にせず、むしろいま目の前にある疑問の方を優先した。
「その卵はどうしたの?」
「ここのお庭で飼っている鶏が生みました。新鮮でおいしいですよ」
「まぁ、鶏がいるの?」
 そんなことを話しているとセシリアがふたりを呼びに来た。
「アゼリア、ロータスが来ましたよ」
「ではすぐに参ります」
 それからアゼリアはエリザベスに向き直った。
「奥さま、ロータスとそれからもうひとり、オリヴァーという人に荷物を運ぶよう頼んであります。ひとまず奥さまは私とお屋敷へ向かいませんか? 朝のお散歩も兼ねていかがでしょう」
「いいわね、行きましょう」
 そう答えるとエリザベスは必要最低限のものだけ自分でまとめ、残りは部屋に置いてアゼリアにつづいた。
 

 屋敷へ移動してすぐ、アゼリアは台所に卵を置いた。それから居間へ行くとエリザベスが自身で運んできた小さな荷物のなかから肖像画を取り出しているところだった。
「この人」
 それはてのひらに乗せられるくらい小さなものだ。
「エルダー・バレットというの。私の旦那さまだった人」
「だった、というのは……あ、申し訳ございません。出過ぎたことを」
「いいえ、構わないわ。死んじゃったのよ。馬に乗っていたときに運悪く転倒して。子供が飛び出してきたの」
 バレット家には乗馬の練習場が併設されていてエルダーはよくそこで馬に乗っては楽しんでいた。しかしその日は親戚が集まっており、そこへ来ていた子供が目を離したすきに練習場へ潜りこんでしまったのだそうだ。
「彼が死んでしまったいまも、確かに私はエリザベス・バレットよ。でも」
 そう言うとエリザベスはエルダーの肖像画を近くの棚に置いた。
「今回ここへ来ることになったのは、バレット家に追い出されたようなものなの。だからもう二度とバレットの姓は名乗りたくないの。だからね、アゼリア。あなたも奥さまだなんてかしこまって呼ばないでいいのよ。私、もう誰の奥さんでもないんだから」
「ですが、いえ、それではエリザベスさまと」
「ねえ、気軽にリズって呼んでちょうだい」
「ではリズさまとお呼びいたします」
「もう、あなたってお堅いのね。でもいいわ、仲良くしてくれるなら。それよりさっきの卵。あんなに持ってきてどうするの?」
「お菓子をおつくりしようかと思いまして」
「お菓子? どんな?」
「ヴィラ・フロレシーダの伝統菓子、ミモザのパイでございます」
 この日、アゼリアが最初にした仕事こそ、ミモザのパイを焼くことだった。もちろん屋敷の片付けもしなければならなかったが、焼き立ての伝統菓子でエリザベスをもてなしたいという気持ちがあったからだ。そこでアゼリアがパイの準備をしている間、エリザベスは屋敷の中を歩いて確認したり自分の寝室を整えたりと身の回りの用事を済ませてゆくことにした。途中でロータスとオリヴァーが荷物を届け片付けを手伝ってくれた。ロータスはアゼリアと同年代の青年であり、オリヴァーは柔和な顔をした老人である。ふたりはそのままパイが焼けるまで引っ越しの片付けを手伝い、最後に皆でパイを食べてから帰って行った。
 ミモザのパイはぱりぱりの生地でたっぷりの卵クリームを包んだものである。
 まだバレット家がヴィラ・フロレシーダを拠点にしてドレスなどさまざまなものをつくっていた頃、村民たちはその手伝いをして暮らしていた。当時はドレスよりもベッドカバーやカーテンなど日常で使う大きな布製品を主に製造しており、村民はそれらの糊付けを命じられていた。そこで用いられていたのが卵白である。ヴィラ・フロレシーダの自然豊かな環境は鶏を飼育するのに適していた。
 しかし糊付けに使用されるのは卵白のみだ。その結果、大量の卵黄が余ることとなってしまった。もちろん料理に使うこともできたがそれだけでは消費が追い付かない。
 そのとき生み出されたのが卵黄を用いたお菓子の数々だった。
 現在は小さな教会のみとなってしまったが、当時はまだ修道院があり多くの少女たちが学び、そして祈りを捧げていた。その修道院と隣接して養鶏所があったため、鶏の世話を手伝っていた彼女たちはなんとか卵黄を無駄にしないようにと工夫を凝らしお菓子をつくり始めたのである。なかでもミモザのパイは村で人気となり、その名前から春の訪れを祝って食べられるのが習わしとなった。
「そうだったの。私、ちっとも知らなかったわ」
 初めてそのことを知ったエリザベスは好奇心で目を輝かせていた。自分自身も服をつくるため、その裏で誰がどのように働いているのかということを知り感銘を受けているようでさえあった。
「私たちの祖先の代の話ですから。その後はバレット家がジャルディン・ダ・ライーニャへ拠点を移したのをきっかけに多くの人が村を出てゆきました。おかげですっかりさびれた村になってしまって」
「でもここはとっても素敵だわ。だからこそ残っている人たちもいるんじゃない」
「ええ。なんとか残った人間の手でこの村を存続させたいと思っています」
「それよりパイはまだ焼けないの? ねえねえ、まだ?」
「もしかして甘いものがお好きですか?」
「好きなんてものじゃないわ! でもバレット家にいた頃は食事の時間もお茶の時間も厳しく決められていたし、今日のお菓子はこちらです、なんて指定されてちっとも好きに食べられなかったのよ」
 さきほどまで真剣にヴィラ・フロレシーダの歴史や環境の話を聞いていたと思ったら、今度はおやつをねだる子供のような顔である。そのエリザベスのころころ変わる表情にアゼリアは笑いをこらえるのに必死だった。近くで片付けをしていたロータスやオリヴァーもまた笑いをかみ殺しているようだった。
「ねえ、あなたたち、にやにやしていない?」
「気のせいです。それよりそろそろ取り出しますからオーブンから離れてください」
「すぐ食べられる?」
「いけません、火傷してしまいます」
「もう、アゼリアの意地悪」
「意地悪ではありません。むしろ親切心からの忠告です。ねぇ?」
 女性同士の会話に割り込まないよう黙々と片付けていた男性ふたりはそこでようやく笑顔を見せた。のちにわかったことだが、彼らはこのときまでエリザベスのことを気難しい女性だと決めつけていたのだそうだ。それが思いのほか気さくな人物だったと喜んでいた。
 アゼリアはオーブンを開け中からパイの並んだ天板を取り出した。優しい黄色のクリームがたっぷりと詰まったミモザのパイがお行儀よく並んでいる。
「まあ! まあまあ、幸せの香りだわ。ああ、早く食べたい!」
「粗熱が取れる間に居間をすこしでも片付けましょう。食器類はリズさまがいらっしゃる前に準備しておきましたから、お洋服の類をクローゼットに直すところまで終わらせますよ」
「ええっ、いやよ、ものすごい量なのよ」
「それを手伝うために私たちがいるんです。終わらないとパイは食べられませんので」
「アゼリアの意地悪!」
 この日以来、ミモザのパイはエリザベスが好んで食べるお菓子となったのである。そのためアゼリアは数日おきに焼いていた。
 そして今朝もまたミモザのパイをオーブンへ入れ、それから朝食を準備した。
「おはよう、アゼリア」
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「ある程度はね」
 エリザベスの眠りは浅い。そのぶん夜遅くまで本を読んでいるせいで朝はゆっくりと起きてくることの方が多かった。村でしばらく過ごすようになっても彼女に病気らしいところは見られなかったし、本人に確かめてもただの口実だと一蹴されて終わっていた。しかし眠りの浅いところを見ると確かにこの村でゆっくり暮らすというのは結果的に良かったのかもしれないとアゼリアは考えていた。
「あなたはもう朝食を済ませたの?」
「いえ、今朝はまだ。パイの準備をしていましたので」
 そう言いながらアゼリアはポットから紅茶を注いだ。
 もともとエリザベスの身の回りを世話する立場に任命されていたアゼリアだが、エリザベスが堅苦しい関係を嫌ったためいまでは食卓を共にすることがほとんどである。都会の使用人が見たら信じられなくて驚くかもしれないが、しかしここではエリザベスがルールだ。ふたりは徐々に姉妹のような関係になりつつあった。出会ってしばらくした頃から、エリザベスの誘いもあってアゼリアもこの屋敷に住んでいる。
 パイと聞いてエリザベスがぱっと顔を明るくした。ミモザのパイはなんといっても焼き立てがおいしい。
「本当? 嬉しい、今日は焼き立てが食べられるのね」
「はい。午前のお茶にお出ししますね」
「ああ、お茶といえばそろそろ冷たいものが飲みたいわね。このところ午後になるとずいぶん日差しがきついもの」
「そうですね。もうすこしすれば雨が増えますよ」
 ヴィラ・フロレシーダでは夏のはじめによく雨が降る。雨季が来るとしばらくはじめじめとした日々がつづくが、畑を持つ家が多いためそれは大切な季節でもある。人々は豊かな水をもたらす雨に感謝しながら暮らしていた。
「雨季が終われば本格的な夏です。そうそう、暑くなり始めると村ではよく雨雲のプディングをつくるんですよ」
「雨雲のプディング?」
「はい、代表的な夏のお菓子です。とはいえ最近では季節なんて関係なく食べるんですけどね。でも冷たいデザートなので夏場の食欲がないときにもぴったりなんです」
 ヴィラ・フロレシーダには季節に合わせた伝統的な料理やお菓子がたくさんある。特にスープは種類が多く、季節を楽しむものだけではなく体調に合わせたもの、昔話に出てくるものなどさまざまである。例えば優しい味付けをした鶏肉のスープは風邪気味のときに好んで食べられるし、春の訪れを祝うときはキャベツをたっぷり入れてソーセージを浮かべたスープを食べる。デザートもそうだが、食事はヴィラ・フロレシーダにおいて日々を彩るだけではなく自然と共に生きてゆくための知恵が詰め込まれてもいるのだ。そしてそれらを自らの手でつくる料理という行為は自然に感謝を捧げるための祈りにも似ていると村人たちは考えていた。
「その雨雲のプディングはどんなデザートなの? きっととてもおいしいのでしょうね」
 ここへ来て以来すっかりヴィラ・フロレシーダの食事に魅了されているエリザベスは期待に目を輝かせた。アゼリアの料理上手は村でも評判なのだ。
 エリザベスの暮らしていたジャルディン・ダ・ライーニャにも季節の料理などは存在したが、ほとんど過去のものとなりつつあった。町は年々大きくなり、人々は各種産業や工業の発展に力を入れている。そうしたなかで伝統的な行事や料理を守る人は減っており、特にそれは働き盛りの若い世代に多く見られる。そうした環境からヴィラ・フロレシーダへやって来たこともあってエリザベスは驚きと共に感動を覚えていた。ここでは季節に合わせて暮らすことも、そしてそれらを楽しむことも、どちらも当然のものとして残っているのだから。
「簡単に言うとお米でつくるプディングです。今日はミモザのパイをご用意しましたから、明日か明後日か、近いうちにおつくりしますね」
「まあ、嬉しいわ! 私も一緒につくってもいいかしら? お願い、邪魔しないようにするから」
「もちろんです。せっかくですから一緒につくりましょう。リズさまがヴィラ・フロレシーダのお料理やお菓子を気に入ってくださって本当に嬉しいです」
 現在、エリザベスはデザイン画を一冊の本にまとめるため執筆活動に忙しくしている。ジャルディン・ダ・ライーニャにいた頃はバレット家の経営するブティックで専属のデザイナーとして働いていた。しかしこうして町を離れたいまは自由の身だ。それならばとこれまでにつくってきたドレスのデザインをまとめカタログとして残しておくことに決めたのだそうだ。
 離れたところに位置するヴィラ・フロレシーダでこそ知られてはいなかったが、エリザベス・バレットといえばジャルディン・ダ・ライーニャに暮らす年頃の女性たちから絶大なる人気を集める有名デザイナーだった。現在でも町を去る前に残してきた数点のデザインが商品化されているとのことだが、季節はこれから先もずっと巡ってゆく。そのときはおそらく別のデザイナーが新作をつくりあげるのだろうが、しかしこれまでエリザベスのドレスを愛してくれた乙女たちのことを考えるとどうしても胸が痛んだ。
 そんな彼女にとってアゼリアのつくるお菓子はそっと寄り添ってくれる優しい甘さである。初めてミモザのパイを食べたあの日から、なにもかもを捨ててやってきたエリザベスにとって心の拠り所となっていた。
「ところでどうして雨雲という名前なの?」
 ヴィラ・フロレシーダのお菓子はどれも特徴的な名前をしている。ミモザのパイ、雨雲のプディング、それから夕日のカケラや真珠のクリームなども人気だ。こうした名前は村人たちが愛情を込めて名付けたものであり、だからこそ長年つくりつづけられてきた。
「雨雲のプディングは真っ白でふわふわなんです。夏前の雨が増える時期くらいからよく食べ始めますので、その見た目を雨雲にたとえたのだと思います」
「ここのお菓子は名前も本当に素敵ね。聞いただけではどんなものかわからなくても、でもすごく素敵だから興味を引かれてしまうわ」
「そう言っていただけると本当に嬉しいです。名付けるというのは愛情の証だと思いますから」
 言葉を持つことによって人は世界を自分なりに切り取ることができるようになった。長い歴史を見れば言葉を通し仲間意識や対立さえも生まれてきたが、ヴィラ・フロレシーダの人々は言葉を通して美しさを表現することを大切にしてきた。だからこの村では大切なことを伝えるときには必ず手紙を書くし、大切な書類は美しい細工の施された用紙で残されている。詩を嗜む人も多く、そうした背景があるからこそヴィラ・フロレシーダのお菓子は愛を込めて名付けられてきたのだろう。
「ではいまのうちに雨雲のプディングに使う材料を確認してきますね。おそらく大丈夫だと思いますけれど」
「ああ、楽しみだわ。でもその前にミモザのパイね。アゼリアがあんまりにもお料理上手だから、すっかり食いしん坊になってしまったみたい」
 困ったような、でも嬉しいような顔でエリザベスが訴える。それを見てアゼリアも笑顔になった。
「私のつくるものがリズさまのお口に合って嬉しいです。あ、お昼はサンドウィッチにしますね。きっと今日も執筆でお忙しくなさるのでしょう?」
 アゼリアのつくるサンドウィッチにはハーブがふんだんに使われる。鶏肉や野菜に合わせ絶妙なバランスで挟まれるハーブはすべて庭で採れるもので、アゼリアが毎日世話をして育てている。
「ええ、お願いね。どうしよう、お昼も楽しみだわ」
 そう言いながらエリザベスは花が咲くように笑った。


 その日の午後、小さな来客があった。近くに住む少女リリーである。
「こんにちは、アゼリア」
「いらっしゃい。今日もおりこうさんね」
 アゼリアはしゃがみ込みリリーの髪を撫でる。ヴィラ・フロレシーダにはあまり若い人が残っていないため、子供も少ない。だからリリーのような少女は遊び相手を探すのに苦労しており、ときおりこうしてアゼリアのところにも顔を出すのだった。もっぱら最近のお気に入りはアゼリアというよりもエリザベスなのだが。
「ねぇリズは? いらっしゃらないの?」
「居間にいるわよ。でもお仕事なさってるから静かにね。今朝ミモザのパイを焼いたから一緒に食べる?」
「食べたい! でもリズのこと待ってるからその間お庭に出てもいい?」
「いいわよ、転ばないでね」
 リリーは好奇心旺盛で初めてエリザベスを見たときは大興奮だった。エリザベスの美しさから彼女を人形だと思ったらしく、しばらくは喋るお人形さんと遠目に見ていることが多かった。そんな彼女がエリザベスになつくようになったのはようやく春の香りが漂い始めた頃だ。今日と同じようにミモザのパイを焼いた日、リリーはやはりアゼリアのところに顔を出した。
「お人形さん、いる?」
「お人形さんじゃないって言ってるでしょう?」
「だって。あ、いい匂い!」
「ミモザのパイを焼いたの。持って帰る?」
 聞きながらアゼリアがパイを並べた皿を持ち上げるとリリーは嬉しそうに頷いた。この村でアゼリアのつくるお菓子が好きでない人などきっといない。
「ありがとう! おばあちゃまにあげる!」
「あら、だったらもうひとつ持って行くといいわ」
 リリーの分よ、とアゼリアがパイをふたつ包むのを見て、リリーはぱっと顔を輝かせた。彼女の母親は病気の治療のため夫と共にジャルディン・ダ・ライーニャに滞在しており、リリーだけがここヴィラ・フロレシーダに住む祖母のもとに預けられている。それもあって余計に人に甘えたくなっているのだろう。
 包んでもらったパイを受け取ったリリーは窓辺で新しいデザインを考えているエリザベスの方をちらりと見てから控えめにアゼリアのスカートを引っ張った。
「どうしたの?」
「お人形さんもパイを食べるの?」
「リズさまはお人形じゃないの」
「でもあんなにきれいな人、見たことないもの。お人形さんじゃないならなぁに? お姫さま?」
 そのとき真剣な顔で布やリボンを吟味していたエリザベスが笑い声をあげた。我慢しきれなかったというかんじだ。
「お人形さんが笑った……」
「ごめんなさい、だって私がお姫さまだなんて。ほら、いらっしゃい」
 新しいドレスにつけるリボンを選んでいた彼女はその中から真っ白なものを一本手に取り、リリーを手招きして髪に結んでやった。
「できた。あなたがヴィラ・フロレシーダのお姫さまよ」
 そう言って手鏡を渡すとリリーは頬をバラ色に染めて喜んだ。
「リリー、お姫さまみたい!」
「とっても似合ってるわ。そうそう、私もアゼリアのお菓子が大好きなのよ」
「リリーも! でもアゼリアのことも大好き!」
「あら、だったら私たちそっくりね。お友だちになってくれる?」
「うん! リズっていい人ね」
「だめよ、リズさまとお呼びして」
 アゼリアが慌てて注意したがエリザベスはいいのよ、と笑った。
「いいのよ、アゼリア」
 そうしてリリーを抱き上げ膝に座らせる。
「だってリリーは私たちのお姫さまだもの。ね?」
「うん!」
 こうしてリリーとの交流をきっかけに、エリザベスは村人とすこしずつ打ち解けてゆき、春が終わる頃にはすっかり皆と仲良くなっていた。
 今日はリリーの他に屋敷の庭仕事を手伝ってくれている庭師のオリヴァーも来る予定になっている。草木の手入れが済んだら、皆で庭に座り春の陽光を浴びながらミモザのパイでお茶会にしようとアゼリアは決めた。


 数日後、アゼリアとエリザベスは雨雲のプディングをつくることにした。その前日にエリザベスの執筆作業がきりの良いところまで終了し、気分転換に一日休むことになったからだ。そこで今日は朝からふたり並んでキッチンに立っている。
 雨雲のプディングの材料は米にミルク、バニラビーンズはさやごと用意し、ほかには砂糖や卵黄、シナモンが必要である。それらをどう調理するかアゼリアが手順を説明しつつ手際よく軽量するとなりでエリザベスはレシピのメモをとった。ヴィラ・フロレシーダの伝統菓子は皆に愛される味ではあるが、書物としてそのレシピが残されているわけではない。代々教会に住む者に手作業を通して伝えられており、人々の記憶にしっかりと刻み込まれてきたからだ。
 アゼリアは幼少期に唯一の家族であった母親を亡くしているため、それ以降教会で育てられたという過去を持つ。幼い頃は掃除や料理を手伝いながら生きてゆく術を身につけてきた。そこで可愛がってくれたセシリアから伝統菓子のつくり方をみっちり仕込まれてもいたのだ。
 現在、ヴィラ・フロレシーダですべての伝統菓子をつくることができるのはおそらくセシリアとアゼリアのみである。もちろんミモザのパイや雨雲のプディングなど村中が季節ごとに食べるものはどの家庭でも受け継がれているが、もともとヴィラ・フロレシーダに存在する伝統菓子はものすごく多い。それらをすべて知る人物となるとセシリアと、その彼女からレシピを受け継いだアゼリアしかいなかった。
 ところでこの村にはもうひとり料理上手と言われる人物がいる。エリザベスの引っ越しを手伝ってくれたロータスだ。彼は料理人である。
 ロータスはアゼリアより三つ年上の青年で、子供のころからふたりは兄妹のようにして育った。ロータスには父親がいたが二年前に亡くなったこともあり、父親の食堂を引き継ぎ現在はひとりで経営している。以前より店の手伝いはしていたし本人も料理人になるのだと早くから決めていたためそれは自然なことだった。
 そのロータスが得意とするのはもっぱら料理だ。アゼリアが伝統菓子に詳しければロータスは郷土料理に詳しい。本当は世界中を旅していろいろな料理を食べてみたいという野望があるのだが、でも生まれ育ったヴィラ・フロレシーダと、そしてなによりアゼリアと離れがたく感じており、彼は父親が亡くなってひとりになったときに改めてこの村に残ることを決めた。
「私はロータスとは違うのでお菓子のことしかよくわかりませんが、それでもよろしければ今度ほかのお菓子のレシピもお伝えしますね」
「本当? ありがとう。確かにロータスのお料理はとってもおいしいわよね。でも私、あなたのつくってくれるスープの方が好きだわ」
「まぁ、リズさまったら。そんなことを言ったら彼が怒りますよ」
「いいのよ。だってなにかといつもアゼリアに対抗するんだから」
 確かにロータスは事あるごとにアゼリアの料理に口を出す。たとえばエリザベスの屋敷ではリリーにオリヴァー、時にはメイソンやセシリア、それからロータスも呼んで食事会をすることがあるが、そんな場面では必ずと言っていいほど「手伝ってやろうか」と声をかけてくる。アゼリアが大丈夫と断ると「僕がいた方がもっとおいしくなるだろ」と冗談めかして言うのだ。もちろんそれは意地悪ではなくひねくれた言い方で手伝いを申し出ているのだが、エリザベスはそれが気に入らないようだった。
「ロータスとは兄妹のように育ちましたからね。お互い言葉に遠慮がないんです。でもいい人ですよ」
 兄のように慕っているロータスのことはエリザベスにも好きになってもらいたい。おそらくエリザベスはロータスよりさらに二つ三つは年上だろうが、それでもこの村では数少ない同年代なのだ。そしてなにより村人たちが仲良くしてくれるのはアゼリアの願いでもある。
 もちろんエリザベスもロータスの人となりはわかっているつもりだった。たとえばリリーが祖母と暮らしていることを知っているので、彼はよく「新作のパンを焼くから味見してくれよ」と理由をつけてはリリーの家にパンや料理を届けている。そうした素直ではない優しさを、だからもちろんエリザベスも知っていた。
「わかってるわ。でも私はあなたのお料理の方が好きなの」
「ありがとうございます、リズさま」
「だからお菓子のレシピを教えてもらっても、きっと書き留めるだけでつくらないわね」
「あら、そうなんですか?」
 ずいぶん熱心に書き留めていたのでてっきり自分でもつくってみるものと思っていたが、エリザベスはそれをあっさり否定した。
「だってあなたがつくった方がおいしいもの」
「そんなことはありません。リズさまが気持ちを込めておつくりになるんですもの」
「そうかしら。だったら練習をして、いつかあなたのためにミモザのパイを焼いてみたいわ」
「まあ、私に?」
 鍋にミルクとバニラのさやを入れゆっくりと温めていたアゼリアは驚いて手を止めた。
 エリザベスは誰とでも分け隔てなく仲良くするが、それでもアゼリアにとって関係は雇い主と使用人のそれである。甘えすぎないようきちんと一線を引かなければと考えているのに対し、でもエリザベスはその境界を飛び越えてきてしまう。屈託のない笑顔で話をつづけた。
「ええ、でも練習には付き合ってね」
「もちろんです」
「アゼリアにはいつも助けられているもの。あなたと出会えただけでもここへ来た意味があったと思っているのよ」
 ふたりが目を見合わせて笑えば、鈴のように軽やかな声が響く。
「リズさまは本当に心がおきれいですね」
「やだわ、どうしたの? 急に」
 キッチンにバニラの香りが広がる。ミルクが温まったのを確認してからアゼリアは米を入れた。しばらくすると鍋の縁がふつふつと白く泡立ってくる。その泡を潰してしまわないよう木べらでそっと混ぜながら口を開いた。
「正面から人を見つめて受け入れることができる。リズさまの素敵なところのひとつです」
 もちろん他にもたくさんありますけれど、とアゼリアは付け足し、鍋の中の様子をうかがった。米に火が通ったので砂糖と卵黄を加える。エリザベスはレシピを書き留める手を休め、手にしたペンで自身の頬をつつきながら口を尖らせた。
「褒めてもらえて嬉しいけど、でも私はそんなに素晴らしい人間じゃない。アゼリアの方がよっぽど心がきれいだと思うわ」
「自分の長所というのは他人の方が上手に見つけるものなんですよ」
「ああ言えばこう言うのね」
「お互いさまです」
「そうね、確かに」
 ふたりはまた小さく笑い合う。その声にはきらきらとした響きがあった。
 砂糖と卵黄を加えたあとは、全体がふたたび煮立つまで火にかけつづける。その間、鍋底に焦げ付かないようときおり木べらでかき混ぜ、すくって様子をうかがうのも忘れてはいけない。
「どのくらいでできあがるの?」
 すこしずつすべてが溶け合い甘い香りが強くなってきた。その空気に包まれて、エリザベスとアゼリアも柔らかな気持ちになってゆく。
「そろそろ良さそうですね。あまり煮過ぎるとおいしくなくなってしまうんです」
「これを冷やすのよね?」
「そうです、その方が味が馴染んでおいしくなります。ああでも、すこしなら」
 アゼリアは小さな木製のスプーンで鍋の中からプディングをすくいエリザベスの方へ差し出した。
「味見?」
「はい」
 すると彼女は小さく口を開けて動こうとしない。
「まあ、リズさまったら」
「だめ?」
「すこし熱いですよ」
 スプーンをゆっくりと口元へ近づければエリザベスはそれを受け入れ、味わうように目を閉じた。
「甘いわ」
「甘すぎましたか?」
「ううん、好き」
 うっとりと、幸せそうに返事をする。
 もしも花が咲く音を耳にできるのならきっとこんな響きだと、エリザベスの声を聞きながらアゼリアは思った。
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