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スカートの下の秘密
凪島みなせ、26歳。彼女は今、客先への書類を郵送するために職場近くの郵便局へ行ってきた帰りだ。
春の陽射しが頬に柔らかく注ぎ、髪を撫でる微風も心地良い午後3時。明るい色あいのカーディガンと、先週買ったばかりの膝丈のフレアスカート。歩く度にスカートの裾が太腿を優しくくすぐる。その軽やかでややくすぐったい感触が、先ほどからみなせの胸に微妙な緊張感をもたらしていた。
彼女は今、スカートの下にショーツを穿いていない。
つまり、下着を着けない状態で街を歩いているのだ。パンティストッキングは穿いている。要するに、裸の下半身に直接ストッキングを身に着けているというわけだ。
自分が今こんな危うい状態で歩いていることは、絶対誰にも知られてはならない。うっかり風にスカートが煽られたりしたら、露出狂と勘違いされてしまう。それだけは何としても避けたかった。
そう思えば思うほど、何とも言えない緊張感で動きがぎこちなくなり、挙動不審になりかねなかった。それでいて、不思議と解放感のような、妙な高揚感を密かに感じているのも事実だった。
何故みなせが今このような破廉恥(?)な状態にあるのかと言うと、もちろん彼女なりの理由があった。
朝出勤したときは、いつもどおり普通にショーツを身に着けていた。ただ、そのショーツが問題だった。セクシーなデザインの、いわゆる「紐パン」だったのだ。
みなせが前の彼氏と別れてから、早いもので2年になる。
デリカシーと優しさのない元カレに嫌気がさしたせいもあり、それ以降恋愛には積極的になれずにいた。仕事も1年前に部署が変わり、以前よりはるかに忙しくなった。休日は女友達と気ままに遊ぶ楽しさにうつつを抜かし、気づけば「出逢い」はめっきり減り、いつのまにか「お一人様」にすっかり慣れてしまっていた。
少し前に、幼馴染みが結婚した。幸せそうな彼女の姿を見ていたら、さすがにちょっと我が身を反省する気持ちになった。
お節介な同僚の綾乃に「女子力を取り戻せ」と真顔で説教された。「みなせはせっかく可愛い顔してるのに、無自覚すぎてみすみすチャンスを逃している」と。
そして先日迎えた26歳の誕生日、みなせは綾乃からセクシーな下着をプレゼントされた。せめて色っぽいランジェリーでも身に着けて、内側から匂い立つ色気というものを目指してみろとのことだった。
「ありがとう。彼氏ができたら着るね」と苦笑いでお礼を言ったら、綾乃に一喝された。先延ばしにしていたらいつまで経っても何も変わらない、普段からこういうものを身に着けて、自分の意識を根底から変えてみなさい、と。
だから今朝、みなせはプレゼントされた下着を思い切って身に着けて出勤してみたのだ。
切れ込みの深いショーツはサイドが細い紐状になっていてリボン結びするタイプだ。Tバックなどに比べたら随分おとなしいデザインなのだろうが、それでも透けるレース素材のそれは十分エレガントで女性らしい色気が感じられる。最初は気恥ずかしかったものの、いざ穿いてみると自分がそれなりに「イイ女」になったような気がして嬉しかった。綾乃の言うとおり、こういう意識改革は大切なのだなと朝から反省したくらいだ。
けれどもその気分の良さも午前中までだった。昼頃には、サイドの紐の結び目が腰骨に当たってひどく痛むようになっていた。トイレに行って確かめたら、硬い結び目が当たる部分の皮膚が赤くなっている。上からストッキングで押さえつけるので、余計に圧迫されて痛みを感じるのだろう。
一度気づいてしまうと、その痛みが気になって気になって仕方なかった。結び目を少し緩くしてみてもあまり効果がない。デスクで入力作業をしていても、腰回りが気になって集中力が落ちてきた。
慣れないことをするものじゃない。みなせは溜息をつきながら再びトイレに向かい、個室でセクシーなショーツを脱いだ。そしてしばし考え込み、半分冗談のつもりで下着なしでストッキングを直に穿いてみたのだ。
「……あれ、意外と大丈夫かも」
さすがにスースーするし、股の部分が気にはなるものの、思ったほど不快ではない。それにふと思い出したけれど、海外の女性は下着なしでストッキングを直接穿くこともあると何かで読んだ気がする。
あと半日くらい、この状態で切り抜けられるのではないか。そう思ったみなせは、少々不安はあるものの、「ショーツなし、素肌にストッキング」の状態で仕事に戻ったのだった。
デスクワークは問題なかった。郵便局に行く用事ができたときも、今日は風も強くないしスカートが捲れることもないだろうから、周囲にバレる危険はまずないだろうと思った。それでもいざ外に出て歩き出すと、なんだか人に見透かされそうな気がしてドキドキした。歩き方も無意識に慎重になり、いつもよりおしとやかな足さばきになってしまうほどだった。
コンビニで替えの下着を買うことも考えた。会社に一番近い店だと店員と顔馴染みなので買いにくい。通り沿いにある二軒目を覗いたが、あまりに味気なく残念なデザインのショーツしかなかったため、どうしても買う気になれなかった。駅ビルまで足を延ばすのも正直億劫だった。
どうせあと数時間の辛抱だ、我慢しよう。きっと何事もなくやり過ごせるはずだ。そう自分に言い聞かせた。
下着を穿かずに外を歩いている。普段あまり冒険をしないみなせにとって、これは非常にイレギュラーかつ破廉恥とも思える行為だった。
恥ずかしい。ちょっと変質者っぽい。そう思いつつ、心のどこかで悪戯めいた爽快感もある。そして何よりも、あの紐パンを穿いたときよりずっと、身体の奥に疼くような甘い衝動を感じ始めているのが何とも不思議だった。
郵便局からの帰り道をソワソワしながら歩き、自社が入るビルにようやく辿り着いた。駅から徒歩6分の、さほど大きくはないが小綺麗な10階建てのオフィスビルだ。みなせの会社は7階のフロアに支店を構えている。
一階の郵便受けから大量の郵便物を取り出し、胸に抱えてエレベーターホールに向かった。この時間はロビーも人気がない。A4サイズの郵便物の宛名を確かめつつエレベーター前に辿り着くと、一人だけ先客がいた。背の高いそのシルエットを見て、みなせの胸がドキリと密かに音を立てた。
「あ、こんにちは」
笑みを浮かべ、軽く会釈してきた若い男。多分、みなせより二つ三つ年上だろう。学生時代から間違いなくモテ人生を歩んできただろうと思わせる整った顔立ちに、細身なのに意外にがっちりした広い肩。涼しげな横顔と、低く柔らかな声。人目を惹く外見だけれど嫌みなところはなく、むしろどこか生真面目そうな雰囲気も漂わせている正真正銘爽やか「イケメン」である。
「あっ、こんにちは。お疲れさまです……!」
みなせも慌てて挨拶を返した。男の表情が少し柔らかく崩れる。それだけで更に胸がキュッとときめきそうになった。
彼は9階にオフィスを構える事務機器メーカーの社員だ。
春霞一馬という名前は、最近知った。お昼休みに会社近くのコンビニに行ったとき、彼も同僚と一緒に同じ店で昼食を買っていた。帰りのエレベーターが一緒になり、そのとき胸のネームカードをチラリと見て名前を覚えたのだ。まるで漫画に出てくる王子様みたいな名前だ。イケメンは名前まで清々しく美しいのだな、と変なところに感心した。
数か月前から、朝の出勤時や勤務時間内に、エレベーターやロビーで彼を見かけるようになった。みなせの同僚女子たちも、「9階に超クールなイケメンがいる」とよく噂している。
みなせが彼をはっきりと意識するようになったのは一か月ほど前だ。お使いから戻り、上りのエレベーターに乗ったとき、たまたま彼が大きな段ボールを抱えて同じエレベーターに乗り込んできた。手が塞がっていたので、代わりに9階のボタンを押してあげた。たったそれだけだったけれど、「ありがとうございます」と微笑んだ彼の瞳に胸が大きく騒いだ。
その日以来、顔が合えば挨拶を交わせるようになった。そして姿を見かける度に、いつのまにか彼を眼で追うようになっていた。
色恋から遠ざかっているとはいえ、実は心の奥で気になっている男がいる。このことは綾乃にも誰にも秘密にしていた。
平凡な日常を彩る、ちょっとした心のオアシス。みなせにとって春霞一馬の存在は、神聖で美しい「憧れ」そのものだった。もちろん本気になるつもりはない。だってこんな素敵な人、恋人やライバルがいくらでもいるに違いないから。
「外出されてたんですか」
エレベーターを待つ間、思いがけず一馬の方が言葉を続けてくれた。みなせは不自然でない距離で一馬と並び、「はい。郵便局に行ってきました」と笑顔で答えた。
声が上擦ったのが恥ずかしい。胸が騒がしく音を立て始める。こういうときに限って、エレベーターはなかなか降りてこない。
一馬も出先から戻ってきたところのようだった。右手に鞄を提げ、脱いだスーツの上着を左腕に掛けている。薄いブルーのワイシャツが広い胸によく似合っていて、ほんの少し汗の混じった男の匂いが鼻腔をくすぐった。すごくいい匂いだと思った。不意に、ショーツを穿いていない腰の辺りが落ち着かなくなった。
「お仕事、営業さん……ですか?」
思い切って訊いてみると、「そうです。外回りでこき使われてて」と、少し照れくさそうに微笑まれた。すごい。イケメンの笑顔は破壊力が半端ない。思わず見惚れそうになって少し頬が紅潮した。
ようやくエレベーターが一階に到着した。当たり前のように、春霞一馬は「どうぞ」とみなせを先に乗せてくれる。みなせは「開」ボタンを押して一馬が乗るのを待ち、それから9階と7階のボタンを押した。一馬が少し笑って軽く頭を下げた。
こういうごく自然な流れがとても好ましく感じられる。他に誰もいない密室で、一馬と隣り合わせに並ぶだけで自分の「女度」が上がるような気がした。
「電車、T線使ってます?」
不意に尋ねられ、びっくりした。
「え、あ、はい!どうして……」
「僕もT線なんです。この前、改札でチラッとお見かけしたから」
ちょっとはにかんだような笑顔を向けられ、みなせの心臓がまたしても跳ねた。
「そうなんですか……!偶然、ですね」
「ですね」
顔を見合わせ、少しぎこちないが好意的な笑みを交わしあう。胸がいっぱいになった。
思いがけず挨拶以外の会話ができ、偶然にも同じ路線を使っていることが分かった。しかも彼の方でこちらの姿を見かけて認識してくれていたとは。みなせは自分でも呆れるほどに舞い上がってしまった。
けれど、嬉しいひとときもそこまでだった。エレベーターはあっという間にみなせのオフィスがある7階に到着してしまった。
もっといろいろ話したかった。でも胸がドキドキして余裕がないので、今日はこれくらいでいっぱいいっぱいかもしれない。名残惜しさを感じつつ、みなせは「それじゃ、失礼します」と一馬に会釈した。できるだけ、感じの良い笑顔になるよう意識しつつ。
開いたドアからフロアに足を踏み出したとき、一馬から「お疲れさまです。また」と背中に声を掛けられた。「また」と言われたのが嬉しくて、みなせは歩き出しながら振り返って再度笑顔で頭を下げた。
思いがけない展開に浮かれ、ソワソワドキドキしていた。背後の一馬に全神経が集中していて、足元に注意を払っていなかった。おまけに今日は、買ったばかりで履き慣れていない華奢なパンプスだった。
何もないところで、パンプスの先が滑りの悪い床に突っかかった。しまった、と思ったものの、咄嗟に身体が動かなかった。両手は大型の郵便物をいくつも抱え、塞がっていた。
「わっ……!」
次の瞬間、みなせは7階のエレベーターホールの床に突っ伏していた。
持っていた郵便物がバサーっと床にばら撒かれる。しばし茫然となり、それから慌てて周囲を見渡した。幸いその場に人はいなかった。まるで子供のようにみっともなくも派手な転び方をした自分に愕然とし、しかも憧れの人の眼の前で醜態をさらしたことにひどいショックを受けていた。
「大丈夫ですか?!」
一馬が慌てた様子でエレベーターから降りてくる。恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。慌てて「大丈夫です……っ」と身を起こそうとしてハッとした。
駆け寄ろうとしていた一馬が足を止める気配。恐る恐る背後を振り返る。自分の今の体勢を直視した途端、みなせはさっき心で呟いた言葉を訂正した。死ぬほど恥ずかしい、ではない。今すぐ死にたい、だ。
うつぶせに思い切り転んだ拍子に、フレアスカートはウエストの辺りまで見事に捲れ上がっていた。
ヒラヒラした春らしい柔らかな素材。何故今日に限って、自分はこの服を選んでしまったのか。紐パンを脱いで生のお尻に直接ストッキングを穿いた状態の今、何故自分は春霞一馬の眼前で思い切り転んでしまったのか。
首から耳から頭の天辺まで真っ赤になりながら、みなせは秒速でスカートの捲れを直した。そして秒速で身体を起こす。しゃきっと立ち上がり、床に散乱した郵便物を素早く拾い集め、おそらく信号機より赤い顔で「すみません!失礼しました!」と泣きそうな声を出して頭を下げた。
ぽかんとした顔で、春霞一馬がその場に立ち尽くしていた。右手に営業カバン、左腕にスーツの上着。端正な顔が、数秒思考停止していたような呆けた状態になっている。
やがてその頬が、じわじわと赤く染まっていった。みなせの顔を見つめながら、動揺したように一馬は赤面していた。
……見られた。がっつり、しっかり、見られてしまった。
下着を着けていない、裸のお尻。ストッキングに包まれただけの剥き出しのお尻を、このオフィスビル一番のイケメンに目撃されてしまった。みっともない、ひどい転び方で。もしかしたら、お尻だけじゃなくて見せてはいけないところまで見られてしまったかもしれない。
「す……っ、すみません!あの、変なもの見せてごめんなさい……!」
みなせはもう一度大きく頭を下げると、一馬の視線を避けるように身を翻しオフィスに向かって走り出した。
……終わった。
せっかく芽生えかけた春の兆しが、最悪の暴風雨によって吹き飛ばされたかのようだ。春霞一馬にとって、みなせは正真正銘『ヤバイ変態女』になってしまった。
みなせは半泣きになりながらトイレに直行し、15分間個室にこもって自己嫌悪に陥った。転んだときに打った腕の痛みよりも、何故だかストッキングのアソコがしっとりと湿っていることの方が心底情けなかった。
春の陽射しが頬に柔らかく注ぎ、髪を撫でる微風も心地良い午後3時。明るい色あいのカーディガンと、先週買ったばかりの膝丈のフレアスカート。歩く度にスカートの裾が太腿を優しくくすぐる。その軽やかでややくすぐったい感触が、先ほどからみなせの胸に微妙な緊張感をもたらしていた。
彼女は今、スカートの下にショーツを穿いていない。
つまり、下着を着けない状態で街を歩いているのだ。パンティストッキングは穿いている。要するに、裸の下半身に直接ストッキングを身に着けているというわけだ。
自分が今こんな危うい状態で歩いていることは、絶対誰にも知られてはならない。うっかり風にスカートが煽られたりしたら、露出狂と勘違いされてしまう。それだけは何としても避けたかった。
そう思えば思うほど、何とも言えない緊張感で動きがぎこちなくなり、挙動不審になりかねなかった。それでいて、不思議と解放感のような、妙な高揚感を密かに感じているのも事実だった。
何故みなせが今このような破廉恥(?)な状態にあるのかと言うと、もちろん彼女なりの理由があった。
朝出勤したときは、いつもどおり普通にショーツを身に着けていた。ただ、そのショーツが問題だった。セクシーなデザインの、いわゆる「紐パン」だったのだ。
みなせが前の彼氏と別れてから、早いもので2年になる。
デリカシーと優しさのない元カレに嫌気がさしたせいもあり、それ以降恋愛には積極的になれずにいた。仕事も1年前に部署が変わり、以前よりはるかに忙しくなった。休日は女友達と気ままに遊ぶ楽しさにうつつを抜かし、気づけば「出逢い」はめっきり減り、いつのまにか「お一人様」にすっかり慣れてしまっていた。
少し前に、幼馴染みが結婚した。幸せそうな彼女の姿を見ていたら、さすがにちょっと我が身を反省する気持ちになった。
お節介な同僚の綾乃に「女子力を取り戻せ」と真顔で説教された。「みなせはせっかく可愛い顔してるのに、無自覚すぎてみすみすチャンスを逃している」と。
そして先日迎えた26歳の誕生日、みなせは綾乃からセクシーな下着をプレゼントされた。せめて色っぽいランジェリーでも身に着けて、内側から匂い立つ色気というものを目指してみろとのことだった。
「ありがとう。彼氏ができたら着るね」と苦笑いでお礼を言ったら、綾乃に一喝された。先延ばしにしていたらいつまで経っても何も変わらない、普段からこういうものを身に着けて、自分の意識を根底から変えてみなさい、と。
だから今朝、みなせはプレゼントされた下着を思い切って身に着けて出勤してみたのだ。
切れ込みの深いショーツはサイドが細い紐状になっていてリボン結びするタイプだ。Tバックなどに比べたら随分おとなしいデザインなのだろうが、それでも透けるレース素材のそれは十分エレガントで女性らしい色気が感じられる。最初は気恥ずかしかったものの、いざ穿いてみると自分がそれなりに「イイ女」になったような気がして嬉しかった。綾乃の言うとおり、こういう意識改革は大切なのだなと朝から反省したくらいだ。
けれどもその気分の良さも午前中までだった。昼頃には、サイドの紐の結び目が腰骨に当たってひどく痛むようになっていた。トイレに行って確かめたら、硬い結び目が当たる部分の皮膚が赤くなっている。上からストッキングで押さえつけるので、余計に圧迫されて痛みを感じるのだろう。
一度気づいてしまうと、その痛みが気になって気になって仕方なかった。結び目を少し緩くしてみてもあまり効果がない。デスクで入力作業をしていても、腰回りが気になって集中力が落ちてきた。
慣れないことをするものじゃない。みなせは溜息をつきながら再びトイレに向かい、個室でセクシーなショーツを脱いだ。そしてしばし考え込み、半分冗談のつもりで下着なしでストッキングを直に穿いてみたのだ。
「……あれ、意外と大丈夫かも」
さすがにスースーするし、股の部分が気にはなるものの、思ったほど不快ではない。それにふと思い出したけれど、海外の女性は下着なしでストッキングを直接穿くこともあると何かで読んだ気がする。
あと半日くらい、この状態で切り抜けられるのではないか。そう思ったみなせは、少々不安はあるものの、「ショーツなし、素肌にストッキング」の状態で仕事に戻ったのだった。
デスクワークは問題なかった。郵便局に行く用事ができたときも、今日は風も強くないしスカートが捲れることもないだろうから、周囲にバレる危険はまずないだろうと思った。それでもいざ外に出て歩き出すと、なんだか人に見透かされそうな気がしてドキドキした。歩き方も無意識に慎重になり、いつもよりおしとやかな足さばきになってしまうほどだった。
コンビニで替えの下着を買うことも考えた。会社に一番近い店だと店員と顔馴染みなので買いにくい。通り沿いにある二軒目を覗いたが、あまりに味気なく残念なデザインのショーツしかなかったため、どうしても買う気になれなかった。駅ビルまで足を延ばすのも正直億劫だった。
どうせあと数時間の辛抱だ、我慢しよう。きっと何事もなくやり過ごせるはずだ。そう自分に言い聞かせた。
下着を穿かずに外を歩いている。普段あまり冒険をしないみなせにとって、これは非常にイレギュラーかつ破廉恥とも思える行為だった。
恥ずかしい。ちょっと変質者っぽい。そう思いつつ、心のどこかで悪戯めいた爽快感もある。そして何よりも、あの紐パンを穿いたときよりずっと、身体の奥に疼くような甘い衝動を感じ始めているのが何とも不思議だった。
郵便局からの帰り道をソワソワしながら歩き、自社が入るビルにようやく辿り着いた。駅から徒歩6分の、さほど大きくはないが小綺麗な10階建てのオフィスビルだ。みなせの会社は7階のフロアに支店を構えている。
一階の郵便受けから大量の郵便物を取り出し、胸に抱えてエレベーターホールに向かった。この時間はロビーも人気がない。A4サイズの郵便物の宛名を確かめつつエレベーター前に辿り着くと、一人だけ先客がいた。背の高いそのシルエットを見て、みなせの胸がドキリと密かに音を立てた。
「あ、こんにちは」
笑みを浮かべ、軽く会釈してきた若い男。多分、みなせより二つ三つ年上だろう。学生時代から間違いなくモテ人生を歩んできただろうと思わせる整った顔立ちに、細身なのに意外にがっちりした広い肩。涼しげな横顔と、低く柔らかな声。人目を惹く外見だけれど嫌みなところはなく、むしろどこか生真面目そうな雰囲気も漂わせている正真正銘爽やか「イケメン」である。
「あっ、こんにちは。お疲れさまです……!」
みなせも慌てて挨拶を返した。男の表情が少し柔らかく崩れる。それだけで更に胸がキュッとときめきそうになった。
彼は9階にオフィスを構える事務機器メーカーの社員だ。
春霞一馬という名前は、最近知った。お昼休みに会社近くのコンビニに行ったとき、彼も同僚と一緒に同じ店で昼食を買っていた。帰りのエレベーターが一緒になり、そのとき胸のネームカードをチラリと見て名前を覚えたのだ。まるで漫画に出てくる王子様みたいな名前だ。イケメンは名前まで清々しく美しいのだな、と変なところに感心した。
数か月前から、朝の出勤時や勤務時間内に、エレベーターやロビーで彼を見かけるようになった。みなせの同僚女子たちも、「9階に超クールなイケメンがいる」とよく噂している。
みなせが彼をはっきりと意識するようになったのは一か月ほど前だ。お使いから戻り、上りのエレベーターに乗ったとき、たまたま彼が大きな段ボールを抱えて同じエレベーターに乗り込んできた。手が塞がっていたので、代わりに9階のボタンを押してあげた。たったそれだけだったけれど、「ありがとうございます」と微笑んだ彼の瞳に胸が大きく騒いだ。
その日以来、顔が合えば挨拶を交わせるようになった。そして姿を見かける度に、いつのまにか彼を眼で追うようになっていた。
色恋から遠ざかっているとはいえ、実は心の奥で気になっている男がいる。このことは綾乃にも誰にも秘密にしていた。
平凡な日常を彩る、ちょっとした心のオアシス。みなせにとって春霞一馬の存在は、神聖で美しい「憧れ」そのものだった。もちろん本気になるつもりはない。だってこんな素敵な人、恋人やライバルがいくらでもいるに違いないから。
「外出されてたんですか」
エレベーターを待つ間、思いがけず一馬の方が言葉を続けてくれた。みなせは不自然でない距離で一馬と並び、「はい。郵便局に行ってきました」と笑顔で答えた。
声が上擦ったのが恥ずかしい。胸が騒がしく音を立て始める。こういうときに限って、エレベーターはなかなか降りてこない。
一馬も出先から戻ってきたところのようだった。右手に鞄を提げ、脱いだスーツの上着を左腕に掛けている。薄いブルーのワイシャツが広い胸によく似合っていて、ほんの少し汗の混じった男の匂いが鼻腔をくすぐった。すごくいい匂いだと思った。不意に、ショーツを穿いていない腰の辺りが落ち着かなくなった。
「お仕事、営業さん……ですか?」
思い切って訊いてみると、「そうです。外回りでこき使われてて」と、少し照れくさそうに微笑まれた。すごい。イケメンの笑顔は破壊力が半端ない。思わず見惚れそうになって少し頬が紅潮した。
ようやくエレベーターが一階に到着した。当たり前のように、春霞一馬は「どうぞ」とみなせを先に乗せてくれる。みなせは「開」ボタンを押して一馬が乗るのを待ち、それから9階と7階のボタンを押した。一馬が少し笑って軽く頭を下げた。
こういうごく自然な流れがとても好ましく感じられる。他に誰もいない密室で、一馬と隣り合わせに並ぶだけで自分の「女度」が上がるような気がした。
「電車、T線使ってます?」
不意に尋ねられ、びっくりした。
「え、あ、はい!どうして……」
「僕もT線なんです。この前、改札でチラッとお見かけしたから」
ちょっとはにかんだような笑顔を向けられ、みなせの心臓がまたしても跳ねた。
「そうなんですか……!偶然、ですね」
「ですね」
顔を見合わせ、少しぎこちないが好意的な笑みを交わしあう。胸がいっぱいになった。
思いがけず挨拶以外の会話ができ、偶然にも同じ路線を使っていることが分かった。しかも彼の方でこちらの姿を見かけて認識してくれていたとは。みなせは自分でも呆れるほどに舞い上がってしまった。
けれど、嬉しいひとときもそこまでだった。エレベーターはあっという間にみなせのオフィスがある7階に到着してしまった。
もっといろいろ話したかった。でも胸がドキドキして余裕がないので、今日はこれくらいでいっぱいいっぱいかもしれない。名残惜しさを感じつつ、みなせは「それじゃ、失礼します」と一馬に会釈した。できるだけ、感じの良い笑顔になるよう意識しつつ。
開いたドアからフロアに足を踏み出したとき、一馬から「お疲れさまです。また」と背中に声を掛けられた。「また」と言われたのが嬉しくて、みなせは歩き出しながら振り返って再度笑顔で頭を下げた。
思いがけない展開に浮かれ、ソワソワドキドキしていた。背後の一馬に全神経が集中していて、足元に注意を払っていなかった。おまけに今日は、買ったばかりで履き慣れていない華奢なパンプスだった。
何もないところで、パンプスの先が滑りの悪い床に突っかかった。しまった、と思ったものの、咄嗟に身体が動かなかった。両手は大型の郵便物をいくつも抱え、塞がっていた。
「わっ……!」
次の瞬間、みなせは7階のエレベーターホールの床に突っ伏していた。
持っていた郵便物がバサーっと床にばら撒かれる。しばし茫然となり、それから慌てて周囲を見渡した。幸いその場に人はいなかった。まるで子供のようにみっともなくも派手な転び方をした自分に愕然とし、しかも憧れの人の眼の前で醜態をさらしたことにひどいショックを受けていた。
「大丈夫ですか?!」
一馬が慌てた様子でエレベーターから降りてくる。恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。慌てて「大丈夫です……っ」と身を起こそうとしてハッとした。
駆け寄ろうとしていた一馬が足を止める気配。恐る恐る背後を振り返る。自分の今の体勢を直視した途端、みなせはさっき心で呟いた言葉を訂正した。死ぬほど恥ずかしい、ではない。今すぐ死にたい、だ。
うつぶせに思い切り転んだ拍子に、フレアスカートはウエストの辺りまで見事に捲れ上がっていた。
ヒラヒラした春らしい柔らかな素材。何故今日に限って、自分はこの服を選んでしまったのか。紐パンを脱いで生のお尻に直接ストッキングを穿いた状態の今、何故自分は春霞一馬の眼前で思い切り転んでしまったのか。
首から耳から頭の天辺まで真っ赤になりながら、みなせは秒速でスカートの捲れを直した。そして秒速で身体を起こす。しゃきっと立ち上がり、床に散乱した郵便物を素早く拾い集め、おそらく信号機より赤い顔で「すみません!失礼しました!」と泣きそうな声を出して頭を下げた。
ぽかんとした顔で、春霞一馬がその場に立ち尽くしていた。右手に営業カバン、左腕にスーツの上着。端正な顔が、数秒思考停止していたような呆けた状態になっている。
やがてその頬が、じわじわと赤く染まっていった。みなせの顔を見つめながら、動揺したように一馬は赤面していた。
……見られた。がっつり、しっかり、見られてしまった。
下着を着けていない、裸のお尻。ストッキングに包まれただけの剥き出しのお尻を、このオフィスビル一番のイケメンに目撃されてしまった。みっともない、ひどい転び方で。もしかしたら、お尻だけじゃなくて見せてはいけないところまで見られてしまったかもしれない。
「す……っ、すみません!あの、変なもの見せてごめんなさい……!」
みなせはもう一度大きく頭を下げると、一馬の視線を避けるように身を翻しオフィスに向かって走り出した。
……終わった。
せっかく芽生えかけた春の兆しが、最悪の暴風雨によって吹き飛ばされたかのようだ。春霞一馬にとって、みなせは正真正銘『ヤバイ変態女』になってしまった。
みなせは半泣きになりながらトイレに直行し、15分間個室にこもって自己嫌悪に陥った。転んだときに打った腕の痛みよりも、何故だかストッキングのアソコがしっとりと湿っていることの方が心底情けなかった。
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