水の底のポートレイト

茜色

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Lesson 1

人魚

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 早瀬桃はやせももを一個人として意識したのは、夏休みに入る少し前だったと思う。

 高校教師になって4年目。初めて担任として2年生のクラスを受け持った俺にとって、自分の教え子たちはどの子も似たり寄ったりに見え、やかましくも幼い存在でしかなかった。
 もちろん一人一人個性があるし、生意気なりにかわいいと思うこともたまにはある。たまには・・・いや、時々か。だが俺は、もともと教育というものに情熱を抱いて教師を目指したわけでもないので、正直なところ担任なんて面倒くさくてやりたくないと思っていた。

 俺の担当教科が数学ということもあって、生徒たちもそうそう俺に親しみを持って近づいて来たりしない。授業のときなど、生徒たちの大半が諦念のような低いテンションを露骨に漂わせている。俺にしてみればこれほど面白い教科はないと思うのだが、何故に数学はこれほど嫌われるのだろうと生徒の顔を見ているだけで不思議に感じてくる。
 とは言え新年度が始まって間もない時期だけは、俺のそばにも女子生徒が多少まとわりついてくるのが常だった。教師陣の中に若い男性教諭が少なかったことと、俺の風貌がそれほど女に嫌われる類ではなかったのがその理由だろう。 
 だがそれも、GWを過ぎる頃までだ。その頃には、俺の無愛想でサービス精神の薄い性格が露見し、移り気な高校生たちは俺への興味などさっさと捨て去る。それが毎年繰り返されるお決まりのパターンだった。
 それくらい希薄な関係性の方がこっちもラクなので、生徒たちとは程良い距離感を持って接するようにしていた。まあ、部活の顧問をしているサッカー部の連中とは、多少気心が知れていたかもしれないが。

 そういう淡白な教師生活なので、いちいち生徒個人に特別な関心を持つことなどほぼなかった。ましてや女子高生に良からぬ妄想を抱いたりすることなど、俺にはあり得ないと言えた。
 俺の興味の対象はあくまで成人した女だった。土埃つちぼこりでカサついた膝小僧を丸出しにし、大口を開けて喚いている16、7のコドモに『女』を感じることなど皆無だった。
 そんなわけで、自分の受け持つクラスにいるとは言え、早瀬桃に対しても特別注意を向けたことは一度もなかった。・・・いや、一度もないと言ったら嘘になるか。

 『桃』などという可愛らしい名前のわりに、周りの同級生よりやや大人びた表情。それでいて、どこか無垢な気配を漂わせている生徒。それが早瀬桃だった。
 ほっそりとした身体に、いわゆる美少女の部類に入るだろう色白な顔立ち。肩までのサラサラした癖のない髪。口数は決して多くなく、かと言って孤立しているわけでもなくそれなりに明るい。仲良くしている友人もいるようだし、とりたてて問題のなさそうな控えめなタイプだった。

 早瀬桃は成績は良かったが、俺の教えている数学だけはどうも苦手のようで、授業のときはいつも余裕のない顔で必死に黒板を睨んでいた。
 教壇に立っていると、成績の良し悪しとは別にやる気のある生徒とそうでない生徒の違いが明白に見えてくる。桃はクラスの誰よりも数学の授業に熱心に取り組んでいるように見えるのだが、典型的な文系脳らしくテストの点はいつも伸び悩んでいた。
 普通は苦手だと科目自体嫌いになるので、ある意味珍しい生徒だった。そういう一生懸命な姿が、無意識に俺の記憶に引っかかったのかもしれない。


 7月のある日、期末テスト前で部活動も休止期間のため、ほとんどの生徒たちが帰宅した午後。職員室で試験問題の最終チェックをしていた俺は、遅めの昼飯にパンでも買おうと購買部に行くことにした。
 廊下を歩く途中、半分ほど開いていた窓から何気なく外に眼をやると、校舎脇のプールで水泳の補習授業が行われているのが見えた。プールにいるのは女子生徒が2人だけ。しかも片方は俺のクラスの早瀬桃だった。
 そう言えば体育の市川先生が、「陣野じんの先生んとこの早瀬さん、クロールの試験を休んだから補習よ」と言っていた気がする。俺はなんとなく立ち止まり、桃ともう一人の女子生徒が泳いでいる様子を校舎の2階から見下ろした。
 キビキビした男勝りの市川先生が、ジャージに裸足の出で立ちでプールサイドからげきを飛ばしている。隣のクラスの女子生徒は泳ぎが苦手らしく、バシャバシャと数メートル進んでは立ち止まって、泣きそうな声をあげていた。一方の桃の泳ぎに、俺は思わず眼を瞠った。
 
 桃のクロールは、素人目に見てもフォームがとても美しかった。
 なめらかに水を掻き、無駄のない動きで滑るように進んでいく。かなり速い。どう見てもそれなりに水泳をやってきた人間の泳ぎだった。
 俺はしばらく桃の泳ぎっぷりに見惚れていた。25メートルでターンし、少しペースは落ちたものの変わらぬ優雅な動きで水を掻き分けていく。たしかあいつは帰宅部のはずだ。こんなに泳げるのに、水泳部じゃないなんて勿体ない気がした。

 廊下には人の気配がなかった。それをいいことに、俺は桃が50メートルを泳ぎ切ってプールから上がり、市川先生に褒められてバスタオルで身体を拭きつつ帰り支度をするところまでずっと見ていた。
 いわゆるスクール水着に興奮する趣味はないが、それでも桃の伸びやかな姿態は眼に焼き付いた。あんなに泳ぎが上手いのに、水泳選手にありがちな筋肉はほとんどなく、白い身体は華奢といってもいいくらいだった。
 何故か眼が離せなかった。市川先生ともう一人の女子生徒がプールから出ていき、桃がその後を追って歩き出すまで、俺はずっと校舎からプールサイドを眺めていた。

「・・・陣野先生!」
 いきなり桃に声をかけられ、ギョッとした。視線を感じたのか桃が不意に顔を上げ、廊下から見下ろしている俺に気付いたのだ。
 桃は水着の上にバスタオルをまとって俺に手を振っていた。少し恥じらいを浮かべた顔で笑いながら、高校2年生らしい屈託のない様子で担任の俺に手を振っている。
 正直、いつもどちらかというとおとなしい桃が、こんな無邪気な表情を見せるのが意外だった。俺も思わずつられて手を振り返してしまい、誰か他の教諭に見られてはいないかと廊下を振り返った。

「先生・・・!私の泳ぎ見てました?」
「見たよ。おまえ、泳ぐの上手いな」
「ほんと?ありがとう・・・!ちょっとがんばっちゃった」
 嬉しそうに笑いながらスイムキャップを外す。濡れた髪が肩にパサッと落ちて、さっきまでのどこかキリリとした雰囲気が、女の子らしい柔らかいものに変わった。

「水泳、習ってたのか?」
「小学校のとき、水泳教室にずっと通ってたの!」
「ああ、だからか。速いからびっくりした」
「でも久しぶりで足攣りそうになっちゃった」
 そう言って桃は笑い、それから寒そうに身体をブルッと震わせた。羽織っているピンク色のバスタオルが揺れて、人魚のひれのように見えなくもなかった。
 今日は初夏にしては気温が低い。俺はなんとなく照れ隠しをするような気分で、桃に向かって更衣室の方向を指さした。
「ほら、風邪ひくから早く行け。帰ってテスト勉強しろよ」
「はーい!」
 桃は元気よく返事して微笑むと、もう一度俺に向かって手を振ってから更衣室に消えた。

 クラス担任になって3ヶ月。早瀬桃とこんなふうに他愛無い会話を交わしたのは、これが初めてかもしれなかった。

 職員室に戻ってきた市川先生にさりげなく聞いてみた。
「うちのクラスの早瀬は、水泳部じゃないですよね?」
 ベテラン体育教師の市川先生は、水泳部の顧問でもある。
「あー、あのね。1年生のときは部員だったのよ」
「え、そうなんですか?」
 市川先生は短い髪を男のようにガシガシと掻きむしりながら、俺の斜め向かいの席にドスンと腰を下ろした。
「あの子、タイムもいいし、水泳続けてもらいたかったんだけどねー。1年の終わりに、急に退部したいって」
「・・・なんでですかね?イジメとか?」
「まっさか。そういうのはないわよ。アタシもいろいろ聞いてみたんだけど、はっきり言わないの。ただ、家の事情とか言ってたけど」
「家の事情?・・・4月の面談のときは、家庭環境については特に何も言ってなかったですけど」
「アタシにも詳しくは言わなかったわよ。ただ、部活ってそれなりにお金かかるじゃない?部費とかウェアとか、試合で遠征なんかもあるし。その辺が、ちょっと厳しいのかなって。あくまで勘だけど」
 俺は桃の凛とした綺麗な横顔を思い出した。家庭環境や経済事情で悩んでいるような様子は微塵も感じたことがない。

「早瀬って言えば、ご両親がちょっとモメてるみたいな噂は聞きましたよ。チラッとね。本人が全然話さないから、ボクもあまり確かめようがなかったけどねぇ」
 去年桃の担任をしていた生物の斎藤先生が横から教えてくれる。
「最近、たまに体調も悪そうなのよね。今日の補習だって、この前貧血で早退したせいでクロールのテスト受けてなかったからだし。陣野先生、アンタ担任なんだから、ちょっと気を付けて見てやってよ」
 市川先生に背中をバシッと叩かれ、痛みに顔を歪めつつ「はあ、分かりました」と俺は頷いた。そう言えばいつだったか、保健室から出てくる桃を見かけたことを思い出した。

 担任として、どこまで踏み込んで気にかけるべきなのか。小中学生と違って、高校はそこまで教師が生徒にベッタリではない。
 俺は生徒とのコミュニケーションという苦手な分野に戸惑いを覚えつつ、早瀬桃のさっきの美しい泳ぎを頭に思い浮かべた。



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