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季節は巡り、再び春の到来。桜の花びらが風に揺られて舞い散る中を小学二年生になった収友と、新一年生となった結愛が仲良く小学校へ通学する。
「行ってらっしゃーい」
元気に手を振る容子の姿を背中に受けながら、今日も結愛は大きな赤いランドセルを健気に背負って収友の後ろを追いかけ小学校に向かう。
「ゆあちゃん、ランドセル重くない?」
収友は時々後ろを振り返って結愛に声をかける。
「だぃじょうぶー!」
結愛はしっかりとした口調で収友の心配を撥ね退けると、黙々と収友の後に付いて通学路を歩いて行く。
そして二人が小学校に着く頃、小児科の研修医となった葉奈は大学の付属病院で朝のカンファレンスに参加していた。
「……となっています。こちらにつきましては……」
プロジェクターに映し出された映像を、葉奈は注意深く目に焼き付ける。
その後、病棟の回診をして採血や点滴などの病棟処置を行い、午前の部が終わる。
「……どうだ。毎日があっと言う間に終わってるってゆう感じしないか?」
葉奈の指導医、近重が大学病院の職員食堂でうどんをすすりながら隣で同じくうどんをすする葉奈に話しかける。
「そうですね。正直、毎日毎日おっかなびっくりでやってる感じです。早く、一人前にならなきゃ……」
「はははっ。相手は機械じゃねェし、生身の人間様。しかも小さい子供だからな。……それにしても、お前もよく小児科なんてところ選んだなぁ。物好きってゆうか……まぁ、俺としてはうれしい限りだけどさ」
「えーっ? そんなァ。かわいいじゃないですか、子どもって。あの子たちは未来を創ってくれる希望ですよ。その希望の芽を自分の手で守れるなんて、こんな素晴らしい仕事なかなかないですよ。私はこの仕事、大好きですけどね」
葉奈は隣の指導医に可愛らしい笑顔を見せつけた。
近重は照れた顔を隠すように椀に視線を移すと、ごまかすように咳ばらいをした。
「んんッ。まぁ、そういう気持ちを持ち続けられるに越したことはないよ。……うん。どんな仕事だってそうなんだろうけどよ、忘れずに持ち続けて行ければさ。……そういう気持ちさえあれば、どんな状況でもなんとか踏ん張れるもんなぁ」
「……先生は、持ち続けてます?」
「……そうだなぁ。ここには毎日何十人、何百人と患者がやって来る。昼夜を問わずにな。しかも大人と違って子どもなんて問診だけでも相当に時間がかかる。処置するスタッフの人数だって大人の比じゃぁない。限られた人員の中でこなすとなれば……実際、きれいごとだけじゃ済まない状況だって多々ある」
近重は何時になく神妙な口調で語った。
「でもな二賀斗。もしかしたらお前には案外そのきれいごとを語れる才能があるンかもしれないよ。何かこう……ウーン。うンまく表現できないんだけどさ、慈悲の心って言うの? 何つうんだろ。お前の普段の顔ってさ、俗にいうアルカイックスマイルってやつなんだよなぁ。見ているだけで癒されるっていうか。だからなんかなー。お前が担当する子供たちってさぁ、ほんと聞き分けのイイ素直なヤツばっかなんだよなー。あれじゃ診察も楽だよ。ホントうらやましい!」
そう言うと近重は勢いよくうどんをすすり出した。その姿を見ながら葉奈は少し寂しそうな笑顔を浮かべた。
「先生。今日はずいぶんと饒舌ですね。なんかいいことありました? ……あ! もしかして結婚記念日とか」
葉奈は無邪気な笑顔で近重の顔を見た。
「……俺、独身だから」
近重のうどんをすする動作が急にゆっくりになった。
「……やっちゃった。先生、すみません……」
葉奈は下を向くと照れ隠しで髪を掻いた。
「そんなことで凹むんじゃねェえよ!」
近重は笑って答えた。
「……お前の旦那さんがうらやましいねぇ。どんなに仕事で疲れていたって、その笑顔を見りゃあ疲れも吹き飛んじまうんだろうからな」
「ふふっ、どうですかね。今ごろウチで伸び伸びしてるンかもしれないですよ。家じゃいっつも私の顔色伺ってますから」
「それも仲のいい証拠ってやつだ。さーってと、昼休み終わっちまうからさっさと食っちまうか! 後場はカルテ、サマリー作ってその後病棟回りと回診。やることは山ほどあるんだからな!」
「はいッ!」
葉奈は気合を入れた声を出すと、一緒になって勢いよくうどんをすすった。
そしてまた四季は移ろい、桜色の季節の頃。収友は小学三年生を迎える。
ほんの少しだけ栗色に染まった柔らかい短髪と真珠色の肌。そして深い紺鉄色の瞳に撫子色に塗られた薄い唇。柔らかい顔立ちは、初めて出会った若かりしころの葉奈を思わせる。
同じくもう一人、真珠色の肌に漆黒のショートヘアー。赤銅色に輝く瞳と珊瑚色のふんわりとした唇をした結愛も小学二年生となり、その口でたまにおませな事を言うようになった。
夏も近づいてきた或る日、収友のクラスで数人の男の子が外国籍の級友を面白半分にからかっていた。
「ジョーン。おっ前、デブだなー」
「日本語わかるのかー?」
浅黒い色をしたジョンは自席に座ったまま、卑屈な笑顔をしながらオドオドしていた。そこに級友の翔琉が自分の鼻をつまんでジョンに話しかけた。
「ジョーン。お前なんか臭ッいぞ、風呂入ってんのかー?」
「あははは――!」
からかっていた男子達が一斉に笑い出した。
クラスの他の級友達はその様子を不快な目で傍観しているか、もしくは見て見ぬふりをしている。
「やめなよ」
翔琉の後ろから収友が話しかけた。
「何だよ、収友。かっこつけてんのかよ!」
翔琉が収友に向かって凄んだ。
「何でそんなこと言うんだよ。ジョン君が何かしたの?」
「こいつがクセーんだよ。収友、お前ジョンの味方なのかよッ」
「……味方って。クラスの友達でしょ。そんなこと言っちゃ、ジョン君がかわいそうだよ」
ジョンは下を向いたまま身を縮めて、この嵐が過ぎ去るのをただ待ち望んでいる。
「うるせ――っ!」
翔琉は左手で収友を強く押し退けた。
「うわっ!」
収友はバランスを崩すと、勢いよく尻もちをついた。翔琉は床に倒れた収友を見下すと、視線をジョンに向けて行儀よく収まっているジョンの左足のすねを蹴った。
「masakit!(痛っ!)」
ジョンは思わず母国語で声を上げた。
「なに……すんだよッ!」
収友は床に倒れたまま翔琉に向かって叫んだ。翔琉は振り向くと収友を睨みつけた。
「何だよッ。やんのかよ!」
奥歯を強く噛みしめる音とともに収友は眉を吊り上げて激しく翔琉を睨みつけた。すると、深い紺鉄色の瞳が瞬く間に鮮やかな碧色に色を変える。そして栗色の短髪が風でめくられる様にフワッと軽く持ち上がった。
「へっ! 弱虫のくせに」
翔琉が威勢よく減らず口を叩いたその瞬間。……鮮血が一滴、その足元に落ちた。
「……ん?」
翔琉の右の鼻の穴から鮮やかな血がそろりと唇を通過する頃、ようやく翔琉は鼻血が出ていることに気付いた。
「あ、ああああ――っ! 鼻血だあッ! 鼻血が出ちゃったよ――ッ!」
「か、かっくん保健室っ! 保健室行かなきゃっ!」
「い、急げ――っ!」
翔琉と数人の男子は大騒ぎしながら教室を出ると、そのまま保健室へ向かって行った。
「収友くん、だいじょうぶ?」
「かけるって、なんで鼻血だしたの?」
「はははっ、鼻血出してたよー。あいつ」
からかいをしていた男子達の姿が教室から消え失せると、周りにいた女子たちが収友のそばに寄ってきた。
一人の女子が収友の腕を握って起き上がらせると、優しく背中に付いたゴミを払った。
「だいじょうぶ? 収友くん」
「……うん」
「急に鼻血出しちゃって、汚ったなーい」
その言葉を聞いて、収友は不思議そうな顔でその女子児童に尋ねた。
「……みんな、できないの?」
「ん? なにができないの?」
「え? なにがって……」
「あいつらもどってきたらバカにしてやろうよ。ジョン君も黙ってないであいつらに言ってやりな」
体格のいい女子が声を上げると、ジョンは無言のまま、控えめな笑顔でそれに応えた。
収友は眉間に軽い苦味を寄せると、静かにうつむきながら自分の席に着いた。
そして翔琉を保健室に残したまま、次の授業が始まる。担任の先生が黒板に白のチョークで文字を書き始めた。
―わたしたち―
「今日は、”私たち”ということについてお話をします。私たちは一人ひとり生まれも育ちも違います。私たちが持っているその”違う”という持ちものが、ときどき”差別”というものを作ってしまう場合があります。人と違うということでその人がつらい思いをしたり、場合によってはその人の周りの人たちにまでそのつらい思いが行ってしまうことがあります……」
先生の話したその言葉を耳にして、収友は表情を固めた。
〈……みんなはあれができない。それって……ぼくがみんなと違うってことなの? ぼくって……変なの? おかしいの? こ、これって”差別”されちゃうのッ? ぼくが”差別”されちゃうと……パパとか、ママとかも”差別”されちゃうってことなのッ?〉
収友の顔が緊張で強張る。
「それじゃあ、みんな。自分はどんな人なのか考えてみましょう」
先生の問いかけに、しばらくのあいだクラスは静寂に包まれた。
モルタルの床をゆっくりと踏みつける乾いた音。先生は子どもたちが座る席の間を静かに歩いて生徒一人ひとりの顔を眺めていく。
収友の席の横を先生が通りかけた時、収友が小さく先生に声をかけた。
「先生。……つらいことって、いじわるされたりとか……そういうことなんですか?」
先生は口元を少し上げると、教壇に戻って行った。
「みなさーん。二賀斗くんから先ほどの話に出てきた、その人がどんな”差別”を受けたのかっていう質問がありましたので少しお話ししたいと思います。それは、その人をワザとみんなの輪の中に入れなかっただけでなく、その人の家族も同じようにのけ者にしていました。それで……」
先生の言葉が耳に伝わる度に収友の表情は暗く、険しくなる。そして下を向くと膝の上で両手を強く握りしめた。
「……ただいま」
午後四時過ぎ。玄関の扉を開けると、収友は独り言でも言うような小さな声で帰宅したことを告げる。
その声を聞きつけ、ドタドタと床を駆ける音とともに結愛が家の奥から玄関に飛び出してきた。
「おにーちゃん! いっしょにゲームしよッ、はやく!」
結愛は収友の手を引っ張ってリビングに連れ込んだ。
「あら、収ちゃんお帰りなさい。結愛ちゃんが一緒にゲームしたいって待ってたわよ」
リビングの床に座っていた容子が、カードをテーブルに置いて収友に声をかけた。
「はやくやろ! はやくやろ! きのうのつづきはやくやろ――っ」
「……うん。……ねぇ、おばあちゃん。パパは?」
「パパならママを迎えに病院に行ったわよ」
「……そっか」
「おにーちゃんはやくー、はやくー」
結愛はリビングの床にぺったりと座って収友を急かす。収友は黙ったままランドセルをリビングの定位置に置くと、沈んだ顔で結愛の相手をし始めた。
午後五時を回り、容子はダイニングの椅子から腰を上げた。
「さてと、そろそろご飯の準備をしなくちゃ」
台所で晩御飯の準備をする音をよそに収友と結愛はカードゲームをしている。
「やったー! ゆあの勝ちィー」
結愛は嬉しそうにカードを床に置くと、かき回し始める。収友も手持ちのカードを床に置いてかき回すしぐさをしながら台所の方をチラリと見るが、容子は忙しそうに調理台で食事を作っていた。
収友はそっと結愛に近寄り、小さな声で耳打ちした。
「ゆあちゃん。”お願いごと”って、できるよね」
「うん。できるよ」
カードをまぜながら結愛は軽快に答えた。
「それって、だれかにしゃべったことある?」
「うーん。……わかんない」
「じゃさぁ。”お願いごと”ができるってこと、僕とゆあちゃんの二人だけの秘密にしようよ」
「なんでぇ?」
結愛は手を止めて、収友に尋ねた。収友も手を止めると、真剣な顔つきで結愛を見た。
「今日ね、学校で習ったんだよ。……みんなとちがうことをするとイジワルされるって」
「いじわるはダメなんだよ!」
「うん。……そうなんだけど、ぼくらだけじゃなくって、パパとかママとかもイジワルされちゃうんだって。ゆあちゃんそんなのイヤでしょ?」
「いや―――っ!」
小さな結愛が大きな声を張り上げて答えた。
自分たちが強く願ったことが現実のものとなる”願いごと”。収友は自分たちが持つそのチカラが表に出ることで父や母が”差別”されることに強い恐怖心を抱いた。愛する父と母が”差別”されないために、収友はどうしてもこのチカラのことを秘密にしたかった。できることなら結愛を怒鳴りつけ無理矢理にでも押さえつけたかったのだが、何とかその気持ちを抑えて結愛に柔らかい表情で話しかけた。
「僕もそんなのイヤだよ。だからさ、パパやママをまもるためにも”お願いごと”ができるってゆうことは僕とゆあちゃんの二人だけのひみつにしよ?」
「……うん」
結愛は少し間を置いてそう答えた。結愛のその答えを聞くと、収友は安心した表情を浮かべて、もうひとつ言葉を付け加えた。
「”お願いごと”をしちゃダメってことじゃないんだよ。それができるってことを僕たちだけのひみつにするんだ。結愛ちゃんはできるよね。だってぼくより強いんだから」
「うん、できるよ。ゆあ、ぜったいゆわない。だからもいっかいやろ」
「うん、いいよ」
二人はカードを持って再びゲームをし始めた。
「行ってらっしゃーい」
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「ゆあちゃん、ランドセル重くない?」
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「だぃじょうぶー!」
結愛はしっかりとした口調で収友の心配を撥ね退けると、黙々と収友の後に付いて通学路を歩いて行く。
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「えーっ? そんなァ。かわいいじゃないですか、子どもって。あの子たちは未来を創ってくれる希望ですよ。その希望の芽を自分の手で守れるなんて、こんな素晴らしい仕事なかなかないですよ。私はこの仕事、大好きですけどね」
葉奈は隣の指導医に可愛らしい笑顔を見せつけた。
近重は照れた顔を隠すように椀に視線を移すと、ごまかすように咳ばらいをした。
「んんッ。まぁ、そういう気持ちを持ち続けられるに越したことはないよ。……うん。どんな仕事だってそうなんだろうけどよ、忘れずに持ち続けて行ければさ。……そういう気持ちさえあれば、どんな状況でもなんとか踏ん張れるもんなぁ」
「……先生は、持ち続けてます?」
「……そうだなぁ。ここには毎日何十人、何百人と患者がやって来る。昼夜を問わずにな。しかも大人と違って子どもなんて問診だけでも相当に時間がかかる。処置するスタッフの人数だって大人の比じゃぁない。限られた人員の中でこなすとなれば……実際、きれいごとだけじゃ済まない状況だって多々ある」
近重は何時になく神妙な口調で語った。
「でもな二賀斗。もしかしたらお前には案外そのきれいごとを語れる才能があるンかもしれないよ。何かこう……ウーン。うンまく表現できないんだけどさ、慈悲の心って言うの? 何つうんだろ。お前の普段の顔ってさ、俗にいうアルカイックスマイルってやつなんだよなぁ。見ているだけで癒されるっていうか。だからなんかなー。お前が担当する子供たちってさぁ、ほんと聞き分けのイイ素直なヤツばっかなんだよなー。あれじゃ診察も楽だよ。ホントうらやましい!」
そう言うと近重は勢いよくうどんをすすり出した。その姿を見ながら葉奈は少し寂しそうな笑顔を浮かべた。
「先生。今日はずいぶんと饒舌ですね。なんかいいことありました? ……あ! もしかして結婚記念日とか」
葉奈は無邪気な笑顔で近重の顔を見た。
「……俺、独身だから」
近重のうどんをすする動作が急にゆっくりになった。
「……やっちゃった。先生、すみません……」
葉奈は下を向くと照れ隠しで髪を掻いた。
「そんなことで凹むんじゃねェえよ!」
近重は笑って答えた。
「……お前の旦那さんがうらやましいねぇ。どんなに仕事で疲れていたって、その笑顔を見りゃあ疲れも吹き飛んじまうんだろうからな」
「ふふっ、どうですかね。今ごろウチで伸び伸びしてるンかもしれないですよ。家じゃいっつも私の顔色伺ってますから」
「それも仲のいい証拠ってやつだ。さーってと、昼休み終わっちまうからさっさと食っちまうか! 後場はカルテ、サマリー作ってその後病棟回りと回診。やることは山ほどあるんだからな!」
「はいッ!」
葉奈は気合を入れた声を出すと、一緒になって勢いよくうどんをすすった。
そしてまた四季は移ろい、桜色の季節の頃。収友は小学三年生を迎える。
ほんの少しだけ栗色に染まった柔らかい短髪と真珠色の肌。そして深い紺鉄色の瞳に撫子色に塗られた薄い唇。柔らかい顔立ちは、初めて出会った若かりしころの葉奈を思わせる。
同じくもう一人、真珠色の肌に漆黒のショートヘアー。赤銅色に輝く瞳と珊瑚色のふんわりとした唇をした結愛も小学二年生となり、その口でたまにおませな事を言うようになった。
夏も近づいてきた或る日、収友のクラスで数人の男の子が外国籍の級友を面白半分にからかっていた。
「ジョーン。おっ前、デブだなー」
「日本語わかるのかー?」
浅黒い色をしたジョンは自席に座ったまま、卑屈な笑顔をしながらオドオドしていた。そこに級友の翔琉が自分の鼻をつまんでジョンに話しかけた。
「ジョーン。お前なんか臭ッいぞ、風呂入ってんのかー?」
「あははは――!」
からかっていた男子達が一斉に笑い出した。
クラスの他の級友達はその様子を不快な目で傍観しているか、もしくは見て見ぬふりをしている。
「やめなよ」
翔琉の後ろから収友が話しかけた。
「何だよ、収友。かっこつけてんのかよ!」
翔琉が収友に向かって凄んだ。
「何でそんなこと言うんだよ。ジョン君が何かしたの?」
「こいつがクセーんだよ。収友、お前ジョンの味方なのかよッ」
「……味方って。クラスの友達でしょ。そんなこと言っちゃ、ジョン君がかわいそうだよ」
ジョンは下を向いたまま身を縮めて、この嵐が過ぎ去るのをただ待ち望んでいる。
「うるせ――っ!」
翔琉は左手で収友を強く押し退けた。
「うわっ!」
収友はバランスを崩すと、勢いよく尻もちをついた。翔琉は床に倒れた収友を見下すと、視線をジョンに向けて行儀よく収まっているジョンの左足のすねを蹴った。
「masakit!(痛っ!)」
ジョンは思わず母国語で声を上げた。
「なに……すんだよッ!」
収友は床に倒れたまま翔琉に向かって叫んだ。翔琉は振り向くと収友を睨みつけた。
「何だよッ。やんのかよ!」
奥歯を強く噛みしめる音とともに収友は眉を吊り上げて激しく翔琉を睨みつけた。すると、深い紺鉄色の瞳が瞬く間に鮮やかな碧色に色を変える。そして栗色の短髪が風でめくられる様にフワッと軽く持ち上がった。
「へっ! 弱虫のくせに」
翔琉が威勢よく減らず口を叩いたその瞬間。……鮮血が一滴、その足元に落ちた。
「……ん?」
翔琉の右の鼻の穴から鮮やかな血がそろりと唇を通過する頃、ようやく翔琉は鼻血が出ていることに気付いた。
「あ、ああああ――っ! 鼻血だあッ! 鼻血が出ちゃったよ――ッ!」
「か、かっくん保健室っ! 保健室行かなきゃっ!」
「い、急げ――っ!」
翔琉と数人の男子は大騒ぎしながら教室を出ると、そのまま保健室へ向かって行った。
「収友くん、だいじょうぶ?」
「かけるって、なんで鼻血だしたの?」
「はははっ、鼻血出してたよー。あいつ」
からかいをしていた男子達の姿が教室から消え失せると、周りにいた女子たちが収友のそばに寄ってきた。
一人の女子が収友の腕を握って起き上がらせると、優しく背中に付いたゴミを払った。
「だいじょうぶ? 収友くん」
「……うん」
「急に鼻血出しちゃって、汚ったなーい」
その言葉を聞いて、収友は不思議そうな顔でその女子児童に尋ねた。
「……みんな、できないの?」
「ん? なにができないの?」
「え? なにがって……」
「あいつらもどってきたらバカにしてやろうよ。ジョン君も黙ってないであいつらに言ってやりな」
体格のいい女子が声を上げると、ジョンは無言のまま、控えめな笑顔でそれに応えた。
収友は眉間に軽い苦味を寄せると、静かにうつむきながら自分の席に着いた。
そして翔琉を保健室に残したまま、次の授業が始まる。担任の先生が黒板に白のチョークで文字を書き始めた。
―わたしたち―
「今日は、”私たち”ということについてお話をします。私たちは一人ひとり生まれも育ちも違います。私たちが持っているその”違う”という持ちものが、ときどき”差別”というものを作ってしまう場合があります。人と違うということでその人がつらい思いをしたり、場合によってはその人の周りの人たちにまでそのつらい思いが行ってしまうことがあります……」
先生の話したその言葉を耳にして、収友は表情を固めた。
〈……みんなはあれができない。それって……ぼくがみんなと違うってことなの? ぼくって……変なの? おかしいの? こ、これって”差別”されちゃうのッ? ぼくが”差別”されちゃうと……パパとか、ママとかも”差別”されちゃうってことなのッ?〉
収友の顔が緊張で強張る。
「それじゃあ、みんな。自分はどんな人なのか考えてみましょう」
先生の問いかけに、しばらくのあいだクラスは静寂に包まれた。
モルタルの床をゆっくりと踏みつける乾いた音。先生は子どもたちが座る席の間を静かに歩いて生徒一人ひとりの顔を眺めていく。
収友の席の横を先生が通りかけた時、収友が小さく先生に声をかけた。
「先生。……つらいことって、いじわるされたりとか……そういうことなんですか?」
先生は口元を少し上げると、教壇に戻って行った。
「みなさーん。二賀斗くんから先ほどの話に出てきた、その人がどんな”差別”を受けたのかっていう質問がありましたので少しお話ししたいと思います。それは、その人をワザとみんなの輪の中に入れなかっただけでなく、その人の家族も同じようにのけ者にしていました。それで……」
先生の言葉が耳に伝わる度に収友の表情は暗く、険しくなる。そして下を向くと膝の上で両手を強く握りしめた。
「……ただいま」
午後四時過ぎ。玄関の扉を開けると、収友は独り言でも言うような小さな声で帰宅したことを告げる。
その声を聞きつけ、ドタドタと床を駆ける音とともに結愛が家の奥から玄関に飛び出してきた。
「おにーちゃん! いっしょにゲームしよッ、はやく!」
結愛は収友の手を引っ張ってリビングに連れ込んだ。
「あら、収ちゃんお帰りなさい。結愛ちゃんが一緒にゲームしたいって待ってたわよ」
リビングの床に座っていた容子が、カードをテーブルに置いて収友に声をかけた。
「はやくやろ! はやくやろ! きのうのつづきはやくやろ――っ」
「……うん。……ねぇ、おばあちゃん。パパは?」
「パパならママを迎えに病院に行ったわよ」
「……そっか」
「おにーちゃんはやくー、はやくー」
結愛はリビングの床にぺったりと座って収友を急かす。収友は黙ったままランドセルをリビングの定位置に置くと、沈んだ顔で結愛の相手をし始めた。
午後五時を回り、容子はダイニングの椅子から腰を上げた。
「さてと、そろそろご飯の準備をしなくちゃ」
台所で晩御飯の準備をする音をよそに収友と結愛はカードゲームをしている。
「やったー! ゆあの勝ちィー」
結愛は嬉しそうにカードを床に置くと、かき回し始める。収友も手持ちのカードを床に置いてかき回すしぐさをしながら台所の方をチラリと見るが、容子は忙しそうに調理台で食事を作っていた。
収友はそっと結愛に近寄り、小さな声で耳打ちした。
「ゆあちゃん。”お願いごと”って、できるよね」
「うん。できるよ」
カードをまぜながら結愛は軽快に答えた。
「それって、だれかにしゃべったことある?」
「うーん。……わかんない」
「じゃさぁ。”お願いごと”ができるってこと、僕とゆあちゃんの二人だけの秘密にしようよ」
「なんでぇ?」
結愛は手を止めて、収友に尋ねた。収友も手を止めると、真剣な顔つきで結愛を見た。
「今日ね、学校で習ったんだよ。……みんなとちがうことをするとイジワルされるって」
「いじわるはダメなんだよ!」
「うん。……そうなんだけど、ぼくらだけじゃなくって、パパとかママとかもイジワルされちゃうんだって。ゆあちゃんそんなのイヤでしょ?」
「いや―――っ!」
小さな結愛が大きな声を張り上げて答えた。
自分たちが強く願ったことが現実のものとなる”願いごと”。収友は自分たちが持つそのチカラが表に出ることで父や母が”差別”されることに強い恐怖心を抱いた。愛する父と母が”差別”されないために、収友はどうしてもこのチカラのことを秘密にしたかった。できることなら結愛を怒鳴りつけ無理矢理にでも押さえつけたかったのだが、何とかその気持ちを抑えて結愛に柔らかい表情で話しかけた。
「僕もそんなのイヤだよ。だからさ、パパやママをまもるためにも”お願いごと”ができるってゆうことは僕とゆあちゃんの二人だけのひみつにしよ?」
「……うん」
結愛は少し間を置いてそう答えた。結愛のその答えを聞くと、収友は安心した表情を浮かべて、もうひとつ言葉を付け加えた。
「”お願いごと”をしちゃダメってことじゃないんだよ。それができるってことを僕たちだけのひみつにするんだ。結愛ちゃんはできるよね。だってぼくより強いんだから」
「うん、できるよ。ゆあ、ぜったいゆわない。だからもいっかいやろ」
「うん、いいよ」
二人はカードを持って再びゲームをし始めた。
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