極星 青と赤 《希望の山羊》

春野 サクラ

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それから何年かが過ぎ、収友は小学五年生となっていた。
その頃の収友は、毎週土日になると自宅から遠く離れたところにある遊水地公園まで一人で自転車を漕ぎ、そこで一日中草木や昆虫を観察していた。
晴れ渡る穏やかな日曜日。この日も収友は昼過ぎに家を出ると、午後二時ごろに公園に着き、当てもなくだだっ広い公園の中を歩き回っていた。
「おおっ、オオカマキリだ。やっぱり大っきいなあ!」
低木の葉に隠れるように佇んでいたカマキリの姿を見つけると、楽しそうに身を乗り出して興味深々に覗き込む。カマキリは首をひねらせ収友を睨みつける。収友は持参した図鑑を取り出すと、カマキリのページを開いた。
「ふーん、なるほど……。ええっ! カマキリってカエルとかも食べるの? へぇー。昆虫が両生類を食べちゃうんだぁー」
そして触るでもなくジッとカマキリを観察した。

日も傾きかけた午後四時近く。およそ視界の届く範囲には人の気配というものはなく収友は一人、芝草で覆われた堤防の斜面に寝ころんだまま移りゆく空の模様を眺めていた。
暖色系の色が混ざり始めた青い空には、ねぐらに向かう鳥の群れが流れる。空を漂う白い雲にはうっすらと夕日の光が映り込んでいく。
「……はーあ。これからまた一時間かけて帰るのかー。なんかめんどくさいなぁ」
収友が寝ころんだまま背伸びをしてそう呟いた時、北の方角から堤防の悪路を走る車の音が聞こえてきた。収友は寝ころんだまんま頭上を走る未舗装の道の方に目を向けてみると、車は収友が寝ころぶその場所から少し先のところで停まった。
「……?」
何の気なしに収友はその軽自動車を見つめた。すると、エンジンをかけたまま車の運転席から中年の男が下りてきて、後部座席を開いたかと思うと子犬を取り出しそのまま堤防の方めがけて子犬を放り投げた。
子犬は放物線を描いて雑草が繁茂する草むらに落下すると、にぶい落下音とともに小さな悲鳴をあげた。
〈えっ? 犬……捨てた?〉
収友は目を大きく見開くと、思わず身を起こした。中年の男は振り返らずいそいそと車に乗り込むと、何もなかったかのように車を発進させた。
収友は犬が投げ捨てられた草むらに向かって猛然と駆け寄ると、そこには幼い赤毛の子犬が尻尾を丸めてうずくまっていた。
「あンの、やろォォォ――……」
怒りに震える手で子犬を抱きかかえると、収友は勢いよく堤防を駆け上がって遥か彼方にある軽自動車を真っ直ぐ睨みつけた。
「ゆるさないィィ……。絶対にィ、許さない―――――――ッ!!」
青白い霧のような気体が溢れんばかりに収友の全身から湧き出てくると、そのまま勢いよく渦を巻き始めた。栗色の短い髪の毛が風に巻き上げられたかのように激しく逆立ち乱れ、時おり寒色の放電が身体を走り抜ける。子犬の怯える泣き声ももはや耳に届かないほど強い怒りに収友は飲み込まれた。眉間に深くシワを刻み、獲物の喉笛に食らいつく野獣の如く歯をむき出しにした収友の紺鉄色の瞳が一気に白銀に輝いた瞬間、収友の足元から何本もの青白い閃光が波打ちながら疾風の速さで車に突き刺さった。
ガラスの割れるような音が微かに大気に響くと、遥か彼方を走っていた車が突然、爆発音とともにオレンジ色の炎に包まれた。
「!」
その衝撃的な光景が瞳孔に投影されると、収友は一瞬で我に還った。赤い炎とともに黒煙を立ち上らせた車は、そのままゆっくりと斜面を転げ落ちて収友の視界から消えていった。
〈あ……あぁ……。あああ……あ……〉
収友はその場に立ちすくむと、目を見開いたまま奥歯をカチカチと激しく鳴らし唇を震わせた。心臓が破裂するほどに激しく脈打つ。足の震えが止まらない。瞳に映る黒い煙が収友の身体を無理やりその場に釘付けにする。
〈逃げなきゃ。……にッ、逃げなきゃッ!〉
頭の中にその声がこだますると、収友は拳で太ももを思い切り叩いた。
「痛っつ!」
痛みが走る。やっとの思いで反応し出した足を持ち上げると転げ落ちるように斜面を駆け下りた。そして無我夢中に子犬を自転車のカゴに押し込むと力の限りペダルを漕いだ。
〈急げェエ――――――ッ!〉
遠方から立ち上がる黒い煙を背に、小さな砂利をまき散らしながら収友の自転車は公園の出口を目指した。

人の通りも少なくなった午後七時過ぎ。辺りがすっかり夕闇と化したころ、収友は疲れ果てた顔で自宅に戻って来た。門扉を通り抜けて自転車をいつもの定位置に置くと、収友は家の中には入らずその場にしゃがみこんだ。そして両手で頭を抱え込んだまま小さくうずくまる。
〈ち、違う……。違うんだ。そんなつもりじゃなかったんだ。あんなこと、するつもりなんてなかったんだよッ! カッとなって、抑えられなかったんだよ! しょうがなかったんだよッ! だって。……そ、そうだ、僕が悪いんじゃないッ! 犬を捨てたアイツが悪いんだ! なんであそこで犬を捨てたりなんかしたんだよッ。あんなことしなければ、アイツがあんなことさえしなければこんなことにならずに済んだんだッ!〉
子犬は行儀よくカゴの中で丸くなっている。収友は頭を抱えて丸くなりながら心の中で自分の行動を何とか正当化しようとしていた。
「ん? 誰? ……誰かいるのッ」
明日夏がおどろいたような声を出して玄関前で立ち止まった。収友はその声に驚くと、抱えていた頭を上げて声のする方向に目を向けた。玄関の照明がそこから遠く離れた収友のうずくまった姿をぼんやりと照らし出す。
「収……ちゃん? ど、どうしたのよ、そんなところにうずくまって」
明日夏は安心した様子で優しく微笑むと、収友のそばに歩み寄った。
「ん? あれェ? ワンちゃんじゃない! どうしたのよ」
「……うっ、ううっ」
収友は急に涙を流し出し、立てた膝と膝の間に顔を埋めた。明日夏はその姿を見つめると、膝を落として収友の頭を両手で優しく包んだ。
「飼うな、って怒られちゃったのかな? ふふっ。……大丈夫よ、収ちゃん。私がお父さんにお願いしてあげる」
「うええっ……」
「……収ちゃん。私はあなたのことが大好きよ。あなたのためなら何だって手伝うわ。……だから、もう泣かないで」
明日夏はそのカサついた、傷だらけの指でカシミアのように細く柔らかい栗色をした収友の髪を優しく梳かした。
「ええっ……うっ。……うぐっ」
収友は手の甲で涙を拭くと、静かに立ち上がった。そしてカゴの中にうずくまっている子犬を抱きかかえて明日夏と一緒に玄関の方に足を進めた。
「ただいまー」
「おう、おかえりィ。なぁ、収友見かけなかった? あいつまーだ帰ってないんだよ。まったく、どこまで行きやがったんだか」
陽生が心配そうな顔で明日夏に尋ねる。
「え? あ、収ちゃんなら後ろにいるわよ」
明日夏は後ろにいる収友を前に連れ出した。
「おおっ! なんだよ、収友遅かった……ん? おい、どうしたんだよ、その犬」
「ニーさん、あのね……」
「ずいぶんとかわいい犬だなー。収友が拾って来たのか?」
下を向いて黙っている収友をよそに、陽生はそばに歩み寄って子犬の頭をしつこいくらいに何度も撫でた。
「え―――っ! 犬いるの? 犬―――ッ!」
リビングでテレビを見ていた結愛はソファから飛び上がると、一直線に収友の元に駆け寄ってその胸に抱かれている犬の頭を丁寧に撫で回した。
「かわいいー。おにーちゃん、ちょっと貸してよー」
そう言うと、結愛は収友から赤毛の子犬を取り上げた。
「結愛、知ってるかー。犬の中では赤毛の犬が一番おいしいんだってさー」
陽生は冗談めいた顔で結愛に話しかけた。
「だめっ! この子は結愛が育てるのっ」
結愛は犬を抱いたままリビングの方に歩いて行った。
「ニーさん。あの子犬、ウチで育てようと思うんだけど……」
「あっそう。あーちゃんがそう言うんなら、それでいいんじゃないの。別に俺は何も言わないよ。よかったな、収友。但し、ちゃんと育てるんだぞー」
陽生は収友に向かってニコッと笑うと容子の手伝いに戻った。
「え? ……あ、あれ? ニーさん。……いいの? 犬連れてきても」
明日夏は拍子抜けした顔で陽生を見つめた。
「んぁ? なんで? 俺がダメって言うことじゃないだろ?」
「あ。……そう」
陽生の返した言葉に、明日夏は思わず視線を収友の方に向けた。栗色の柔らかい髪を持つ少年は何も言わずうつむいたままでいた。
〈どういうこと? ……もしかして、ニーさんに話すこともできなかったってことなの? ははーん。なるほど。収友って、案外気がちっちゃいのかなぁ〉
明日夏はそんな事を思いながら頬を緩めてクスッと笑った。そして愛しそうに収友の頭を優しく撫でた。
「……僕、今日はもう寝る」
収友は短い言葉を吐くと、逃げるようにそのまま寝室へと歩き出した。
「ん? 収ちゃん、どっか調子が悪いの?」
「……なんともない」
明日夏の問いかけに収友は言葉少なく返答し、寝室に入っていった。明日夏の心配をよそに、リビングのソファでは結愛が楽しそうに子犬とじゃれあいをしていた。
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