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「行ってきまーす」
月曜日。明日夏がいつものように大騒ぎで出掛けるのを見届けると、陽生は収友と結愛が眠っている寝室のドアを開け、中に入る。そしてスヤスヤと気持ちよさそうに眠っている二人のほっぺを擦りながら起こしてゆく。
「結愛ー。朝だぞー」
「……んん。むにゃにゃ。ん~。……パパぁ、ねむいぃ……」
布団の中で背伸びをすると、寝癖のついた短い髪をポリポリと掻いて結愛が起き上がる。
「収友ー。朝だぞぉ」
「……パパ。……何だか、気持ちが悪いよ」
収友は布団に包まったまま、小さな声でそう答えた。
「え? 大丈夫か? 病院行くか!」
陽生は布団の上から心配そうに収友に声をかけた。
「少し寝てれば……直るかも、しんない」
「……そっか。じゃあ今日は学校休むか?」
「うん。……休みたい」
「よし、わかった。それじゃ、今日は安静にしてるんだよ」
そう言って陽生は布団からはみ出た収友の黒髪を優しく撫でた。
「えーっ? お兄ちゃん休むの? パパぁ、結愛も調子悪いなあ」
「そうなの? じゃ、休むか?」
「やっぱ行くー」
そう言うと、結愛は布団から跳ね起きて陽生と一緒に元気よくダイニングに向かって行った。
静かになった寝室で一人、収友は包まった布団の中で昨日の事を考えていた。
〈……どうなったんだろ。……あの後、あの車どうなったんだろ。もしかしたらあの現場、誰かが見てたんじゃないのか? 通報とかしたんじゃないのか? それで警察とかがウチに来るんじゃないのか? そしたら……そしたら僕、どうなっちゃうんだよ!〉
収友は頭を抱え込むと、まるで洗髪するかのように思いっ切り頭を掻きむしった。そして食いしばった歯の間から、重たい息が漏れ出る。
〈でも……そんなこと言ったって僕は悪くないッ! カッとなって、それで気がついたらあんなことになってただけなんだッ。そ、そうだ、そうだよ、僕は手を出してない! 僕は何にもしてないんだッ!〉
布団の中でうずくまり、息を切りながら収友は、必死に逃げ道を模索していた。

結愛が元気に登校し、容子も散歩に出かけた午前十時過ぎ、玄関の開く音が聞こえた。
「ただいまー」
明るい声とともに夜勤明けの葉奈が家に帰ってくると、その声を待ちわびていたように家の奥から陽生が顔を出す。
「お帰り、葉奈」
陽生はにこやかに微笑むと、葉奈をねぎらった。
「ただいま。……今日は随分静かね。陽生一人なの?」
葉奈の問いかけに陽生は無言で首を横に振る。そして右手の親指で背中越しに奥の部屋を指さした。
「収友が調子悪いんだって。熱とかは無さそうなんだけど、昨日から少し寂しそうな感じだったからさ、もしかしたら葉奈に甘えたいのかなぁ。まぁ、それはいいとして、ちょっと出かけてくるからさ、収友のことよろしく頼むね。あ、あと、家族が一匹増えたんだ。……収友が拾ってきたんだわ」
小さな声で葉奈に話しかけると、陽生はカバンを持って葉奈と入れ替わるように玄関を出て行った。
葉奈は陽生からのメッセージを受け取ると、ダイニングに向かった。
「あら。あなたが我が家の新しい一員さんなのねー」
”イチ”と名づけられたその子犬は、葉奈を見つけるとリビングのソファから飛び下りて嬉しそうに葉奈の足元に駆け寄ってきた。葉奈はイチを抱きかかえると、そのまま一緒に収友の様子を見に行った。
「収ちゃん、調子どう?」
優しい母の声が収友の耳に入ると、浅い眠りに落ちていた収友は反射的に布団から顔を出した。
「マ、ママッ? お、お帰りッ」
葉奈は寝室の扉から顔を出して収友の様子を窺った。
「ただいまー。学校お休みしたんだって? ……熱とかは無いの?」
「……う、ん。……ごめんなさい、ズル休みしちゃった」
収友は横を向いて沈んだ表情を浮かべた。
「そう。……何か食べる? ちょっとお話ししよ。この子も一緒に」
「……うん」
収友は布団から抜け出すと、パジャマのまま寝室を出てダイニングのテーブルに着いた。
「どうぞ」
葉奈はダージリンを注いだマグカップを収友に差し出す。
「……」
収友はぼんやりとカップの中の紅茶を見つめる。カップの口から漂う白い湯気とともにマスカットのような華やかな香りが収友の鼻をくすぐると、沈んでいた気持ちがほんの少しだけ落ち着いた感じがした。
「学校、どお?」
葉奈は自分のカップをテーブルに置くと収友の正面に座った。
「……うん。別に、変わりないよ」
マグカップの中に視線を落としながら控えめな言葉を出す収友を葉奈が眺める。
「収ちゃんは優しいからね。……いつも周りに気を使っているし、そういうところパパにそっくりよ」
「そんなこと……ないよ」
収友はマグカップに口をつけた。今度は葉奈がカップの中に視線を落とす。
「ママが……小児科ってところでお仕事してるのは知ってるわよね」
「うん」
「……昨日ね、ママがずっと診ていた子が……亡くなっちゃった。やっと……この前、やっと五歳になれたのに」
テーブルに一粒、涙が落ちる。
「元気になってまたあの笑顔を見せてほしかったのに……ママは、何もできなかった。何も、なにもできない自分。……挫折感で、頭がいっぱいになる」
葉奈は目を赤くしながらも顔を上げて収友に笑顔を見せる。
「……でもね、あなたたちの存在がママを救ってくれてる。こんな臆病なママに明日も立ち向かう勇気を与えてくれてるの。ありがとね、収ちゃん。あなたがいてくれるだけママはほんとに幸せよ。……本当はこうやっていつもお話ができればいいんだけど」
収友は軽く笑顔を作ると、こう答えた。
「大丈夫だよ、ママ。……僕、今からでも学校、行こうかな」
「どちらでもいいわ。あなたが元気になれる方を選んでくれれば」

「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。夕飯はみんなで一緒に食べようね」
愛情あふれる葉奈の言葉を胸に抱いて、収友は小学校に向かった。
小学校までは、自宅から歩いて二十分ほど距離。収友は住宅街の市道を通って、比較的広い県道に出る。その道を真っ直ぐに歩いて行くと、左手に公園が現れる。収友は何の気なしにその公園を横目で見る。誰もいない公園にそびえ立つ二メートルほどの高さの時計塔が、午前十一時を指し示す。 
「……ん?」
収友はカラフルな色をした複合遊具のすべり台の足元に子どもが座っているのを見つけた。
「誰かいる。……ん? ジョン君? ジョン君じゃないか」
収友は向きを変えて公園に入っていった。
「ジョンくーん」
隠れるように座っていたジョンがびっくりして立ち上がった。
「はあッ……。あ、にか、にか……くん」
「どうしたの。こんなところに座って……」
「……あ、う、うん」
ジョンはしゃがみこむと身体を丸めてたどたどしい日本語を口にした。
「わか……ないよ、にほんご。……わかないから、……がっこ、いくたくないよ」
収友はジョンが口にした心の叫びを耳に入れると、その場に腰を落とした。
「僕もさ、今日学校行きたくなかったから休んじゃった。……ジョン君と同じだよ」
ジョンは顔を上げて収友を見つめた。
「ジョン君。僕と一緒に日本語おぼえようよ。そうすればがっこも楽しくなるよ」
「え? い……いの? おしえるくれるの?」
「うん。だって、僕たち友達でしょ?」
収友は右手をジョンに差し出した。ジョンは目を大きくして何度もその手を見返すと、恐る恐る収友の手を握った。
「あり……あり、がと」
「ジョン君。今からでも一緒に学校、行ってみない? 学校でいっぱい話せばいっぱい日本語覚えられるよ」
収友は手を握ったまま立ち上がると、ジョンを見つめた。
「……う、うん」
ジョンは恥ずかしそうな顔で立ち上がった。

歩道を歩きながら二人は会話を交わす。
「ママに……会いたいで、にほんきた」
「そうなんだ。よかったね、ママと一緒になれて」
「でもママ、しごとおそい……」
ジョンはうつむいて寂しそうに言葉を出す。
「……僕のママも、ウチに帰って来たり来なかったりなんだ。……寂しいよね。でも、ありがとうって思わないとね。僕たちのために働いてくれてるんだからさ」
収友は空を見上げながらジョンに話しかけた。
「siya nga pala(そう言えば)!」
不意にジョンが叫んだ。
「にか、くん。ぼくにやさしい。ぼく、にかくんに、やさしいする」
そう言うと、突如ジョンは道路脇に植えられた街路樹の幹に両手をそっと置き、目を閉じて母国語で何かを話し始めた。
「mangyaring protektahan……(お守りください……)」
ジョンは言葉を出しながら幹を擦った。その、儀式のような行為を数回繰り返すとジョンは振り返って収友を見つめた。
「だい、ち? あの、だいちに、おねがいした。にかくんまもってするよう……」
「えっ?」
ジョンは真剣な顔で収友を見つめた。
「ぼくの、おじいさん? お、おしえたくれた。やさしいされたらやさしいする。ぼくのくに……の? やさしいこと。だいちにおねがいする。このき、あのき、あのき、みんなだいち。ぼくを、にかくんを、みんなをまもるだいち。とてもまもる。……ありがとだいち。ありがとにかくん」
ジョンが話したそのたどたどしい日本語が、強烈に収友の胸に突き刺さった。
〈木が、大地。……木が……大地。緑の大地。…………ぁぁあああああ――――――ッ!〉
栗色の髪をかき乱す大きな風の流れともに突然、収友の目の前に広大な深い緑の森が広がった。何千㎢も続く緑の世界。地上高くそびえ、無数の葉を携えた巨大な樹木達。そこに鳥が羽を休め、小動物が駆けずり回る。無限とも言える自然の営みが循環する、息吹溢れる楽園。収友の意識は樹木の先端、梢を通って幹に滑り落ちる。そしてゆっくりそのまま主根、その先の側根、細根へと進み、大地の奥深くへと溶けてゆく。
”サラサラ、サラ……”
何処からか地下水の流れる音が聞こえてくる。その音に意識を集中させると、収友の意識が地下水と一体になった。淀みなく流れる地下水が地上に染み出し湧水になる。そこに苔や水草が生まれると、どこからともなく昆虫や両生類が集い、捕食者も姿を現すようになり多様な生態系ができあがる。……そう。ひとつひとつの命が懸命に輝きを放ち、そして燃え尽きる。
ふと、目の前がまぶしく光り、その光に包み込まれる様に収友の意識が白く染まると、いつの間にか現実の世界に戻ってきた。
「……はああぁ、ああぁ。……み、見えた。……見えたよッ、今ッ! 木が、森が、……緑がこの世界を作っているっていうことを。……そうだ。そうなんだ――――――ッ!」
収友は何かを悟ったかのような目でジョンを見ると、力強くすがすがしい笑顔で叫んだ。
ジョンが戸惑ったような表情で収友を方に目を向けると、収友は口角をあげてジョンに言い放った。
「ありがとう、ジョン君。君のおかげで、君の友情のおかげで僕は自分の進むべき道が見えたよ。……もう、あんなちっぽけなことくらいじゃ、僕はビクつかない!」

「たーっだいまー」
午後八時過ぎ。リュックサックを背負った明日夏が帰宅した。
「はーあ、疲れたァ。……もう年かなぁ」
明日夏は一人つぶやきながらダイニングのテーブルに着いた。
「あぁ、お帰り。あーちゃん」
陽生がキッチンから明日夏に声をかける。
「あっ、お帰りなさい。あーねーちゃん」
リビングのソファで結愛と一緒にテレビを見ていた収友が明日夏の方に寄ってくる。
「あっ、ただいまぁー。収ちゃん」
さっきまでしかめっ面だった明日夏の表情が一転してにこやかになった。
「ねぇ。あーねーちゃんって、休みの日に木を植えに行ってるんだよね?」
「うん、そうよ。なーに? 収ちゃんもやってみたい?」
「……うん。僕もやってみたいんだけど、……ダメかな」
「ホント! ダメじゃないわよッ。やろう、一緒に!」
明日夏は満面の笑みを浮かべて収友に答えた。

それからというもの、収友は日曜日になると、度々、明日夏と一緒に植樹活動に出掛けるようになった。
この日も明日夏と収友は、一緒に活動している仲間が運転するバンの後部座席に並んで座り、現場に向かっていた。
「あーねーちゃん。今日はどんなことをするの?」
「今日はね、山の剥げた場所に落葉樹を植えたいって相談があったんで、地主さんを連れて落葉樹を植えるための現場確認と土の調査をするの」
「ふーん。……この前もおんなじようなことしてたけど、山に木を植えるようなことはしないの?」
「ふふっ。収ちゃんって、もしかして植林と植樹を同じもんだって考えてるんじゃない?」
「え? 違うの?」
「植林は商売よ。育った木を切ってそれを売ってお金にして、空いたところに苗木を植えるの。それの繰り返し。植樹はね、木にずっと居てもらうのよ。切るなんてことはしない」
「……そうなんだ。全然知らなかったよ僕。だったら、植林じゃなくて植樹のほうがしたいよ」
「うん、そうよね。……収ちゃん、植樹ってゆうのはね、山の中だけでやるとは限らないの。街なかの場合もあるし、堤防に植える場合もある。海の防波堤の場合だってあるし。……でもね、ただ植えればいいってもんじゃないのよ。そこの土が水はけが悪かったり、ほぐれてなかったりしたらせっかくの苗木も育たなくなっちゃうの。だからきちんと調べて最高の土壌にしてから苗木を植えてあげるの。もちろん、植えた後のメンテナンスだって大切な仕事よ」
明日夏は優しい眼差しで収友に語った。
「でも、明日夏さんの持ってくる苗木はすごいですよねー。結構ひどい土でも定着しちゃいますもんね。この前のあそこだって、大丈夫かなーってみんなで言ってましたけど、定着してましたからねェ」
助手席に座っている女性が振り向いて明日夏に話しかけた。
「そうね、あれは私もダメかなーって思ってたけど、よく定着してくれたわ」
「明日夏さんはどっからあの苗木を買ってるんですか?」
「ううん、買ってないわよ。森に落ちてたドングリをちょこっと拝借して増やしただけだから」
「でも生きが良すぎですよー、あれは」
「……あのドングリは特別なの。大切な想いが詰まってるからね。……大切な物語とともに」
明日夏は懐かしむように車窓から見える風景に視線を移した。
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