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翌日。午後も一時を回った頃、明日夏の勤める動物病院にほど近い公園で陽生は一人、ベンチに座っていた。一組の親子がブランコで遊んでいる以外は誰もいない穏やかな午下。
「ニーさん! 遅くなっちゃった、ごめーん」
明日夏が小走りでやって来る。陽生はベンチから立ち上がると恐縮した顔で出迎えた。
「いやいや、そんなことないよ。こっちこそ急に電話しちゃって申し訳なかった。サンドイッチとか買ってきたからさ、食べようよ」
「え? どうしたの。ここで食べるの?」
「うん……まぁ。ちょっと、話したいことがあってさ」
そう言うと陽生はベンチに腰を下ろした。
「そう。……実はさ、私も話があるのよ」
明日夏は陽生の隣に並んで座った。
「そ、そうなの。……なに、話って」
「うん。……あのね。私、家を出ようと思ってる。ってゆうか、家を出るの」
「ええッ? な、なに! 何で? も、もしかして……俺たちが邪魔だったとか!」
陽生は声を裏返すと、明日夏の方に身を乗り出した。
「えッ? ち、違うわよッ。そういうんじゃないわよー」
明日夏は仰け反りながら手を振った。
「……あのね。前々からニーさんには言わなきゃ、って思ってたことなんだけどさ。……実はね、G県のT市ってところでね、山林を壊して大規模な太陽光発電施設を建設しようとしてた事業者がいたんだけど、住民運動であえなく頓挫しちゃったところがあるのよ。でもね、事業者は森の木を伐採したまんま逃げちゃって、山肌は丸裸のまま。雨が降ると土砂崩れが起こっちゃってね。それでどういうわけだかそこのNPOから私あてに植樹についてアドバイスしてくれっていうオファーが前々から来てたのよ。最近、収友を置いて出掛けてたけど、実はその関係の打ち合わせをしてたの。……あの場所はね、森の動物たちが本州の東側と西側を回廊する上でとっても、とっても重要なところなの。本当になくてはならない場所よ。伐採された範囲も桁違いに広いし、今の仕事をしながら月イチとか片手間にできる仕事じゃないわ。……私だってもう年だしさ。この先のことを考えたら、もしかしたらこの植樹活動こそがこれからの残り少ない私の人生のライフワークなんじゃないのかな、って思えてきたの。……だから、向こうに住処を移すことに決めたの」
「い、いつ、いつ行くんだよ!」
「そうねェ。……もう住むところも決めたから、遅くても今月中には引っ越すわ。病院にももう辞めることは伝えてあるし、あの家にはもう戻らないと思う。だからあの家の権利は全部ニーさんに渡すわ。好きに使って」
「それって……本当のことなのかッ? あ、ありえない。こんな……こんな偶然があるなんてッ」
陽生は明日夏の話を聞くなり落ち着きなくキョロキョロと頭を動かした。
「はぁ? 何かあったの? 偶然、って……」
自分自身を落ち着かせるように陽生は唾を飲み込むと、明日夏の顔をじっと見つめて話しかけた。
「じ……実はあーちゃんにお願いがあるんだッ。その……引っ越し先に、結愛か収友。どっちでもいい、とにかくどっちでもいいから連れてってくれないか!」
「ええッ? ……何で?」
「真面目な……ホントに真面目な話をするからさ、笑わないで聞いてくれ」
そう言うと陽生は息を整えてゆっくりとした口調で話し始めた。
「もう何カ月も前の話になるんだけど。俺は……見ちまったんだよ。偶然、結愛と収友がリビングでケンカしてるところを。ア……アイツら……二人とも異様な光に包まれて、そんで超能力みたいな力でお互いを攻撃してるみたいだった。火花を散らせて……獣のように目を光らせていた! お、俺……思ったんだ。なんでアイツらにあんな力が宿ってるんだって。もしかしたらアイツらのあの力って、葉奈のチカラに何か関係してるんじゃないのかって。だから、あの一件をある大学の教授に相談してみたんだ。……そしたら……古い書物の中に、葉奈の一族と思われる人物の記述が幾つかあることを……教えてもらった」
「……え? ……な、何なの? どういうことなのッ」
「その古い書物には、人に尽くし果てて我が身を滅ぼした尼僧が、化物の力で”白い女”に生まれ変わったって書いてあったそうだ……」
「……白い、女?」
明日夏は口を半開きにしたまま眉間に深い皺を寄せて陽生を見つめた。
「……そのうえご丁寧にその”白い女”が死んじまうと、次に現れるのは、憎悪の塊のような強烈な悪意を持った”白い女”が生まれてくるんだってよ。そして……それだけじゃない。アイツら二人がこのまま一緒にいると、遅かれ早かれ反発しあうことになるかもしれないって言ってた。俺たちの想像を超えた反発……殺し合いかもって」
陽生の疲れ果てた表情を一瞥すると、明日夏は考えるように視線を下に落とした。
〈言われてみれば、確かに収友と結愛は性格……っていうか気性が違いすぎるわね。度が過ぎるほどに潔癖で過度なほどに自然を大事にする収友。愛嬌はあるけど何事もいい加減で物を大切にしない結愛。……水と油〉
「どっちでもいい。……どっちでもいいから、明日夏の好きな方を……一緒に連れてってくれないか」
陽生はうな垂れたまま必死に声を出した。
「……ニーさん。葉奈ちゃんにはこの話、したの?」
「話した。……葉奈も、賛成してくれた」
「……そうなんだ」
さっきまでブランコで遊んでいた親子もいつの間にかいなくなり、公園には二人の姿だけが浮かんでいた。
「ニーさん。……どっちでも、いいの?」
「どっちでもいいッ。あーの好きな方を選んでくれ! アイツらには……明日夏一人じゃ心配だから、どうしてもついて行ってくれって言うつもりだ。反対は……させない」
「…………」
明日夏はしばらく黙って下を向いていたが、おもむろに顔を上げて真剣な眼差しで口を開いた。
「私……収友を連れて行くわ」
〈……やっぱりな〉
「でも、来月に入ったら高校の入試があるんじゃないの? それでもいいの?」
「今日にでも収友には話をするよ。……県外の高校の入試日程は分かんないけど、取りあえず話だけはしておかないと」
「そうね。……それじゃ、ニーさん。サンドイッチは遠慮なくもらって行くわ。私、仕事に戻るね」
明日夏はサンドイッチの入ったきつね色の紙袋を手に取ると、そのまま公園を後にした。……陽生は、振り返らず歩き去ってゆく明日夏の後ろ姿をベンチに腰を落としたまま静かに見つめていた。

その日の夜。静まり返ったダイニングを通り、陽生は収友の部屋に向かう。ドアのすき間から部屋の灯りが漏れ出ているのを確認すると、陽生は部屋のドアを小さくノックした。
「収友。ちょっと邪魔していいかい?」
ベッドの上でイチとじゃれ合っている収友が、部屋の外からの声に気付く。
「……うん」
陽生はドアを開けて中に入る。
「悪いな。ちょっと……話があるんだ」
「……なに?」
収友はイチを抱き抱えて膝の上に置いて、少し警戒したような顔をした。陽生は床に腰を落とすと、少し間を置いて話し始めた。
「……実はな。明日夏おばさんがもうすぐこの家を出ていくそうなんだ」
「エッ! 何でッ!」
その言葉に収友は勢いよくベッドから腰を上げた。
「うん。何でも、G県に荒れた山があってさ。そこでの植林活動に専念したいんだって。ここにはもう……戻ってこないらしい」
収友はベッドにイチを置くと、不機嫌な表情でベッドから降り、部屋から出ようとした。
「おい収友! ちょっと待てって! 話を最後まで聞きなよッ」
陽生は収友の左の袖を思わず掴んだ。
「あーねーちゃんに直接聞くッ!」
収友は陽生を睨みつけた。
「おばさんのこと、守ってくれないか。収友」
「えっ?」
「……話しするからさ、取りあえず座れよ」
収友の袖を放すと、陽生は床を指さして収友に座るよう促した。収友は落ち着きを取り戻すと、黙って陽生の正面に向かってあぐらを組んだ。
「おばさんは向こうに行くって言ってるけどさ。実際、おばさん一人だけだと父さんだって何かと心配なんだよ。それで収友をお供にどうかなっておばさんに話してみたらさ、来てくれるんならとっても心強いって言ってくれたんで、こうして収友に話を持ってきた訳なんだよ。……まぁ、収友は収友で来月高校の受験があるだろ? お前が今大事な時期だってことぐらい十分分かってるところなんだけど……どうかな?」
収友は真剣な顔で不愛想に答える。
「……別に高校になんか行かなくてもいいよ。僕はあーねーちゃんと一緒に行きたい」
陽生は苦笑いする。
「まぁ、お前は高校なんか行かなくったって立派に生きていけるんだろうけどさ、それじゃおばさんは連れてくって言わないぞ」
「なんでッ」
「明日夏おばさんだって収友がそんなことになったんじゃ心苦しく思うに決まってるじゃないか。だからさ、もし行ってくれるのなら高校に合格して、きちんと中学を卒業してほしいんだ。これは……俺と、母さんと、明日夏おばさんからのお願いなんだ」
収友は少しむすくれた表情をしながら口をとがらせて答えた。
「……向こうの県立高校、今からでも願書出せるの?」
「あ、ああ。調べてみたら来月の一日まで受け付けていたよ。取りあえず願書出してみるか」
収友は黙ったまま軽くうなずいた。
「じゃあ、今は勉強頑張ってさ、中学卒業したらすぐにおばさんのところに行こうな。三月の卒業式なんてあっと言う間に来ちゃうから、そんなに焦るな」
陽生は収友に声をかけると、立ち上がって部屋を出ていった。
「……」
収友は不機嫌な顔つきでベッドに横たわる。待ち構えていたようにイチは収友の腹の上に昇ると、その上で丸くなった。
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