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それから一年後。結愛は赤心学園中等部を卒業し、四月から高等部に進学した。
本校舎を横断する、一直線に延びた長い歩廊。漆黒のセーラー服を身にまとい、結愛は腕を振って元気よく廊下を闊歩する。肩下まで伸びた輝く黒髪が光の粒子を振りまきながらそよ風になびくように柔らかく揺れる。真珠色した肌は深く気品ある潤いに満ちあふれ、深紅を帯びた瞳が神秘的な雰囲気を漂わせる。その姿を見るにつけ同級生や上級生たちは羨望し、憧れの眼差しを向けた。果たして……チカラを持つ者の所為なのか、それとも天真爛漫な結愛の笑顔のせいなのか。こんなにも大勢の人がいる中で結愛に好意を持つ者はいても、嫉妬や妬みを持つものは誰一人としていなかった。

「おっはよ――!」
結愛は跳ねるように教室に入ると、クラスメイトに向かって大きな声で挨拶をする。
「あ、結愛ちゃん。おはよう」
「結愛ー、おはよー」
四月に入ってまだ日も浅いクラス。同級生たちは結愛の姿を見つけると、釘付けになってその目で追いかける。そして結愛が席に着くと、数人の同級生が間髪入れずワサワサと結愛の席に歩み寄ってくる。
「二賀斗さーん。おはよー」
「んー。おはよー」
「ねーねー。二賀斗さんって、もしかしてどっかの芸能事務所とかに入ってるの?」
「んへ? んにゃ、入ってないよぉ。……何で?」
「エッ? 何でって。……だって、すっごいかわいいからァ」
結愛は目を丸くしてその同級生の顔を見る。そして突然、小さな口を大きく広げて笑い出した。
「アッハハハ―――! そーんなァー。あったしなんかじゃスーパーのチラシにだって載れないよォ。アハハハッ!」
口を大きく広げた屈託のないその笑い方に、話しかけた同級生たちが仰天した顔をする。
「コラ――ッ! そういう笑い方するなって言ってるでしょー!」
何処からともなく結愛に向かって声がかかる。
「あちゃー。……あるみちゃあーん。聞こえちゃったのねェ」
結愛は声に反応して身構えた。
「まったくもォ。豪快過ぎんのよ、あんたの笑い声はァ。顔に似合った笑い方しなさいよねー」
中等部からの同級生、雉乃木あるみが脇から顔を出す。
「びっくりしたでしょ? この顔でこんな笑い方するからさ。 実際、私も初対面の時は引いたわー。黙っていればお嬢さまに見えるのにねェ」
あるみは結愛の頭を撫でながらそう言った。
「すいませんねぇ。育ちが悪いもんでェ」
「ほんとにねぇ、もう少しおとなしかったらどこに出しても恥ずかしくない娘だったのにィ。……ママは残念よッ!」
あるみは腕を顔に当てて泣く素振りを見せる。
「ママ! 心配しないでッ。私、ママのそばを一生離れないから!」
「やめんか――い! あんたと居たってイイ男はみんなあんたの所に行っちまうんだから、あたしが一生独身になっちまうやないかい!」
あるみはすかさず手のひらで結愛の肩にツッコミを入れた。
「アッハハハハ――――!」
結愛とあるみは揃って大笑いする。
「……この人たち、いいコンビだわ」
「そうね。できあがってるよ」
同級生たちは顔を見合わせて苦笑した。

G県T市郊外。
何処までも続く田園風景の中、収友を乗せた小型の巡回バスが田舎道をのんびりと走る。開けた窓から流れ込む心地よい風が、耳までかかった収友の髪を掻き上げるように揺らす。自分以外に誰一人乗客のいない車内で収友は立て肘をついて車窓から見える風景をぼんやりと見つめていた。
しばらくしてバスは停留所で停車をした。乗降口が空気の圧縮音とともに折りたたまれて開かれると、紺色のブレザーにストライプの入ったえんじ色のネクタイをつけた収友が下りてくる。
「……んぁあー」
停留所で軽く背伸びをすると、そのままネイビーのスクールバッグを右の肩に乗せ、ズボンのポケットに両手を突っ込み歩き出す。スラリとした長身の形姿から長い影が進行方向に伸びる。ふと夕暮れの空を見上げると、ねぐらに向かって飛んでいくカラスの群れが見えた。辺りには点在する民家と田起こしされた田んぼが広がっている。舗装されたアスファルトの歩道を数十分黙々と歩くと、やっと我が家にたどり着いた。
四方を申し訳程度の生垣で囲まれた古びた平屋の居宅。市役所の住宅課で斡旋された空き家を借り受け、明日夏と収友はここで生活をしている。
「あーねーちゃん。ただいまぁ」
南に面した庭でしゃがんで苗木の手入れをしていた明日夏の後ろ姿を見つけて収友は声をかけた。
「あら、おかえりなさい」
明日夏は立ち上がって収友に微笑んだ。収友も笑顔を見せる。
「毎日毎日通学するの、大変だよね。バスと電車を乗り継いで。……収ちゃん、ホントにごめんね。これじゃサラリーマンの遠距離通勤とおんなじよね」
「なにいってんだよ。……全然大変じゃないよ。別に」
「学校はどう? 楽しい?」
「うん。……まぁ、悪くはないよ」
「そう。お父さんも心配して頻繁に連絡してきてるわよ。……収ちゃんのところには連絡ない?」
「いや、来てない。……ふぅん、そうなんだ」
収友は少しだけ口をへの字に曲げた。
「収ちゃん。気を悪くしないでね。あなたのお父さんって……昔から自分の気持ちを表現するの、あんまり得意じゃないから」
明日夏は眉を下げると、苦笑しながら陽生を擁護した。
「……ふっ。確かに。どっちかってゆうと口下手だよね、父さんって」
「あはははッ。いいの? そんなこと言ってー。そういう収ちゃんだって十分その血を受け継いでるわよー。もう少し表現豊かにコミュニケーションできないと、女の子に嫌われちゃうわよッ。顔がイイってだけじゃあ、世の中渡っていけないんだからねー」
明日夏は収友の横を通り過ぎながら、二の腕を軽く叩いた。収友は二の腕を擦ると、振り返って明日夏に話しかける。
「あーねーちゃん。そんなことより山の方はどうなの?」
「……そうね。じゃ、今度の休みに見に行こっか。結構、歩くけど大丈夫?」
「うん!」

そして約束の週末。明日夏と収友はリュックを背負って自宅を出る。農道を歩き、山の麓から山道を登り始める。大型の運搬車が通っていただけあって道幅は二人が並んで歩いても余るほどの幅があった。くねる道を三十分ほど登ると、突然、見晴らしの良くなった南側の斜面が姿を現した。
辺り一面、首を切られたかのような切り株の群れがずらりと斜面を覆う。そして斜面の下には数え切れないほど多くの杉の木が横たわっていた。奥の方の斜面には、土砂が崩れた形跡が見て取れる。
収友はその変わり果てた景色を顔をゆがめて見つめる。切られた木の香りが断末魔のように辺りに漂う。収友は眉間に深い皺を刻み、拳を握り締めた。
「ねー……ちゃん。何なの……これ」
「これが……私たちの仕事場よ」
肩を震わせ立ち尽くす収友に向かって、明日夏は毅然とした口調で話しかけた。
「なんてこと……してくれてんだ!」
収友は威嚇する獣のように歯をむき出しにすると、爪が掌に食い込むほど強く両手を握り締めた。明日夏はしゃがみこむと、その足元にある切り株を優しく撫でた。
「収ちゃん、木ってすごいのよ! こんな根っこだけになってもね、五年くらいは大地をしっかりと掴んでいるんだって」
「……あーねーちゃん。こんな状態の中で、よくそんな笑顔でいられるよねッ!」
収友はやりきれない顔をすると、明日夏と反対の方向に顔を向けた。
「わたしだって悔しい気持ちでいっぱいよ。初めてこの光景を見た時は……今の収ちゃんとおんなじ気持ちだった。でもね、何度も何度もここに来てこの切り株たちを見ていたら……なんか、命ってすごいなって思えてきたの。だって、こんなふうに身体を切り落とされてもなお、この森を守ってくれてるのよ。山が崩れないように……。だからね、この子たちのためにも全力でこの森の再生をしなくちゃ! どお? あなたはできる?」
しゃがみ込んだままで明日夏は収友の顔を見上げた。
「……やるよ。 やってやるッ。僕がこの森を昔のように再生してみせる!」
収友はまさに今、敵地に向けて出撃するかのような勇ましい表情で明日夏を睨みつけた。
「収ちゃん。ここはそんな厳しい場所じゃないよ。笑って」
明日夏は歯を見せて笑った。その優しい笑顔を見ると、収友は少しだけ頬を緩めた。
「ここを見て」
明日夏の指が切り株の側面を差し示す。側面には数か所に渡って小さな栓が埋め込まれていた。
「もう何週間も前に薬剤を注入したの。根を枯らすためにね。そのあと抜根して、整地して、苗を植えるの。どのくらい時間がかかるかなぁ。……豊かな森にできるといいね」
明日夏は南の斜面から見える風景を、希望に満ちた表情で見つめた。
「……できるよ。あーねーちゃんと僕がいれば、それだけで絶対にできる」
収友は朽ちた倒木を睨みつけると、力強く言い放った。

そして季節は巡り、太平洋高気圧が日本列島を隙間なく覆う夏が来た。
白い巨大な積層雲の群れが艦船のように青い空を揚々と巡航する。夏休みに入った収友は、件の森の中で十数人のNPOスタッフに混じって明日夏と共に作業服姿で土にまみれながら整地作業に勤しんでいた。
「よーし、切るぞー」
浅黒い肌をした高齢の男性が、慣れた手つきで周りの土を除去しながら切り株の根っこを地面から露出させると、先端の細い根を電動のこぎりで切断し始める。甲高い機械音とともに朽ちた細根が次々と切られてゆく。続いて太い根を切断し、切り株の周り三方向からポールを立てて三角柱の形にすると、三角柱の頂点にチェーンブロックを吊るしてロープを切り株の根に通した。
「いいかー、上げるぞーっ」
老人がチェーンブロックのチェーンを巻き下ろす。ポールが徐々に地面の中に食い込んでいくと、それに比例するかのごとくミシミシと音を立てて切り株の根が持ち上げられてゆく。老人の手は黙々とチェーンを巻き下ろす。そして土をこぼしながら根っこが地面から完全に分離された。
「はい、ひとつ終わりー」
「おお―――っ」
みんなが歓声を挙げる。
「さっすが諸井のおじいちゃん! 頼りになるわぁー」
明日夏が笑顔で諸井のじいさんに声をかける。
「ガハハハ! 美人の先生に褒められたんじゃあ、もっと張り切らねえとなあー。先生んとこの兄ちゃん、このチェーン持っててくれ!」
「あ、はい!」
諸井は収友にチェーンを預けると、切り株を通したロープを外した。根っこは地面に落ちると、足元に重い振動音を放った。
「それにしても、先生のところの家系はほんとに美男美女ぞろいですねぇ。なかなか見ないわア、あんないい顔した男の子は」
明日夏のそばにいた中年の女性が饒舌にまくし立てる。
「あはははっ。ほんとにね。……でも、本人は全然無関心だから。容姿に関しては」
首に巻き付けた手ぬぐいで額の汗を拭う収友の姿を見ながら、明日夏は微かに笑みを浮かべてそう言った。
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