上 下
20 / 32

20

しおりを挟む
季節の寒暖差を肌で感じるようになってきた昨今。
長いようで短かった夏休みもあっという間に終わり、今は晩秋の入り口。10月も中旬を過ぎた頃、中間試験の最終日を終えた収友はいつものようにガラガラの巡回バスを降り、一人自宅に向かって歩いていた。時刻は午後三時を半分ほど過ぎた辺り。日はゆっくりと西の空に吸い込まれていく。
「……うん。そうだね。……ははっ、そんなことないよ、母さん。うん」
スマホを片手に収友は笑顔で母・葉奈と話をしている。
夏休みの間、勉強も遊びもそっちのけで明日夏と一緒に毎日毎日山に入っては作業をしていた収友。元々日焼けしづらい肌の持ち主だったが、それでも夏の日差しを全身に浴び、ほんのりと日焼けをしていた。そんな薄いキツネ色に染まった肌も、何者かに打ち消されるかの様にいつの間にか元の澄んだ真珠色の肌に戻っていた。
「だからそんなに頻繁にかけてこなくても大丈夫だよ、母さん。……うん。え? 父さんから? かかっては来てないね。……うん。大丈夫、分かってるよ。そもそも男の親子なんて、そんなに話すこともないからね。……うん、またね。はい」
口元を緩めながら収友は母親との会話を終えた。……と思ったら間髪入れずにメールの受信音が鳴った。
「ん? 何だ?」
収友はスマホを覗き込む。
『市役所からの緊急メールです。鷲見地区でクマが出没しました。現在も周辺を徘徊しています。周辺の方々は建物内に避難してください』
「わ、鷲見って、この辺りじゃないかよ!」
そう驚く暇もなく、明日夏から電話がかかってきた。
「も、もしもし!」
「ああ、収ちゃん! 今どこ?」
明日夏の慌てた声が収友の鼓膜に響く。
「えッ? 今、バスから下りたところ……」
「直ぐ帰って来て! 近くでクマが出没したって市からのメールが届いたから!」
「ねえッ、クマってどうなっちゃうんだよ!」
「う……ん。……どうやら、民家に入って食べ物を漁ったらしいのよ。……まずいわ。ただ単に人里に下りてきただけならそのまま山に追い返すこともできるけど、人間の食べ物の味を憶えちゃったら、追い返してもまた里に下りてくる可能性があるから、最悪……駆除されちゃうかも。……今年は山の木の実が不作だったのよ。きっと空腹でどうしようもなかったんだわ。だから、危険を冒してでも里に下りてきちゃったんだわッ!」
通話越しの明日夏の声は震えていた。収友の目はその声に共鳴するかのようにつり上がりると、口元から鋭い犬歯を覗かせた。
「駆除? んなこと、させるかァアアア―――――!」
その叫び声を最後に、通話が切れた。
「収ちゃん! 収ゥウ―――ッ! ……な、何する気なのよッ、あの子! ま、まさか。……だ、ダメよッ! クマに近づいちゃッ」
明日夏は収友を追いかけるために玄関の扉を開けて家の外に飛び出す。
「ゥワン! ワン! ハッハッ……」
外の犬小屋に結ばれていたイチが明日夏の姿を見るなり、かまって欲しくて明日夏に飛び掛かる。
「ち、ちょっとイチ、今はやめてッ。……あっ! 万一クマに遭遇した場合、イチがいたほうがいい!」
明日夏は括り付けてあった紐を小屋から外した。イチは散歩に行くものと思い、勢いよく走り出した。
「わわッ、そんな急に走らないでッ」
明日夏とイチは収友を探しに表に出て行った。

収友はその場に立ち止まると、目を閉じて意識を集中し始めた。荒ぶる感情を冷やすように深く、深く意識を沈める。間もなく収友の身体が青白い光に包まれると、水面に水滴が落ちて波紋が広がる様に、収友の身体を中心に光の輪が次々と大気中に伝播する。その光の輪が全周囲スキャニングソナーのように収友の暗く広大な意識領域の中に瞬く間に周囲数kmの立体配置図を形成していく。建物、道路、民家、歩く人、車……・。収友は領域に形成された配置図を全方位に展開しながら救出すべき者を探知する。
「……!」
立体図の中に猟銃を持った人の群れが形成された。収友は即座に俯瞰展開して周囲全体を見回す。その時、
急速に移動する物体を確認した。体長約一メートル、時速三十五メートルで移動している。
〈いたッ!〉
クマは真っ直ぐ市街地の方に向かって走っている。収友は動いているクマにフォーカスを合わせると、クマに向けて叫んだ。
〈違うッ、そっちじゃない!〉
クマは驚いたかのように急に前足を浮かすと、向きを変えて山の方に舵を切った。
〈よしッ!〉
収友は目を開くと、クマが進むであろう方角に向かって走り出した。

「いたか―――っ」
「いや――。こっちにはいない!」
猟銃を持った高齢の男たちが警戒しながら付近を見回す中、一人の若い女性が気色ばんだ顔で同じく辺りに目配せをしていた。
「ねえちゃん、そんなおっかねえ顔して見回さなくても大丈夫だぞォ。クマは本来臆病な動物なんだからぁ」
男どもの一人が笑いながら女性に話しかけた。
「え、ええ。……でも、このまま山に逃げちゃったら、山ん中入って仕留めますゥ?」
「いいや、山に入ったらそこまではしねえよ。まぁ、二度と下りてこねえことを祈るだけだなぁ」
「え? そうなんですか?」
「よし、少しばらけて見回りするか。クマを見つけるか、山に入ったの見たら連絡してくれ」
リーダー格の男がそう言うと、メンバー達はばらけ始めた。

収友は時折立ち止まってはクマとのチャンネルを開くと、意識の中で声をかけてその軌道を修正させながら、近くの山の麓までクマを誘導していた。辺りは民家がポツポツと点在するだけで、それ以外は見渡す限り畑があるだけだった。
「ハア、ハア……ハア。こっちの方向で合ってると思うんだけど・・・」
収友は東の方角を不安そうに眺めた。
「ん?」
しばらくすると、黒い物体が勢いよく畦道を走ってきた。艶やかな黒い毛をしたツキノワグマが、必死になって道を進む。
「よしッ! そのまま真っ直ぐこっちにおいで!」
収友はクマの姿を確認すると、迎え入れるように我先に山の中へと入って行った。
そして……その様子を遠くから猟銃を持ったあの若い女が見つめていた。
「ち、ちょっとォ。……クマが山の中に向かって行ってるけど。なに、男の子も山の中に入って行っちゃったじゃない! あの子危ないわよッ。……よし! いい機会だわ、仕留めてやる!」
そう言うと、女も収友を追いかけて山の中に入って行った。

日差しの残り陽がうっすらと漂う山の中。周囲に気を配りながら緊張した面持ちで女は山の斜面を登っている。
「……ハァ。男の子、多分この辺りから登っていったような気がしたんだけど。……でも、結構急勾配ね。ここ」
杉の木々が立ち並ぶ間を息を切らしながら女は登って行く。
「ハア。……ハア。……疲れるゥ。でも、仕留められるんだから頑張るわ。撃ちたくって撃ちたくって、この免許取ったんだから」
女は杉の幹を掴みながら斜面を登り続ける。
「……ォわっ!」
踏みしめた左のつま先が滑って身体のバランスを崩すと、思わず小さな声を出した。
「危っぶないわァー。……ハァ、結構登ったけど、クマがあのまま真っ直ぐに森に入ったとしたら、そろそろご対面するような気が……」
女は注意深く首を左右に振って木々の間から周りを見回した。
「…………?」
辺りを見回す女の目が、二時の方向約五十メートル先に何かがいるのを認識した。

必死になって山を登り上がるツキノワグマの姿を収友が見つけると、収友は目を閉じてツキノワグマの意識に話しかけた。
〈ここまで来ればもう大丈夫だよ。誰も追ってはこないから。……でもね、もう山から下りない方がいい。もしお腹が減ってるんなら僕が何か持ってくるから、だからここに居て〉
ツキノワグマはその声に立ち止まると、鼻を鳴らした。そして少しだけ離れた所にいる収友を見つけると甘えるような声を出して収友の方に近づいてきた。
収友はゆっくり目を開くと、クマに向かって親愛の笑みを浮かべた。
「伏せて――ッ!」
不意に浴びせられたその言葉に収友は反射的に身を伏せた。その瞬間、森閑な山の中に火薬の破裂する乾いた音が響き渡った。
クマの目から真っ赤な血が流れ落ちると、黒い巨体は力なく地面に倒れ込んだ。
「……え。……ウソ。……あ、当たった。当たったッ。……当たった――――ッ!」
女は散弾銃の銃身を下ろすと、一転して歓喜の声を挙げてはしゃぎまくった。そして意気揚々と息絶えたツキノワグマに駆け寄ると満足げな顔をして獲物を見下ろした。
「あたしって……すごいじゃない! こ、これ写真撮んなきゃ――!」
そう言うと、女は尻のポケットにしまい込んだスマホを急いで取り出そうとした。
「……!」
地面に伏せていた収友が身を起こすと、血みどろになって倒れているクマを目の当たりにした。目玉は潰れ、そこから真っ赤な血が小川のように地面に流れてゆく。収友は無残に息絶えたクマの亡骸を呆然と見つめた。
〈あれ? この子……カッコイイッ!〉
女のスマホをいじる手が止まった。
「君ィ、大丈夫だった? クマとあんなに接近してたからホントびっくりしちゃったわよ。でも、もう駆除したから安心してねッ」
女は得意げな顔で収友に話しかけた。
「……ッハ……ッアァ。ハアァァ……アアア、あががががアア――――――ッ!」
収友の荒ぶる呼気が、その身体からあふれ出る青白い怒気の炎に照らされ激しく揺れ動く。日差しが抜け落ちた薄暗い山林の中を、仄暗い色に染まった収友の身体が妖しく、そして不気味に屹立している。白煙のような息を口から吐き出し、瞳は闇夜に光る獣のように青白く煌めく。収友が唸るような吐息を出すたび、大気は揺れ動き、その振動が女の耳に震えながら伝搬する。
そして、収友の身体の中ではチカラのリミッター制御の主導権を争う二つの巨大な力がせめぎ合いを始める。
リミッターを解除し、自身の身体もろとも全ての破壊を目論む黒き憎悪の感情と、リミッターを制御し、身体を防御しようとする白い理性。相反する二つの戦士が収友の意識と肉体の隅々で渦を巻き互いを撃滅せんと死闘を繰り広げている。
「……あぁぁ」
鋼鉄の鎖を解き放とうと必死にもがく猛獣のような収友の姿を目の前にして、女の表情が氷のように固まる。
収友は何かを断ち切るかのように両手を目いっぱいに拡げて爪を立てた。異様なほどにその身を振戦させながら立ち尽くしていたが、とうとう均衡が破れた。黒き憎悪の戦士は収友の全身の血管という血管を体表から浮き上がらせると、超音波のような遠吠えを放出させた。
しおりを挟む

処理中です...