寵愛のテベル

春咲 司

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寵愛のテベル

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 突如として頭に流れ込んできた映像が終わると、徐々にハーミヤの視界ははっきりとしてきた。

「今までの夢は、全てあなたが見せていたの……?」

 降りしきる雨の中、ハーミヤはそう呟くと触れていた大樹からゆっくりと手を離した。

 全て思い出した。幼い頃にダーウェントでルドルフと出会ったこと。疫病蔓延るダーウェントで彼と再開したこと。
 そして……。

「ハーミヤ様」

 背後でルドルフの掠れるような声が聞こえた。
 振り返ると、怪我の痛みに顔を歪めたルドルフが懸命に立ち上がろうとしていた。

 ハーミヤはゆっくり側へ歩み寄ると、ルドルフの前で膝を折った。そして静かな声で語りかける。

「私は、死んでしまったのですね」

 瞬間、ルドルフの顔が凍りつく。それは肯定にほかならなかった。

「夢を見ていたんです。とても不思議な夢を。ずっと忘れていた過去のこと。そしてこの地を訪れた旅人のこと」

 何故、初対面だと偽ったのか。何故、真実を隠していたのか。聞きたいことは幾つも浮かんだ。そして結局言葉になったのは、たった一言だった。

「貴方は、誰なのですか?」

 その問いに、ルドルフは目を伏せた。
 雨が地を打つ音だけが、森の中に響き渡る。
 ハーミヤは縋るような目でルドルフを見つめた。嘘偽りのない本当のことを聞きたかった。

 長い長い沈黙の果てに、ルドルフはようやくハーミヤの目を見た。そこには深い悲しみと罪に怯える様子があった。

「かつて私は、遠い世界の神に仕える僕でした」

 結局ルドルフは、この世界の人間ではなかったのだ。いいや、人間ですらなかった。
 目の前にいるのが人ならざるものであると知っても、ハーミヤに恐怖はなかった。彼がルドルフであるということに変わりはないのだから。

「……遠い、世界?」

「世界は星の数ほどあって、私は主である神と共に多くの世界を旅してきました。この世界もまたその旅の途中に立ち寄った場所でした。そして主は、この地上に楽園を見つけた」

 そう言ってルドルフは空を仰いだ。

「神は豊かで美しいこの地をテベルと名付けるほどに愛していました。しかしこの地を生み出した神は既に失われ、世界を維持する力を失ったこのテベルは、滅びる運命にありました」

 ハーミヤは以前城で倒れた時に浮かんだ不吉な言葉を思い出した。あれは真実だったのだ。

「主はそれを望まず、テベルを維持する為の力を私に預け、守護としてこの地に残しました。そして私は何千年という時の中、この世界を守ってきました。敬愛する主との約束を果たすために」

 それは孤独を伴うものであったことを、ハーミヤは夢を通して知っていた。

「私はこの地の人々に神獣として祀られました。テベルの生みの神によって遺された力が最も宿るその神木と共に」

 そう言ってルドルフは、朽ちかけた神木へと視線を移した。

「木が朽ちかけているのは、この異常気象と関係があるのですか?」

「その通りです。私は悠久の時をこの地で過ごす間、力を維持する為に定期的に休眠期に入っていました。しかし六年前に起こった戦争によってこの森が巻き込まれた際、眠りについていた私は不完全な形で目覚め、自分が何者なのかすっかり忘れてしまったのです。力の中継点である私を失ったテベルは、徐々に崩壊をはじめました」

 六年前を境に天災が増えたのはこういった背景があったのだ。

「それでもテベルは私の体から僅かに漏れ出た力を吸収し、なんとか崩壊を食い止めていました。それを私が完全に断ってしまうまでは」

 ルドルフはそこまで語ると、言葉を詰まらせた。
 顔を抑えてうずくまるルドルフをハーミヤはそっと抱き締めた。
 彼が何を恐れているのか、そして何故世界は滅びの時を迎えようとしているのか。既に一度死したハーミヤが生きていることこそが答えだった。

「私は貴女の死を受け入れることができなかった。だから願ってしまった。貴女を蘇らせることを。強い願いに呼応するように私の内側から力が溢れました。そして思い出したのです。自分は神獣であり、世界の安定こそ主より与えられた使命であると」

 そう語るルドルフは苦悶の表情を浮かべていた。幾筋も頬を伝う雫が雨なのか涙なのかもわからない。

「だけどその結果、私は神から授けられた力を失い世界は完全に枯渇してしまった。いずれ世界がこうなることはわかっていたのに」

 ルドルフの中にあった力は、全てハーミヤを生かす為に使われ、ただの人である彼女からテベルに向けて力を供給することはできない。
 自分の生こそが世界を滅ぼすことになるとわかった瞬間、ハーミヤは身体中の力が抜けるような感覚に陥った。

「ごめんなさい。私が弱かったから、あの時頑張れなかったから、貴方を苦しめてしまった……」

「違います! 貴女のせいではない!」

 ルドルフは後ずさると、ハーミヤの謝罪を否定し拒絶した。

「ハーミヤ様。私はテベルなど滅んでしまえばいいと思っていました。テベルは主と私を引き離した元凶ですから。でも、わからなくなりました」

 ルドルフの口から掠れた声が漏れる。ハーミヤにはそれが嗚咽のように聞こえた。

「テベルが滅べば、陛下も、ハーミヤ様も、この世界に生きる命も一緒に消えてしまう。ですがテベルの崩壊を食い止めても、滅んでも、ハーミヤ様の死だけは避けようがない」

 ルドルフは絶望に顔を歪めた。
 その表情からハーミヤは全てを悟った。ルドルフから受け取った力を彼に返せば、この世界の崩壊を食い止めることができること。そして力を返せば、自分は本来の運命通りに死ぬことを。

「あなたを守るなどと言いながら私は神獣としての役割よりも、人間のルドルフであることを望んでしまった。人間としてこのテベルと共に滅びることを選んでしまった。だから世界は滅びるのです」

 怯えるように距離を取るルドルフにハーミヤは思い切り抱きついた。そして逃げられないように背中に回す手に力を込めた。
 罪の意識に苛まれ続けるルドルフと世界を救うことができるのは自分しかいないと信じて。

「私は罪人なのです、お離しください」

「嫌です」

「私と主を引き離す原因となったテベルは消滅し、私はルドルフとして死ぬことができる!」

「お願い、ルドルフ。聞いてくださいっ」

 ハーミヤはこれまでの人生で発したこともないような大声で叫んだ。ルドルフは体をビクリと震わせると、恐る恐るハーミヤを見つめた。ハーミヤは彼の頬に手を伸ばすと優しく触れた。

「これから望みが叶う人が、こんな苦しそうな顔をするなんておかしいです。だから世界の滅亡は貴方の本当の望みじゃない」

 ハーミヤはそっとルドルフと額を合わせると、落ち着かせるように瞳を閉じた。

「貴方は以前言ってくれました。自分の祖国はこのクライネ王国だって。嬉しかった。貴方もこの国を愛してくれているのだと思った」

「……私が愛しているのは、クライネ王国ではありません。私がなにより愛しいのは……」

 ルドルフはその先の言葉を紡ぐことができなかった。彼の震える唇を、ハーミヤが自分のもので塞いでしまったから。
 永遠のような一瞬が終わって、ハーミヤは優しい声で語り掛ける。

「私をこの大地へ返してください」

 儚く微笑むハーミヤをルドルフは強く抱き締めた。
 わかっていた。彼女が世界を選ぶことは。

「ルドルフと私が出会ったこの世界を、滅ぼさないで。どうかお願いです」

「……私が貴女を殺せるはず、ないではありませんか」

 ルドルフは長い時間をかけて声を絞り出した。

「私は既に自分の命を使い果たしてしまっています。だからこれから起こることは、ただの摂理に過ぎません」

「貴女のいない世界など私は……」

「大丈夫。だって貴方にとっても、この世界は愛おしいものの筈だから」

「……あなたは、ずるい…………」

 だからこそ他に選択肢はない。それがわかっているから逆らえない。ルドルフは懐から銀の短剣を取り出した。
 それを見つめるハーミヤの目に恐怖はなく、心は凪いだ海のように穏やかなものだった。

「こんなに心穏やかなのは、自分の在るべき場所へゆけるからなのでしょうね」

「さよならは、言いません」

「言わなくていい。また、会いに行くから。何百年、何千年かかっても」

 ルドルフは一度強く目を瞑った後、決然と目を開いた。
 そしてハーミヤの胸に鋭く光る切っ先を突き立てた。
 ハーミヤの体から黄金の光が立ち上り、ルドルフの元へと帰っていく。
 徐々におぼろげになっていく視界の中でハーミヤはルドルフの頬に触れた。

「泣か、ないで。悲しむことなんて、なにもない。きっとまた会えるから」

 ルドルフの体は次第に人間のものから獣へと転じた。馬のようでも犬のようでもある肢体には長い銀の毛が生えて、額には一本の角が現れた。長い尾はまるで上質な箒のようだ。そして夜空を映したような漆黒の瞳がハーミヤを見つめた。

「それが、本当の貴方なのね……。やっぱり貴方はとても綺麗……」

 天を閉ざした厚い雲は少しずつ消え去り、森に光が射し込んだ。露に濡れた木々がそれを反射して辺りは虹色の光に包まれる。
 完全に意識を手放す間際、ハーミヤは光溢れるテベルを見た。幸せに満ちた微笑みを浮かべて。
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