Ambitious! ~The birth of Venus~

海獺屋ぼの

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第一話 マホガニーとメープルの女

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「松田! 納期来週だから忘れずに水野工業への納品処理終わらせておけよ!」

 俺が会社の事務机で営業資料を作っていると上司に小突かれた。

「はい! 確実に納品されるように手配しておきます!」

 面倒くせえ……。と思いながらも上司に頭を下げる。

 この頃はだいたいこんな感じだ。社畜と言ってもいいだろう。

 まぁ……。仕事自体は嫌いではないし許容の範囲内だが……。

 その日は仕事終わりにバンドメンバーとの打ち合わせの予定が入っていた。

 約束の時間は午後9時だし、まぁ少し残業したって間に合うだろう。

 そう思いながら上司に追加された仕事を熟していった――。


 どうやら考えが甘かった。
 
 残業は予定より時間が掛かり、気が付けば時間ギリギリだ。

 俺は急いで会社を出る。新宿まで向かわなければ……。

 駅の改札を抜け、走って電車に飛び乗った。乗ると同時にドアが閉まる。

 車内は疲れきったサラリーマンだらけだった。

 疲れた顔をした男女がつり革にぶら下がるように揺られている。

 電車のはめ殺しの窓に映る俺の顔も彼らと大差ない気もするが……。

 電車から見える東京の夜景は恐ろしく綺麗だった。

 東京に住むようになってから俺は毎日この夜景を見ているのに飽きない。

 茨城の片田舎出身だから余計そんな風に感じるのかもしれない。

 そんな取り留めのない考えを置き去りにするように電車は進んでいった……。

 新宿に到着したのは約束の時間ちょうどだった。完全なる遅刻――。


 気持ち急ぎ足でドトールの自動ドアから入ると、店員が俺の顔をチラっと見た。

「いらっしゃいませー」という挨拶とは裏腹にあまり俺に興味が無さそうに見える。

 バンドメンバーを探そうと店内を見渡すと、見慣れた赤いキャップが目に付いた。

 やはり先に来ていたらしい……。

 奥の席でバンドのヴォーカル兼ギタリストが1人でコーヒーをすすっていた。

 彼女は赤いキャップをかぶり、肩まで伸びた金色の髪を右手でボリボリ掻きながらノートに何かを書いている。

 どうやらバンドのベーシストはまだ来ていないらしい。

「押忍! お疲れ!」俺は彼女に声をかけて前の席に座った。

「お疲れ! 大志遅かったねー。残業大変なのに悪いね。ジュンはまだ来てないよー」

 彼女は京極裏月キョウゴクヘカテー。俺がまだ地元に居た頃に知り合ったバンドのギタリストだ。

 彼女の本名は≪ヘカテー≫だけれど、俺は彼女を≪ウラ≫と呼んでいた。

 ウラ曰く、≪ヘカテー≫と呼ぶ友人は皆無らしい。

 初めて会った頃のウラはまだ15歳だった。

 その当時の彼女は父親と双子の妹と仲違いして家出中だった。

 そのあと色々あって父親は蒸発、妹とは和解したらしい。

 俺自身、ウラの妹と面識があった。(ウラにライブのときに紹介された)

 こう言うと語弊があるかもしれないがウラの妹はかなりまともで真面目な女の子だ。

 性格も女性らしくお淑やかで、ウラとは似ても似つかない……。

 ウラはどう取り繕っても真面目じゃないし、かなりイカレていると思う。

 でも……。

 俺はそんなウラのことが気に入っていた。

 イカレてることも含めて彼女は彼女だ。

 俺はカウンターに行って飲み物を注文してから席に戻る。

 席に戻るとウラはキャップを脱ぎ、長い髪をヘアゴムでまとめてポニーテールにする。

 これは彼女のクセのようなもので、気分を切り替えたいときにこの仕草をよくしていた。

「大志さぁ。大丈夫だった? ジュンから聞いたけど、仕事忙しいんでしょ?」

 ウラはそう言うと、申し訳なさそうに俺の顔を覗き込んできた。

「うん? 少し忙しいかなー。なかなか定時に上がれねーんだよ。まぁ会社なんてそんなもんだし仕方ねーと思うけどさ」

「社畜は大変だよねー。私には真似できねーわ!」

 ウラの言葉には心配とも労いともとれる響きが籠もっている。

 思えば俺が会社員になってから、いつも彼女は気遣ってくれる気がする。

 ウラはイカれていても、根は真っ直ぐで思いやりのある人間なのだ。

 ドトールの店内から見る駅構内は、仕事帰りのサラリーマンや学生で溢れていた。

 足早に過ぎ去る彼らの表情はまったく読み取れない。

「こっちこそ悪ぃーなー。お前にばっかりバンドの運営任せっきりだしよー。もっと協力しなきゃいけねーのはわかってんだけどさ……」

「いいって! 気にしないでよ! 地元にいた時はいっつも大志が段取り組んでくれてたんだし、こんくらいはやっからさ!」

「サンキュな……。お前は最近忙しいのか? まぁ……。お前の仕事は天職かもしんねーけどさ」

 俺がそう言うとウラは深いため息をついた。

「まぁ、ねぇ……。天職だとは思うよ? でもさぁ、やっぱ私はこれで食っていきたいよね!」

 ウラは隣の席に置いてあるギターケースを軽くポンポンと叩いた。

「お前、そのSG使うようになって長いよなー。そろそろ別のギター新調したらどうだ?」

「やだよー! 私はこの子と一緒にやってきたんだよ! 確かに新しいギターも気になるけど……。これ以上のギターあるわきゃないもん!」

 ウラはそう言うとギターケースを優しい手つきで撫でた。

 ウラ愛用のギターは彼女がまだ中学生の頃に買ったものらしい。

 彼女はかれこれ7年、そのギターを使い続けているようだ。

 相当ウラの手垢がついているはずなのに、そのギターはいつみてもピカピカに輝いて見える。

 おそらくウラは愛用のSGを毎日メンテナンスしているのだろう。

 ここまで愛情を持って接してもらえればギターも本望だと思う。

「それにさ! 私は今でもこのSG持ってメジャーデビュー目指してんの!」

「お前はいつもそれを言うな……」

 ウラはそう言って白い歯を剥き出して笑った。

 やはり彼女は本気でバンドで食っていきたいらしい。

 俺もそうしたいと思いながら、現実は厳しい気がするが……。

「あーあ、ツッキーは人使い荒んだよ! 私だって割と忙しいのに夜中でも平気で電話で呼び出すしさー。しょっちゅうパシられるし! あのお姉さんマジでしんどいわ!」

「月子さんは相変わらずなのな?」

 俺がそう聞くとウラはまた深いため息をついた。

 店内の空気の1パーセントぐらいはありそうな深いため息。

「『ウチはぁコーヒーはファミマのがええわぁ、ウラちゃんなんでセブンのしたん? 取っ替えてきて!』とか抜かすんだよ! あのババ……。お姉さんマジで気分屋だしやめてもらいたい!」

「お前今、月子さんのことババアって言いかけなかったか?」

 俺がそう言うとウラはごまかすように目を泳がせた。

 ウラにとっては幸福なことだったと思う。

 彼女は『アフロディーテ』というバンドのヴォーカルの付き人をしていた。

 彼女の天性の運なのだろうけれど、ウラは月子さんにすっかり気に入られてしまったようだ。

「まぁ、月子さん悪い人じゃないんだよ? 気分屋で自己中なところはあるけど基本的に優しいし、私のことなんだかんだ気遣ってくれるからね。でも時々逃げ出したくなる……」

「そんなもんじゃねーの? 俺なんかいつも会社からトンズラこきたくなるわ! 上司うっせーしよー。後輩は後輩で言うこと聞かねーし。それでもどうにか折り合いつけてやってくしかねーんだけど……」

「大志は頑張ってると思うよ! 私みたいに自由に動ける訳じゃないのに、こうやってバンドの打ち合わせとか段取り手伝ってくれてるんだもん!」

 ここ3年の間にウラは驚くほど丸くなった。

 出会ったばかりの頃は会えばガンを飛ばすような女だったのに、今はしっかりとした敬語で話したり、人に敬意を持って接したり出来るようになった。

 元々根が悪い奴じゃないからベースは出来上がっていたんだろうけど……。

「2人とも楽しそうだね」

「うわぁー!? ジュンいきなり声掛けないでよ!! 心臓に悪いって!」

 バンドのベーシストのジュンがウラの背中にいきなり声を掛けた。

 真打ち登場だ。

「お疲れジュン! お前も仕事帰りか?」

「お! 大志君スーツ姿で決まってるねぇ。うん、出先から直帰だって言って逃げてきたとこ」

 ジュンは悪ふざけをしているような言い方で俺をからかう。

 こいつは見た目は良いけど性格は最悪だと思う……。

 多賀木タカギジュン。本名、高木純は俺の幼なじみだった。

 こいつとは幼稚園の頃からの付き合いで本当の意味での腐れ縁だ。

 俺はジュンの性格の悪さを常に横から眺めていた気がする。

 特に女に対しての考え方は最悪だ。

 この男は女を性欲処理の道具程度にしか考えていない気がする。(ウラだけは違うらしいけど)

 ジュンの母親は女優をしていた。芸名は多賀木マリ。

 彼は地元の大学を卒業後、母親のところに身を寄せて芸能事務所でマネージャーをしているようだ。詳しい仕事内容は俺も知らない。

「では! みんな集まったということで! 次回のライブ日程決めちゃおうか? セトリは今回、私の独断と偏見で決めたけどいい?」

「俺は構わないよ! だいたい京極さんがゴーサイン出さないと俺らのバンド動かないじゃん?」

「フフフ、さすがジュンはわかってらっしゃる! で? 大志は?」

「俺も依存はねーよ! でも一応見せろや」

 俺はウラからライブで使う曲目のセットリストを受け取った。

 ウラが選んだ曲目を一曲ずつイメージして、ライブの映像を思い浮かべながら流れを頭の中で組み立てる。

 俺はここ4年ばかりライブ前にはこの必ず作業をしていた。

 ウラがどんな風にMCをして、ジュンがどんな風にステージを動くかも織り交ぜながら全体を把握するわけだ。

「曲自体はこれで問題ねーと思うよ? でも3曲目の夜光虫と4曲目のDaysは曲順、逆にした方がいいな。そうじゃねーとお前MCの入りが難しくなるだろ?」

「えー? でもさDaysのノリの後に話したいよー。夜光虫だとしっとりだから落ち着いちゃうしさ」

「どっちを求めるかだね。京極さんらしい激しさを求めるのか、今度のアルバムのこと考えてちゃんと話しするかってことだよね大志?」

 さすがにジュンはよくわかっている。俺としては今度出す予定のセカンドアルバムの雰囲気を観客に伝えたいのだ。

 ウラはそんなことより、自身が気持ちいいかどうかで決めたがる。

「ジュンの言う通り、俺は次のアルバムの話をしっかりとしたいんだ。2回目のMCの時にノリの良い曲入ってるんだから最初はある程度話した方が良いと思うぞ?」

「うーん……。まぁしゃーないかな。そう言われればそうかもしんないね」

 ウラは今イチ納得していないようだ。こいつはやはりノリで生きている。

 俺たちはライブハウスの手配と告知について話し合った。2時間ほどミーティングをするとだいたいの流れは決められた。

「よっしゃ! それじゃあライブまでまた気合い入れていくぞ!」

「そだねー。大志は仕事忙しいんだから準備はウチらにまかせて! ジュンさぁ、ライブハウスの手配まかせていい? 私は告知のビラ配りとかチケットの手配とかすっからさ!」

「いいよー。京極さんと2人で役割分担しよう! 俺もマリさんに頼んで少しでもチケット捌けるようにするよ」

「2人とも俺も手伝うからあんま気使うなよ?」

 俺は2人にばかり負担をかけることに抵抗を感じていた。

 たしかに会社員になってから時間を作るのが難しい。

 どうにかこうにかドラムの練習はできているけど、それでも圧倒的に時間は足りていない気がする。

 しかし……。それは言い訳以外の何ものでもない。

「いいって!! 大志はドラムの練習に集中してよ! ウチらより普段忙しいんだからさ!」

 そう言うとウラは俺の肩を叩いて笑顔になった。

 俺はウラのこの屈託のない笑顔が好きだった。

 彼女は昔から笑う時は思いきり笑う。

 含むところもなく、作り笑いもしない。

 そんな、あまりにも真っ直ぐすぎるウラが俺は好きだったのだ。

 すっかり大人っぽくなったウラとこうしてずっと一緒にいられることが不思議でさえある。

 打ち合わせをしてから数日後、俺はウラに急に呼び出されることになった。
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