エリート建築士の一途な執愛に身も心も蕩かされています

森本イチカ

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1巻

1-1

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   第一章 理不尽な仕打ちと運命の再会


 カジハンドと大きく黒字で印字された黄色のエプロンを身に着け、ほりかわ菜那ななは同じ家事代行業者で働いているとうゆきと依頼人の家まで来ていた。

「沙幸さん……現場ってここ、ですよね?」

 菜那は大きな瞳をパチクリさせている。綺麗にまとめられた黒髪のポニーテールが不穏に揺れた。

「え、ええ。名前も住所もあってるわ」

 沙幸はパーマのかかった柔らかそうな髪をかきあげ、キリっと表情を作っているが、声に不安が混じっている。

「沙幸さん、私、カジハンドに就職して以来、最大の壁にぶつかっているかもしれません……」

 菜那がカジハンドで働き始めてもう八年になる。
 幼少期からシングルマザーの母親と二人暮らしだった菜那は、「得意なことはなんですか?」と聞かれたら「家事です!」と即答できるほど日頃から家事を行っていた。仕事でほとんど家にいなかった母親の代わりに掃除や洗濯、料理をしていたからだ。
 でも、それは嫌々やっていたのではなく、少しでも母親の力になりたいという想いからだったので全く苦ではなかった。金銭的にも余裕がなく、大学進学を諦めた菜那は唯一の取り柄である家事を仕事にすべくカジハンドに就職したというわけだ。

「菜那ちゃん、ここは気合を入れていくしかないわね」
「ですね……気合入れていきましょう!」

 菜那はクリっと大きな目に力を入れた。身長が百六十八センチの沙幸には敵わないが、百五十二センチの小柄な体を少しでも大きく見せようと、グッと背筋を伸ばす。

「沙幸さん、押しますね……!」

 菜那の指先が恐る恐るインターフォンに伸びていく。
 えぇいっ!
 庭にまでゴミが散乱している一軒家にピンポーンと軽快な音が鳴り渡った。

「……はい」

 インターフォン越しに男性のガラガラした声が聞こえた。
 菜那はまだ顔も見えない相手にニッコリと笑いかける。

「こんにちは。こんどう様のお宅でしょうか? ご依頼をいただきました、カジハンドの堀川と伊藤と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします」

 菜那と沙幸はインターフォン越しに頭を下げた。

「あぁ、家事代行のね。今開けますから」

 ガチャリと玄関から出てきたのはボテっと太った中年の男性だ。

「……どうぞ」

 近藤が玄関ドアを開いたまま、菜那と沙幸を中へ招き入れる。

「失礼いたします」

 ペコリと頭を下げ家の中へ入るも、玄関の時点で足止めを食らった。
 うっ……臭い……!
 家の中は予想通りペットボトルやコンビニ弁当のゴミが散乱していて、足の踏み場が全くといっていいほどない。ツーンと酸っぱい匂いも充満している。
 こ、これは……凄くやりがいがありそうっ!

「近藤様、早速作業を始めさせていただきます」

 菜那達は一通りの説明をした後、すぐに掃除へ取り掛かった。
 近藤の依頼内容はゴミの処分とキッチン周りの掃除だ。制限時間は三時間と決まっている。正直、三時間で足の踏み場もない床が整頓されるとは思えない。
 少しでも多く片付けられるように頑張らなくちゃ!
 ゴミ袋を片手に、菜那は玄関のゴミをどんどん袋の中へ入れていく。

「堀川さん。こっちはお願いしていい? 私はキッチンに取り掛かるわ」
「わかりました。お願いします」

 顔を見合わせ、沙幸はゴミの道を進み、リビングに続くであろうドアの中へと入っていった。
 捨てても捨てても、ゴミがたくさん溢れている。菜那は一度も手を止めず、動かし続けた。
 ようやく終わった……凄い量のゴミだったな。
 やっとの思いで玄関とリビングのゴミを袋に詰め終えると、全部で七袋分もあった。
 よし、次はこれを分別してもらわなきゃ!
 菜那の視線の先には、ダイニングテーブルの上にのっている雑誌やお菓子の缶などの小物がある。

「近藤様、だいたいのゴミは処分が終わりましたので、ここからはご一緒に捨てるか捨てないかの判断をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「あぁ」

 菜那が近藤に話しかけると、面倒くさそうに腹をガシガシとかきながら近寄ってくる。ゴミがなくなり綺麗になったばかりのダイニングテーブルの椅子に、近藤はドカンッと勢いよく座った。

「早くしてくれ」

 威圧的な態度に思わずひるみそうになったが、菜那は背筋を伸ばして真剣に仕事に取り組む。

「では、まずこちらのテーブルの上のものから確認をお願いいたします。この雑誌はまだ読まれますか?」
「いや、いい」
「かしこまりました。では次は――」

 菜那は一つずつ近藤に確認を取りながら、いるものといらないものを分けていった。
 明らかにゴミというもの以外は、きちんと依頼主の確認を取ってから処分するようにしている。破れている雑誌の一冊でさえ菜那はしっかりと確認していた。
 破れていても持ち主にとっては思い出の詰まった大切な宝物かもしれないからだ。

「近藤様、新聞紙もまとめて捨てさせていただきますね」
「あぁ」

 小さな声は「どうでもいい」と言っているように聞こえた。
 なんかちょっと、やりづらいな……
 近藤の態度に違和感を覚えながらも、三時間という時間はあっという間に過ぎた。
 菜那と沙幸が近藤の前に並ぶ。

「近藤様、本日はありがとうございました」
「…………」
「では、失礼いたします」

 近藤からの返事はなかったが、菜那と沙幸は頭を下げて家を出る。
 ゴミの処分はすんだものの掃除まで至ることができず、残りはまた次回という話になった。
 沙幸と二人で事務所に戻るために車へ乗る。
 カジハンドは都内にある小さな店舗だ。

「にしてもさ~、今回のお客様はかなり手ごわそうじゃない? 家事代行というよりも掃除業者を呼ぶレベルだったと思うんだけど」

 運転しながら沙幸はため息をついた。それにつられて菜那の口からもため息が漏れる。

「そうですよね。もう少し片付けできればよかったんですけど、次は綺麗にできるといいなぁ」
「そうね~ゴミ屋敷といえどお客様だし、うちのお店頑張らないと経営やばそうだもんねぇ」
「そう、なんですかね……」

 カジハンドは業績不振に陥っていた。社長のたかなお率いるカジハンドの従業員は全六名と小規模だ。ここ数年は大手の家事代行業者に目に見えて客を取られている。会社を継続させるためにゴミ屋敷であろうと、依頼を断るわけにはいかないのだ。
 事務所に着き、中に入る。既に他の社員は退社したようで、社長だけが残っていた。菜那と沙幸が帰ってきたことにも気が付かず、社長はパソコンと睨めっこしている。

「社長……? ただいま戻りました」

 菜那が険しい顔をしていた社長におずおずと話しかけた。

「ああっ、二人とも戻ったのね! お疲れ様! 他の皆はもう帰ったから二人も片付けが終わったら上がって大丈夫よ」
「じゃあ、お先に失礼しまーす!」

 沙幸が軽快に更衣室に入り、素早く着替えて事務所を風のごとく出ていった。

「沙幸さん、相変わらず帰るの早い……!」

 菜那も更衣室で着替えをすませ、スマートフォンを鞄から取り出す。
 メッセージアプリを開き、五年付き合っている彼氏のなかじま樹生たつきにメッセージを送った。

『今日は会える?』

 最近は樹生が忙しくて会えてないもんなぁ。
 高校の同級生だった樹生とは五年前の同窓会で再会し、樹生からのアプローチで交際に発展した。
 少し不器用で強引なところもあるけれど、高校時代からいつも皆の中心にいる樹生の明るい性格にいつの間にか惹かれていた。
 樹生の仕事が忙しく、なかなか連絡が返ってこないこともあるが社会人だからしょうがない。それは理解しているつもりだ。でも、もう二週間以上会えていない。

「返事は来ないかぁ……」

 トーク画面を数秒眺めていたが表示は変わらない。

「帰りますか」

 スマートフォンを鞄にしまいながら菜那は更衣室を出た。

「では社長、お先に失礼します」
「菜那ちゃん、お疲れ様でした。明日もよろしくね」

 ぺこりと頭を下げた菜那を見て社長は優しく微笑んだ。菜那も笑い返して事務所を出る。

「わっ……」

 事務所を出るとぱらぱらと雪が降っていた。
 手のひらにのせるとじゅわっとすぐに消えてしまうほどの小さな雪粒だ。

「本当に降ったんだ」

 季節は二月だが、菜那の住んでいる東京で雪が降るのは珍しい。アスファルトに落ちていく粉雪は瞬く間に水へと変わっていく。

「持ってきて正解だった」

 菜那は鞄の中に手を入れた。朝の天気予報で「雪が降る可能性があります」と気象予報士が言っていたので、鞄の中に折りたたみ傘を入れていたのだ。

「う~、寒いっ」

 早く家に帰ろう。
 菜那は傘を広げて歩き出す。ふわふわと軽い雪は菜那の淡いピンク色の傘に白い模様を施していった。


   ***


 真っ赤に染まった冷たい手で、キーケースにぶら下がっている二つの鍵の一つを鍵穴に挿し、アパートに入る。菜那は急いでエアコンのスイッチを入れた。

「まだ返事来てないかぁ」

 スマートフォンを確認する。樹生からの返事はまだ来ていなかった。

「ん~、ご飯食べよっかな」

 アパートに一人だとなぜか独り言が多くなってしまう。
 着ていたコートを脱ぎ、手を洗い、エプロンを着けて料理を始めることにした。

「鍋でいっか」

 菜那は家事代行業者で働いているので、もちろん一通りの料理は作れる。
 冷蔵庫にある食材を見て、使いかけの野菜を全部入れて寄せ鍋にすることにした。
 自分一人のために凝った料理を作ろうとは思えない。なので一人の時はいつも簡単なものですませてしまう。白菜に大根、人参と冷凍しておいたエノキを入れ、一口大に切って冷凍しておいた鶏モモ肉も凍ったまま鍋に入れて煮込む。簡単に酒と醤油で味を調え、タレはポン酢でいただくことにした。
 できあがった鍋をローテーブルに運び、ソファーの前に腰を下ろす。

「いただきます」

 両手をしっかりと合わせた。鶏肉と白菜を一緒に取り、ポン酢を少しつけて口に入れる。

「ん、美味しい」

 温かくて、優しい味が口いっぱいに広がった。
 体の中から温まり、それと同時に無性に一人が寂しくなった。

「樹生、忙しいのかな」

 スマートフォンをじっと眺めるがメッセージは既読にすらならない。

「でも……何時間も見ないってなかなかないよね?」

 そっとメッセージ画面を閉じ、身を投げ出すようにソファーに背をつけて天井を眺める。

「こんなんで結婚なんてできるのかな……」

 次々と不安が口からこぼれてしまう。
 この五年、樹生との間で結婚というワードは何度か出てきていた。それでも仕事が忙しい樹生に「早く」と催促する言葉を掛けることは、菜那にはできなかった。
 けれど、樹生さえよければ早く結婚したいというのが本音だ。
 結婚を急ぐ一番の理由は母親を安心させてあげたいという想いからだ。一人親で金銭面で苦労していた母からは、「早く結婚してほしい。そうすればお母さんも安心するから」と会うたびに耳にタコができるほど聞かされる。
 それに働き癖が抜けないのか、母は菜那が就職して自分でお金を稼げるようになった今も朝から晩まで働き詰めなのだ。
 過労で倒れることも数年に一度はあり、何度も「そんなに働かなくても大丈夫」と止めるも聞いてくれやしない。
 二週間前、母は脳卒中で仕事中に倒れた。仕事中で周りに人がいたことが不幸中の幸いで、すぐ病院に運ばれて手術をしたので軽症ですんだ。現在は入院中で、菜那は仕事の合間をぬってお見舞いに行っていた。

「早くお母さんを安心させてあげたい気持ちはあるんだけどね……」

 むくっと身体を起き上がらせ、スマートフォンの画面をチラッと見る。

「……まだ返事来ないや」

 小さなため息が漏れる。すっかり鍋から湯気が消え去っていた。


   ***


 昨日降った雪はやはり積もるほどじゃなかったようだ。その代わり冬の寒さで地面が凍結していた。アイススケート場とまではいかないが、歩いていてもかなり滑る。
 何度か転びそうになりながら歩いて事務所に向かう途中、自動車が電柱に頭から突っ込んでいる光景を目にした。

「わ……運転手さんは大丈夫だったのかな……?」

 車体の酷い潰れ具合に思わず足が止まってしまった。
 やっぱり運転は怖いなぁ……気を付けなくちゃ。
 菜那は足に力を入れて滑らないよう注意しながら、また歩みを進めた。
 それなのに、やってしまった。

「きゃっ!」

 慎重に歩いていたはずなのに足元が滑り、身体のバランスが一気に後ろへと崩れる。
 やばい、倒れ――

「おっと、大丈夫ですか?」
「……へ?」

 盛大に尻もちをつくはずだったのに、どこも痛くないのだ。
 驚いて顔を上げると、見知らぬ男性が菜那の身体を引き寄せ、抱きとめてくれていた。

「え……」

 あまりにも一瞬の出来事で、なかなか状況が整理できない。
 菜那が目をぱちくりさせていると先に男性が口を開いた。

「昨日の雪のせいで今日は道路が滑りやすいですからね。転ぶ前に助けられてよかった」

 ニコッと微笑む男性の笑顔があまりにも優しくて、ドキッと胸が高鳴った。

「あっ……」

 そうだ、滑って転びそうになったんだと思い出したと同時に、自分が男性の腕の中にいることに菜那はハッと気が付いた。

「す、すみません! 助けてもらってしまって! 助かりましたっ」

 慌てて男性から身体を離し、菜那は勢いよく頭を下げる。穴があったら入りたいとはこのことかと一気に羞恥心が湧き上がり、菜那の顔が真っ赤に染まった。

「いえ、間一髪ってところでしたね。間に合ってよかったです。では、気を付けてくださいね」
「はいっ、本当にありがとうございました!」

 男性が立ち去るのを見送ろうと顔を上げると、ばっちりと目が合ってしまった。
 わ……カッコいい。
 斜めに流されたサラサラの前髪から色気のある切れ長の目がのぞいている。高いりょうにすっきりとした顎、首筋は筋張った男性的なラインでつい魅了されてしまう。柔らかな色気をまとった彼は一見クールな印象だが、先ほど見せてくれた笑顔はもの凄く優しかった。
 菜那がぼうっとしているうちに、大きな背を向けて彼は歩き去っていった。
 スーツ姿だから、どこかの会社員だろうか。
 ……優しくて、素敵な人だったな。
 感謝の気持ちでいっぱいだ。
 もう転ばぬよう、菜那は一歩一歩更に気を付けながら歩き始めた。
 滑ることなく無事に事務所に着き、元気よくドアを開ける。

「おはようございます!」

 中に入ると社長と沙幸が眉を八の字に曲げ、なにやら不穏な表情をしていた。ちらりと辺りを見渡すが、他の社員はまだ来ていないようだ。
 どうしたんだろう……?
 なんだか嫌な空気を感じ取った菜那は、慌てて二人のもとへ駆け寄った。

「おはようございます。あの、なにかあったんですか?」
「あぁ、菜那ちゃんおはよう。それがね……」

 沙幸が言葉を詰まらせた。絶対になにかあったのだと予感が確信に変わる。

「菜那ちゃん……昨日、近藤様のお宅に行ったでしょう? その、なにか変なことはなかったかしら?」

 沙幸の代わりに社長が話し始めた。いつもハキハキしている社長がなんだか言葉を選んでゆっくりと話しているように感じる。

「あ、はい。沙幸さんと一緒に行きましたけど、ゴミの量が凄いくらいで特に変わったことはなかったかと思いますが……」
「実はその近藤様からさっきクレームがあってね」
「クレームですか!?」

 その言葉にドクンと心臓が反応し、菜那は大きく目を見開く。

「そんな……どんな内容ですか……?」

 昨日のことを思い返すが全く心当たりがない。不安から両手を握りしめる。

「も、もしかしてゴミ捨てしかできなかったからですか……?」

 菜那は不安げに社長を見た。

「それがね、近藤様の大切にしていた腕時計がなくなってるっていうのよ。心当たりはある?」
「腕時計、ですか?」

 昨日はたくさんのゴミを処分して、ダイニングテーブル周りのものを片付けただけだ。腕時計なんて見てもいないし、たとえ見ていたとしてもそんな高級なものを勝手に捨てるはずがない。
 菜那は毎回しっかりとお客様に捨てるものを確認するほどの慎重ぶりだ。勝手に捨てることは絶対にしないと言い切れる。

「腕時計は見ていません」

 菜那は社長の目を見てハッキリと口にした。

「そうよね。菜那ちゃんが勝手に捨てるだなんて思ってもないし、ましてや盗むだなんてありえないわ。とりあえず私が直接謝罪に行ってくるから」
「えっ、近藤様は私が盗んだかもしれないと思われているんですか!?」
「あっ……まぁそうね、そういう内容の電話だったわ。そんなことはありえないのはわかっているけど、お客様に不信感を持たせてしまった以上、今から謝罪に行ってくるわね」

 社長はデスク近くにかけてあったコートを羽織り、事務所を出る準備を始めた。
 菜那は社長の前に立ち、深く頭を下げる。

「私も一緒に行きます。盗んだなんてことは絶対にありませんが、私が招いてしまったことなので同行させてください! 近藤様にも直接誤解を解かせてください」
「菜那ちゃん……わかったわ。一緒に行きましょう」
「はい」

 沙幸に「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げ、菜那は社長の後をついていった。
 社長と会社に迷惑をかけてしまったという、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。それに、誠心誠意頑張ったつもりのお客様に泥棒扱いされているなんて思ってもいなかった。
 ぐっと胸の奥から込み上げるものがあり、泣きそうなったが必死で抑えた。
 不安という大波に呑み込まれないよう、菜那はしっかりと背筋を伸ばして前を向いた。
 きっと近藤様もちゃんと説明すればわかってくれるはず、だよね……?
 社長が運転する車の助手席に乗り、道中で菓子折りを購入した菜那達は近藤の家に向かった。
 近藤の家につき、深呼吸をしながら車を降りた。
 インターフォンに伸ばす菜那の指先がフルフルと恐怖で震え始める。

「堀川さん、大丈夫?」
「っ……!」

 社長に堀川と呼ばれてビシッと活を入れられたような気がした。
 菜那は大きく息を吸い、呼吸を整えて背筋を伸ばす。

「はい、大丈夫です」

 力強い声で返事をし、インターフォンを押す。すると、すぐに近藤が家から出てきた。
 睨むような視線、明らかに不機嫌な表情を見て菜那の身体に緊張が走る。

「近藤様っ――」
「近藤様、このたびは不快な思いをさせてしまい誠に申し訳ございませんでした」

 菜那の言葉を遮るように社長が一歩前に出て近藤に頭を下げた。菜那もすかさず社長に続いて頭を下げる。

「……金を払わせておいて、客のものを盗むなんてとんだ詐欺業者だな」

 怒鳴るわけでもなく、地鳴りがしそうなほどの低い声。
 恐怖で心臓が今にも破裂しそうだ。
 それでも菜那はしっかりと話をしなければと思い、ぐっと手のひらを握りしめながら近藤を見た。

「近藤様、そのことに関してなんですが、私は昨日腕時計をこの目では見ておらずっ……」
「あぁ? お前、この俺が嘘をついているとでも言いたいのか!? お前が盗んだんだろうが! 弁償しろ!」

 空気が張り裂けそうなほどの怒鳴り声にビクッと身体が後ずさり、ひゅっと喉が締まった。
 ――怖い。
 たった一つの感情に身体が支配され、声を出すことができなかった。
 菜那の様子にいち早く気が付いた社長が、怒鳴り散らす近藤にひたすら謝ってくれている姿が視界に映っている。
 あぁ、私が、私が謝らなきゃいけないのに……
 社長の姿が目に映っているはずなのに、自分は暗い闇の底にいるようで、音がなにも聞こえてこなかった。


「菜那ちゃん、大丈夫? 今日のところはもう帰っていいわ」
「あ……」

 ガタガタと震えて社長の後ろにいることしかできず、いつの間にか会社の駐車場に着いていた。

「あ、あの……私……っ」

 ついていったところで近藤の怒りは更に増しただけ。社長に迷惑しかかけていない自分に、悔しさで涙がこぼれそうになる。

「社長……本当に申し訳、ございません、でした……」

 菜那はゆっくりと頭を下げた。

「いいのよ。私は菜那ちゃんがやったなんて一ミリも思ってないから。今回はちょっと相手が悪かっただけ。料金を返金したら近藤様も納得してくれたし、大事にならなくてよかったわ。今日はもう家に帰ってゆっくり休みなさい」

 肩を優しくポンっと叩かれ、スイッチを押されたように涙が頬を伝った。

「ううっ……しゃちょっ……」
「ほら、泣かないの。顔上げて」

 社長に肩を支えられ、菜那は泣き崩れた顔を上げる。

「本当に、すみま、せんでした……」
「気を付けて帰りなさい。私は上に戻るわね」

 菜那はコクリと頷いて涙で滲む社長の背中を見送った。

「っ……ぐすっ……」

 今まで菜那はクレームを受けたことがなかった。それは運がよかったのかもしれない。優しい人もいれば理不尽な人もいるのだと、社会の厳しさを痛感した。

「くっ……うっ、ふっ……」

 悪意の籠った怒鳴り声に心がえぐられたようだ。初めての体験に近藤の顔と怒鳴り声が頭から離れてくれない。
 鞄からハンカチを取り出し、払拭するように濡れた目や頬を拭く。
 大きく深呼吸をして、無理やり気持ちを落ち着かせた。

「帰ろう……」

 会社の真下で泣いている姿を人に見られてしまったら、また会社の皆に迷惑をかけてしまうかもしれない。

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