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1巻
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ハンカチをしまおうと鞄を開くとスマートフォンが鳴った。樹生からのメッセージだ。
『悪い。忙しくて連絡遅れた。風邪ひいてちょっとダウンしてるからしばらく会えないわ』
たった数行のメッセージを見つめる。
「そう、だったんだ……樹生、大丈夫かな……」
仕事が忙しくて体調を崩してしまったのだろうか。もしかしたら、忙しさを理由にちゃんとご飯を食べていなかったのかもしれない。樹生は忙しいとカップラーメンばかり食べて野菜を全く取らないから。
『大丈夫? なにか必要なものがあったら買っていくよ』
すぐに返信をしたが既読にはならなかった。熱を出して寝込んでいるのかもしれない。
心配だし、樹生の様子を見に行こうかな……
それに、今日は一人でいたくない。
一人でいると近藤のことを思い出して泣きそうになる。いろいろと余計なことまで考えてしまいそうだ。
買い物してから行こう……
菜那はスマートフォンを握りしめてスーパーに向かって歩き出した。
***
卵やネギなど、料理を作り置きできるよう、ある程度の食材を買って樹生の家に向かった。
キーケースには、あまり使うことのない合鍵が自分のアパートの鍵と一緒にぶら下がっている。樹生のアパートの鍵を選び、玄関を開けた。
「樹生……入るよ」
え――?
菜那は目を大きく見開いた。
玄関に入ってすぐに目に入ってきたのは女物のヒールだ。一瞬自分のものかと思ったが、ピンクベージュの可愛らしい色のヒールなんて持っていない。
ドッドッドッドッと心臓が痛いくらいに早く動き出した。
お、お客さんが来ているのかもしれないし……
そっと息を呑んで菜那は一歩一歩慎重に進んでいく。
い、いない……
リビングに入っても樹生の姿は見当たらない。残るはリビングの隣にある寝室だけだ。
でも、もうわかりきっている。寝室から漏れてくる女の甘い声に気が付かずにはいられない。
「っ……」
で、でも、もしかしたらエッチな動画でも見てるのかもしれないし……
なんて現実逃避さえ思ってしまう。
「あぁっ……気もちぃっ、樹生もっとぉっ……んぁぁ!」
「くっ……すげぇ気持ちいい……あ~最高~っ」
扉越しに女性の声が、樹生の声も交えて聞こえてきた。
「ひっ……」
思わず両手で口を塞ぐ。喉が締まり、息が苦しくなってきた。
あぁ、これは現実なんだ。
菜那は力の入らない手で引き戸を弱々しく開く。
何度も二人で一緒に寝たシングルベッドの上で樹生が女性を組み敷き、必死に腰を振っていた。
「っ!? 菜那!? なんでっ……」
菜那を見た樹生は慌てて動きを止め、布団で女性を隠した。
隠しても無駄なのに……
はっきりとこの目で樹生に抱かれている女性の姿を見てしまった。
本来ならばあそこにいるのは自分のはずなのに、なぜ一人でここに立ち尽くしているのだろうか。その意味がわかっているはずなのに、すぐには受け入れられない。
「風邪、ひいたって言ってた、から……」
エコバッグを握っていた右手に必要以上の力が入る。
「なのに、どういうこと……?」
震えそうになる唇を噛みしめながら樹生を見た。とてもじゃないけれど、布団の中に隠れている女性を見ることなんてできない。
樹生は悪びれる様子もなくベッドから降り、ボクサーパンツを穿いた。
「見てのまんまだよ。浮気した。だから別れてくんね?」
……え?
自分に言われたであろう言葉が信じられなくて、信じたくなくて、言葉が出てこない。「ごめん、ちょっとした遊びだったんだ」「本気じゃないんだ」とか、言い訳くらいしてほしかった。
喉のすぐそこまで「なに言ってるの?」と出てきているのに声にすることができず、唇が震え出す。
樹生は髪をガシガシとかきながらボスンッとベッドに腰かけた。
「もうさ、菜那のこと女として見れないんだわ。なんつーかおかんみたいなんだよね。エコバッグにネギって、まさにおかんじゃん」
樹生は笑いながら菜那の持っているエコバッグを横目で見た。
「しかも仕事は家事代行だろ? 付き合ってても家政婦みたいっていうかさ、家事を仕事にしてるって楽してるよな~、まぁ俺も楽させてもらってたけど」
「なっ……」
どうしてそんなにも酷いことが言えるのだろう。
樹生って、こんな人だったの……?
毎日一緒というわけではなかったが樹生とは高校も同じだったし、五年も側にいた。それなのに、この五年で初めて見る樹生の姿に驚きが隠せない。
「ねぇ、もういい加減布団の中苦しいんだけどぉ?」
ばさりと布団から顔を出した女性が気だるげに前髪をかきあげ、ふっと鼻で笑った。明らかに菜那のほうを見て勝ち誇ったような表情をしている。
「……っ!」
菜那の顔が耳まで真っ赤に染まった。
今、完全に自分が負け犬になっていることの恥ずかしさと、悲しさと、苛立ちと、何種類もの感情に身体が侵食されて視界がぐらつく。
――もう、この場にはいられない。
「っ……」
菜那はこぼれ落ちそうな涙を堪えながら樹生の家を飛び出した。
この場で悲しみの声を出していたら、ばらばらと崩れ落ちながら泣いてしまいそうだったから。
「なんで……っ」
どうしてこうなってしまったんだろう?
樹生には自分なりに精一杯尽くしてきたつもりだった。料理の苦手な樹生のために得意な自分が作って、休日は二人で過ごしたり、インドアだったけれどたまに二人で買い物に出かけたりするのが凄く楽しかった。
樹生も同じ気持ちだと思ってたのに……
今日の近藤だってそうだ。一生懸命部屋のゴミを捨てて、片付けをした。次はもっと早く進められるように頑張ろうと思っていたのに、泥棒扱いされるなんて思ってもいなかった。
頑張った結果がこれとは、世の中はなんて理不尽なのだろうか。
「ははっ……うぅ……ッ」
息が、苦しい。
自分の周りに酸素がなくなってしまったかのように、浅い呼吸しかできない。
全力で走って樹生の家から離れたからだろうか。それとも、苦しい感情に押しつぶされそうになっているからだろうか。わからない。足も疲れた。走る速度はだんだんと遅くなり、菜那の足はピタリと止まった。
「っ……くっ……」
必死で堪えようと思うほど、感情が涙になってこぼれ落ちてくる。真昼間の街中で泣いている女ほど視線を集めるものはない。通りすがりの人の不思議そうな視線が菜那に突き刺さる。
止まれっ……止まってよっ……
強く思っても瞳から溢れる雫は止まることを知らないらしい。何度も自分の手で涙をぬぐったせいで手の甲はびしょびしょだ。
「はぁっ……んっ……」
ふいに頬に冷たさを感じた。
雨だ。
ポツポツと降り始めた雨は次第に強くなっていく。
「天気予報、降るなんて言ってなかったのに……」
折りたたみ傘は鞄に入っていない。突然の大雨に周りの通行人も慌て、雨から逃れようと走り出している。
もう、ちょうどいいや……
雨がきっとこの涙を隠してくれる。
菜那はゆっくりと歩き始めた。人々は急な雨に気を取られて、泣いている菜那に気が付かない。
身体を派手に濡らす雨など気にせず、菜那はふらふらと家へ向かった。
視界も雨のせいか、涙のせいなのかわからないくらいぼんやりとしている。
あ、なんか黒い影――と思った時にはもう遅かったらしい。
菜那の身体は目の前に現れた黒い影に力なくぶつかっていた。
「おっと、大丈夫ですか?」
ぶつかった小さな反動でも後ろに倒れそうになるが、すぐに誰かに身体を抱きとめられる。
頬に冷たい雨粒も感じない。
「また、会いましたね」
雨の代わりに、優しい声が頭上から降り注ぐ。菜那はゆっくりと顔を上げた。
「あ……」
菜那を抱きとめてくれたのは今朝、足を滑らせた時に助けてくれた彼だった。
視界がぼやけていたはずなのに、この雨の中でもハッキリとわかる。目を柔らかに細めた、優しい表情。
ぶつかってしまったのは自分なのに責めることもなく、優しい顔を菜那に向けている。
弱っている菜那にはその柔らかな視線だけで十分だった。プツンと糸が切れたように感情が溢れ出す。
「うぅっ……わわぁ――……」
泣き崩れる菜那を名前も知らない彼が人目から隠すように抱き寄せ、傘で隠してくれた。
彼の腕は力強いのにどこか優しさも感じられ、その中はとても心地よい。
だからだろうか。優しさに触れ、降っている雨に負けないくらい涙が溢れてくる。
そのまま何分泣いたかわからない。気付くと雨も大分小雨になっていた。
「少し、落ち着きましたか?」
彼の声に引き上げられるように顔を上げる。段々と冷静になった菜那は、自分があまりにも大胆なことをしてしまったと気が付いた。
やだっ、私ったら全然知らない人なのに……
「……す、すみませんでしたっ」
すっと身体を彼から離し、小さく頭を下げた。
「突然の雨でしたから。泣きたくなりますよね」
「え? ……あ、はい……っ!?」
彼の親指が菜那の頬に触れ、心臓がドクンっと大きく跳ねた。
「涙、まだ残ってた」
目の下を彼の親指がすーっと横に撫でる。
「あ……」
菜那は驚いて大きく目を見開いた。彼は拭き残した涙をぬぐってくれたようだ。
恥ずかしさのあまり、思わず顔をパッと彼から背けてしまった。
「す、すみませんっ……」
「いえ、私のほうこそ、つい触れてしまって。ご自宅は近いんですか?」
「はい」
菜那はコクリと頷いた。
「そうなんですね。すみませんが、ちょっと傘を持っていてくれませんか?」
「あ、はいっ」
傘を手渡され、反射的に持ってしまった。彼が濡れないように菜那は手を差し伸ばす。
ただの偶然で二回も助けてもらうなんて……なんだか不思議。今まで気が付かなかったけど、この辺に住んでいる人なのかな……?
ぼうっと彼を眺めていると冷えていた身体にふわりと温かさを感じる。
「え……?」
彼は着ていたジャケットを脱ぎ、菜那に羽織らせた。
「あ、あのっ、これはっ?」
「着てください。そのままだと風邪をひいてしまうかもしれませんから」
「そんなっ、大丈夫です!」
ジャケットに掛けた菜那の手に彼の手が重なり、動きを制される。
「あの……」
「本当は自宅まで送っていきたいのですが、さすがに会ったばかりの男が女性を自宅まで送るのは怖いでしょう? 気を付けて帰ってくださいね」
「え、ちょっとっ……!」
菜那が断る隙さえも与えずに、彼は雨の中を走り出してしまった。
パシャパシャと小さな水飛沫を飛ばしながら走り去る背中に向かって、菜那は呟いた。
「……親切な人、ありがとうございます」
理不尽な世の中だと思ったけれど、やっぱり優しい人もいるものだなぁ。
たった一人に優しくしてもらえただけなのに、ぱぁっと心が晴れた気がした。
「赤の他人なのに……こんなによくしてくれるなんて、本当に素敵な人だったな……」
また会えるだろうか。傘とジャケットを返さなければ。
菜那は傘をしっかり持ち、チャプチャプと少し明るく雨水を鳴らしながら自宅へと向かった。
***
今日の天気はあいにくの曇り模様だ。予報でも一日中曇りだった。降水確率は低いものの、菜那は鞄の他にネイビーの傘を持っている。
昨日、名前も知らない彼に借りた傘だ。ジャケットは高級ブランドのものだったので、病院へ来る前にクリーニング屋に出してきた。
「やっぱりあの人に名前とかいろいろ聞いておくべきだったな」
菜那は呟きながら総合病院へと入っていく。
二度会えたからといって三度目があるとは限らない。
この傘を返してお礼を伝えたいのにな……
手に持っているネイビーの傘を眺めつつ、母が入院している病室の扉をノックした。
「お母さん、来たよ」
ガラッと扉を開けると、真っ白なベッドに横になっていた母がゆっくりと顔を上げる。
「菜那、また来てくれたの?」
「当たり前でしょ」
「毎回ごめんねぇ」
そう謝る母の顔色がなんだか悪いように見える。
「お母さん、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ご飯だって残さず食べて体力回復に努めてるのよ?」
「もう、あんまり無理しないでよ」
「わかってはいるんだけどねぇ……菜那、ごめんね、心配かけて」
入院すると誰だって気持ちが落ち込むものだろう。いつも元気一杯の母だからか、か細い声を聞くと胸が苦しくなる。
もっと自分を大切にしてほしいのに……
菜那はニッコリと笑った。少しでも自分が明るくして、母の気持ちを上げたい。
「そう思うなら退院したら仕事は減らして、少しゆっくりしてよ? そうだ、なにか欲しいものある? 売店で買ってこようか?」
病室の角にある棚に洗濯してきた新しいパジャマやタオルをしまいながら、母を見る。
「欲しいものなんてないよ。でもそうだなぁ……菜那に早く結婚してほしいわ。樹生くんとはどうなってるの?」
弱々しい声のはずなのに、菜那の心臓に母の言葉が鋭い矢のように突き刺さった。
「あ~、うん。なんにも変わらないかな」
ヒクッと頬が引き攣る。
――嘘をついた。
笑って「浮気されちゃった」と話せばよかったかもしれない。でも、母に心配をかけないよう自分の口から明るく言うにはまだ早かったようだ。反射的に嘘をついてしまった。
「そう。早く菜那の花嫁姿、見たいんだけどねぇ」
「もうっ、花嫁姿はそのうち見せてあげるからっ!」
弱々しい母親の声を打ち消すように、菜那は母の手を握ってハリボテの笑みを向ける。
「そうなの? 楽しみだわっ!」
母の表情が和らぎ、キラキラした笑顔を見せる。その表情に菜那はチクリと胸が痛んだ。
母はこんなにも自分の結婚を待ち望んでいる。
「……ちょっと看護師さんに挨拶してくるね」
嘘をついた罪悪感で苦しくなり、菜那は病室を出てすぐ壁に寄りかかった。
なんでだろう……
樹生のことを話そうとした時、悲しいという気持ちよりも母親を悲しませたくないという思いのほうが大きかった。嘘をついた罪悪感も重なってくる。
もしかして、私ってあんまり樹生のことで傷ついて、ないのかも……?
昨日も樹生の浮気現場を見てしまった時は感情が嵐のように乱れていたが、家に帰ってからは思いのほか冷静だった。
いつも通りご飯を食べて、お風呂に入って眠れている自分がいたのだ。
はぁと小さくため息をついて天井を見上げる。
……私も樹生に対しての気持ちが薄れてたのかもなぁ。
これでは結婚なんてほど遠い。申し訳ないけれど、母を安心させてあげられる日はまだまだ来なそうだ。
ぼうっとしていると「こんにちは」と話し掛けられた。声のほうに菜那は顔を向ける。
「堀川さん、いらっしゃってたんですね」
穏やかな笑みを見せる女性は、普段からよくしてくれている看護師だ。
「あ、いつもお世話になっています」
菜那はぺこりと会釈する。
「ちょうどよかった。先生からお話があるので少しお時間いいですか?」
「あ……はい、大丈夫です」
菜那はゴクリと唾を呑み込み、看護師の後をついていく。
話ってなんだろう……リハビリのことかな……?
緊張しながらカウンセリングルームに入り、しばらく座って待っていると担当医が看護師と一緒に入ってきた。
「お待たせしました」
四十代の男性担当医はいつもニコニコしているのに、今日は厳しい表情を浮かべ、明らかに雰囲気が違う。思わず両手に力が入り、膝の上で拳を握った。
「堀川さん、お母様のことですが、当初の予定より入院が長引きそうです」
「え……どうしてですか?」
「体力的に回復が少し遅く、リハビリに入るまでもう少し時間がかかりそうです。そうなると三、四ヶ月はかかるかと思います」
「そうなんですね……わかりました。どうぞ母をよろしくお願いします」
菜那は深く頭を下げた。
カウンセリングルームを出ていく担当医の背中を見送り、深いため息が出る。
「お母さん……本当に無理しすぎだよ……」
不安で気持ちが重くなる。
早くよくなりますように……
そう願いながらカウンセリングルームを出た。
「菜那? 菜那聞いてる?」
「え?」
母の声でハッとした。
「疲れてるんじゃない? ボーッとしてたわよ」
「大丈夫、疲れてないから」
つい、考えごとをしてしまうだけ。母の病状のこと、昨日の会社でのこと、樹生のこと。
菜那は心配そうに見つめてくる母に無理やり口角を上げて笑い返した。
「私そろそろ仕事に行かないといけないから、またすぐ来るね!」
「菜那も忙しいんだからそんな頻繁に来なくてもいいわよ。自分のことを一番に考えて、ね?」
「お母さんこそ自分のことを一番に考えて? じゃあまた来るね」
母親の洗濯物が入った鞄を握り、菜那は病室を出た。
「もうっ……」
母からの優しい言葉にツンと鼻の奥が痛む。
母はいつも自分のことは二の次だ。そんな頑張り屋で優しい母を喜ばせるには、花嫁姿を見せるのが一番なのかもしれない。でもそれは昨日、叶わなくなってしまった。
「お母さんに早く本当のことを言わないとな……」
そう思っているけれど、喉の奥で「浮気された」という言葉が詰まって出てこない。
母が退院したら本当のことを伝えよう。今は入院中だし余計な心配はかけたくない。
「よしっ!」
自分に気合を入れてカジハンドに向かった。片手に荷物でパンパンの鞄と、もう片方にはネイビーの傘を持って。
***
事務所に着き、中に入るとすぐに社長が菜那に気が付いて駆け寄ってきた。
「菜那ちゃん、昨日は休めた?」
「社長……はい、大丈夫です。本当にご迷惑をおかけしました。今日からまた精一杯頑張りますのでよろしくお願いします」
菜那はこれでもかというくらいに深く頭を下げる。そっと社長が菜那の肩に触れた。
「菜那ちゃん、顔を上げて。実は菜那ちゃんに話さなきゃいけないことがあるの」
「話すこと、ですか……?」
「こっちで話しましょう」
二人掛けのソファーに呼ばれ、二人で腰を下ろした。いつになく真剣な社長の表情に菜那にも緊張が走る。
「社長どうしました……? 近藤様のこと、ですか?」
「ううん、違うわ。話ってのはこの会社のことで……」
少しの間を置き、社長は口を開いた。
「カジハンドは一ヶ月後に倒産することになりました」
「え……」
本当ですか? と口から出そうになったが、社長の眉尻を下げ、潤んだ瞳が事実だと物語っている。
「そう、ですか……他の社員の方はもう知ってるんですか?」
「ええ、昨日伝えたわ。皆納得してくれた。再就職先も同業種でよければ私がみつけてくるから」
「同業種、ですか……」
カジハンドでしか働いたことのない菜那にとって、異業種に就職するのは困難だと思う。再就職で有利になりそうな資格も持っていない。
けれどなんとなく、再就職と聞いて「違う仕事」が頭をよぎった。
あまり人と関わりたくないと思ってしまっているのが今の菜那の正直な気持ちだ。泥棒扱いされ、彼氏に浮気され、人間不信になるには十分の出来事が重なったのだ。
でも、自分には家事以外に一体なにができるだろう?
得意なことはなんですか? と聞かれたら答えられるものがない。
あ……私ってなにもない……
自分は空っぽなんだ、と実感した。
恋人も失って、職も失って。でも、家事以外にできることがない。
人生に絶望するって、こういう状況を言うのかなぁ……
昨日から悪いことしか起こっていない気がする。いいことと言えば、優しい人に助けてもらったことくらい。昨日、また頑張ろうと思ったはずなのに、また一瞬で地獄に落とされてしまった。
でも、そんな地獄から這い上がらなければ生きてはいけない。家事以外に自分にできることを見つけられるだろうか。
まだなんのあてもないけれど、なにか見つけ出したい。
「あの、再就職先のことは……私は大丈夫です、自分で探そうかな、と思います」
「わかったわ。もし気が変わったら声かけてちょうだいね」
「はい……」
フリーズしていた菜那に、社長はパンッと両手を叩いて明るく笑う。その音で菜那もハッと我に返り、社長を見た。
「でもいい知らせもあるのよ? 新規の案件が入ってきたから、今日行ってもらえる?」
「え? 今からですか?」
「そう、頼むわね。本当は断ろうと思ったんだけどどうしてもって頼まれちゃって。在宅ワークをしている方なんだけど、部屋の掃除と夕食の調理をご希望よ。菜那ちゃんの得意分野でしょう?」
社長がパチンとウインクをして菜那を見る。励ましてくれていることがひしひしと伝わってきた。
社長だって大変なはずなのに……
「……はい! 頑張ります!」
ウジウジしてたって意味がない。今はただ、カジハンドのために一生懸命働こう。
菜那は立ち上がると依頼者のもとへ行く準備を始めた。
***
上を向いてもてっぺんが見えないほどの高層マンションの目の前に、菜那は立っていた。片手にはたくさんの掃除用品が入った大きな鞄を持っている。周りの優雅でエレガントな風景と明らかに合っていない。黒のスラックスに白のワイシャツ、黄色い布地に黒の太い字でカジハンドと書かれたエプロンを身に着けた菜那だけが浮き上がっているように感じてしまう。恥ずかしさを感じ、羽織っていた黒のダウンのチャックを閉めた。
「ここ、だよね……?」
何度もスマートフォンに表示されている住所を確認するが、一字一句間違っていない。
やっぱり合ってる。ここに住んでる人なんだ……
ふぅっと深呼吸をし、ロビーにあるオートロックの操作盤で部屋番号を押そうと人差し指を伸ばした。
「っ……!」
全く違う現場なのに、昨日の近藤の家での出来事がフラッシュバックし、伸ばした指が震え出す。
「なんでっ……」
指を引っ込め、胸の前で両手を握りしめる。
『悪い。忙しくて連絡遅れた。風邪ひいてちょっとダウンしてるからしばらく会えないわ』
たった数行のメッセージを見つめる。
「そう、だったんだ……樹生、大丈夫かな……」
仕事が忙しくて体調を崩してしまったのだろうか。もしかしたら、忙しさを理由にちゃんとご飯を食べていなかったのかもしれない。樹生は忙しいとカップラーメンばかり食べて野菜を全く取らないから。
『大丈夫? なにか必要なものがあったら買っていくよ』
すぐに返信をしたが既読にはならなかった。熱を出して寝込んでいるのかもしれない。
心配だし、樹生の様子を見に行こうかな……
それに、今日は一人でいたくない。
一人でいると近藤のことを思い出して泣きそうになる。いろいろと余計なことまで考えてしまいそうだ。
買い物してから行こう……
菜那はスマートフォンを握りしめてスーパーに向かって歩き出した。
***
卵やネギなど、料理を作り置きできるよう、ある程度の食材を買って樹生の家に向かった。
キーケースには、あまり使うことのない合鍵が自分のアパートの鍵と一緒にぶら下がっている。樹生のアパートの鍵を選び、玄関を開けた。
「樹生……入るよ」
え――?
菜那は目を大きく見開いた。
玄関に入ってすぐに目に入ってきたのは女物のヒールだ。一瞬自分のものかと思ったが、ピンクベージュの可愛らしい色のヒールなんて持っていない。
ドッドッドッドッと心臓が痛いくらいに早く動き出した。
お、お客さんが来ているのかもしれないし……
そっと息を呑んで菜那は一歩一歩慎重に進んでいく。
い、いない……
リビングに入っても樹生の姿は見当たらない。残るはリビングの隣にある寝室だけだ。
でも、もうわかりきっている。寝室から漏れてくる女の甘い声に気が付かずにはいられない。
「っ……」
で、でも、もしかしたらエッチな動画でも見てるのかもしれないし……
なんて現実逃避さえ思ってしまう。
「あぁっ……気もちぃっ、樹生もっとぉっ……んぁぁ!」
「くっ……すげぇ気持ちいい……あ~最高~っ」
扉越しに女性の声が、樹生の声も交えて聞こえてきた。
「ひっ……」
思わず両手で口を塞ぐ。喉が締まり、息が苦しくなってきた。
あぁ、これは現実なんだ。
菜那は力の入らない手で引き戸を弱々しく開く。
何度も二人で一緒に寝たシングルベッドの上で樹生が女性を組み敷き、必死に腰を振っていた。
「っ!? 菜那!? なんでっ……」
菜那を見た樹生は慌てて動きを止め、布団で女性を隠した。
隠しても無駄なのに……
はっきりとこの目で樹生に抱かれている女性の姿を見てしまった。
本来ならばあそこにいるのは自分のはずなのに、なぜ一人でここに立ち尽くしているのだろうか。その意味がわかっているはずなのに、すぐには受け入れられない。
「風邪、ひいたって言ってた、から……」
エコバッグを握っていた右手に必要以上の力が入る。
「なのに、どういうこと……?」
震えそうになる唇を噛みしめながら樹生を見た。とてもじゃないけれど、布団の中に隠れている女性を見ることなんてできない。
樹生は悪びれる様子もなくベッドから降り、ボクサーパンツを穿いた。
「見てのまんまだよ。浮気した。だから別れてくんね?」
……え?
自分に言われたであろう言葉が信じられなくて、信じたくなくて、言葉が出てこない。「ごめん、ちょっとした遊びだったんだ」「本気じゃないんだ」とか、言い訳くらいしてほしかった。
喉のすぐそこまで「なに言ってるの?」と出てきているのに声にすることができず、唇が震え出す。
樹生は髪をガシガシとかきながらボスンッとベッドに腰かけた。
「もうさ、菜那のこと女として見れないんだわ。なんつーかおかんみたいなんだよね。エコバッグにネギって、まさにおかんじゃん」
樹生は笑いながら菜那の持っているエコバッグを横目で見た。
「しかも仕事は家事代行だろ? 付き合ってても家政婦みたいっていうかさ、家事を仕事にしてるって楽してるよな~、まぁ俺も楽させてもらってたけど」
「なっ……」
どうしてそんなにも酷いことが言えるのだろう。
樹生って、こんな人だったの……?
毎日一緒というわけではなかったが樹生とは高校も同じだったし、五年も側にいた。それなのに、この五年で初めて見る樹生の姿に驚きが隠せない。
「ねぇ、もういい加減布団の中苦しいんだけどぉ?」
ばさりと布団から顔を出した女性が気だるげに前髪をかきあげ、ふっと鼻で笑った。明らかに菜那のほうを見て勝ち誇ったような表情をしている。
「……っ!」
菜那の顔が耳まで真っ赤に染まった。
今、完全に自分が負け犬になっていることの恥ずかしさと、悲しさと、苛立ちと、何種類もの感情に身体が侵食されて視界がぐらつく。
――もう、この場にはいられない。
「っ……」
菜那はこぼれ落ちそうな涙を堪えながら樹生の家を飛び出した。
この場で悲しみの声を出していたら、ばらばらと崩れ落ちながら泣いてしまいそうだったから。
「なんで……っ」
どうしてこうなってしまったんだろう?
樹生には自分なりに精一杯尽くしてきたつもりだった。料理の苦手な樹生のために得意な自分が作って、休日は二人で過ごしたり、インドアだったけれどたまに二人で買い物に出かけたりするのが凄く楽しかった。
樹生も同じ気持ちだと思ってたのに……
今日の近藤だってそうだ。一生懸命部屋のゴミを捨てて、片付けをした。次はもっと早く進められるように頑張ろうと思っていたのに、泥棒扱いされるなんて思ってもいなかった。
頑張った結果がこれとは、世の中はなんて理不尽なのだろうか。
「ははっ……うぅ……ッ」
息が、苦しい。
自分の周りに酸素がなくなってしまったかのように、浅い呼吸しかできない。
全力で走って樹生の家から離れたからだろうか。それとも、苦しい感情に押しつぶされそうになっているからだろうか。わからない。足も疲れた。走る速度はだんだんと遅くなり、菜那の足はピタリと止まった。
「っ……くっ……」
必死で堪えようと思うほど、感情が涙になってこぼれ落ちてくる。真昼間の街中で泣いている女ほど視線を集めるものはない。通りすがりの人の不思議そうな視線が菜那に突き刺さる。
止まれっ……止まってよっ……
強く思っても瞳から溢れる雫は止まることを知らないらしい。何度も自分の手で涙をぬぐったせいで手の甲はびしょびしょだ。
「はぁっ……んっ……」
ふいに頬に冷たさを感じた。
雨だ。
ポツポツと降り始めた雨は次第に強くなっていく。
「天気予報、降るなんて言ってなかったのに……」
折りたたみ傘は鞄に入っていない。突然の大雨に周りの通行人も慌て、雨から逃れようと走り出している。
もう、ちょうどいいや……
雨がきっとこの涙を隠してくれる。
菜那はゆっくりと歩き始めた。人々は急な雨に気を取られて、泣いている菜那に気が付かない。
身体を派手に濡らす雨など気にせず、菜那はふらふらと家へ向かった。
視界も雨のせいか、涙のせいなのかわからないくらいぼんやりとしている。
あ、なんか黒い影――と思った時にはもう遅かったらしい。
菜那の身体は目の前に現れた黒い影に力なくぶつかっていた。
「おっと、大丈夫ですか?」
ぶつかった小さな反動でも後ろに倒れそうになるが、すぐに誰かに身体を抱きとめられる。
頬に冷たい雨粒も感じない。
「また、会いましたね」
雨の代わりに、優しい声が頭上から降り注ぐ。菜那はゆっくりと顔を上げた。
「あ……」
菜那を抱きとめてくれたのは今朝、足を滑らせた時に助けてくれた彼だった。
視界がぼやけていたはずなのに、この雨の中でもハッキリとわかる。目を柔らかに細めた、優しい表情。
ぶつかってしまったのは自分なのに責めることもなく、優しい顔を菜那に向けている。
弱っている菜那にはその柔らかな視線だけで十分だった。プツンと糸が切れたように感情が溢れ出す。
「うぅっ……わわぁ――……」
泣き崩れる菜那を名前も知らない彼が人目から隠すように抱き寄せ、傘で隠してくれた。
彼の腕は力強いのにどこか優しさも感じられ、その中はとても心地よい。
だからだろうか。優しさに触れ、降っている雨に負けないくらい涙が溢れてくる。
そのまま何分泣いたかわからない。気付くと雨も大分小雨になっていた。
「少し、落ち着きましたか?」
彼の声に引き上げられるように顔を上げる。段々と冷静になった菜那は、自分があまりにも大胆なことをしてしまったと気が付いた。
やだっ、私ったら全然知らない人なのに……
「……す、すみませんでしたっ」
すっと身体を彼から離し、小さく頭を下げた。
「突然の雨でしたから。泣きたくなりますよね」
「え? ……あ、はい……っ!?」
彼の親指が菜那の頬に触れ、心臓がドクンっと大きく跳ねた。
「涙、まだ残ってた」
目の下を彼の親指がすーっと横に撫でる。
「あ……」
菜那は驚いて大きく目を見開いた。彼は拭き残した涙をぬぐってくれたようだ。
恥ずかしさのあまり、思わず顔をパッと彼から背けてしまった。
「す、すみませんっ……」
「いえ、私のほうこそ、つい触れてしまって。ご自宅は近いんですか?」
「はい」
菜那はコクリと頷いた。
「そうなんですね。すみませんが、ちょっと傘を持っていてくれませんか?」
「あ、はいっ」
傘を手渡され、反射的に持ってしまった。彼が濡れないように菜那は手を差し伸ばす。
ただの偶然で二回も助けてもらうなんて……なんだか不思議。今まで気が付かなかったけど、この辺に住んでいる人なのかな……?
ぼうっと彼を眺めていると冷えていた身体にふわりと温かさを感じる。
「え……?」
彼は着ていたジャケットを脱ぎ、菜那に羽織らせた。
「あ、あのっ、これはっ?」
「着てください。そのままだと風邪をひいてしまうかもしれませんから」
「そんなっ、大丈夫です!」
ジャケットに掛けた菜那の手に彼の手が重なり、動きを制される。
「あの……」
「本当は自宅まで送っていきたいのですが、さすがに会ったばかりの男が女性を自宅まで送るのは怖いでしょう? 気を付けて帰ってくださいね」
「え、ちょっとっ……!」
菜那が断る隙さえも与えずに、彼は雨の中を走り出してしまった。
パシャパシャと小さな水飛沫を飛ばしながら走り去る背中に向かって、菜那は呟いた。
「……親切な人、ありがとうございます」
理不尽な世の中だと思ったけれど、やっぱり優しい人もいるものだなぁ。
たった一人に優しくしてもらえただけなのに、ぱぁっと心が晴れた気がした。
「赤の他人なのに……こんなによくしてくれるなんて、本当に素敵な人だったな……」
また会えるだろうか。傘とジャケットを返さなければ。
菜那は傘をしっかり持ち、チャプチャプと少し明るく雨水を鳴らしながら自宅へと向かった。
***
今日の天気はあいにくの曇り模様だ。予報でも一日中曇りだった。降水確率は低いものの、菜那は鞄の他にネイビーの傘を持っている。
昨日、名前も知らない彼に借りた傘だ。ジャケットは高級ブランドのものだったので、病院へ来る前にクリーニング屋に出してきた。
「やっぱりあの人に名前とかいろいろ聞いておくべきだったな」
菜那は呟きながら総合病院へと入っていく。
二度会えたからといって三度目があるとは限らない。
この傘を返してお礼を伝えたいのにな……
手に持っているネイビーの傘を眺めつつ、母が入院している病室の扉をノックした。
「お母さん、来たよ」
ガラッと扉を開けると、真っ白なベッドに横になっていた母がゆっくりと顔を上げる。
「菜那、また来てくれたの?」
「当たり前でしょ」
「毎回ごめんねぇ」
そう謝る母の顔色がなんだか悪いように見える。
「お母さん、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ご飯だって残さず食べて体力回復に努めてるのよ?」
「もう、あんまり無理しないでよ」
「わかってはいるんだけどねぇ……菜那、ごめんね、心配かけて」
入院すると誰だって気持ちが落ち込むものだろう。いつも元気一杯の母だからか、か細い声を聞くと胸が苦しくなる。
もっと自分を大切にしてほしいのに……
菜那はニッコリと笑った。少しでも自分が明るくして、母の気持ちを上げたい。
「そう思うなら退院したら仕事は減らして、少しゆっくりしてよ? そうだ、なにか欲しいものある? 売店で買ってこようか?」
病室の角にある棚に洗濯してきた新しいパジャマやタオルをしまいながら、母を見る。
「欲しいものなんてないよ。でもそうだなぁ……菜那に早く結婚してほしいわ。樹生くんとはどうなってるの?」
弱々しい声のはずなのに、菜那の心臓に母の言葉が鋭い矢のように突き刺さった。
「あ~、うん。なんにも変わらないかな」
ヒクッと頬が引き攣る。
――嘘をついた。
笑って「浮気されちゃった」と話せばよかったかもしれない。でも、母に心配をかけないよう自分の口から明るく言うにはまだ早かったようだ。反射的に嘘をついてしまった。
「そう。早く菜那の花嫁姿、見たいんだけどねぇ」
「もうっ、花嫁姿はそのうち見せてあげるからっ!」
弱々しい母親の声を打ち消すように、菜那は母の手を握ってハリボテの笑みを向ける。
「そうなの? 楽しみだわっ!」
母の表情が和らぎ、キラキラした笑顔を見せる。その表情に菜那はチクリと胸が痛んだ。
母はこんなにも自分の結婚を待ち望んでいる。
「……ちょっと看護師さんに挨拶してくるね」
嘘をついた罪悪感で苦しくなり、菜那は病室を出てすぐ壁に寄りかかった。
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樹生のことを話そうとした時、悲しいという気持ちよりも母親を悲しませたくないという思いのほうが大きかった。嘘をついた罪悪感も重なってくる。
もしかして、私ってあんまり樹生のことで傷ついて、ないのかも……?
昨日も樹生の浮気現場を見てしまった時は感情が嵐のように乱れていたが、家に帰ってからは思いのほか冷静だった。
いつも通りご飯を食べて、お風呂に入って眠れている自分がいたのだ。
はぁと小さくため息をついて天井を見上げる。
……私も樹生に対しての気持ちが薄れてたのかもなぁ。
これでは結婚なんてほど遠い。申し訳ないけれど、母を安心させてあげられる日はまだまだ来なそうだ。
ぼうっとしていると「こんにちは」と話し掛けられた。声のほうに菜那は顔を向ける。
「堀川さん、いらっしゃってたんですね」
穏やかな笑みを見せる女性は、普段からよくしてくれている看護師だ。
「あ、いつもお世話になっています」
菜那はぺこりと会釈する。
「ちょうどよかった。先生からお話があるので少しお時間いいですか?」
「あ……はい、大丈夫です」
菜那はゴクリと唾を呑み込み、看護師の後をついていく。
話ってなんだろう……リハビリのことかな……?
緊張しながらカウンセリングルームに入り、しばらく座って待っていると担当医が看護師と一緒に入ってきた。
「お待たせしました」
四十代の男性担当医はいつもニコニコしているのに、今日は厳しい表情を浮かべ、明らかに雰囲気が違う。思わず両手に力が入り、膝の上で拳を握った。
「堀川さん、お母様のことですが、当初の予定より入院が長引きそうです」
「え……どうしてですか?」
「体力的に回復が少し遅く、リハビリに入るまでもう少し時間がかかりそうです。そうなると三、四ヶ月はかかるかと思います」
「そうなんですね……わかりました。どうぞ母をよろしくお願いします」
菜那は深く頭を下げた。
カウンセリングルームを出ていく担当医の背中を見送り、深いため息が出る。
「お母さん……本当に無理しすぎだよ……」
不安で気持ちが重くなる。
早くよくなりますように……
そう願いながらカウンセリングルームを出た。
「菜那? 菜那聞いてる?」
「え?」
母の声でハッとした。
「疲れてるんじゃない? ボーッとしてたわよ」
「大丈夫、疲れてないから」
つい、考えごとをしてしまうだけ。母の病状のこと、昨日の会社でのこと、樹生のこと。
菜那は心配そうに見つめてくる母に無理やり口角を上げて笑い返した。
「私そろそろ仕事に行かないといけないから、またすぐ来るね!」
「菜那も忙しいんだからそんな頻繁に来なくてもいいわよ。自分のことを一番に考えて、ね?」
「お母さんこそ自分のことを一番に考えて? じゃあまた来るね」
母親の洗濯物が入った鞄を握り、菜那は病室を出た。
「もうっ……」
母からの優しい言葉にツンと鼻の奥が痛む。
母はいつも自分のことは二の次だ。そんな頑張り屋で優しい母を喜ばせるには、花嫁姿を見せるのが一番なのかもしれない。でもそれは昨日、叶わなくなってしまった。
「お母さんに早く本当のことを言わないとな……」
そう思っているけれど、喉の奥で「浮気された」という言葉が詰まって出てこない。
母が退院したら本当のことを伝えよう。今は入院中だし余計な心配はかけたくない。
「よしっ!」
自分に気合を入れてカジハンドに向かった。片手に荷物でパンパンの鞄と、もう片方にはネイビーの傘を持って。
***
事務所に着き、中に入るとすぐに社長が菜那に気が付いて駆け寄ってきた。
「菜那ちゃん、昨日は休めた?」
「社長……はい、大丈夫です。本当にご迷惑をおかけしました。今日からまた精一杯頑張りますのでよろしくお願いします」
菜那はこれでもかというくらいに深く頭を下げる。そっと社長が菜那の肩に触れた。
「菜那ちゃん、顔を上げて。実は菜那ちゃんに話さなきゃいけないことがあるの」
「話すこと、ですか……?」
「こっちで話しましょう」
二人掛けのソファーに呼ばれ、二人で腰を下ろした。いつになく真剣な社長の表情に菜那にも緊張が走る。
「社長どうしました……? 近藤様のこと、ですか?」
「ううん、違うわ。話ってのはこの会社のことで……」
少しの間を置き、社長は口を開いた。
「カジハンドは一ヶ月後に倒産することになりました」
「え……」
本当ですか? と口から出そうになったが、社長の眉尻を下げ、潤んだ瞳が事実だと物語っている。
「そう、ですか……他の社員の方はもう知ってるんですか?」
「ええ、昨日伝えたわ。皆納得してくれた。再就職先も同業種でよければ私がみつけてくるから」
「同業種、ですか……」
カジハンドでしか働いたことのない菜那にとって、異業種に就職するのは困難だと思う。再就職で有利になりそうな資格も持っていない。
けれどなんとなく、再就職と聞いて「違う仕事」が頭をよぎった。
あまり人と関わりたくないと思ってしまっているのが今の菜那の正直な気持ちだ。泥棒扱いされ、彼氏に浮気され、人間不信になるには十分の出来事が重なったのだ。
でも、自分には家事以外に一体なにができるだろう?
得意なことはなんですか? と聞かれたら答えられるものがない。
あ……私ってなにもない……
自分は空っぽなんだ、と実感した。
恋人も失って、職も失って。でも、家事以外にできることがない。
人生に絶望するって、こういう状況を言うのかなぁ……
昨日から悪いことしか起こっていない気がする。いいことと言えば、優しい人に助けてもらったことくらい。昨日、また頑張ろうと思ったはずなのに、また一瞬で地獄に落とされてしまった。
でも、そんな地獄から這い上がらなければ生きてはいけない。家事以外に自分にできることを見つけられるだろうか。
まだなんのあてもないけれど、なにか見つけ出したい。
「あの、再就職先のことは……私は大丈夫です、自分で探そうかな、と思います」
「わかったわ。もし気が変わったら声かけてちょうだいね」
「はい……」
フリーズしていた菜那に、社長はパンッと両手を叩いて明るく笑う。その音で菜那もハッと我に返り、社長を見た。
「でもいい知らせもあるのよ? 新規の案件が入ってきたから、今日行ってもらえる?」
「え? 今からですか?」
「そう、頼むわね。本当は断ろうと思ったんだけどどうしてもって頼まれちゃって。在宅ワークをしている方なんだけど、部屋の掃除と夕食の調理をご希望よ。菜那ちゃんの得意分野でしょう?」
社長がパチンとウインクをして菜那を見る。励ましてくれていることがひしひしと伝わってきた。
社長だって大変なはずなのに……
「……はい! 頑張ります!」
ウジウジしてたって意味がない。今はただ、カジハンドのために一生懸命働こう。
菜那は立ち上がると依頼者のもとへ行く準備を始めた。
***
上を向いてもてっぺんが見えないほどの高層マンションの目の前に、菜那は立っていた。片手にはたくさんの掃除用品が入った大きな鞄を持っている。周りの優雅でエレガントな風景と明らかに合っていない。黒のスラックスに白のワイシャツ、黄色い布地に黒の太い字でカジハンドと書かれたエプロンを身に着けた菜那だけが浮き上がっているように感じてしまう。恥ずかしさを感じ、羽織っていた黒のダウンのチャックを閉めた。
「ここ、だよね……?」
何度もスマートフォンに表示されている住所を確認するが、一字一句間違っていない。
やっぱり合ってる。ここに住んでる人なんだ……
ふぅっと深呼吸をし、ロビーにあるオートロックの操作盤で部屋番号を押そうと人差し指を伸ばした。
「っ……!」
全く違う現場なのに、昨日の近藤の家での出来事がフラッシュバックし、伸ばした指が震え出す。
「なんでっ……」
指を引っ込め、胸の前で両手を握りしめる。
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