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1巻
1-3
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不幸な出来事が重なりすぎて、トラウマになるには菜那にとって十分だったようだ。身体が小さく震え出す。
「仕事だから。大丈夫、大丈夫……」
優しいお客様もたくさんいた。だから、大丈夫。
自分に何度も言い聞かせ、大きく深呼吸をする。
そして、もう一度インターフォンに指を伸ばした。
2001、押せた……
ホッと胸を撫で下ろすと、2001号室からすぐに応答があった。
「はい、宇賀谷です」
男性の柔らかな優しい声が聞こえた。
あれ? この声……
スピーカー越しに聞こえる声に菜那は聞き覚えがあるように感じた。でも誰の声なのかハッキリと思い出すことができない。
すぐそこまで答えは出ている気がするのに……
「あのっ、えっと、依頼を承りましたカジハンドの堀川です。宇賀谷様、本日はよろしくお願いいたします」
インターフォン越しに頭を下げると、くすくすと上品な笑い声が機械越しに聞こえてきた。
「元気そうでよかったです。今開けるので入ってきてください」
……元気そう? やっぱり聞き覚えのある声だから知り合いだったのかな?
けれど宇賀谷という珍しい苗字の人を忘れるだろうか。
思い出そうと記憶をたどりながらゆっくりと開いた自動ドアを通り、菜那は2001号室へと向かった。
あれ……? 誰かいる?
少し先の玄関前に人影が見え、菜那は首を傾げる。
菜那のほうを見るなり会釈をしてきたので、もしかして? と思い、少し足を速めて人影のもとへ急いだ。
「あのっ、宇賀谷蒼司様でしょうか? わたくし、カジハンドの堀川と申します」
「はい。宇賀谷です」
その一言だけでドクンと心臓が高鳴った。
あ……
優しく微笑むこの顔にはしっかりと見覚えがある。二度も助けてくれた彼の顔を忘れるはずがない。今日はスーツ姿ではなく、ラフなトレーナー姿だが、それでも身長が高くてスタイルのよさがはっきりとわかる。
「あのっ、昨日の方、ですよね? 本当にありがとうございました。私、傘とジャケットをお借りしてしまって、あと滑った時も助けてもらってしまって。あぁっ、傘! 事務所に置いてきてしまいましたっ」
二度目はあったが三度目はないかもしれないと思っていた。なのにこんな形で会えたことに菜那は鼓動の高鳴りを抑えきれない。
早くお礼が伝えたくて焦って話す菜那のことを、蒼司は柔らかな視線で見つめている。
「そのっ、本当にお見苦しい姿ばかりを見せてしまいっ、本日はしっかりやらせていただきますので、えっと、そのっ」
緊張で、ますます菜那の口調が早くなる。
「ははっ、落ち着いてください。ゆっくりでいいですから」
蒼司はくしゃっと笑った。
「っ……!」
柔らかい笑顔だけではない、少し弾けた蒼司の笑みを見て、菜那の胸の内がキュンと甘く痛む。
「あっ……す、すみません。なんか緊張してしまって、本当にお恥ずかしい姿ばかり見せてしまってますね」
菜那は苦笑いしながら、恥ずかしくなって口元を手で隠した。
「私も少し緊張していますよ。本当にたまたまの偶然にいつも驚かされていましたから」
「あはは……お恥ずかしいかぎりですが、こんな偶然ってあるんですね。これもなにかのご縁だと思って精一杯務めさせていただきますので、本日はよろしくお願いいたします」
菜那が深々と頭を下げると「こちらこそ」と蒼司も高い背を折り曲げて礼をする。
顔を上げ、蒼司を見ると目が合い、彼は恥ずかしそうに髪をかき上げながら笑った。
「その、お恥ずかしいのですが部屋はかなり汚いんで……」
「大丈夫ですよ。お任せください」
「頼もしいですね。じゃあお願いします」
蒼司は玄関ドアを開ける。手を差し出して「どうぞ」と、菜那を家へと招き入れた。
「お邪魔いたします」
どれだけ汚いのだろうかと思ったが、玄関に散乱している靴はなく、きちんとかかとを揃えて靴箱に並べられていた。
なんだ、綺麗だし、とっても素敵な玄関だなぁ。
艶やかな白いタイルが、マンションだと暗くなりがちな玄関を明るくしてくれている。目の前には全面擦りガラス張りのリビングドアが見えた。
「これ、よかったら」
「ありがとうございます」
蒼司から差し出されたスリッパはグレイのフワフワした素材だ。ありがたく拝借し、足を通すと靴下越しにでもわかるほどの素材のよさに思わず「凄い」と声が出そうになった。
「じゃあ、今日はリビングをお願いします」
「はい。かしこまりました」
歩く蒼司の後ろをついていき、リビングに入る。
「わっ……」
モノトーンで統一された室内にシンプルなデザインの家具が置かれ、落ち着いた印象の部屋だ。大きなガラス窓から見える景色は、地上より空のほうが近いんじゃないかと思うくらい雲が近く感じる。残念なのは今日の天気が曇りだということだ。晴れていたらきっと絶景に違いない。
広くてモデルハウスのような内装だが、大きな窓の手前にあるソファーの上には脱ぎっぱなしの服がちらほら置かれている。ガラスのローテーブルの上にも飲みかけのペットボトルが数本溜まっているが、それ以外のゴミはパッと見たところなさそうで菜那は少し安堵した。
蒼司は罵声を浴びせるような人でないことは、少し関わっただけでもわかっている。けれど、心のどこかでお客様に対して怯えてしまっている自分がいるのかもしれない。
「ははっ、汚くて驚きましたよね。仕事を理由にしたらいけないのはわかってるんですけど、忙しくて……まぁ、家事も苦手なんですけど」
蒼司は恥ずかしそうに笑った。
「驚きなんてしません。お仕事が忙しいと家事まで手が回りませんよね」
忙しそうな人を見るとつい母を思い出してしまう。菜那の母親も常に忙しそうで、家に帰ってくるとスイッチが切れたようにぐったりとしていたからよくわかる。
仕事と家事の両立はかなり大変なことだと。
だからこそ、自分達のような家事代行業者は、そうした人達の負担を少しでも減らす手伝いができればと思い、いつも仕事に臨んでいる。
「今日は掃除と夕食の調理のご依頼だったのですが、さっそく始めてもよろしいでしょうか?」
「よろしくお願いします。私はここでちょっと仕事していますので、なにかあったら聞いてください」
「承知いたしました。では掃除が終わり次第買い物に行き、料理にかかりたいと思います。メニューはご希望通りメインにハンバーグでよろしかったですか?」
菜那はスマートフォンに保存している事前にもらっていたアンケートシートと蒼司を交互に見る。
「っ……」
蒼司と目が合ったその瞬間、彼に抱きしめてもらった記憶が脳裏にしっかりと映し出された。菜那の顔がかぁっと赤く染まっていく。
なっ、私ってばなんでこのタイミングで思い出しちゃうの……!
お客様と目を合わせるなんて当たり前のことのはずなのに、蒼司は特別だ。助けてくれ、慰めてくれた時の彼の腕の温もりを、身体がハッキリと覚えているらしい。
菜那は思わずパッと顔を逸らした。恥ずかしさが一気にこみ上げてくる。
「どうかしましたか?」
菜那の態度を不思議に思ったのか、蒼司が顔を覗き込んできた。切れ長の瞳が菜那を捉える。
「いえ……なんでもありません」
抱きしめられたことを思い出してしまいました、なんて言えるはずがない。
大切なお客様なのに公私混同してしまうなんて……絶対にダメ!
キュッと唇を噛み、菜那は自分に活を入れるようにキリッとした表情で顔を上げた。
「では作業に取り掛からせていただきます」
「あ、待ってください」
動き出した菜那の腕を蒼司は掴んで止めた。
「な、なんでしょうか!?」
ただ腕を掴まれているだけなのに、彼からの温度を感じてしまう。熱が蒼司の手のひらから伝わり、じわじわと菜那の身体の温度を上昇させた。
「買い物の時は私もご一緒しても大丈夫でしょうか?」
「宇賀谷様がご一緒にですか? それは……」
めったにないパターンの質問に少し間が空いてしまった。
「ダメ、でしょうか?」
「えっと、大抵のお客様はご自宅で待たれているので珍しいと言いますか……あの、手を……」
菜那が掴まれている腕に視線をずらす。蒼司の視線もそれを追うように動き、手がパッと離れた。
「あぁ、すみません。呼び止めるのについ。それで、私もちょうど買い物に行きたいと思っていたんです。今日は天気も悪いですし、車だったら雨が降ってきても大丈夫でしょう? 決して買い物の邪魔はしませんので」
「……それは宇賀谷様に車を出していただくということですか?」
「私の車でよければ。あ、でも男の人の車に乗るのもアレですよね。タクシーで行きましょうか」
蒼司は「タクシータクシー」と呟きながらスマートフォンをいじり出した。
彼が悪い人でないことは十分にわかっている。今だって天気を心配して提案してくれたのだろう。厚意に甘えてもいいだろうか。
「あの……宇賀谷様のお車にご一緒してもよろしいでしょうか?」
蒼司は手を止め、菜那を見て柔らかに笑った。
「もちろんです。ご一緒させてください」
彼の優しい表情を見るとポッと心が温かくなる。
「よろしくお願いいたします。お時間になったら声を掛けさせてもらいます」
「わかりました。それまで仕事をしているので、よろしくお願いします」
「かしこまりました」
少し業務的な挨拶を交わし、菜那が会釈をして顔を上げると蒼司はリビングから出て別の部屋へと消えていった。
「本当に優しい人だなぁ……」
ポロッと思ったことが口からこぼれる。
これだけ優しい蒼司のことだ。もしかしたら彼にとっては誰かを助けることは当たり前なのかもしれない。
何度も蒼司に助けられている菜那はまた彼の優しさに触れ、率直にそう思った。
「よし、まずは洗濯物だ!」
蒼司の洋服を両手で抱え込み、洗面所へと向かった。
洗濯物を洗濯機に入れてリビングに戻ると、蒼司がソファーに座っている。ダークブラウンの木目調のサイドテーブルに向かい、ノートパソコンをいじっていた。
わ……眼鏡姿だ……
シンプルなシルバーフレームの眼鏡をかけた蒼司は、更に色気を増しているように見えた。それにいつの間に着替えてきたのか、黒いパンツにカーキ色のシャツを着ている。長い足を組みパソコンに向かう姿は知的で、見惚れてしまいそうになるほどカッコいい。
菜那は蒼司の邪魔にならないよう身を低くし、ササッとローテーブルの上にあったペットボトルを回収した。
「堀川さん、ありがとうございます」
菜那の姿が目の端に映ったのか、蒼司はパソコンから顔を上げて眼鏡を外した。目が疲れたのか目頭を指で摘んでぐいぐい揉んでいる。
「いえ……その、お仕事大変そうですね」
「ちょっと案件が立て込んじゃいまして。あ、邪魔だったら別の部屋に行きますけど大丈夫ですか?」
蒼司はノートパソコンを閉めようと手を掛けた。
「いえ、全く邪魔だなんてことはありません。むしろ私のほうがちょこちょこ動いていてお邪魔になってはいませんか? できるだけお仕事の邪魔にならないように気を付けますが……」
蒼司が菜那を見つめて、小さく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。堀川さんが一生懸命私の部屋を綺麗にしてくれるのを見ていると、こちらまで頑張ろうって気持ちになれますから。働く人の姿って素敵ですよね」
「そんなっ、大袈裟です……!」
蒼司のまっすぐな言葉に菜那の頬が紅色に染まる。
「本当のことですから。でも、自分の部屋くらい自分で掃除しろよって話なんですけどね」
自虐的に笑う蒼司を見て、菜那は膝をついて彼を見上げた。
「宇賀谷様、それは違います」
菜那はハッキリと言葉にして蒼司と目を合わせる。
「お仕事が忙しいと家のことまでなかなか手が回らないと思います。だからこそ、忙しい人達に代わって家事をするのが私達家事代行の仕事です。宇賀谷様はお仕事を頑張ってください。私も仕事を頑張りますっ」
菜那はニッコリと笑ってガッツポーズをしてみせた。
「…………」
蒼司はキョトンと目を見開いて菜那を見ている。
あ……もしかして余計なこと言っちゃった? かも……?
不安に駆られた瞬間、蒼司が右手で口元を隠しながら菜那を見つめた。
「それは反則ですよ……」
ボソリと呟かれたため、菜那には上手く聞きとれなかった。
「宇賀谷様……?」
「いや、じゃあ遠慮なく仕事を頑張らせてもらいますね。でも、堀川さんのことも見ていてもいいですか?」
「え……? 私?」
クスッと余裕そうな笑みを見せた蒼司に思わず心臓がドキッと反応する。
「どうやって家事をすればいいのかな~って、少しは自分でも家事ができるようにならないと」
「な、なるほど……なにも参考にはならないと思いますが……し、仕事に戻りますっ!」
ペットボトルを胸に抱えて、菜那はその場を立ち去った。
チラッと振り返ると真剣な表情の蒼司と目が合った。
「っ……!」
ほっ、本当に見てるっ……宇賀谷様って真面目な人なんだなぁ。
正直言って、視線を向けられることがトラウマになりかけていた。
近藤の睨むような視線、樹生からの冷ややかな視線、浮気相手からの憐みの目。
でも、蒼司からの視線は全く嫌だと感じなかった。むしろ優しく見守ってくれているように感じてしまう。
よし、頑張ろう……
菜那は意気込み、ペットボトルをぎゅっと抱きしめた。
キッチンに回収したペットボトルを置き、一つずつラベルを剥がしていく。カウンターキッチンなのでふと顔を上げれば視界に蒼司が映り込んだ。
凄く真剣な表情……これだけカッコいいんだからきっと彼女がいるだろうけど、あんまり家からは女の人の気配を感じないんだよねぇ。
やはり家庭のある家や同棲カップルの家など、誰かと一緒に暮らしている家は人の住んでいる気配を多く感じる。歯ブラシの数や、食器の数。どこかしらに存在があるはずなのに、蒼司の家には誰かが一緒に住んでいるような気配が全くない。
ラベルを剥がしながら見ていると、蒼司は少し口を曲げてなにか悩んでいる様子だ。じぃっとパソコンとにらめっこしている。その姿がなんだか少し可愛く見えて思わず頬が緩んだ。
そういえば、職業はなんなんだろう? でもきっといい会社に勤めるエリートなんだろうな。じゃなきゃこんないいマンションに住めないよね……ってお客様のこと詮索しすぎっ……
他のことを考えないよう手を素早く動かしているうちに、ゴミの処分はあっという間に終わった。
よし、次はリビングだ!
ハンディモップでインテリアのほこりを取る。仕事をしている蒼司を考慮して音のうるさい掃除機はやめ、床は雑巾で拭き上げた。巾木にもほこりが溜まっていたので雑巾のほうがちょうどよかったというのもある。
時々、蒼司からの視線を感じたが、全く嫌な視線ではないので気にせず掃除に没頭できた。
でも、本当にオシャレなお家だなぁ……
高級マンションの依頼はカジハンドには来ず、普段は戸建てが多い。自分と蒼司では住む世界が違うのだと肌で感じた。
まぁ、当たり前か……
使った雑巾を洗い、ふぅと深呼吸をして気持ちを落ちつかせると菜那は蒼司のもとへ向かった。
しばらく蒼司の視線を感じなかったのは、彼が仕事に没頭していたからのようだ。真剣に画面を見ながら手を動かしている。
……カッコいいな、ってなにキュンとしちゃってるの、私!
浮気されて、振られたばかりなのに他の男性にキュンとしてしまうなんて。
でも、蒼司が言っていた通り仕事に一生懸命な人って素敵だな、と思ってしまう。容姿うんぬんではなく、目の前にある課題に真剣に取り組んでいる姿は誰だってカッコいい。
「宇賀谷様、お仕事中に失礼します。リビングの掃除はある程度終わりましたので、お時間的に料理に移りたく、買い物に行きたいのですが……本当にご一緒されますか?」
「わぁ……凄く綺麗です。いつの間にか仕事に集中しちゃってたんだ。買い物ですよね? もちろんです」
パソコンを閉じ、外した眼鏡をその上に置いた。
「じゃあ、行きましょうか」
「はいっ……」
近くに置いてあった小さな鞄を持って歩き出す蒼司の後を、菜那も鞄を持ってついていく。家を出て、エレベーターに乗り込んだ。
「本当にリビングが凄く綺麗になりました。インテリアとか、職業柄ついこだわって買ってしまうんですけど、その後の手入れが間に合わなくて」
菜那の隣に立つ蒼司は恥ずかしそうに目を細めて笑う。狭い空間だからか、蒼司の柔らかく低い声がやたら響いて聞こえた。
「職業柄……インテリアコーディネーターさんでしょうか?」
「いえ、私は建築士です。今更ですけど一応……」
蒼司は鞄の中から名刺入れを取り出し、名刺を一枚菜那に差し出した。
菜那は「ご丁寧にありがとうございます」と名刺を受け取り、まじまじと見る。
『UGY建築事務所 一級建築士・代表 宇賀谷蒼司』と名刺に記されていた。
「わ……建築事務所の社長さん……」
「個人でやっているので社長っていうのもなんか違いますけど。家で仕事をしている分、散らかってしまうんですよね。まぁ仕事を言い訳にしているだけですけど」
「いえ、家を設計できるなんて尊敬します。仕事に集中していたらなかなか家事まで手が回りませんよ。当たり前です」
自分に誇れる仕事があるって凄いなぁ、と菜那は率直に思った。
「え……?」
ふわっと爽やかな柑橘系の匂いが鼻を抜ける。蒼司が菜那の顔を覗き込んだ。
「私には家事のできる堀川さんのほうが尊敬できますよ」
蒼司に見つめられ、痛いくらいに心がドクンと反応した。次第に鼻の奥がツンと痛くなってくる。
「……私はそんな」
家事しかできることがない、なにもない空っぽの人間なんです。
そう口にしたら涙がこぼれてしまいそうな気がして、菜那は蒼司から顔をサッと背けた。
「ハンバーグ! チーズ入りがいいですか?」
視線は蒼司からずらしたまま、菜那はポンポンと跳ねるような明るい声を出して話を逸らす。
「チーズ、いいですね。食べたいです」
「で、ではそういたしますね」
蒼司の「楽しみです」という声と同時にエレベーターが三階で開いた。一人の男性が入ってきたと思えば、蒼司の腕が囲い込むようにして男性から菜那の姿を隠す。
……う、宇賀谷様?
ぶつかりそうなほどたくさんの人が入ってきたわけではないのに、ほんの少し動いたら蒼司に触れてしまいそうな距離まで身体が近づき、緊張が走る。
もしかして入ってくる人の邪魔になってたのかな……?
菜那は顔を上げて蒼司を見た。
「あ、あの……宇賀谷様?」
なるべく人に聞こえないよう小さな声を出す。
「はい?」
小さすぎて聞こえなかったのか、蒼司は顔を傾け菜那の顔に近づけた。柑橘系の香りが段々とムスクの香りに変わっていくのを感じる。
顔っ、近いっ……
サラリと蒼司の髪が菜那の頬を擽った。バクバクと心拍数は上がっていくばかりだ。
この状況は一体なに?
「あっ、その――」
ポーンっとタイミングよくエレベーターが一階に着き、先に男性が降りていった。
「宇賀谷様、私達も降りないと……」
「あぁ、そうでしたね。行きましょう」
エレベーターを降りると蒼司がピタリと立ち止まった。
「宇賀谷様、どうかなさいましたか?」
「大丈夫、ですか?」
菜那を見つめる蒼司の漆黒の瞳にはなにやら心配の色が見える。
「えっと、なにがでしょうか? あ、もしかしてハンバーグが作れるかって心配ですか?」
「いえ、なんだか堀川さんの瞳が潤んでいるように見えたんですが……」
「っ……」
ドキッと心臓がまた高鳴った。
もしかしてバレちゃってたのかな……隠したつもりだったんだけど……
「あの、その……」
すぐに言い訳が思いつかず言葉を詰まらせていると、蒼司がふわっと優しい笑顔を見せた。
「買い物に行きましょうか」
「……はい」
本当に優しい人なんだなぁ……
きっと自分の様子がおかしいことに気が付いて、理由を聞かずに話を流してくれたのだろう。蒼司の優しさに身体の芯からじわっと熱くなりながら、歩き出す彼の後をついて歩いた。
「こちらです」
マンションを出て、地下にある駐車場のパールホワイトのセダン車の前で蒼司が止まった。
助手席側のドアを開け、蒼司は「どうぞ」と菜那をエスコートする。
「あ、ありがとうございます。失礼します」
ぺこりと頭を下げ、緊張しながらも菜那は助手席に乗り込んだ。すぐに蒼司も運転席に乗り、静かにエンジンをかける。
「じゃあ、近くのスーパーに向かいますね」
「……お願いします」
ゆっくりと車が動き出し、地上へと顔を出す。
「堀川さんは普段から自炊なされているんですか?」
蒼司は運転をしながらチラッと菜那を見た。
「私ですか? そうですね、一人暮らしなので割と自炊します」
「偉いですね。私は基本外食ですませてしまうので今日の料理がとても楽しみなんです」
本当に楽しみ、と書いてあるような表情をしている蒼司を見て、菜那は思わず顔を窓側に逸らしてしまった。
そんなに料理に期待されてるんだ……
嬉しい半面、少し不安も感じた。
――お前っておかんみたい。
ふと元カレに言われた言葉が蘇り、窓ガラスに映る自分が明らかにショックを受けている顔をしていた。
「仕事だから。大丈夫、大丈夫……」
優しいお客様もたくさんいた。だから、大丈夫。
自分に何度も言い聞かせ、大きく深呼吸をする。
そして、もう一度インターフォンに指を伸ばした。
2001、押せた……
ホッと胸を撫で下ろすと、2001号室からすぐに応答があった。
「はい、宇賀谷です」
男性の柔らかな優しい声が聞こえた。
あれ? この声……
スピーカー越しに聞こえる声に菜那は聞き覚えがあるように感じた。でも誰の声なのかハッキリと思い出すことができない。
すぐそこまで答えは出ている気がするのに……
「あのっ、えっと、依頼を承りましたカジハンドの堀川です。宇賀谷様、本日はよろしくお願いいたします」
インターフォン越しに頭を下げると、くすくすと上品な笑い声が機械越しに聞こえてきた。
「元気そうでよかったです。今開けるので入ってきてください」
……元気そう? やっぱり聞き覚えのある声だから知り合いだったのかな?
けれど宇賀谷という珍しい苗字の人を忘れるだろうか。
思い出そうと記憶をたどりながらゆっくりと開いた自動ドアを通り、菜那は2001号室へと向かった。
あれ……? 誰かいる?
少し先の玄関前に人影が見え、菜那は首を傾げる。
菜那のほうを見るなり会釈をしてきたので、もしかして? と思い、少し足を速めて人影のもとへ急いだ。
「あのっ、宇賀谷蒼司様でしょうか? わたくし、カジハンドの堀川と申します」
「はい。宇賀谷です」
その一言だけでドクンと心臓が高鳴った。
あ……
優しく微笑むこの顔にはしっかりと見覚えがある。二度も助けてくれた彼の顔を忘れるはずがない。今日はスーツ姿ではなく、ラフなトレーナー姿だが、それでも身長が高くてスタイルのよさがはっきりとわかる。
「あのっ、昨日の方、ですよね? 本当にありがとうございました。私、傘とジャケットをお借りしてしまって、あと滑った時も助けてもらってしまって。あぁっ、傘! 事務所に置いてきてしまいましたっ」
二度目はあったが三度目はないかもしれないと思っていた。なのにこんな形で会えたことに菜那は鼓動の高鳴りを抑えきれない。
早くお礼が伝えたくて焦って話す菜那のことを、蒼司は柔らかな視線で見つめている。
「そのっ、本当にお見苦しい姿ばかりを見せてしまいっ、本日はしっかりやらせていただきますので、えっと、そのっ」
緊張で、ますます菜那の口調が早くなる。
「ははっ、落ち着いてください。ゆっくりでいいですから」
蒼司はくしゃっと笑った。
「っ……!」
柔らかい笑顔だけではない、少し弾けた蒼司の笑みを見て、菜那の胸の内がキュンと甘く痛む。
「あっ……す、すみません。なんか緊張してしまって、本当にお恥ずかしい姿ばかり見せてしまってますね」
菜那は苦笑いしながら、恥ずかしくなって口元を手で隠した。
「私も少し緊張していますよ。本当にたまたまの偶然にいつも驚かされていましたから」
「あはは……お恥ずかしいかぎりですが、こんな偶然ってあるんですね。これもなにかのご縁だと思って精一杯務めさせていただきますので、本日はよろしくお願いいたします」
菜那が深々と頭を下げると「こちらこそ」と蒼司も高い背を折り曲げて礼をする。
顔を上げ、蒼司を見ると目が合い、彼は恥ずかしそうに髪をかき上げながら笑った。
「その、お恥ずかしいのですが部屋はかなり汚いんで……」
「大丈夫ですよ。お任せください」
「頼もしいですね。じゃあお願いします」
蒼司は玄関ドアを開ける。手を差し出して「どうぞ」と、菜那を家へと招き入れた。
「お邪魔いたします」
どれだけ汚いのだろうかと思ったが、玄関に散乱している靴はなく、きちんとかかとを揃えて靴箱に並べられていた。
なんだ、綺麗だし、とっても素敵な玄関だなぁ。
艶やかな白いタイルが、マンションだと暗くなりがちな玄関を明るくしてくれている。目の前には全面擦りガラス張りのリビングドアが見えた。
「これ、よかったら」
「ありがとうございます」
蒼司から差し出されたスリッパはグレイのフワフワした素材だ。ありがたく拝借し、足を通すと靴下越しにでもわかるほどの素材のよさに思わず「凄い」と声が出そうになった。
「じゃあ、今日はリビングをお願いします」
「はい。かしこまりました」
歩く蒼司の後ろをついていき、リビングに入る。
「わっ……」
モノトーンで統一された室内にシンプルなデザインの家具が置かれ、落ち着いた印象の部屋だ。大きなガラス窓から見える景色は、地上より空のほうが近いんじゃないかと思うくらい雲が近く感じる。残念なのは今日の天気が曇りだということだ。晴れていたらきっと絶景に違いない。
広くてモデルハウスのような内装だが、大きな窓の手前にあるソファーの上には脱ぎっぱなしの服がちらほら置かれている。ガラスのローテーブルの上にも飲みかけのペットボトルが数本溜まっているが、それ以外のゴミはパッと見たところなさそうで菜那は少し安堵した。
蒼司は罵声を浴びせるような人でないことは、少し関わっただけでもわかっている。けれど、心のどこかでお客様に対して怯えてしまっている自分がいるのかもしれない。
「ははっ、汚くて驚きましたよね。仕事を理由にしたらいけないのはわかってるんですけど、忙しくて……まぁ、家事も苦手なんですけど」
蒼司は恥ずかしそうに笑った。
「驚きなんてしません。お仕事が忙しいと家事まで手が回りませんよね」
忙しそうな人を見るとつい母を思い出してしまう。菜那の母親も常に忙しそうで、家に帰ってくるとスイッチが切れたようにぐったりとしていたからよくわかる。
仕事と家事の両立はかなり大変なことだと。
だからこそ、自分達のような家事代行業者は、そうした人達の負担を少しでも減らす手伝いができればと思い、いつも仕事に臨んでいる。
「今日は掃除と夕食の調理のご依頼だったのですが、さっそく始めてもよろしいでしょうか?」
「よろしくお願いします。私はここでちょっと仕事していますので、なにかあったら聞いてください」
「承知いたしました。では掃除が終わり次第買い物に行き、料理にかかりたいと思います。メニューはご希望通りメインにハンバーグでよろしかったですか?」
菜那はスマートフォンに保存している事前にもらっていたアンケートシートと蒼司を交互に見る。
「っ……」
蒼司と目が合ったその瞬間、彼に抱きしめてもらった記憶が脳裏にしっかりと映し出された。菜那の顔がかぁっと赤く染まっていく。
なっ、私ってばなんでこのタイミングで思い出しちゃうの……!
お客様と目を合わせるなんて当たり前のことのはずなのに、蒼司は特別だ。助けてくれ、慰めてくれた時の彼の腕の温もりを、身体がハッキリと覚えているらしい。
菜那は思わずパッと顔を逸らした。恥ずかしさが一気にこみ上げてくる。
「どうかしましたか?」
菜那の態度を不思議に思ったのか、蒼司が顔を覗き込んできた。切れ長の瞳が菜那を捉える。
「いえ……なんでもありません」
抱きしめられたことを思い出してしまいました、なんて言えるはずがない。
大切なお客様なのに公私混同してしまうなんて……絶対にダメ!
キュッと唇を噛み、菜那は自分に活を入れるようにキリッとした表情で顔を上げた。
「では作業に取り掛からせていただきます」
「あ、待ってください」
動き出した菜那の腕を蒼司は掴んで止めた。
「な、なんでしょうか!?」
ただ腕を掴まれているだけなのに、彼からの温度を感じてしまう。熱が蒼司の手のひらから伝わり、じわじわと菜那の身体の温度を上昇させた。
「買い物の時は私もご一緒しても大丈夫でしょうか?」
「宇賀谷様がご一緒にですか? それは……」
めったにないパターンの質問に少し間が空いてしまった。
「ダメ、でしょうか?」
「えっと、大抵のお客様はご自宅で待たれているので珍しいと言いますか……あの、手を……」
菜那が掴まれている腕に視線をずらす。蒼司の視線もそれを追うように動き、手がパッと離れた。
「あぁ、すみません。呼び止めるのについ。それで、私もちょうど買い物に行きたいと思っていたんです。今日は天気も悪いですし、車だったら雨が降ってきても大丈夫でしょう? 決して買い物の邪魔はしませんので」
「……それは宇賀谷様に車を出していただくということですか?」
「私の車でよければ。あ、でも男の人の車に乗るのもアレですよね。タクシーで行きましょうか」
蒼司は「タクシータクシー」と呟きながらスマートフォンをいじり出した。
彼が悪い人でないことは十分にわかっている。今だって天気を心配して提案してくれたのだろう。厚意に甘えてもいいだろうか。
「あの……宇賀谷様のお車にご一緒してもよろしいでしょうか?」
蒼司は手を止め、菜那を見て柔らかに笑った。
「もちろんです。ご一緒させてください」
彼の優しい表情を見るとポッと心が温かくなる。
「よろしくお願いいたします。お時間になったら声を掛けさせてもらいます」
「わかりました。それまで仕事をしているので、よろしくお願いします」
「かしこまりました」
少し業務的な挨拶を交わし、菜那が会釈をして顔を上げると蒼司はリビングから出て別の部屋へと消えていった。
「本当に優しい人だなぁ……」
ポロッと思ったことが口からこぼれる。
これだけ優しい蒼司のことだ。もしかしたら彼にとっては誰かを助けることは当たり前なのかもしれない。
何度も蒼司に助けられている菜那はまた彼の優しさに触れ、率直にそう思った。
「よし、まずは洗濯物だ!」
蒼司の洋服を両手で抱え込み、洗面所へと向かった。
洗濯物を洗濯機に入れてリビングに戻ると、蒼司がソファーに座っている。ダークブラウンの木目調のサイドテーブルに向かい、ノートパソコンをいじっていた。
わ……眼鏡姿だ……
シンプルなシルバーフレームの眼鏡をかけた蒼司は、更に色気を増しているように見えた。それにいつの間に着替えてきたのか、黒いパンツにカーキ色のシャツを着ている。長い足を組みパソコンに向かう姿は知的で、見惚れてしまいそうになるほどカッコいい。
菜那は蒼司の邪魔にならないよう身を低くし、ササッとローテーブルの上にあったペットボトルを回収した。
「堀川さん、ありがとうございます」
菜那の姿が目の端に映ったのか、蒼司はパソコンから顔を上げて眼鏡を外した。目が疲れたのか目頭を指で摘んでぐいぐい揉んでいる。
「いえ……その、お仕事大変そうですね」
「ちょっと案件が立て込んじゃいまして。あ、邪魔だったら別の部屋に行きますけど大丈夫ですか?」
蒼司はノートパソコンを閉めようと手を掛けた。
「いえ、全く邪魔だなんてことはありません。むしろ私のほうがちょこちょこ動いていてお邪魔になってはいませんか? できるだけお仕事の邪魔にならないように気を付けますが……」
蒼司が菜那を見つめて、小さく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。堀川さんが一生懸命私の部屋を綺麗にしてくれるのを見ていると、こちらまで頑張ろうって気持ちになれますから。働く人の姿って素敵ですよね」
「そんなっ、大袈裟です……!」
蒼司のまっすぐな言葉に菜那の頬が紅色に染まる。
「本当のことですから。でも、自分の部屋くらい自分で掃除しろよって話なんですけどね」
自虐的に笑う蒼司を見て、菜那は膝をついて彼を見上げた。
「宇賀谷様、それは違います」
菜那はハッキリと言葉にして蒼司と目を合わせる。
「お仕事が忙しいと家のことまでなかなか手が回らないと思います。だからこそ、忙しい人達に代わって家事をするのが私達家事代行の仕事です。宇賀谷様はお仕事を頑張ってください。私も仕事を頑張りますっ」
菜那はニッコリと笑ってガッツポーズをしてみせた。
「…………」
蒼司はキョトンと目を見開いて菜那を見ている。
あ……もしかして余計なこと言っちゃった? かも……?
不安に駆られた瞬間、蒼司が右手で口元を隠しながら菜那を見つめた。
「それは反則ですよ……」
ボソリと呟かれたため、菜那には上手く聞きとれなかった。
「宇賀谷様……?」
「いや、じゃあ遠慮なく仕事を頑張らせてもらいますね。でも、堀川さんのことも見ていてもいいですか?」
「え……? 私?」
クスッと余裕そうな笑みを見せた蒼司に思わず心臓がドキッと反応する。
「どうやって家事をすればいいのかな~って、少しは自分でも家事ができるようにならないと」
「な、なるほど……なにも参考にはならないと思いますが……し、仕事に戻りますっ!」
ペットボトルを胸に抱えて、菜那はその場を立ち去った。
チラッと振り返ると真剣な表情の蒼司と目が合った。
「っ……!」
ほっ、本当に見てるっ……宇賀谷様って真面目な人なんだなぁ。
正直言って、視線を向けられることがトラウマになりかけていた。
近藤の睨むような視線、樹生からの冷ややかな視線、浮気相手からの憐みの目。
でも、蒼司からの視線は全く嫌だと感じなかった。むしろ優しく見守ってくれているように感じてしまう。
よし、頑張ろう……
菜那は意気込み、ペットボトルをぎゅっと抱きしめた。
キッチンに回収したペットボトルを置き、一つずつラベルを剥がしていく。カウンターキッチンなのでふと顔を上げれば視界に蒼司が映り込んだ。
凄く真剣な表情……これだけカッコいいんだからきっと彼女がいるだろうけど、あんまり家からは女の人の気配を感じないんだよねぇ。
やはり家庭のある家や同棲カップルの家など、誰かと一緒に暮らしている家は人の住んでいる気配を多く感じる。歯ブラシの数や、食器の数。どこかしらに存在があるはずなのに、蒼司の家には誰かが一緒に住んでいるような気配が全くない。
ラベルを剥がしながら見ていると、蒼司は少し口を曲げてなにか悩んでいる様子だ。じぃっとパソコンとにらめっこしている。その姿がなんだか少し可愛く見えて思わず頬が緩んだ。
そういえば、職業はなんなんだろう? でもきっといい会社に勤めるエリートなんだろうな。じゃなきゃこんないいマンションに住めないよね……ってお客様のこと詮索しすぎっ……
他のことを考えないよう手を素早く動かしているうちに、ゴミの処分はあっという間に終わった。
よし、次はリビングだ!
ハンディモップでインテリアのほこりを取る。仕事をしている蒼司を考慮して音のうるさい掃除機はやめ、床は雑巾で拭き上げた。巾木にもほこりが溜まっていたので雑巾のほうがちょうどよかったというのもある。
時々、蒼司からの視線を感じたが、全く嫌な視線ではないので気にせず掃除に没頭できた。
でも、本当にオシャレなお家だなぁ……
高級マンションの依頼はカジハンドには来ず、普段は戸建てが多い。自分と蒼司では住む世界が違うのだと肌で感じた。
まぁ、当たり前か……
使った雑巾を洗い、ふぅと深呼吸をして気持ちを落ちつかせると菜那は蒼司のもとへ向かった。
しばらく蒼司の視線を感じなかったのは、彼が仕事に没頭していたからのようだ。真剣に画面を見ながら手を動かしている。
……カッコいいな、ってなにキュンとしちゃってるの、私!
浮気されて、振られたばかりなのに他の男性にキュンとしてしまうなんて。
でも、蒼司が言っていた通り仕事に一生懸命な人って素敵だな、と思ってしまう。容姿うんぬんではなく、目の前にある課題に真剣に取り組んでいる姿は誰だってカッコいい。
「宇賀谷様、お仕事中に失礼します。リビングの掃除はある程度終わりましたので、お時間的に料理に移りたく、買い物に行きたいのですが……本当にご一緒されますか?」
「わぁ……凄く綺麗です。いつの間にか仕事に集中しちゃってたんだ。買い物ですよね? もちろんです」
パソコンを閉じ、外した眼鏡をその上に置いた。
「じゃあ、行きましょうか」
「はいっ……」
近くに置いてあった小さな鞄を持って歩き出す蒼司の後を、菜那も鞄を持ってついていく。家を出て、エレベーターに乗り込んだ。
「本当にリビングが凄く綺麗になりました。インテリアとか、職業柄ついこだわって買ってしまうんですけど、その後の手入れが間に合わなくて」
菜那の隣に立つ蒼司は恥ずかしそうに目を細めて笑う。狭い空間だからか、蒼司の柔らかく低い声がやたら響いて聞こえた。
「職業柄……インテリアコーディネーターさんでしょうか?」
「いえ、私は建築士です。今更ですけど一応……」
蒼司は鞄の中から名刺入れを取り出し、名刺を一枚菜那に差し出した。
菜那は「ご丁寧にありがとうございます」と名刺を受け取り、まじまじと見る。
『UGY建築事務所 一級建築士・代表 宇賀谷蒼司』と名刺に記されていた。
「わ……建築事務所の社長さん……」
「個人でやっているので社長っていうのもなんか違いますけど。家で仕事をしている分、散らかってしまうんですよね。まぁ仕事を言い訳にしているだけですけど」
「いえ、家を設計できるなんて尊敬します。仕事に集中していたらなかなか家事まで手が回りませんよ。当たり前です」
自分に誇れる仕事があるって凄いなぁ、と菜那は率直に思った。
「え……?」
ふわっと爽やかな柑橘系の匂いが鼻を抜ける。蒼司が菜那の顔を覗き込んだ。
「私には家事のできる堀川さんのほうが尊敬できますよ」
蒼司に見つめられ、痛いくらいに心がドクンと反応した。次第に鼻の奥がツンと痛くなってくる。
「……私はそんな」
家事しかできることがない、なにもない空っぽの人間なんです。
そう口にしたら涙がこぼれてしまいそうな気がして、菜那は蒼司から顔をサッと背けた。
「ハンバーグ! チーズ入りがいいですか?」
視線は蒼司からずらしたまま、菜那はポンポンと跳ねるような明るい声を出して話を逸らす。
「チーズ、いいですね。食べたいです」
「で、ではそういたしますね」
蒼司の「楽しみです」という声と同時にエレベーターが三階で開いた。一人の男性が入ってきたと思えば、蒼司の腕が囲い込むようにして男性から菜那の姿を隠す。
……う、宇賀谷様?
ぶつかりそうなほどたくさんの人が入ってきたわけではないのに、ほんの少し動いたら蒼司に触れてしまいそうな距離まで身体が近づき、緊張が走る。
もしかして入ってくる人の邪魔になってたのかな……?
菜那は顔を上げて蒼司を見た。
「あ、あの……宇賀谷様?」
なるべく人に聞こえないよう小さな声を出す。
「はい?」
小さすぎて聞こえなかったのか、蒼司は顔を傾け菜那の顔に近づけた。柑橘系の香りが段々とムスクの香りに変わっていくのを感じる。
顔っ、近いっ……
サラリと蒼司の髪が菜那の頬を擽った。バクバクと心拍数は上がっていくばかりだ。
この状況は一体なに?
「あっ、その――」
ポーンっとタイミングよくエレベーターが一階に着き、先に男性が降りていった。
「宇賀谷様、私達も降りないと……」
「あぁ、そうでしたね。行きましょう」
エレベーターを降りると蒼司がピタリと立ち止まった。
「宇賀谷様、どうかなさいましたか?」
「大丈夫、ですか?」
菜那を見つめる蒼司の漆黒の瞳にはなにやら心配の色が見える。
「えっと、なにがでしょうか? あ、もしかしてハンバーグが作れるかって心配ですか?」
「いえ、なんだか堀川さんの瞳が潤んでいるように見えたんですが……」
「っ……」
ドキッと心臓がまた高鳴った。
もしかしてバレちゃってたのかな……隠したつもりだったんだけど……
「あの、その……」
すぐに言い訳が思いつかず言葉を詰まらせていると、蒼司がふわっと優しい笑顔を見せた。
「買い物に行きましょうか」
「……はい」
本当に優しい人なんだなぁ……
きっと自分の様子がおかしいことに気が付いて、理由を聞かずに話を流してくれたのだろう。蒼司の優しさに身体の芯からじわっと熱くなりながら、歩き出す彼の後をついて歩いた。
「こちらです」
マンションを出て、地下にある駐車場のパールホワイトのセダン車の前で蒼司が止まった。
助手席側のドアを開け、蒼司は「どうぞ」と菜那をエスコートする。
「あ、ありがとうございます。失礼します」
ぺこりと頭を下げ、緊張しながらも菜那は助手席に乗り込んだ。すぐに蒼司も運転席に乗り、静かにエンジンをかける。
「じゃあ、近くのスーパーに向かいますね」
「……お願いします」
ゆっくりと車が動き出し、地上へと顔を出す。
「堀川さんは普段から自炊なされているんですか?」
蒼司は運転をしながらチラッと菜那を見た。
「私ですか? そうですね、一人暮らしなので割と自炊します」
「偉いですね。私は基本外食ですませてしまうので今日の料理がとても楽しみなんです」
本当に楽しみ、と書いてあるような表情をしている蒼司を見て、菜那は思わず顔を窓側に逸らしてしまった。
そんなに料理に期待されてるんだ……
嬉しい半面、少し不安も感じた。
――お前っておかんみたい。
ふと元カレに言われた言葉が蘇り、窓ガラスに映る自分が明らかにショックを受けている顔をしていた。
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