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塩気の濃いスープは今まで食べたことのない味だったが、ごろごろと大きな野菜がたくさん入っていてとても美味しかった。恐る恐る口にした肉は、噛まずともほろりと舌の上で崩れるほどに柔らかくて、うまみの凝縮した味だと思った。食べることに罪悪感を覚えなかったといえば噓になるけれど、純潔を失ったのに今更そんなことを気にしても仕方ないと言い聞かせて飲み込んだ。
あっという間に椀を空にしたファテナを見て、ザフィルは満足そうにうなずいた。
「残さず食ったな。もう一杯食うか?」
「いえ、もう大丈夫です。ありがとうございます」
食事は美味しかったけれど、今まで食べていたものよりも格段に量が多くてお腹がいっぱいになった。満腹になるまで食事をしたのは、いつ以来だろうか。
ザフィルは手早く食器を片付けると、ファテナをまっすぐに見つめた。
「ここを、あんたの部屋として与える。テミム族は、捕虜にも最低限度の生活は保障するからな」
「え……」
ファテナは戸惑って部屋の中を見回した。ここは、妹のディアドの部屋と同じくらいに広い。彼女の部屋と違って装飾は控えめだが、それでも寝台や椅子に施された彫り模様は繊細で手が込んでいることが分かるし、床に敷かれた絨毯も毛足が長くてふかふかとしている。
捕虜に与えるとは思えない部屋の豪華さには、どんな理由があるのだろうか。
困ったように眉を顰めたファテナを見て、ザフィルは口元だけの笑みを浮かべる。
「民を守りたいなら、おとなしくしてろ。もしも逃げ出そうとしたら、その時は……分かるな?」
「……っ」
冷酷な言葉と表情に、ファテナは震える身体を堪えてうなずいた。
民を守るために何でもすると言ったのは、自分だ。恐らくここで、ザフィルに抱かれる日々を過ごすことになるのだろう。
美しく整えられたこの部屋も、ファテナのためではないのだ。族長である彼が女を抱く場所が、みすぼらしいわけがない。
「分かりました」
彼に反抗する気はないと示すために、ファテナはそう言って深く頭を下げた。
自分の行動ひとつで、元ウトリド族の者がどんな扱いを受けるか分からないのだ。ザフィルの怒りをかうような行動は、慎まねばならない。
「巫女姫ファテナは、館の火事で死んだことになっている。だから、あんたの存在は基本的に隠させてもらう。この部屋から勝手に出ることは許さない」
「はい」
ファテナは従順にうなずいた。ファテナがいれば、精霊の力を借りてテミム族を倒せないかと考える者が出てもおかしくない。死んだということにしておけば、きっと彼らもすぐにテミム族になじむだろう。
動くたびに嫌でも視界に入る濃紺の髪を見て、ファテナは唇を歪めて笑った。
確かに、巫女姫ファテナはもういない。死んでしまったも同然だ。
ここにいるのは、身体を差し出すことしかできない、哀れな一人の女だ。
ひっそりと自らの存在意義を自嘲していたファテナをよそに、ザフィルは立ち上がると隣の部屋から一人の女性を連れて戻ってきた。長い黒髪をひとつにまとめて縛った、すらりと背の高い美女で、年の頃はザフィルと同じくらいだろうか。柔らかな笑みを向けられて、ファテナは戸惑いつつ小さく会釈を返す。
「世話係としてアディヤをつける。身の回りのことはこいつに頼め」
「アディヤです。よろしくお願いします」
にっこりと微笑んだ彼女は優しそうで、捕虜であるはずのファテナにも丁寧な物腰で接してくれる。そのことに居心地の悪い思いをしながらも、ファテナは再び頭を下げた。
「あぁ、女だからと侮って、隙を見て逃げ出そうなんて考えるなよ。アディヤはこう見えて戦いにも長けている」
穏やかな笑みを浮かべるアディヤの腰には、ベルトに挿した短剣がある。世話係という名の、見張りなのだろう。
ファテナがアディヤの剣に気づいたことを確認すると、ザフィルはまた来ると言い置いて部屋を出て行った。
早ければ今日の夜にも、また抱かれることになるのだろう。
残されたファテナは、おずおずとアディヤを見上げる。彼女はザフィルがいなくなっても穏やかな態度を崩さない。捕虜に対する見張りというよりも、本当に世話係のようだ。
居心地の悪さはあるものの、今のファテナはザフィルの所有物も同然だ。族長の物をぞんざいに扱うことなど、できないのだろう。
あたたかいお茶を淹れてくれたあと、アディヤは何かあれば呼ぶようにと言い残して隣の部屋に行ってしまった。彼女の私室兼簡易の調理場になっているらしく、基本的にそこで寝泊まりするという。
常に見張られることになると覚悟していたのだが、拍子抜けだ。もっとも部屋の鍵は施錠されているし、小さな庭があるものの、その外には高い柵があるという。非力なファテナに、アディヤを振り切って逃げることなど不可能だし、多少目を離しても問題ないということなのだろう。
時折隣の部屋から響く物音が、誰かがそばにいることを実感させてくれる。
誰かの気配をそばに感じながら暮らすなんて、何年ぶりだろうか。これからは、精霊の代わりにアディヤがそばにいてくれることになるようだ。
手をあたためるようにカップを握りしめながら、ファテナはゆっくりとお茶に口をつける。甘くとろりとしたお茶は、慣れない環境にこわばる身体を柔らかく溶かしてくれるような気がする。
部屋の壁には、金の枠にはまった鏡がひとつ。そちらに視線を向けると、濃紺の髪をした女と目が合った。自分の容姿をじっくりと見る機会は今までもそう多くはなかったが、記憶にある白い髪は暗く染まり、瞳の色も以前より黒みを増した灰色だ。
これが本当に自分なのだろうかとまだ信じられないものの、ファテナが首をかしげると鏡の中の女も同じように動く。
鏡は高級品で、贅沢好きの妹ですらこんなに大きなものは持っていなかった。つるりとした滑らかな鏡面は歪みひとつなく、どれほどの価値があるかも分からない。
部屋の中にいれば嫌でも目に入る鏡は、ファテナに今の容姿を受け入れさせるために設置されたのだろうか。布で覆ってしまいたい気持ちを堪えて、ファテナは鏡から視線を逸らした。
ザフィルは、また夜に来るのだろうか。ファテナは、昨夜の記憶をぼんやりとたどる。
恐ろしくて、嫌でたまらなくて、それなのに初めて感じる快楽に戸惑いつつも溺れた。
無理矢理に暴かれた身体を再び差し出すことに、嫌悪感がないといえば嘘になる。それでも黙ってザフィルに抱かれ、彼の機嫌を損ねないよう振る舞うのがファテナにできることだ。
情けなさと絶望感で鼻がつんと痛んだが、泣いてはだめだとファテナは唇を強く噛みしめた。たとえ身体は暴かれようとも、心だけは決してザフィルに明け渡さないと決めて、残ったお茶を勢いよく飲み干した。
あっという間に椀を空にしたファテナを見て、ザフィルは満足そうにうなずいた。
「残さず食ったな。もう一杯食うか?」
「いえ、もう大丈夫です。ありがとうございます」
食事は美味しかったけれど、今まで食べていたものよりも格段に量が多くてお腹がいっぱいになった。満腹になるまで食事をしたのは、いつ以来だろうか。
ザフィルは手早く食器を片付けると、ファテナをまっすぐに見つめた。
「ここを、あんたの部屋として与える。テミム族は、捕虜にも最低限度の生活は保障するからな」
「え……」
ファテナは戸惑って部屋の中を見回した。ここは、妹のディアドの部屋と同じくらいに広い。彼女の部屋と違って装飾は控えめだが、それでも寝台や椅子に施された彫り模様は繊細で手が込んでいることが分かるし、床に敷かれた絨毯も毛足が長くてふかふかとしている。
捕虜に与えるとは思えない部屋の豪華さには、どんな理由があるのだろうか。
困ったように眉を顰めたファテナを見て、ザフィルは口元だけの笑みを浮かべる。
「民を守りたいなら、おとなしくしてろ。もしも逃げ出そうとしたら、その時は……分かるな?」
「……っ」
冷酷な言葉と表情に、ファテナは震える身体を堪えてうなずいた。
民を守るために何でもすると言ったのは、自分だ。恐らくここで、ザフィルに抱かれる日々を過ごすことになるのだろう。
美しく整えられたこの部屋も、ファテナのためではないのだ。族長である彼が女を抱く場所が、みすぼらしいわけがない。
「分かりました」
彼に反抗する気はないと示すために、ファテナはそう言って深く頭を下げた。
自分の行動ひとつで、元ウトリド族の者がどんな扱いを受けるか分からないのだ。ザフィルの怒りをかうような行動は、慎まねばならない。
「巫女姫ファテナは、館の火事で死んだことになっている。だから、あんたの存在は基本的に隠させてもらう。この部屋から勝手に出ることは許さない」
「はい」
ファテナは従順にうなずいた。ファテナがいれば、精霊の力を借りてテミム族を倒せないかと考える者が出てもおかしくない。死んだということにしておけば、きっと彼らもすぐにテミム族になじむだろう。
動くたびに嫌でも視界に入る濃紺の髪を見て、ファテナは唇を歪めて笑った。
確かに、巫女姫ファテナはもういない。死んでしまったも同然だ。
ここにいるのは、身体を差し出すことしかできない、哀れな一人の女だ。
ひっそりと自らの存在意義を自嘲していたファテナをよそに、ザフィルは立ち上がると隣の部屋から一人の女性を連れて戻ってきた。長い黒髪をひとつにまとめて縛った、すらりと背の高い美女で、年の頃はザフィルと同じくらいだろうか。柔らかな笑みを向けられて、ファテナは戸惑いつつ小さく会釈を返す。
「世話係としてアディヤをつける。身の回りのことはこいつに頼め」
「アディヤです。よろしくお願いします」
にっこりと微笑んだ彼女は優しそうで、捕虜であるはずのファテナにも丁寧な物腰で接してくれる。そのことに居心地の悪い思いをしながらも、ファテナは再び頭を下げた。
「あぁ、女だからと侮って、隙を見て逃げ出そうなんて考えるなよ。アディヤはこう見えて戦いにも長けている」
穏やかな笑みを浮かべるアディヤの腰には、ベルトに挿した短剣がある。世話係という名の、見張りなのだろう。
ファテナがアディヤの剣に気づいたことを確認すると、ザフィルはまた来ると言い置いて部屋を出て行った。
早ければ今日の夜にも、また抱かれることになるのだろう。
残されたファテナは、おずおずとアディヤを見上げる。彼女はザフィルがいなくなっても穏やかな態度を崩さない。捕虜に対する見張りというよりも、本当に世話係のようだ。
居心地の悪さはあるものの、今のファテナはザフィルの所有物も同然だ。族長の物をぞんざいに扱うことなど、できないのだろう。
あたたかいお茶を淹れてくれたあと、アディヤは何かあれば呼ぶようにと言い残して隣の部屋に行ってしまった。彼女の私室兼簡易の調理場になっているらしく、基本的にそこで寝泊まりするという。
常に見張られることになると覚悟していたのだが、拍子抜けだ。もっとも部屋の鍵は施錠されているし、小さな庭があるものの、その外には高い柵があるという。非力なファテナに、アディヤを振り切って逃げることなど不可能だし、多少目を離しても問題ないということなのだろう。
時折隣の部屋から響く物音が、誰かがそばにいることを実感させてくれる。
誰かの気配をそばに感じながら暮らすなんて、何年ぶりだろうか。これからは、精霊の代わりにアディヤがそばにいてくれることになるようだ。
手をあたためるようにカップを握りしめながら、ファテナはゆっくりとお茶に口をつける。甘くとろりとしたお茶は、慣れない環境にこわばる身体を柔らかく溶かしてくれるような気がする。
部屋の壁には、金の枠にはまった鏡がひとつ。そちらに視線を向けると、濃紺の髪をした女と目が合った。自分の容姿をじっくりと見る機会は今までもそう多くはなかったが、記憶にある白い髪は暗く染まり、瞳の色も以前より黒みを増した灰色だ。
これが本当に自分なのだろうかとまだ信じられないものの、ファテナが首をかしげると鏡の中の女も同じように動く。
鏡は高級品で、贅沢好きの妹ですらこんなに大きなものは持っていなかった。つるりとした滑らかな鏡面は歪みひとつなく、どれほどの価値があるかも分からない。
部屋の中にいれば嫌でも目に入る鏡は、ファテナに今の容姿を受け入れさせるために設置されたのだろうか。布で覆ってしまいたい気持ちを堪えて、ファテナは鏡から視線を逸らした。
ザフィルは、また夜に来るのだろうか。ファテナは、昨夜の記憶をぼんやりとたどる。
恐ろしくて、嫌でたまらなくて、それなのに初めて感じる快楽に戸惑いつつも溺れた。
無理矢理に暴かれた身体を再び差し出すことに、嫌悪感がないといえば嘘になる。それでも黙ってザフィルに抱かれ、彼の機嫌を損ねないよう振る舞うのがファテナにできることだ。
情けなさと絶望感で鼻がつんと痛んだが、泣いてはだめだとファテナは唇を強く噛みしめた。たとえ身体は暴かれようとも、心だけは決してザフィルに明け渡さないと決めて、残ったお茶を勢いよく飲み干した。
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