しとねのうた

冬香

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しとねのうた

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 身体を売る事に、特別な感情など無い。
 私にとってはただ、生きる為の手段。

 本当は、別のものになりたかった。でも、なれなかった。心が死んでしまうと、身体はただの容れ物に過ぎないのだと、知った。俺は腐った精神を胸に宿し、日々、脚を開いては男を受け入れていた。

 呪われているかもしれない、この身体で…。



 時羽《ときわ》が陰間の支度を整えた頃、茶屋の主人・伊佐田が部屋にやって来た。
「時羽。悪いが、大室様は今日は顔を見せないそうだ…」
「そうですか…分かりました」
 大室は大店の呉服屋の店主で、もう一年近く、定期的に時羽の元へ通う馴染み客だった。
「いや…もう大室様は、来ないだろうねぇ…」
 伊佐田は渋い顔で腕を組んだ。そして、溜息を盛大に吐いた。
「それは、どういう意味ですか?」
 時羽は眉を顰めた。前回の逢瀬の際に、何か気に障る事でもしたのかと思ったからだ。伊佐田は声色を下げた。
「いずれ耳に入ると思うがね、大室の旦那、首を括ったんだよ…」
 言いながら、自身の首を指差す。
「…どうして…?」
「さぁな…動機は分からんがね、今朝、蔵の天井からぶら下がってたんだと…」
 ゆらりと、軽い眩暈を覚えた。
(どうして…また…)
 伊佐田は、気を落とす時羽の肩に手を置いた。
「そう気にするな。また新しい客が付く」
 景気付けるように時羽の背をポンと叩き、伊佐田は部屋を出て行った。


 心が落ち込む。
 黒い水の中に佇む。
 腰の辺りから、白く縁取るように波紋を描く。
 この黒い水は、私を捕えて放さない。
 重くのしかかる静寂は、果てしない。
 光が、見えない。


「時羽!」
 唐突に声がかかり、肩が跳ねる。
さっき伊佐田が出て行ってから、随分と時間が経っていたらしい。
「まだ突っ立っていたのかい?お客さんだよ」
「あ…わ、分かりました…」
 我に返った視線の先、傾いた鏡が自身の纏う赤い振袖を写した。項の後れ毛を気にしながら、客を迎える為、居住まいを正す。
「御新規さんだよ。久々のお武家さんだ、良かったじゃないか」
「…はい」
 廊下の奥、客を案内する伊佐田の声を聞きながら、膝を折り、三つ指を付いて頭を下げた。やがて、床を踏む軋んだ音が近づいて来る。その足音とは裏腹に、静かに襖が開いた。男特有の気配が、滑り込んで来る。
「いらっしゃいませ。」
「…顔を、見せてくれないか」
 わざと恥じらうように、おずおずと顔を上げた。
「なるほど…綺麗だ…」
 精悍な顔をした若い男だった。彫りが深く、切れ長の目は力強い。けれど、何処か深い闇を匂わせる、そんな雰囲気があった。

「では、酌を…」
「はい…」
 武士だという男の隣に侍り酌を始めると、空いた手を時羽の肩に回してきた。
「幾つになる?」
「十七です」
「いつから、売っているんだ?」
「…十四からです」
 盃を口に運びながら、男は時羽に質問を投げかける。
「その着物の下は…男なのだろう?」
膳の上に盃を置くと、時羽の手から酌を取り上げた。肩を抱く力が強くなる。
「身体が、見たい……」
「…どうぞ、お好きなように」
 言いながら顎を上げると、男の熱い唇が降ってくる。口内に侵入した舌を互いに堪能し、情事は幕を開ける。着物の合わせに滑り込んだ手が胸をまさぐった時、その動作が止まった。
「…っ…どう、しました…?」
 吐息混じりに問うた。
「あ、いや…本当に男、なのだなと…」
「嫌になりました?」
「…いいや。ただ、男を抱くのが初めてでな…」
 時羽は両腕を男の首に絡ませ、耳元で囁いた。
「女とそう変わりませぬ…」
 そのまま耳を甘噛みしてやると、男の欲情が手に取れた。剣で鍛えられた腕は、一気に陰間の帯を解く。

 赤い着物の上、広げられた白い身体はやはり男のものであったが、同性のそれが何故にこれ程劣情を生むのか、理解出来なかった。
張り詰めた局部をやんわりと手で包み、軽く動かしてやれば、それは手の中で頭を振った。
「あぁ…だ、めッ…」
「何故だ?」
「すぐ、果てて……んッ…」
「好きなようにと言ったのは、其方だ…」
 男の手の中で、時羽自身が育っていく。動きは速度を増し、もう片方の手で乳首を摘まれてしまう。
「あっ、や、あぁぁ…!」
 小刻みに内腿が震えて、暫くの間快感に悶えた。潤む眼で男を見ると、口元に満足気な笑みが滲んでいた。
「次は…私が…」
「いや、もう待てない」
「ッあ…!」
 起き上がろうとした裸体を反転させられ、時羽は、四つん這いで腰を差し出す形になった。背後で着物を脱ぎ捨てる音がする。
「これを…」
 盛りがついてしまった雄の前に、枕元にあった熨斗袋を差し出す。
「…これは?」
「通和散です…女ではないので、自然には濡れませんから…」
 男は少し冷静さを取り戻し、袋を手に取った。
「まずは一枚取って、口の中で溶かしてください。唾液と混ぜるように…」
 上目遣いに見上げると、男の頬が少し赤らんでいた。それは酒の酔いのせいなのか、陰間を抱くという行為のせいなのか、定かではなかった。
「通和散が溶けたら指に絡めて、私の中に入れて…」
 そう言って脚を開くと、男の喉が動いた。

 侵入する指の感触を感じつつ、時羽はゆっくり息を吐いた。
 中で指が蠢いている。何かを探すかのように、肉の壁を擦る。おそらく、女にする時と同じように、悦ぶ箇所を探っているのだろう。
「あぁッ…」
 唐突に指が悦に触れた。
「此処か?」
 今度は的確に指で押され、ゾクりと戦慄する。
「…ぁ…そこ、が…」
「良いのか?」
「あ、あぁ…!」
 さっき一度達したのに、また先端からポタポタと濁る雫を零した。
「はぁ…ぁ…ん…」
「時羽…」
 初めて名を呼ばれ、伏せていた顔を上げた。覗き込む男の漆黒の瞳に、色欲の火が揺らいでいる。こうなればもう、言葉はいらない。
「お願い…もう…」
 身体に戦慄が走る。
 入口に猛るソレを当てがわれただけで、脳にまで鳥肌が立った。こんな時、望んで陰間になった訳ではないが、向いていたのではと、思ってしまう。生来、誰もが真っ当だと思う仕事には、何の興味も持てなかったのだから。
「はッ…あ……」
 蕾を押し広げられる感覚に、己の欲が絡み付く。好きや嫌いより、欲は遥かに強い。
「あぁッ…」
 まぐわいは、時に非現実をくれる。犯される違和感、その先にある快感、狂いそうな程の快楽を、与えてくれる。その為に生きているとしても、何ら不思議ではなかった。
「はぁ…はぁ…ん…」
 男自身を根本まで受け入れ、呼吸を整えた。
「…動くぞ」
 耳元で低く囁かれ、ゾクゾクするような高揚感を感じた。
「お願い…早く…」
 自然と強請る言葉が口を吐いた。
「あ、あ、んッ…あぁッ…」
「時羽…」
 後ろから突きながら、乱れた項に唇を落とす。
「肌が、白いのだな…」
 独り言のように男は呟いた。
 肉を抉る魔羅の感触。追撃は徐々に激しくなる。脱いだ着物を握り締めながら、発情の声を上げた。
「時羽…名を…俺の名を呼んでくれ…」
「ま、まだ…ぁ…聞いて、な……」
 切れ切れに時羽が答えると、ハッとしたように男は動きを止めた。
「雪安だ…」
「ゆき…やす…」
 耳に、熱い吐息がかかる。
「雪様…」
「いい子だ…」
 再び腰を打ちながら、時羽の背中に覆い被さった。深くなる交わりに、喘ぎが溢れ出す。
「ああッ、や、あああッ、ゆ、き様ぁッ…!」
 背中を反らすと、より深く魔羅が肚に喰い込んだ。
「ああッ、だめ…もうッ…」
「共に逝こう…」


 背徳の想いを胸に宿しつつ、
 開いた扉の向こう側、
 待っていたのは白椿一輪、
 指先触れて、春が落ちる。


 外では盛大な風が吹き、満開の桜を容赦なく散らしていた。そんな幻想的な風景でさえ、誰の記憶にも残らずに、毎年繰り返していく。
 

***


 消えたい想いは硝子瓶に詰めて、神社の鳥居の下に埋めてしまいたい。いいや、こんなもの、烏の餌にでもなればいい。喰われてしまえば、消える。

 時羽を水揚げした僧侶は、それが済むと、役目を果たしたかのように亡くなってしまった。元々それなりの年齢であった事と、病を抱えていたと後から判り、仕方ないと思った。
 次に贔屓にしてくれたのは、妻子のある侍だった。何度か通ってくれたが、深夜に辻斬りに遭い、呆気なく逝ってしまったらしい。時羽は呑気にも、残された妻子が哀れだと思っていた。
 そして、大室の旦那の首吊り……。

 茶屋の前に立つ桜は、もうすっかり葉桜となっていた。時羽は窓枠に腰掛け、来るのかどうか分からない客を待つ。
(雪様…もう、来ないのかな…)
 暮れ行く茜色の空を見上げながら、溜息を吐いた。紫色の逢魔が刻の闇が、すぐ其処まで来ている。
(また、あの人に会いたい…)
 名前しか聞けなかった。それと武士である事と、男を抱いたのが初めてだったという事。
(あ、でも…)
 馴染み客になってしまったら、あの人も死んでしまうかもしれない。
 視界を横切る烏達をぼんやり見つめて、また、心が黒い水の中へと沈みそうになる。現と想を繰り返しながら、日々は流れて行く。客を取っている間も、時々意識が何処かに行ってしまう。そんな時は気絶したふりをする。そうすれば、それ程までに自分との情事に感じたのかと、客は気を良くするからだ。
 弄んでいた扇子を閉じると、時羽は重い腰を上げ、窓を閉めた。

 夜の帳が、今宵もその身体を、誰かの色欲に染めるのだろう。
 叶わぬ願いだけが、いつまでも窓辺で揺れていた。



 
 初めて遊女を買ったのは、十六の頃だったろうか。
 春画を見せてくれた悪友に引っ張られ、大門を潜った時の桜を今でも憶えている。既に性の経験があった悪友は、目当ての遊女を指名すると、さっさと廓の奥へ消えて行った。独り残され困り果てていると、客引きの男に中級の遊女を薦められ、言われるがまま奥に通された。
 決して、遊女の質が悪かった訳ではない。器量も気立ても良かった。ただ、自分の身体が何の反応も示さなかった。唇を吸われても、裸を見ても、豊満な乳房に触れても、何も…。それでも遊女は、気にしなくていいと言ってくれた。ただ何かさせて欲しいと、脚の間に顔を入れて、外的刺激を与え精を搾り出した。
 その年は、その記憶だけで終わった気がする。

 屋敷内の長い廊下を足取り重く歩いていると、夕焼けに染まる中庭が見えてくる。手入れの行き届いた庭は、今日も変わらない。
「ん?」
 よく見ると、大きな庭石の上に一羽の白鷺が止まっている。片翼を半分ほど広げ、毛繕いをしていた。どうやら羽根を休めているらしい。
(あ…あれはまるで…)
 雪安は立ち尽くし、その白鷺に眼を奪われた。その時、胸の奥で小さな火が爆ぜた。線香花火のように、パチパチと火花を散らす。
「時羽……」

 雪安は急ぎ自室に向かうと、軽く支度を整え、そのまま外へ出た。
 夕闇迫る町へ、何かに導かれるように、その後ろ姿は掻き消えて行った。


***


 襖が閉まるのが先か否か、視界は艶やかな着物の柄と、白粉の匂いに包まれた。
「会いたかった…」
 雪安の肩にすがる時羽の頬に触れ、顎をなぞり、唇を重ねた。見上げる長い睫毛に縁取られた黒目がちの瞳は、湖面のように潤んでいる。
「時羽…すまない…」
 瑠璃色の振袖が白い肌に映えてよく似合っているのに、それをもう剥ぎ取りたい衝動に駆られている。
「お前が欲しいッ…!」
 切羽詰まったように、雪安は時羽をきつく抱き締めた。
「どうして謝るんです?私は、求められる為にいるんですよ…」

 用意された酌にも手を付けず、二人は絡まり合った。一刻も早く生肌に触れたくて、帯を解くのも、袖を抜くのも、全てがもどかしい。だからせめて舌と舌を絡ませて、焦れる気持ちを抑えていた。
「雪様のここ…凄く張り詰めてる…」
 布越しでも伝わる程に熱く猛る核心を、時羽の掌が撫で上げる。
「待て…そう触ってくれるな…」
 眉間に皺を寄せ耐える雪安を、時羽は愛おしく思った。客に対して、持つ事の無い感情だった。
「一度、出して差し上げます…」
 色を宿した眼で雪安を見つめながら、足元に跪いた。布地を手際良く剥いで、火照った核に舌を這わせる。
「ッ…時羽っ…」
 裏筋を丁寧に舐め、そのまま口内深く咥え込んだ。時羽の頭上で息を詰める声がする。吸いながら舌を使い、首を前後に動かした。濡れた音が耳に障り、全身が熱に浮かされていく。
「もう…駄目だッ…と、きわ…!」
 堪らず、雪安は時羽の肩を掴み引き離した。見上げる時羽の口から透明な糸が引いて、紅で染まった唇を汚していた。その顔が一瞬、不安に翳った気がした。
「雪様…?」
「あ…いや…違うんだ…」
 狼狽しながら膝を付き、時羽を抱き寄せた。はだけた襦袢姿の時羽の身体にも、欲情の形が見て取れた。
「俺は…果てる時は…お前の中で…」
「雪様ッ…」
 二人はそのまま褥へと沈んで行った。

 陰間と客との間で交わした契りなど、花が咲いて散るより儚い。まして未来など、到底語れはしない。唯一誓えるとすれば、心中の約束くらいだろう。身体を開いて相手の粘膜に触れても、その奥の心の更に奥、精神に横たわる黒い闇までは、己以外の誰も辿り着けはしないのだ。

 夜のしじま、歌声が鼓膜を叩いた。
 首を捻り見た先には、月明かりの中、襦袢姿の時羽が窓辺にもたれ、小声で何か歌っている。結い髪が、さっきまでの情事で乱れ、艶やかな髪の束が幾つも肩に落ちていた。
「夏に冬の歌か…」
 雪安の独り言にハッとして、時羽は歌を止めた。
「起こしましたね…ごめんなさい…」
「いいや…歌、上手いな…」
 暗がりの中、時羽が微かに微笑んだ気がした。
「本当は…舞台子になりたかった…」
「…そうか…」
 此処は花街から離れていて、周辺は寺社ばかりのせいか夜は静かだ。虫の音や風の音がよく聞こえる。そして、別室の喘ぎ声も響いてくる。こちらもまた然りだ。

「なぁ…時羽。俺と時雨滝を見に行かないか?」
「え…?」
「岩に当たった水が砕けて、時折、滝壺に降り注ぐ…それがまるで、時雨が降っているように見えるんだ…」
 時羽は大きな声を上げそうになった。こういう誘いを持ちかける客は、今まで一人もいなかった。欲しい物を買ってやると言う客は結構いたが、此処から連れ出そうとする人間は初めてだった。こんな、まるで……。
「行きたい…!その滝、見てみたい…!」
 弾んでしまいそうな声を出来るだけ抑えて、時羽は答えた。感じた事がないくらい、心臓が早鐘を打っている。思わず前のめりになり、畳に両手を付いていた。その様子がおかしいのか、雪安はクスクスと笑っている。
「そんなに喜んでくれるとは思わなんだ…おいで…」
 張り裂けそうな自身の鼓動を気にしながら、雪安の隣に身を侍らせる。すぐさま力強い腕に抱き寄せられた。息が、上手く出来ない。
「二人で行こう…」
「はい…」
 接吻と膝を割られたのはほぼ同時で、舌が余り深く侵入してくるものだから、更に息が
出来なくなる。襦袢の隙間から入り込んだ大きな手が、太腿を這い上がり、しな垂れていた時羽を弄び始める。
「まだ足りないんですか…?」
 少し睨んで見せると、腰紐を解かれてしまった。
「足りないな……時羽が足りない」


 どうしよう…。この人を、死なせたくない。今までの客のように、死んで欲しくない。この人が死ぬのなら、自分も一緒に…。
 暗く黒い水に浸かる頭上に、ひとひらの白い花弁が舞う。それは雪の欠片。心の奥を照らす、一片の希望のように…。


「雪様…私も…貴方が欲しい……」


***

 
 淡い浅葱色の着物に袖を通し、濃紺の袴を履いた。普段あまり履かない足袋が、少し窮屈に感じた。髪は結わずに、後頭部で一つに結んだ。これで少しは若侍に見える筈だった。
(何か…変かな…?)
 鏡の中に、素顔の自分が写る。
 これから三日間、男の姿だけで過ごす為、化粧はしない。陰間なら当然のようにする化粧を。
(雪様は、どう思うだろう?)
 本来ならば男同士なのだから、それ程意識する事もないだろう。この着物と袴も、雪安が昔着ていたものだという。雪安は時羽を連れ出す為に、三日分の玉代を払い、更に色まで付けたらしい。安くない額を払わせた事に、時羽は罪悪感を覚えたが、それを本人に言うのは野暮というもの、陰間が気にする事ではないのだ。時羽は、振り払うように頭を横に振った。
(行こう…!)
 小振りの風呂敷包みを背負い、草鞋を素早く履いてしまいたかったが、やはり慣れない為、少々手こずってしまう。そんな自分に焦れながら、早朝の朝もやが立ち込める中、時羽は羽を広げ飛び出した。

『町外れの、稲荷神社の下で落ち合おう。』

 その言葉を耳の中で繰り返しながら、息を弾ませた。昨夜までの雨は止み、灰色の雲の隙間から、綺麗な水色が覗いている。空が自分に味方してくれているようで、心が舞い上がりそうになる。それが怖くて、必死に浮き上がる気持ちを抑えていた。今までの人生の中で、これ程満たされた気持ちになった事があっただろうか。時羽の背を押すように、雲の切れ間から陽が差し始めた。
(早く、雪様に会いたい…!)


 朝もやの中、独り佇む。
 鳥居の真ん中にいるのは流石に憚られ、左右の脚の片方に、身を隠すように収まった。
旅の理由は、病床の父の回復祈願という事になっている。事実、あの滝の傍には神社があり、立ち寄って参ろうと思っていた。屋敷を発つ際、家人の誰かを供に付けてはと言われたが、父に万が一の事があった時は、人手が必要だろうし、三日程度で戻るからと、何とか説得する事が出来た。何より長兄が、雪安なら案ずるなと、言ってくれた事が大きかった。我ながら、大それた事をしたと思う。自分が、こんな事をする人間だとは夢にも思わなかった。
 我が身を足元の水溜りに写し、時羽にも笠を買ってやらねばと、密かに思案した。
(早く…顔が見たい…)


 稲荷神社の朱い鳥居は、朝日を浴び輝いていた。
 弾んだ息を整えながら、時羽は辺りを見渡した。そう、雪安を探して。
(あれ…早かったかな…?)
 少し不安を感じながら、鳥居を見上げた。   
 鳥居は結界だと、昔聞いた事がある。人間がいる場所と、神様がいる場所を分けているのだと。だから、鳥居の向こうは別世界なのだと。これから行く場所もまた、別世界なのかもしれないと、時羽は思った。
「ときわ…時羽か…?」
 唐突に声をかけられ、思わず身を竦めた。右手の茂みが音を立てて揺れ、長身の人影が現れた。
「あ、俺だ…雪安だ…すまない…」
 笠を脱ぐと、そこには見慣れた男の顔があった。
「雪様…!」
 微笑む時羽を見て、今度は雪安が驚いた。
「陰間姿も艶やかで綺麗だが……」
 雪安は片手を時羽の頬に伸ばし、親指で唇をなぞった。
「素顔も無垢で綺麗だ…」
 時羽の頬が、薄紅色に染まる。朝日の中で見る雪安の端正な顔立ちが、言葉の意味をより際立たせているようだった。
「その着物も、よく似合っている…」
「こんな上等なもの…頂いて良いのですか?」
「上等と言っても古着だ。気にする事はないさ」
 雪安は笑うと、時羽の頭に軽く手を乗せた。
 雨が洗い流した空気に、心の奥まで澄んでいくようだった。こんなにも穏やかな朝が、この世にあったのだと、初めて思い知る。
「手を合わせて行こう」
 雪安は鳥居に向き直り、合掌すると眼を閉じた。時羽も隣に並び、同じように手を合わせた。


 二人の頭上、空には一羽、白鷺が雲の波間に消えて行くところだった。


***


 滴るような緑に溜息が零れる。
 新緑の頃とは違う濃い緑の森は、埋もれてしまいそうな深みを湛えている。そして、樹々の葉から差す木漏れ日は、キラキラと眩しくて目が眩んだ。
 時羽は、高揚感を抑え切れず景色に見惚れてしまうので、どうしても足が遅くなり、その度に慌てて雪安を追う事になる。
「どうした?大丈夫か?」
「あ、はい、すみません…色んなものが、その…綺麗に見えて、つい…」
「綺麗?」
 不思議そうな顔をする雪安に、自分がどれだけ舞い上がっていたかを自覚し、時羽は気恥ずかしくなった。
「見るものが全て、輝いて見えるんです…初めて見た訳じゃないのに…変ですよね…」
 時羽は自嘲気味に笑った。
「そんな事はないさ…町と山では、空気も景色も違うからな…」
 雪安は空を仰ぎ、日差しに眼を細めた。
「これが…日常だったら、いいのに……」
 か細くなる声を追って視線を落とした。俯く白い横顔は、明るい光の中でも艶かしく、すぐにでも掻き抱きたい欲望を芽生えさせる。行燈灯る、陰間部屋を思い出させるように。
「そう思えば、そうなるさ…」
「え…?」
「たとえ目の前が苦界でも、心までは誰も奪えまい…」
 時羽の澄んだ瞳が、光を受けて煌めく。雪安は、照れを隠すように踵を返した。
「行こう、陽が暮れてしまう」
「はい」
 広い背中を見つめながら、時羽は微笑んだ。


 それから二人は黙々と歩いた。
 山の奥へ入れば入る程、生い茂る樹々で日差しが遮られていく。足元にも大きな石が目立つようになり、歩く事にも注意を払わねばならない。時折、雪安が振り返り手を差し伸べる。その手を取りながら、時羽も悪路を進んで行った。それでも、心はとても穏やかで風が凪いでいた。このまま帰りたくない…手と手を取り合う温もりは恐らく、二人に同じ想いを抱かせていたのだろう。この深い森に、取り込まれてしまいたいと、願う程に…。

 不意に、雪安の足が止まった。
「雪様…?」
「時羽…聞こえないか?」
 鳥のさえずりの中、微かに聞こえる。白い水飛沫を上げ、激しくうねり、解き放たれたように弾け落ちる。
「雪様、これは…時雨滝?」
「もうすぐだ、急ごう」
 雪安は時羽の手を取ると強く引いた。
「あッ…ま、待ってくださいッ…!」
 快活に笑いながら、足を速める雪安はまるで子供の様で、時羽は少し戸惑った。茶屋で見せる、大人びた仕草や熱っぽい行為からは、到底想像が出来なかったから。こんな無邪気に笑うなんて知らなかった。
(でも、何だか…)
「可愛い…」
 時羽は小声でそっと呟いた。


 水音を頼りに藪の隧道を潜り抜けると、強い光で目の前が真っ白になった。白い闇の中、閉じかけた瞼を開けると、盛大な水量と轟音が五感を叩いた。
「うわぁ…!」
 時羽が感嘆の声を上げると、雪安も嬉しそうに笑った。風で流れた霧状の水が頬に当たり、ひんやりとして心地良い。
「これを見せたかったんだ…ああ…あの時と同じだな…」
 轟音を上げる水は、勢い良く滝壺に向かい落ちて行く。落下する水の一部が時折、突き出た岩にぶつかり、砕け、雨のように降り注いだ。秋の終わりに降る、時雨のように。
「雪様は、前にも此処に?」
「ああ…父と来た。俺の元服の記念にと…もう十年も前の事だ…」
 時羽はちらりと、雪安の横顔を盗み見た。
「そうだったんですか…」
「父はもう…此処には来れまい」
 再度雪安を見ると、今度は眼が合った。
「父は今、病で床に伏している…」
 時羽は、どんな言葉をかければいいのか判らず、俯いた。その時、雪安の右手に肩を抱き寄せられた。鼓動が、一瞬にして跳ね上がる。
「この近くに、神社があるんだ…そこで父の回復祈願をしようと思う…」
「…御供します」
 顔を上げると、自然に唇が重なった。瞼の裏の白い闇の中、久々の感触に酔いしれる。昼日中、明るい太陽の元で背徳感を覚える。しかし同時に、罰を受けても構わないと思った。過去より未来より、今この瞬間が何より大切だった。
 接吻が終わっても、感覚が麻痺したように、目の前にある滝の轟音が、遠く遠く遥か彼方に聞こえていた。


***


 旅籠・半月屋に辿り着いたのは、西陽が山肌を照らす頃だった。
 十年前、雪安とその父が利用した宿で、雪安の父はそれ以前から、度々立ち寄っていたらしい。それ故、店主夫婦とは顔馴染みだった。
 雪安は、半月屋のひっそりとした雰囲気が好きだった。老夫婦だけで切り盛りしているせいか、商売気がない。その為、相部屋を要求される事がない。店の間口も狭いので、多人数の客も来ないのだ。大体が一人から二人の客で、そっと立ち寄っては、さっと立ち去る。その中には人目を忍んでいる者もいるので、不用意に話しかけられる事も少ない。

 秘め事は何故、こんなにも、人を惹き付けて止まないのだろう。

 老夫婦に十年前の話をすると、憶えていてくれたようで大層喜んだ。青年となった雪安を見て、孫を愛でるように目を細めた。そんな様子に、時羽も微笑ましくなった。
「あら、そちらの方は?」
 女将が、雪安の後ろに控えていた時羽に声をかけた。
「あ、えー、この者は、某の側付きの…」
 雪安の動揺を感じ取り、時羽は咄嗟に口を開いた。
「時佑と申します。」
 そう言って一礼すると、女将も主人も頷いて納得し、御立派になられたと、更に喜んだ。

 その後、通された部屋は、十年前と同じ上弦の間だった。
「またこの部屋に泊まれるとは…運がいい…」
 雨戸を開けて連なる山々を眺めながら、雪安は一息ついた。
「さっきは助かった。ありがとう…」
 振り返り、時羽に微笑んだ。
「あ、いえ…慣れてるんです…嘘を吐く事に…」
 客にひと時の春を与える陰間は、嘘に嘘を重ねなければ成り立たない。俯く時羽に、雪安の影が迫る。
「お前はお前の中に、何を隠している?」
 いつの間にか両手首を掴まれ、背を壁に押し付ける格好になっていた。鷹のような鋭い   眼光が、時羽を射抜く。
「ゆ、雪様ッ…?!」
 雪安の声が、耳元で響く。
「何度抱いても、お前は遠い…あと何度、抱けばいい…?」
 そのまま耳を軽く吸われた。
「…だ、め…」
 掠れた声で、やっとの思いで抗議する。引きずられてしまうから、悦の底無し沼に、溺れてしまう。
「お休みのところ、すみません」
 突然の声に、雪安は素早く部屋の入り口へ向かった。戸を引くと、そこには女将がいた。どうやら夕げの支度が出来たらしい。雪安と女将のやり取りを聞きながら、時羽は深呼吸を繰り返す。手首は既に解放されたのに、何故か壁から離れられない。そして酷く、顔が熱い。
「時羽?」
 ハッとして顔を上げると、視線の先にはいつもの雪安がいた。
「さっきは、その…意地の悪い事をした…すまん…」
「いいえ…平気ですから…」
「平気か…それはそれで悔しいな…」
 苦笑いを浮かべる雪安に、形容し難い不安定さを感じた。全てを持っているように見えるのに、その中心に黒い空洞があるような気がした。
「夕げ…でしたよね?行きましょう…」
「…そうだな」

 部屋を後にする際、何気なく振り返った窓の外は、薄暗い茜色で、静かに山肌を燃やしているようだった。


***


 ひらひらと、舞うのは花弁か。
 はらはらと、落ちるのは涙か。

 桜が満開に咲いている。
 此処は、何処だろう?
 ずっとずっと向こうまで、桜が咲き乱れている。
 綺麗だな…。
 あ、神社の鳥居だ。そうか、此処は昼に立ち寄った、あの神社だ。春にはこんな風になるんだ。
 鳥居の向こうに人影が見える。
 紋付き袴姿に、角隠しと白無垢…ああ、誰か祝言を挙げるんだ…。
 え…?嘘…雪様…?
 ああ…そうか…雪様もいつかは、女の人と一緒になるんだ…。いつまでも、私のような陰間の所になんか、来てちゃいけない…わかってる…わかってるのに…目の前が歪んでいくのは、何故だろう…?頬が冷たい…冷たいよ……。

 雪様…!!

 首だけ振り返った角隠しの、紅を引いた口元が、ニヤリと嗤った。


 悪夢を終わらせたのは、頬を撫でる涼風だった。
(夢…?)
 時羽は、横たわったまま脱力した。
 夕げの後、湯に浸かったら一気に疲れが出て、床に入るなり眠り込んでしまったのだ。
(あ、雪様は…!)
 寝返りを打つと、月の光が、畳の上に滑り込んでいた。その光源を辿ると、開けた窓の下に雪安が座り、外を眺めていた。時羽はそっと起き上がった。
「…寒いか?」
 気配を察し、問いかける。
「いいえ…風が心地良いです…」
 この風が夢から引き戻してくれたのかと、時羽は酷く安堵した。
「ずっと、起きていたのですか?」
「いや、あの後すぐ床に就いたが、少し前に目が覚めてしまった…寝直そうとしたが、寝付けなかった…それで月見だ…」
 雪安は、頭上の月を指差す。時羽はクスクスと笑った。
 暫くの静寂の後、夢の余韻を拭えずにいた時羽は、恐る恐る尋ねてみた。
「雪様は何故…陰間を買ったのですか?遊女ではなく、何故……」
「遊女も買ってみた…でも…駄目だった」
 雪安は月を見上げたまま答えた。
「駄目…?初見世の遊女だったんですか?」
「いいや…俺が、駄目だった…」
 そよぐ風が、虫の鳴き声を耳に運んで来る。こうしていると、世界に二人だけしかいないような錯覚に陥る。
「俺は…女に欲情出来ない身体なんだ…」
 時羽はただ、雪安を見つめていた。月光に照らされた横顔を、ただ…。
「恥を忍んで、医者に相談した事もあった…だが、時が来れば治ると言われるだけだった…」
 次第に俯く雪安が、泣いてしまうのではと、時羽は不安な気持ちになる。
「俺は、一生独り身だ…幸い、次男だしな…」
 それならば自分を…という想いが過ぎって、時羽は口を噤んだ。あまりにも虫が良すぎる、そんな都合良くはいかない。
「それに…添い遂げるならば、お前がいい…時羽」
雪安はいつの間にか、時羽を見つめていた。
「私を…身受けするつもりですか?」
「そうしたい…」
「身を滅ぼしますよ?」
「構わない…」
 濁りのない漆黒の瞳が、真っ直ぐに見つめている。逃げる事も忘れてしまうほど、魅入られていく。耐え切れず、時羽は雪安に背を向けた。
「私は、何も約束しません…」
 果たされない約束ほど、絶望するものはない。だから、何も信じたくない。
「それでもいい…だからせめて、出来る限り、俺といてくれ…頼む…」
 雪安は、時羽の解いた黒髪に顔を埋め、子供のような仕草で、その身体にすがった。長い髪を掻き分けて白い頸を吸うと、肩が僅かに震えた。耳元で、低く静かに囁く。
「初めて会った夜…お前の着物を脱がす時、酷く欲情した…」
「…ッあ…」
 後ろから腰に手を回し、時羽の夜着の腰紐を解いた時、手に硬い感触が触れた。
「時羽…何故こんな事になっているんだ?まだ、触ってもいないのに…」
「…夢を…見た、から…」
「夢…?」
 肩を脱がしながら肌に口付ける。
「夢の中で、雪様が…女の人と、祝言を…」
 消え入りそうな声で話す時羽に、黒い劣情を覚え虐めたくなる。
「なるほど…」
 布の下から露出した時羽自身は、張り詰めて先端から涙を零している。その涙を雪安の指が拭った。温かな掌に包まれ、今にも達しそうになる。
「それでこんなに硬くして、泣いているのか…」
「あッ…ゆ、きッ…あぁ…」
 喘ぐ唇に、雪安は人差し指を当てた。
「あまり大きな声を出すと、誰かに気付かれるやもしれん…」
 そう、此処は人里離れた旅籠の一室。茶屋での日々が肌に染み付いていた時羽は、自分が恥ずかしくなった。それと同時に、息を潜めて行為に及ぶ緊迫感に、余計に感じてしまいそうだった。
「んんっ…!」
 時羽は咄嗟に、手で自分の口を塞いだ。首筋と乳首、局部の三点を一度に攻められ、濡れた啼き声を上げそうになった。声の代わりに、目尻に涙が滲んだ。潤んだ瞳で振り返ると、雪安が笑みを浮かべていた。
「ひどい…」
 拗ねた口調で言うと、その口を塞がれ、口内を舌で、局部を手で蹂躙される。月明かりを瞼に受けながら、頭が真っ白になっていく。
「んっ…ん…ン、ふ…ぁぁ…」
 か細く喘いだ瞬間、雪安の手の中を白く汚して果てた。

 夜着を剥いだ時羽の身体は、月の光で青白く染まった。結い上げていない腰にまで届く髪、化粧を施していない素顔と唇。全てが茶屋とは違う。此処は、別世界。
 前戯の後、引き起こされて、雪安の腰を跨いだ。
「このまま、俺を受け入れてくれ…」
 畳んだ手拭いを口に咥え、時羽は頷く。息を吐きながら、身体を沈めていく、欲に塗れた男に貫かれる。挿入の途中でさえ、内腿に既に快感の兆しを感じる。腰を少し反らすと、よく慣らした事もあり、容易く奥に届いた。
「んっ…!」
(あぁ…深い…)
 雪安に乳首を吸われたり、腰を撫でられたりする度、肌が粟立つ。いつもなら喘ぎ、よがっているはずが、それが出来ず、発散されない言葉に身をよじるだけだった。
「時羽…」
 鎖骨に軽く歯を立てながら、下から突き上げた。時羽は背中を反らし、内腿を雪安の腰に擦り付けながら、涙を零す。本能的な快楽の涙を。時羽が感じると中も締まり、魔羅を抜く事を許さない。
(あぁぁ…もっと欲しい…奥にもっと…滅茶苦茶に…)
 雪安が一定の間隔で動き出すと、時羽は喉を反らし、腰をくねらせ悦を追い駆けた。
「ン、んっ…んんっ…」
 髪を乱し腰を振る様は、いつにも増して艶めかしく、卑猥な光景だった。それが男を煽らない訳がなく、雪安も額に汗を滲ませ、白い裸体をひたすら貪った。達してしまう事が惜しい、ずっとこの悦楽の渦に飲み込まれていたい、息も出来ないくらいに…。
「時羽…俺を、感じるか…?」
「…雪様…このまま…抱いて、殺してッ…!」
 咥えた手拭いが口から外れた時、肚の中と外が熱く満たされていった。恍惚とした視界に月が宿る。汗ばむ肌に指を這わせ、時羽の唇を探った。内腿がまだ、小刻みに震えている。
「時羽…大丈夫か…?」
「…いいえ…怖かったです…」
「怖い?」
 潤んだ瞳は、揺らめいて色香を漂わせる。
「感じ過ぎて…死ぬかと……」
 目を伏せると、雫が朝露のように数滴落ちた。


 今宵、上弦の間は、この世にあらず。



***** ***** *****



 三日間の旅から戻ると、思い出したように空が一気に泣き出した。土砂降りの雨が、朝から晩まで降り続き、これ以上降れば、近くの川が氾濫してしまうと、周囲では騒がれていた。
 時羽は、ただぼんやりと、降りしきる雨を眺めていた。陰間の支度をしていても、悪天候のせいで茶屋に客が来ない。主人の伊佐田も、店を閉めるか否か迷っているようだった。そんな中、時羽の意識は此処には無い。未だに意識だけ、あの旅籠・半月屋での夢のような情交を繰り返していた。
(雪様…)
 雪安も、あれから茶屋に来ていない。

『お前さん、よく帰って来たな』
旅から戻ってすぐ、伊佐田が声をかけに来た。
『…足抜けすると思いましたか?』
『そりゃ思うさ…間夫と旅に出るなんて言われちゃあ…』
『間夫…?』
『ああ、そうなんだろ?』

 間夫…。他人に言われて、初めて思い知る己の気持ちに、少し戸惑いを覚えた。確かに、今まで感じた事のない感情を、雪安に対して抱いている。でも、どうしたらいいのか分からない。あの夜、旅籠で言われた言葉。濁りの無い、真っ直ぐな瞳で言われた言葉を信じたい。
(…どうすれば、信じられる…?)

 深い溜息を一つ漏らした時、一階の方から大きな物音がした。
 襖を開け廊下に出ると、階段の下から何やら声がする。聞き耳を立てると、伊佐田と誰かが揉めているようだった。
「お客さん、此処は陰間茶屋ですよ?!遊女はいませんよ?お解りで…」
「解ってるよ…!だから来たんだッ…」
 伊佐田の言葉に喰い気味で答える男は、出立ちから何か商人のように思えた。多少呑んでいるのか、頬が上気しているように見えたが、雨に濡れた髪の下には、怒号には似合わない優男風の顔があった。
「陰間は二階だろ?」
 男が階段の手すりに手をかけたのを見て、時羽は思わず後退りした。今更ながら、客に恐怖を覚えてしまった。
「あ、待ってくださいな、すぐに用意しますから…!」
 止める伊佐田を振り払い、足音を立てながら、男が階段を上がって来る。時羽は急いで部屋に戻ろうと、廊下を引き返した。襖の取っ手に指をかけた時、背後から声がした。
「おい、あんた…陰間か?」
 恐る恐る振り返ると、さっきの男が、口元に笑みを滲ませて立っていた。
「お客さん、困りますよッ…!」
 追いかけて来た伊佐田に、男は言い放つ。
「主人、俺はこの妓を買う。いいだろ?」
「時羽を…ですか?」
「ときわ、というのか?」
 男は品定めをするように時羽を眺めると、その手を取った。
「なかなかの上玉じゃないか」
 男の振る舞いに嘆息しつつ、伊佐田は時羽に視線を送る。
「それじゃあ時羽、宜しく頼むよ?」
「はい…」
 呆れ顔の伊佐田に、時羽は伏し目がちに頷き、男と共に襖を引いた。

 部屋に入ると、男が強く身体を引き寄せてきたので、一旦それを制した。
「こんなに濡れて…風邪を引いてしまいます…」
 手拭いを広げ、母親が子供にするように男の髪を拭いてやる。
「随分と甲斐甲斐しいじゃねぇか?」
「手が、冷たかったから…」
「傘、忘れちまってな…」
「一日中、雨だったのに?」
 男が拗ねたような顔をするので、時羽はクスクスと笑ってしまった。
「ときわってのは、どんな字を書く?」
 男の掌が頬に触れて、ただの冷やかしでないのだと思った。本当に事に及びたいのだと。行燈の灯りの中で光る男の眼光は、何処か冷えている。雪安とは違う色をした男だった。
「時間の時に、鳥の羽です」
「俺は…榊宗一だ」
「榊様…」
「宗と呼べ」
「…宗様」
 名を呼びながら、潤んだ瞳で見つめ返すと、雨で冷えた唇が重なった。
「ん…ふ…ッ…」
 下唇の上を滑るように、侵入して来た舌は熱く、唇の冷たさを忘れるほどで、時羽の口内を激しく蹂躙する。その間に、振袖の合わせ目から入り込んだ手が、襦袢の上から腰をまさぐる。手は、舌を吸い合っている最中に素肌に到達し、太腿の間を分け入る。唇を解放された頃には、下の、男を受け入れる入口に指が届いていた。
「あっ…」
「此処で何人、男を咥え込んだ?俺で何人目だ?」
 思わず声を漏らすと、熱い吐息と共に鼓膜を犯され、酒の匂いが漂った。
 時羽は引き倒され、布団の上で四つ脚にさせられ、着物の裾を腰の上まで捲られた。下肢が露わになる。まるで、女を手篭めにするようだと、宗一は思った。髪を島田に結い上げ、振袖を着た後ろ姿は、若い娘にしか見えない。それでいて、どれだけ犯しても陰間は孕む事がない。
(都合がいいって訳だ…)
 宗一は雨で湿った羽織を脱ぎ捨て、枕元の通和散の袋を乱暴に開けると、手際良く一枚口に入れた。その様子は手慣れていて、遊び慣れている様子が伺えた。自身の指に溶けた通和散を纏わせると、テラテラと光るその指を、時羽の中に挿し入れる。
「あ、ぁぁ…はぁ…あ…」
 的確に指を動かされ、時羽の腰が勝手に動き始める。止めようとしても、快感の波に抗えず、腰を揺らしながら喘ぐしかなかった。
「あんた、淫乱だな…いつもこんな風に煽ってんのか…?」
 嬲るように言われ、僅かに胸が傷んだ。陰間がこんな事を気にしていては務まらないのに、何故今更、自分は傷付いているのだろうか。快感に塗れながら、時羽は違和感を覚えていた。
「慣れてんだなぁ…」
 面白がるように反応を試されて、それが次の快感を呼ぶように肌が粟立つ。
「あぁ…あ、やぁ…」
「嫌じゃねぇだろ…」
「ぁ…」
 乱暴に指を引き抜かれ、また声が漏れた。疼く身体に早く次の刺激をと、粘膜が欲している。どんなに蔑まれようと構わないとさえ…己の中が蠢く感覚に息を詰め、陰間は男を待つ。

「あぁッ…!」
 宗一に後ろから押し広げられ、熱く硬く脈打つ魔羅を、時羽の襞が歓迎する。荒く抱かれても、身体は悦ぶ事しかしない。好きな場所に鬼頭が当たれば、嫌でも感じてしまうのだ。
「あ、や、そ…こ…あぁ…あ…」
 不意に宗一の手が、勃ち上がり首を振る時羽自身を握った。
「勝手にイクなよ、いいな?」
「…んッ…やぁ…」
「耐えろ…」
 脚の広げ、上半身を伏せた状態で後ろから突かれると、魔羅が狭い所を奥まで抉り、ひっきりなしに声が漏れる。しかも、達する事を禁じられ、悦に身悶え、視界はぼやけていく。
「あぁ…や、だ…こん、なぁ…」
 ゾクゾクとした疼きだけが、内腿辺りをうろついて、その先に行けない。もどかしさに気が触れそうだった。時羽は振り返り、涙を浮かべ、宗一に訴える。
「まだ駄目だ」
 冷ややかに言いながら、腰を突き上げる。
「ああぁッ…」
「あんたさァ、前を強く握ると後ろが締まるんだな…」
 言葉で犯しながら、同時に激しく腰を打ち付ける。中の弛緩と締め付けを味わいながら、浅く、深く、胎内を陵辱していく。女が相手の時より背徳感に満ち、胸中を欲望に逆撫でされる。握っている時羽自身も、硬度が増し熱を帯びて、そろそろ限界が近いようだった。
「も…お願い…は、なし…て…」
 震えた声で懇願され、宗一は時羽の芯を解放した。その代わりに、時羽の腰を両手でしっかりと捕らえ、身体の深部を抉った。
「や、あああぁッ…!」
泣き叫ぶような喘ぎに劣情を刺激され、手加減無しに攻め立てた。
「…あ、そんな…に…し、あぁ…あ、あぁ…」
「時羽…そんなに悦いか?」
 何度も首を縦に振る姿に、最後の追撃を仕掛ける。

「くっ…」
 締め付ける時羽の胎内に己の精を放ち、荒い息のまま魔羅を引き抜いた。時羽の身体は小刻みに震え、痙攣している。きっと、ほぼ同じ頃合いで達したのだろう。赤い布団が白く汚れている。
 宗一は、改めて見る時羽の姿に息を呑んだ。着衣のまま、下肢だけ露わにし、白い太腿に男の精液を垂らし、頬を上気させて、潤んだ瞳で横たわっている。その酷く淫らな様は、酷く美しくもあった。それが妙に恐しくなり、素っ気なく時羽から離れ、布団に潜り込み背を向けた。
「…もう、良いのですか?」
「ああ…今夜は飲み過ぎた…」
 気怠く尋ねる時羽に、無愛想な返事を返し、眠れもしないのに目を閉じた。
「…あんたも休んでいいぞ…」
「え…?あ、はい……」
 執拗に抱いた割りに、呆気なく事が済んで、時羽は少し拍子抜けした。精に塗れた半身を清浄し、乱れた着物を直してから、改めて宗一を振り返る。宗一は背を向けたまま、微動だにしない。そっと片手を伸ばしかけ、途中でやめた。何となく、今はこのままにしておいた方がいいと思った。朝まではまだ間がある。時羽も宗一の隣に横たわり、闇を見つめた。
(雪様は、今頃どうしているだろう…)
 他の男に抱かれた後だというのに、何を考えているのかと、少し自虐的になる。それでも…瞼の裏にちらつく面影が消えないのだ。

 いつの間にか、耳に障っていた雨音が聞こえなくなっていた。
 まるで、夕立のような情事だった。


***


 呉服屋の桔梗屋と言えば、飛ぶ鳥を落とす勢いで、急成長を遂げた大店である。
「どうりで羽振りがいい訳だ…」
 帳簿を指で弾きながら、伊佐田は何度も深く頷いた。
 榊宗一は、その桔梗屋の跡継ぎ、若旦那だという事が後に判った。ひと月程前に祝言を挙げ、嫁を貰ったのだが、当の本人は一向に落ち着く気配がなく、気紛れに店から消えては、遊び歩いているらしかった。伊佐田は新妻が不憫だと言いながら、時羽に持ちかける。
「あの若旦那が常客になれば、うちにとっては都合が良い。だから時羽、お前さんの手管でどうにか出来ないかい?」
「手管だなんて…あまりしつこいと逆に嫌われますよ…」
 そんなもんかねと、伊佐田は茶屋を開ける準備に取りかかった。時羽も二階に上がり客を待つ。

 窓の向こう、紫色と茜色が重なる空が切なく見える。簡単なものだ人間なんて、心情一つで見え方が変わるのだから。
(雪様……)
 同じ言葉だけが、頭の中で繰り返される。狂ったように、何度も、何度も…反芻している。考えれば考えるほど苦しくて、やめたいのにやめられない。また心の中、あの黒い水に浸かってしまう。
(どうして、あれから来てくれないんだろう…?)
 次第に涙が滲んで、時羽は頭を振った。これから客を取るというのに、こんな状態ではいけない。何かを祓うように、胸の前で一度柏手を打った。
「時羽?どうしたんだい?」
 我に返って顔を上げると、開いた襖から、伊佐田が覗いていた。
「あ、いえ、何でもありません…」
 慌てて居住まいを正すと、伊佐田が明るい口調で言う。
「早速おいでなすったよ、あの若旦那」
「え…?」
(宗様が…)
 少し戸惑った声を洩らすと、伊佐田は嬉しそうに頷いた。そして、頼んだよと襖を閉じ、軽い足取りで去って行った。宗一の素性が知れてから、伊佐田の態度が掌を返したように変わった。商売人としては、その方が良いだろうが、時羽はどうしてもついて行けなかった。

「よぉ」
 再び襖が開き、そこに立つのは、口元に笑みを湛えた宗一だった。
「いらっしゃいませ…」
 三つ指をついて頭を下げていると、頭上で鼻で笑う声がした。
「顔、上げろよ…他人行儀だなァ…」
聞き覚えのある声に従うと、顎を捕らえられた。
「一度寝た仲じゃねぇか?」
 間近で見る宗一の瞳は、やはり冷たい光を宿し、時羽を写している。今日も濡れているのかと思い、そっと髪に触れてみた。
(濡れてない…)
 宗一の腕が時羽の腰に回り、耳を噛んだ。
「何だ…もう欲しいのか…?」
 舌が、耳の中に侵入する。
「あッ…」
 さっきまで、あんなにも雪安の事を想い焦がれていたのに、宗一の舌先一つで、容易く塗り替えられてしまう。簡単な身体だと、自分自身に呆れた。
「今夜はシラフだ…だから、たっぷり抱いてやる…何度でも、な?」
 背筋が寒くなる恐怖と、激しい快感への期待が入り混ざり、肌が過敏になっていく。はだけた胸を吸われ、崩れた脚を着物の外に晒して恍惚に染まる。露わになっていく時羽の白い肌に触れる度、宗一の理性は何処かへ行きそうだった。酔ってもいないのにまさかと、少し意地になる。
「なァ、時羽…?何を考えてる?」
 肌を舐めながら問いかける。
「宗様の事を…」
「本当か?」
「他に、何を考えると言うんですか…?」
 時羽も宗一の乳首に吸い付きながら、脚の間に手を伸ばし、魔羅を優しく指で撫で上げた。
「…んッ…」
 唸るような声が、宗一の喉から聞こえ、時羽は抱き付きながら唇を重ねた。
「どうぞ、滅茶苦茶にしてください…」
 潤む眼差しに煽られて、折り重なるように褥に堕ちる。舌を絡ませ、どちらの唾液か判らなくなる程貪った。宗一の荒々しい腕の中、時羽は思う。こんな日は、酷くされる方がいい。何も考えられないくらい、痛みを伴う快楽に溺れてしまえばいい。そうしていれば、いつかまた朝が来るから…それまでどうか、忘れさせて、抱き潰して欲しい。幾度となく宗一の精を受け止め、時羽も、それと同じくらい精を放った。はしたない嬌声を上げ続け、いつの間にか意識が途切れていた。

 身体が軋んで目が覚めた時には、すでに深夜だった。肘をつき、腕の力だけで布団から這い出した。傍で寝息を立てている宗一を横目に、幾重にも散らばった布の中から、自分の襦袢を探し手繰り寄せた。それを羽織ろうと膝立ちになった時、内腿に嫌な感覚を覚えた。
「…っ」
 息を詰めて、自身の口を手で覆った。また、喘ぎを零しそうになる。さっきまでの情交を思い出すように、時羽の肚に注がれた宗一の精液が、後から後から内腿を伝う。こんな事にさえ感じて、なんて淫らな身体なのかと思う。息を殺しながら、己から溢れる他者の体液を懐紙で拭い、濡れた手拭いで清め、ようやく一息ついた。
 ふと、外の空気が吸いたくなり、窓の戸を半分ほど開けた。室内の熱を逃がすように、風が滑り込んで心地良い。窓辺に座り、暫くぼんやりとしていた。

「…時羽…」
 唐突に名を呼ばれ、顔を上げた。真っ先に宗一を見たが、横たわった状態で微動だにしていない。時羽は立ち上がり、窓の下を見下ろした。茶屋の前、桜の木の陰に人影がある。
(誰…?まさか…)
 時羽は身を乗り出し、その人影を凝視した。影も時羽に気付いてか、窓の真下まで動いた。
「時羽か…?」
 その声に、胸が張り裂けそうになる。叫びたい気持ちを抑え、声を潜めた。
「雪様ッ…」
「…今、大丈夫か?」
 時羽は宗一を振り返り、寝ている事を確認する。
「はい、少しなら…」
「実は…父の容態が悪くなり、外出が困難になっていた…やっと昨日辺りから、落ち着きを取り戻した所だ…」
 暗くてよく見えないが、時羽は頷きながら聞いているようだった。
「来てやれなくて、すまない…また、必ず会いに行く…」
「はい…お待ちしています…」
 時羽の声が、幾分震えているような気がした。
「だから…心変わりしないでくれ…」
 時羽は、落ちそうになるのも構わずに、手を伸ばした。雪安も、その手を握ろうと手を伸ばす。けれど、あと少しの所で届かない。

「時羽ァ?どうしたァ…?」
 気怠い男の声が、二人の空気を引き裂いた。二人同時に伸ばしていた手を戻す。時羽が振り返ると、寝起きの宗一が怠そうな目で見ていた。
「外の…風に、当たりたくて…」
 勤めて平静を装って、時羽が答える。
「…んな格好して、落ちるぜ?」
 あくび混じりに話す宗一を前に、時羽は必死に言葉を探していた。
「あんまり、気持ちが良くて、つい…」
 宗一は、一糸纏わぬ姿で立ち上がり、窓辺に近付いて来た。時羽が何か羽織るように言ったが、全く気にしていないようだった。そして、窓下を覗く。
「あ?何だァ…侍か?」
 雲から出てきた月が通りを照らし、去って行く雪安の後ろ姿を鮮明にする。時羽は、祈るような気持ちで、その背中を見送りながら、宗一には何も気取られぬようにと、願った。
「もう気が済んだろ?」
 強制的に視界を遮るように、宗一に雨戸を閉められ、時羽は夢から醒める思いがした。  そして、全裸の宗一に抱き締められる。
「朝まで添い寝しろ…」
 耳元で命ぜられ、それに従うしかなかった。

 それから褥の中、何度もうつらうつらする度、接吻を浴びせられ、いつの間にか眠りに落ちて行った。


***


 「雪様」というのは、誰だ?

 あの夜以来、そればかりが脳内で浮遊している。時羽は陰間なのだから、間夫の一人や二人、いてもおかしくない。それくらい予想の範囲内だ。けれど…何故か面白くない。気に入らないのだ。
 宗一は憮然としながら、縁側に腰掛けていた。店の羽織に袖を通しているが、やはり今日もやる気が無い。頭にあるのは商売の事ではなく、交わった陰間の姿ばかりだ。
(知ってるさ…俺は商売に向いてない…)
 頭を無造作に掻きながら、庭の陽だまりで目が止まる。次に会いに行った時、何を話そうか。そう言えば、まだ、ろくに会話もしていない。すぐに抱いてしまい、抱き潰して夜が明ける。何故か、いつも余裕が無い。こうして明るい陽の光の下にいる時なら、何の焦りも感じない。今ならきっと、向かい合って話が出来る。でも…空が夕闇の色に変わり、部屋に行燈が灯り、艶やかな振袖と白い首筋、紅を引いた唇が薄く開き、黒目がちの目で見つめられたなら…次の瞬間には、褥に押し倒しているだろう。
 サラリと風が吹き抜け、軒下の風鈴が、季節外れの涼やかな音色を奏でた。後ひと月もすれば、紅葉が見られるようになる。夜の訪れも早まり、人肌も恋しくなってくるだろう。
 秋は、月夜。月夜に、時羽を抱いていたい。
(そういや…あの夜も月夜だったな…)
 黒髪の髷が揺れる後ろ姿。袴を穿いた腰には、大小がしっかり差してあった。あれは紛れもなく侍の出立ちだった。
 宗一は立ち上がると、羽織を脱いで畳み始めた。そして自室に向かい、羽織を風呂敷で包み、足袋を履き、小綺麗な草履で出掛けて行った。
 昼下がりの空はよく晴れて、昏い欲望も、どうにか抑えてくれそうな気がした。

 夏の名残りを残す日差しが眩しく、まるで行手を阻むかのように思えた。これ以上深入りするなと、忠告しているのかもしれない。
(ただの好奇心だ…)
 宗一は、武家屋敷が建ち並ぶ鏡町にいた。もし怪しまれたら、店の羽織を出して、御用聞きを装えばいい。そんな策を巡らせた所でふと、気がつく。わざと自分を偽らずとも、実際に商人なのだから、御用を聞いて注文を取っても何の不思議もないのだ。そんな事にさえ気づかず、成りすます事を考えるなんて、やはり自分は商いに向かないと、宗一は溜息をついた。
 昼間だというのに、鏡町は人気がない。
 屋敷を囲う背の高い白い壁が、果てしなく続いているように見える。迷い込んだら帰れなくなりそうで、僅かに寒気がした。いや、でも、そうしたら、商人をしなくて済むのかもしれない。叶いもしない想像でぼんやりしていると、突然人影が視界に飛び込んだ。慌てて白壁の影に隠れる。
「雪安様ー!お待ちくださーい!」
 響き渡る声に、耳を疑った。
(ゆき、やす…?)

『雪様…』

 息を潜める宗一の中で、時羽の声がこだまする。
(まさか…!)
 白壁の影からそっと通りを覗くと、袴姿の後ろ姿がそこにあった。艶のある髷が風に揺れている。通りの向こうから、小柄な初老の男が、息を切らしながら走り寄って来た。
「雪安様…こちらをお忘れです…」
「ああ、すまない…では、行って来る」
「はい、お気をつけて…」
 宗一は、二人のやり取りを聞きながら、羽織を包んでいる風呂敷包みを握り締めた。おそらく袴姿の方が武士で、初老の男は屋敷の使用人だろう。やがて、武士らしき男は去って行き、使用人の男は来た道を引き返して行った。
 袴姿の背を暫く見つめ、宗一は、使用人の後を追いかけようと通りに踏み出した時、爪先に何が触れた。
(何だ…?)
 足元を見ると、女物のような櫛が一つ落ちていた。拾い上げてみると、それは上等そうな柘植で出来ており、翼を広げた鳥が彫られている。裏を返すと、文字が刻んであった。
櫛の端と端、一文字ずつ。
「時」と「羽」。

 宗一は、拾った櫛を懐にしまい、すぐに使用人の男を追った。


***


 店に帰り着いたのは、陽が暮れてからだった。本当はもっと早く帰れたのだが、人気のない寺で、暫くぼんやりとしてしまった。拾った櫛を見つめながら…。
 人目を避け、勝手口から中に入り、薄暗く長い廊下を歩いていると、今、最も会いたくない人物と出くわした。
「またフラフラしていたのか、お前は」
 帳簿片手にじっとりと睨んでいるのは、桔梗屋の大旦那、つまり宗一の実父である。
「まったく…たまには注文の一つも取って来たらどうだ?」
 苦々しく小言を言う実父の眼前に、一枚の紙を差し出した。
「何だ、これは?」
「注文…取って来た」
 実父は紙を手に取ると、目を見開いた。
「何処で取って来た?」
「鏡町…三条邸より、喪服の注文だ。なるべく早く、仕立ててほしいそうだ」
 実父は目を丸くして、宗一を見た。
「納品の際は、俺が行く…」
 そう告げると、宗一は無表情のまま自室に向かった。

(それ所じゃねぇよ…)
 懐にしまっていた櫛を取り出すと、途端に無表情が崩れた。
 あの後…使用人を追った後、宗一はある屋敷に辿り着いた。
 白壁にどっしりとした門構えは、如何にも武家屋敷という風格だった。風呂敷包みを広げ、店の羽織を着て、辺りを探索していると、丁度門から人が出て来た。先程とは違う男だったが、身なりから使用人のようだったので、声をかけた。すると、これから呉服屋に行くつもりだったと言う。理由を尋ねると、近々喪服が要るかもしれないとの事。宗一が詮索すると、当主の容態が良くないと明かした。年齢的に仕方がないと、使用人は零すのだ。さらに探りを入れてみると、次の当主は既に決まっているので、その点では安心だと笑みを見せた。
「次の当主というのは、雪安様で?」
 とぼけた調子で宗一が聞くと、使用人は片手を横に振った。
「いやいや、雪安様は御次男ですから…」
 その瞬間、心の奥をざらりと削られる思いがした。武家の次男というのは、後継ぎ争いを避ける為、一生独身を通すと聞いた。
(それじゃ…奴は自由って事か…?)
 それからは、記憶が曖昧だった。おそらく、使用人の注文を無心で帳面に書き付け、愛想笑いを浮かべながら、その場を去ったのだろう。

 時羽を、奪われてしまう。
 薄ら寒い恐怖が、荒波のように心中に押し寄せる。後ろ姿しか知らない男に、酷く嫉妬していた。自分には無い、自由を持った男。生涯独り身でいられるなら、時羽を身請けし、囲う事も出来る。そして、ずっと傍に置く事も…宗一には到底無理な話だった。手の中の櫛を再び見つめる。この櫛を時羽が受け取ったら、身請けされてしまう。そしたらもう、時羽に触れられない。
 宗一は座敷で膝をついたまま、暫く呆然としていた。



 夜になると、鈴虫の声が聴こえる。夜風も、大分秋めいて涼しい。
 白い素肌を抱きながら、鎖骨に囁く。
「お前に…渡したいものがあったのだが…何処かで、失くしてしまったようだ…」
「何を…失くしたのですか…?」
「それは……秘密だ…」
 互いに小さく笑いながら、二体の身体の隙間を埋めた。


***


 此処は、何処だ?

 真っ黒な空間で、黒い水に腰まで浸かっている。水は冷たく、骨まで凍える。歩こうにも、両足は鉛のように重く、思うように前に進めない。

 何なんだ?!
 くそっ、一体どうなってんだ!

 顔を上げると、視線の先に白いものを見つけた。それは、白地の振袖を身に纏った時羽だった。表情は無表情だが、唇に引いた真っ赤な紅が妖艶で、宗一は、誘われているような感覚を覚える。白い着物に白い肌の時羽、そして一点の赤。振袖がまるで白無垢のようで、花嫁と見まごう美しさだった。

 時羽っ…!

 視線を奪われてもやはり足が重く、走る事は叶わない。その間に、時羽が踵を返してしまう。

 待てッ…行くな…!!

 滑るように去って行く時羽の隣に、もう一人、誰かが寄り添った。紋付き羽織の袴姿の長身、黒髪の髷が揺れている。見覚えのある後ろ姿だった。途端に脈が加速し、胸が苦しくなる。

 嫌だッ、時羽ッ…!時羽…!!

 紋付き羽織の男が、ゆっくり振り向きかけた時、目の前が真っ黒に塗り潰されていった。


 目覚めた時、空は白み始めていた。
 冷や汗で湿った寝間着が不快で、珍しく早々に起き出した。
 空に浮かぶ白い三日月は、あと少しで消えてしまいそうだ。袂からあの櫛を取り出すと、さっきまでの夢が、色鮮やかに蘇って胸を焦がした。全てを、捨ててしまいたい。店も、妻も、自分が自分で在る事も…別の誰かに成り代わり、違う人生を送りたい…もっと自由で、魂が喜ぶ人生を…。叶わぬ夢と、苦悩ばかり抱えて、何が幸せと呼べるのか。
 宗一は、早朝の縁側で独り、項垂れていた。

 それから宗一は、連日連夜、同じ夢を見るようになった。夢の内容はいつも変わらないのに、心身は日に日に衰弱していくようだった。それを気力で振り払い、黙々と店の仕事をこなした。主に帳簿の整理や、売上の管理など意欲的に取り組んだ。その様子に実父は面食らったが、やる気になったのならそれに越した事はないと、宗一の好きなようにやらせた。
 そうして宗一は、店の裏にある、鍵の付いた蔵へ行く機会が増えた。以前より頻度は減ったが、時々ふらりと出掛けるのは相変わらずだった。ただ、昼間は真面目に働いている事と、前のように酔って帰る事がなくなった為、誰にも注意されなくなっていった。

 懐にはいつも、あの櫛を忍ばせながら……。


***


 秋の夕陽は、本当に美しい。
 朱色、橙色の濃淡が幾重にも折り重なり、灰色の雲が筆を走らせた空は、優れた才能のある浮世絵師にも描けないだろう。

 宗一は独り、町外れの稲荷神社へ向かっていた。
 最近では、真面目な仕事振りのせいで、出掛けても咎められない。動き易くはなったものの、不本意で哀しくなった。誰も、自分の本質や本音など、どうでも良いのだと。実の親でさえ、我が子が何を思っているのかなんて、取るに足らない事なのだ。ただ仕事だけしていれば、言われた通りに働いていれば、他は要らない…傀儡で在れば良いという事だ。

 ふと我に返ると、赤い鳥居は目の前に迫っていた。足を止め、辺りを見渡す。聞いた話では、稲荷神社の祠の裏に入口があるらしい。しかし、裏手に回ってみても、そこには木が生えているだけで、入口らしいものなど見えない。
(何だよ…本当にあんのか?)
 宗一は半信半疑ながら、木の幹の間を擦り抜けるように奥へ進んだ。それほどに突き動かされる想いがあった。
 陽の光が届かないくらい奥へ行くと、引き戸のようなものが現れた。真っ黒に塗られたそれは、一見壁に見える。
「これは…」
 恐る恐る手探ると、指が窪みに引っかかった。そして、意を決して引いた。

「やあ、いらっしゃい…」
 ゆったりとした声と共に視界に入ってきたのは、ぼんやりとした行燈の灯りと、狐…狐の面だった。
「いやぁ…久々のお客さんだねぇ…どうぞ?」
 招かれて警戒しながら、およそ店とは思えない店内に、宗一は足を踏み入れる。
「あんたが、店主か?」
「ええ…僕一人だけですよ」
 面妖な男だった。顔の上半分を白い狐面で隠し、黒髪を肩上で真っ直ぐに、まるで禿のように切り揃えている。そして、黒無地の着物の上に、女物らしき派手な花柄の羽織を着ていた。
「今日は、何をお探しで?」
 そう聞かれて店内を見渡すが、六畳ほどの部屋には商品棚もなく、品物とおぼしき物が何も置かれていない。唯一、部屋の隅に、黒塗りの背の高い箪笥が置いてあるだけだった。
「…どんなものを、御所望で?」
 言葉を探せずにいる宗一に、店主は聞き方を変えた。
「…惚れ薬、というか…」 
「ほぅ…」
 気恥ずかしさで俯いたが、店主は驚きもせず頷いた。
「俺無しじゃ…いられなくなるような…」
「それは…情交において、という事で?」
「…ああ」
 店主は何度か頷くと、箪笥の引き出しを開け、何かを探し始めた。
「御相手は、女の方?」
「…いや、男だ…」
「はいはい…なるほど…」
 店主は慣れているのか、やはり淡々と引き出しを探る。
「あ、あった、あった…」
 口元に笑みを浮かべながら、宗一の眼前に小さな瓶をかざした。透明な小瓶の中の液体は薄紫色で、紫陽花の花に似た色だと思った。
「それは、何だ?」
「藤雫という媚薬の一種です…特に男同士の色事で、良い効果をもたらしてくれます」
狐店主の口元が笑っている。目も笑っているのだろうか。面の下は、やはり見えない。
「どうやって使う?」
「惚れさせたい御相手は、下になる方でしょうか?」
「…ああ、そうだ」
「ならば…」
 面の赤い隈取に囲われた目が、細く笑う。行燈の火が、僅かな音を立てて揺らめいた。


 幼い頃、逢魔が刻に出会うのは、人だけではないから気をつけなさいと、言われた事があった。
 宗一はその日、小さな瓶を一つ、妖から買い取った。


***


 皮膚の感覚がやけに過敏で、気がついた。
 媚薬を盛られた、と。

 陰間などしていれば、行為に薬や張り型を使われる事も珍しくない。きっと、さっき口を付けた盃に仕込んであったのだろう。
「宗様…」
 宗一の袖を引いて見つめると、その表情で察したらしい。
「効いてきたか…?」
 着物の上から触られても、何言か零れそうになる。それを知りながら、敢えて強く腰を抱き寄せてくる。
「宗、様…」
「さて、どうしてやろうか…?」
 接吻を待ち切れず、時羽は、迫る宗一の唇に舌を這わせた。そのまま首に腕を絡ませ、吸い付いた。
「んっ…」
 水を湛え潤む瞳、上気する頬、熱い吐息に開く唇…狐屋の言っていた事は確かだった。


『ほんの一滴、何かに混ぜて飲むと、身体の至る所が潤ってきます。受けの方なら、後ろの具合も柔らかくなり、行為がし易くなります。』


 身じろぐだけで、肌に触れている着物や襦袢の質感さえ、ただの快感に変わってしまうようで、時羽の指先が小刻みに震えている。その様を愛でながら、振袖の帯を解いた。
「今、悦くしてやるから…待ちな…」
「は、やくッ…」
 宗一の衿を掴んで、幼子のように首を振った。脱がしながら口吸いしてやると、身体をいちいち痙攣させ、透明な糸を引いた唇で、もっと欲しいとせがむのだった。
(淫乱なのか初々しいのか、分かんねぇな…)
 宗一は口元を緩ませながら、時羽の白い肌に掌を滑らせる。
「あッ…んっ…ぁ…」
「時羽…俺だけ見てろ…」
「宗…さ、ま…」
 震える膝を割ると、時羽がそれを拒絶するように、宗一の腕を掴んだ。
「や…見ない、で…」
 願いを無視して、時羽の脚を掴み褥に転がした。仰向けにして、掴んだ脚を広げさせると、着物の中が露わになる。
「や、だ…」
 狐屋の言葉が、脳裏を過ぎる。

『陰間など、後ろを使う事に慣れている身体ならば、其処がまるで女陰のように濡れ、前戯が不要になるかもしれませんね…』


 ニヤリと口角を上げていた、狐店主を思い出しながら、宗一は息を呑んだ。
 其処は、いつも狭く閉じていて、こじ開けるように侵入していたが、その入口が今、紅い口を開け、氾濫を起こし、襦袢を濡らしていた。好奇心を駆り立てられ、開いた紅い口に指を挿入してみる。
「あ…だ、めッ…」
 言葉とは裏腹に、時羽の腰が揺れ始める。前の方にも触れると、鈴口から溢れた涎で、全体がドロドロで、勃ち震えていた。
「あんた、慣れてっからな…余計に辛いんだな…」
 宗一は時羽に覆い被さり、耳元で囁いた。
「このまま挿れてやるから…」
 時羽は何度も大きく頷き、自ら脚を開いた。

「あぁぁッ…」
 招くように、既に開いている恥部に容赦なく侵入する。入口の様子から、中も緩いのかと思ったが、内部はやけに締め付けてくる。
(なるほどなァ…)
 受け入れ易く、快感を与え易くなる。だからこそ、受け側に有効という訳だ。そして、媚薬を飲んだ当人も、感覚が過敏になり、悦を得易くなる。
「あぁッ…宗さ……」
 襞を削るように、魔羅で擦り付けると、時羽は涙を零して唇を震わせた。喘ぐ暇も無いくらい腰を使ってやると、声にならない声を上げ、時羽は己を放った。それでも止まらずに突き上げ続けると、またガクガクと全身を痙攣させ、果てるのだった。
「や、だぁ…おかし、く…なる…」
「おかしくなれよ…俺のせいで…俺に、狂え…」
 理性が失われていく、頭の芯がぼんやりと霞んで、性的感覚以外が欠落していく。このまま堕ちて行けたら、どんなに幸せだろう…  このまま、このまま、快楽の奈落へと…。
「俺の事だけ考えろ…時羽ッ…」
 切羽詰まったような宗一の言葉が、耳元で繰り返される中、時羽の意識は現を置き去りに揺蕩う。それでも悦に溺れる身体は、腰をくねらせ、脚を絡ませて宗一を求めた。
 夜露で濡れた藤の花が、風に吹かれ雫を落とすよう、後から後から溢れ出る。繋がっても尚止まらず、動く度、濡れた音を立てて煽情する。時羽が背を反らすと中がきつくなり、宗一は喉を鳴らした。
「時羽…あんたを囲ってもいいか…?」
 陰間と客の間で、交わす契りは絵空事。
「俺だけのものに…時羽…」
 叶わぬ夢、叶わぬ想い。重ねた身体の数だけ重ねる嘘。我を忘れ喘ぐ時羽の瞳には、何が映っているのか。
 時羽の身体を掻き乱しながら、ふと行燈に目をやると、傍らにあの櫛が落ちていた。着物を脱いだ時に飛び出したのだろう。常に懐に入れてあったから、取り出すのを忘れていたのだ。それを眺めながら、時羽の腰を深く抱いた。
「あ、あぁッ…も、やぁ…あぁぁ…」
 泣いて啼きながら、吐き出すものが無い状態で、空のまま絶頂に達する。そのすぐ後に、宗一も己が欲を時羽の胎内に放った。
 意識を失いかけながら、全身を震わせる時羽の目を盗んで、櫛をそっと自身の着物の下に隠した。

 外からはもう、虫の声は聞こえない。静かな夜だった。吹く風も肌寒く、生肌の温もりが恋しい季節が、いつの間にか訪れていた。


***


 晩秋の夕暮れは、釣瓶落とし。
 夕焼けを愛でる暇もないくらい、あっという間に陽が落ちてしまう。

 この所、週に一、二度は、宗一が顔を見せるようになった。不思議なもので、宗一が茶屋に通うようになると、雪安の足が遠のく、まるで示し合わせたかのように。
 そして最近では、時羽と色事に及ぶ際、宗一は必ず藤雫を用いるようになった。毎回乱れ啼く時羽の耳元で、自分のものになれと、経のように繰り返し囁くのだ。
 それと一つ、気になる事があった。宗一が店主の伊佐田に、何事か話している姿を見かけるようになった事だ。伊佐田は、早く話を終わらせたい素振りだが、宗一の方は真剣な表情で、何か訴えているようだった。つい今し方も、そんな様子を廊下の奥に見つけたばかりで、時羽は見ないふりをしていた。

「時羽…話がある…」
 いつものように酌をしようとすると、改まった様子で切り出された。
「何でしょう?」
 時羽が小首を傾げて尋ねると、膝に置かれた手を握り、真っ直ぐに見つめてくる。雪安の漆黒の瞳とは違う、鳶色の瞳。
「あんたを、身請けしたい…!」
「…え?」
 目を丸くする時羽の手を引き、抱き寄せる。
「駄目か…?時羽ッ…」
「………」
 長い沈黙の後、時羽は答える。
「身を滅ぼしますよ…?」
 脳裏で密かに思い出す。あの夜、同じ台詞を別の男に言った事を…。
「構わねぇよ…」
 どうして、二人揃って同じ事を言うのだろうか、時羽は胸が締め付けられる思いがした。求められる事は嬉しい。それなのに誰の胸にも飛び込めない、そんな自分の弱さが疎ましい。
「あんた、陰間が出来なくなったら、どうするんだ?」
「そしたら…出家します」
 時羽にとって、いつかはそうなるだろうと、大分前から考えていた事だった。少なくとも、雪安と旅に出るまでは、それだけが自分の未来だと思っていた。
「…坊主になる方が、俺に身請けされるよりマシってのか…?」
 不貞腐れた口振りに、時羽は宗一の手を握り返した。
「いえ、そんなつもりじゃ……」
 戸惑う時羽に引き寄せ、そのまま体重をかけて褥に押し倒した。ガチャンと大きな音がして、膳の上の徳利が倒れたのだと思った。
「それとも…他に好いた奴でもいるのか?」
 時羽を見下ろしながら、その手首を強く握った。宗一の鋭く熱い眼光が、心の奥を暴こうとする。
「時羽ッ…!」
 耐え切れず顔を逸らすと、首筋に噛み付かれた。乱れた裾から、白い膝が晒される。
「痛っ…あっ…」
 思考が混乱する中、拒む事なく宗一を受け入れる。心中に雪安を宿しながら、今宵も、宗一の魔羅で貫かれる。両手首を腰紐で縛られ、半ば凌辱のされるような格好で抱かれた。これで気が済むのなら…そんな憐憫を感じていた。何故人は、人の肌を欲するのだろう。どれだけ求めて、上塗るように重なり合っても、心も身体も一つにはなれないに…。
「んっ…そこ、いい…はぁ…」
「此処だろ…?」
「あぁ…もっと…んッ…」

 陰間になった時から解っていた。長く出来る仕事ではないと。いずれは何処か、安住の地を探さねばならないと。男に組み敷かれながら考えて、辿り着いた答えが出家の道だった。
 でも…憂鬱に沈みがちな精神を、あの暗い水の中から救ってくれた人…真っ直ぐな漆黒の瞳、大きくて力強い手、優しさと激しさを持つ人。

(あ…そっか…私は……)


「紐…解いてください…貴方に、触れたいから…」
 解放された手で宗一の胸を触り、指と指で乳首を愛撫した。
「…ッ…こら…」
宗一が眉を顰めると、時羽は小さく笑った。
「ずっと、怖い顔してるから…本当は、優しい顔なのに…」
 独り愉しげな時羽の不意を突き、肚の奥を一度深く穿った。
「ああッ…!」
 油断していた身体を震わせ、身悶える。
「急に…強くしない、で…」
 宗一の腕に爪を立てながら、肩で息をする。その脚を開かせ、顔を近づけた。
「あんたが悪い…煽りやがって…覚悟しろよ?」


 宗一が時羽を抱いていた日。夜明け前に、珍しく鴉が鳴いていた。


***


 葬列は無彩色の景色の中、厳かに歩いて行く。
 長い長い白壁の間を、灰色の空に見下ろされながら、道行く人は皆、道を譲り、手を合わせて列を見送った。
 雪安は、重たくのしかかるような寒空を見上げながら、白い息を吐いた。
(父上は無事に、母上の所へ行けただろうか…?)
 初夏に行った神社の御守りは、余り効力を発揮してはくれなかった。時羽と二人で参拝した事がいけなかったのか、己の心に卑しさがあったからか…などと、無意味な事を考えていた。父の野辺送りの最中にさえ、時羽の事が頭を離れない。不甲斐ない気がしてくる。ただ、自分の性質を知らないまま、父母が他界したのは、救いだったのかもしれない。息子が女を愛せないと知れば、親として落胆していたかもしれないから。
(四十九日が明けたら、時羽に告げよう…)

 葬儀は滞りなく終わり、屋敷に戻ると、下女達が皆に熱いお茶を用意していた。寒空の下を歩いて来た身体を癒やす温かさに、思わず溜息が漏れる。
 家人達が一息つく中、雪安は奉公人に別室へと呼ばれた。
「どうした?」
「あの…夏の頃に頼まれていた、別邸の件なのですが…」
「ああ…!見つかったのか?」
「はい。しかし…余りにも狭過ぎると思いまして…あれでは邸というより庵です…」
 若い奉公人は、眉をハの字にして話すので、雪安は少し笑ってしまった。
「広過ぎるよりはいい。住まうのは、一人か二人だからな…」
「左様で御座いますか…ならば、一度見に行かれますか?」
「そうだな…四十九日が明けたら、そうするか…」
 沈む灰色の空から、はらはらと雪が舞い散った。二人はほぼ同時に、それを目で追った。
「どうりで…冷える訳ですね…」
「涙雨ならぬ、涙雪か…」
 他の家人達も雪に気づいたようで、清らかな白い花弁を暫く眺めていた。
「では、その時が来ましたら、案内致します。」
「ああ、宜しく頼む。すまないな、凛太郎。ありがとう…」
「いえ、お役に立てて光栄です。」
 笑みを返し合う二人の背後で、雪は降り続いた。

 降りしきる雪の上、足跡を残す。その足跡を雪がまた、消していく。景色を白く染め上げて、音すら消してしまう白。
 今宵はきっと、静かな夜になるだろう。


***


「今日はもう、お客さんは来ないだろうねェ…」

 女将の気怠い声に、宗一は顔を上げた。
 今宵は独り、久々にじっくり飲んでいた。以前のような悪酔いはしなくなったが、酒の回りが早い気がした。さっき女将がぼやいていたのは、昼過ぎ頃から降り出した雪の事だろう。今日はしっかり傘を持参して来たから、帰りも心配ないだろうと思っていた。
「…そんなに降ってるのか?」
 宗一が尋ねると、女将は大きく頷いた。
「お客さんも早く帰った方がいいよ?店に泊める訳にいかないからさァ」
 さっぱりとした口調で言うと、厨房へ入って行った。店主である亭主と、早仕舞いする事を話し合っているらしい。
(どうするかなぁ…この後……)
 深い溜息を吐きながら、考えを巡らせた。 こんな時に限って、翌日は休日で何の予定もない。時羽の所へ行きたかったが、懐が少しばかり淋しい。
(こんな事なら、もっと金を入れて来りゃ良かった…)
 盃をあおり、また溜息を吐く。そんな事を繰り返していた。

 時羽…。
 最初はただの好奇心だった。遊女は何度か買った事があった。陰間はまだ知らなかったから買った…ただ、それだけだった。子供が新しい遊びを試すように、時羽を買った。嫌になったらやめればいい、飽きたらもう通わなければいい、そう思っていた。性欲に関する事は道楽だった。
 でも、時羽は…。
 何故こんなにも、心惹かれたのかはわからない。そういえば、時羽以外の陰間を買った事がない。いや、時羽以外、試す気になれなかった。頭の中に、時羽しかいなかったのだ。
(こんなに…溺れちまうなんてなァ…)
 どんな時に会っても、時羽はいつも同じだった。宗一が酒に酔った時も、不機嫌な時も、あの襖を開ければ、薄暗い部屋で艶やかに佇んでいる。その姿は、山中にひっそりと咲く山桜のようだった。
 遊び回っていた時も、真面目に働くようになってからも、周囲の人間が態度を変えても、時羽だけは何も変わらず、宗一に接していた。それが陰間という商売なのだろうが、心は癒され、身体も情交により深く満たされた。
(時羽……)

 出入口の戸が開く音で、宗一は我に返った。女将が暖簾を中に入れている。外された暖簾の向こう側に、ただ一面の白色が見えた。それをぼんやりと眺め、盃を口に運んだ。店内を見渡すと客は宗一と、浪人風の男が独り、店の片隅で飲んでいた。
(俺以外にいたのか…)
 また上の空になると、女将に声をかけられた。
「お客さん、悪いけど、それ飲んだら帰ってくれるかい?今日はもう店閉めるからさ…」
「そうか…まァ、仕方ねぇな…」
 気怠く答えると、女将は浪人の所へ行き、同じ事を告げた。浪人は、声を出さずに頷いていた。

 最後の酒を飲み干し、外へ一歩出ると、そこはもう銀世界だった。弱いながら、雪は未だ降り続いている。冷えた外気に身震いし、傘を開いて歩き出そうとすると、不意に声をかけられた。
「あの、もし…」
 驚いて振り返ると、浪人笠を深々と被った男が、こちらを向いていた。
(さっきの、あの浪人風情か…)
「…何だ?何か用かい?」
 宗一が答えると、浪人は微動だにせず声を発した。
「これから先は、どうか、お気をつけください…」
「あ?ああ…この雪だからな…」
「どうか…真実を、見誤りませんように…」
「……」
 意図の解らない言葉に気味が悪くなり、宗一は一歩後退った。使い込んだ笠に着古した着物と袴は、色褪せなのか汚れなのか、よく判らない色むらが無数にあった。
(何だこいつ…)
 宗一は踵を返し、雪の中を歩き始めた。


***


 サクサクと雪を踏む音が、頭の中を無にしていく。
 酔いが廻った身体はぼんやりと熱く、辺りは凛と冷え切っている。それが心地良かった。一面が真っ白に化粧を施され、此処は本当にこの世なのかと、疑いたくなるような景色だった。
(あぁ…まずい…ちと飲み過ぎたか…)
 重くなる身体を動かし、足元の悪い帰路を辿る。白い息を忙しなく吐きながら、空を仰いだ。

 純白の花弁が、落ちてくる。
 空に、吸い込まれていく。
 無彩色の世界。

 暫くの間、立ち尽くしていた宗一は、帰路から外れ、違う方向へ歩き出した。
(やっぱり…時羽に会いたい…!)
 玉代の足りない分は、ツケにしておけばどうにかなる。一見の客ではない、馴染みなのだから、店主も嫌とは言わないだろう。
(時羽…)
 あの薄暗い廊下を進み、見慣れた襖を開ければ、行燈の灯りの中に浮かび上がる姿。華やかな振袖を身に纏い、白い肌に差した赤い紅が誘う。島田に結い上げた艶やかな黒髪、長い睫毛が縁取る黒目に見つめられ、白粉の匂いに身を投じれば、現は跡形もなく消え失せる。
(時羽…時羽…)
 目の前が霞み出し、足元がおぼつかなくなってきた。酒のせいなのか、時羽への恋慕のせいなのか、それとも雪明かりのせいか、宗一はふらつきながら歩いた。

 重たくなる足を引きずり、やっとの思いで太鼓橋まで辿り着いた。この橋を越えれば、茶屋はもうすぐだ。
 一呼吸して顔を上げると、橋の途中、丁度中間辺りに人影があった。こんな雪の夜に出歩く物好きが、自分以外にもいたのかと、宗一は口元を緩ませた。いざ橋を渡り始めると、雪で橋板がスルスルと滑り、足に力を入れないと転んでしまいそうになる。慎重に歩きながら、さっきの人影に目をやると、島田髷の若い女らしき後ろ姿が確認出来た。女は川の方を向いて立ち、微動だにしない。
(妙な女だなぁ…)
 先刻の浪人風情といい、雪に惑わされているような気分だ。自身の足元に視線を移し、女の後ろを通り過ぎた時、耳元で声がした。

「宗様…」

 聞き覚えのある声に鼓動が高鳴り、咄嗟に振り返った。
「と…時羽ッ…」
 そこには、目を疑う光景が広がっていた。
真っ白な世界に、白地の振袖に身を包んだ時羽が佇んでいた。白い肌に浮き上がる赤い紅を引き、その唇は軽く微笑んでいる。
「時羽…どう、したんだ…?こんな、所で…?」
 驚きの余り、声が上手く出せない。
「貴方に…早く、会いたかったから…」
 時羽は、銀世界の中でゆっくり微笑んだ。高鳴る心臓を押さえながら、宗一は時羽に歩み寄る。足元の新雪は真っさらで、本当に此処はこの世なのだろうか。
「さぁ…宗様…」
 差し出された右手に、かじかんだ手を伸ばした。
「共に、参りましょう…」
 ゆっくり動く唇から、目を逸らせない。瞳の中が、時羽で溢れて何も見えない。そう…時羽を知ったあの日から、心は既に奪われていた。握った手の温もりから、紛れもなく時羽なのだと確信する。白地の着物に描かれた蓮の花が綺麗に咲いて、酷く美しい。
「時羽…俺は、本当に…」
 繋いだ手を引き、思い切り抱き締めた。求めていた香りに包まれて、恍惚に溺れていく。
「あんたが、好きだ……」
 身体がふわりと軽くなる…癒されていく…黒い空から零れる白い羽に覆われ、目を閉じた。


 橋の上には、開いたままの傘が雪に塗れ、落ちていた。
 白い夜は呼吸の微かな音さえも吸い、誰も触れないしじまに閉じ込める。それでも人を魅了して止まない、その美しさ故に…。



***** ***** *****



 太鼓橋の下で水死体が上がったと聞いたのは、昨日の事だった。

 昼下がりに外へ出ると小春日和で、一昨日まで雪が降っていたとは思えない陽気だった。店先の雪はほとんど溶けて、雪かきの手間が省けたと、伊佐田はほっとした。このまま買い出しを済ませてしまおうと、町中へ向かった。
 程なくして太鼓橋に差しかかると、何やらたむろする人の集まりが見えた。無視して通り過ぎても良いのだか、何故か無性に気になり、一番近くにいた年増の女に声をかけた。
「何かあったのかい?」
「え?ああ、いやね…この川に仏さんが浮かんでたってさァ…」
「土左衛門かい?」
「そこまで傷んじゃいなかったみたいでさ、若い男で、顔なんか寝てるみたいに綺麗だったってさァ…」
 聞けば女は、亭主と飲み屋を営んでいるらしい。あの雪の夜は早仕舞いをしたから、今日は早めに開店するつもりだと言う。伊佐田は相槌を打ちながら、橋から川を見下ろした。雪の降る中、こんな所に落ちたらさぞ寒かろう…少しばかり気の毒になりながら、その場を後にした。

 そうして向かった仕立て屋で、件の水死体の身元を知る事となったのだ。
 遺体は、呉服の大店桔梗屋の若旦那、榊宗一であったと…。
「何だって…?!」
 伊佐田は、開いた口を必死に動かし尋ねた。
「おや…?知ってるのかい?」
 代金の勘定をしながら、仕立て屋の主は視線を寄越した。
「知ってるも何も…うちの陰間の馴染みだよ…」
「へぇ…あの若旦那、そんな嗜好があったのかい…知らなかったねぇ…」
 仕立て屋は関心したように頷いていた。
(また、時羽の客か…)
 伊佐田は、背筋に薄ら寒いものを感じていた。背後で、屋根の雪が溶けて落ちる音がした。
「うちの仕立てを請負ってる同心の話なんだけど…あの若旦那、所持品は財布と女物の櫛だったらしいねぇ…」
「…女物の櫛?」
「ああ…あと、橋の上に半分雪に埋まった傘が落ちてて、それも多分そうだろうって…」
 伊佐田は腕を組みながら、自身の顎をさすった。
「その櫛さァ…お前さんとこの陰間に、渡すつもりだったんじゃないかい?」
 主は作業する手を止め、しみじみと言う。
「え…?」
「夫婦になる事は叶わない…だからせめて、身請けしたいってねぇ…」
「…そりゃあ、どうだろうなぁ…」
 苦笑いを浮かべつつ、風呂敷包みを手に店を出た。

 晴天の空を仰ぎながら、不釣り合いな程深い溜息を吐いた。どうしてか、伊佐田の足取りは重くなっていた。
(よりにもよってなぁ…)
 ふと、暫く前に交わしたやり取りを思い出す。

『頼むッ…時羽を身請けさせてくれ…!』
『身請けって…最近所帯を持ったと聞きましたが、宜しいので?』
『ああ…金の用意なら出来ている』
『陰間一人養うのは並じゃありませんよ?』
『解ってる…でも、どうしても…時羽が必要なんだッ…時羽が手に入るなら、俺は死んでもいい…!』
『ちょっと待ってくださいよ、物騒な事は勘弁してくださいな…』

 青空では、鳶が旋回していた。
 あの太鼓橋にはもう、さっきまでの人だかりはなくなり、いつもの風景に戻っている。伊佐田は橋を渡りながら、時羽に話すのは、もう一晩寝かしてからにしようと思った。


***


 そろそろ店を開けようかと二階へ上がり、陰間達の支度具合を確認していた。
 時羽の部屋の戸に指をかけた時、昼間の出来事が脳裏を過った。
(黙っていればいい…)
 そう思った瞬間、室内から歌声が聞こえた。ゆっくりと引き戸を引くと、窓辺にもたれた時羽が、暮れ行く空を背に歌っていた。  紅白の椿が舞う振袖を身に纏う姿は、やはり息を飲むものがある。伊佐田は、宗一の想いに少し同調した。
「……どうかしましたか?」
 伊佐田が我に返ると、時羽と視線が合った。
「あ…?ああ、いや…そろそろ店開けようと思ってなァ…」
「…宗様の事ですか?」
 取り繕う伊佐田に、時羽の静かな声が問うた。
「知ってたのかい…?」
「はい…夢乃から聞きました…」
 夢乃とは、時羽より二つばかり年下の陰間で、馴染み客に与力がいた。伊佐田はハッとした。そういえば昨夜、その与力が店に来ていたのだ。
「そうかい…」
 伊佐田は呟くように言うと、室内に入り戸を閉めた。闇が迫る中、片隅の行燈に火を灯す。
「何で…お前さんの客ばっかりなんだろうなァ…」
「呪われているから…この身体が…」
 時羽は表情を変えないまま、行燈を見つめた。淡い光が、時羽の妖艶さを一層際立たせる。
「…もう一人、いるだろう?お前さんには…」
 伊佐田は努めて明るい声で言った。
「最近…また、足が遠のいているようです…」
 時羽の頬に、長い睫毛が影を作る。
「それならよぉ…次来た時に言えばいいじゃないか?身請けして欲しいってさ…」
「…え…?」
 時羽は驚いて伊佐田を見た。
「何だい?言われた事ないのかい?」
「いえ…ない訳では……」
「だったら話は早い。お前さんが、その気になるだけだ…」
 時羽の隣に来ると、開いていた窓を閉めた。昼間とは打って変わり、冷気が部屋に滑り込んで来る。その流れで、伊佐田は火鉢に火を入れた。
「…私は、いずれ出家するつもりでいましたから…」
「出家なんざ、いつでも出来るだろうよ…その前に、夢を見てもいいんじゃないか?」
「夢…?」
 時羽が再び顔を上げると、火箸で突かれた炭が音を立てて爆ぜた。
「ああ…穏やか夢だ…お前さんは何処へでも行ける…何せ、名前に羽が付いてるんだからな…そうだろう?時羽…」
 時羽の中で、何かが壊れていくのを感じた。そして同時に、何かが生まれて来る気がした。いや、生まれるのではなく、今までずっと押し殺していたものが蘇る、そんな感覚だった。時羽は両手で顔を覆い、畳の上に崩れ落ちた。その様子に頷きながら、伊佐田は立ち上がる。
「さて、そろそろ店を開けようかね…」

 襖が閉まる音がして、足音が離れて行った。
「雪様ッ…雪様ッ…」
 震える声で、何度も何度も呟く。久しく呼んでいなかった男の名を。
 項垂れる時羽の傍で、また炭が爆ぜた。その静かな炎のような決意を、時羽は胸にしっかりと抱く。もう二度と、放さぬようにと…。


***


 足音が近付いて来る。
 膝を折って座り、三つ指をつき、頭を下げた。襖が開いた瞬間感じる男の匂い。
「いらっしゃいませ…」
「時羽…待たせたな……」
 顔を上げた視界がぼやけ、瞳に映したいものを上手く映せない。
「あ……雪様…!」
 言葉より先に、ただ抱き締め合った。互いの存在を確かめて、きつく、きつく、息も出来ない程に…。
「話があるんだ…時羽」
「……」
 指で時羽の涙を拭う雪安の眼差しは、春のように穏やかだ。
「どうか、聞いてほしい…」
 意志の強い漆黒の瞳を前に、時羽はただ、ただ頷いた。

 膝と膝を突き合わせるように、改まって二人は座った。
 この色情に塗れた陰間部屋には、似つかわしくない空気が二人の間に流れる。今までにない緊張感に、時羽は俯いた。
「これを…受け取ってほしいのだが…」
 時羽の膝の先に置かれたのは、黒漆地に、千鳥の金蒔絵が施された美しい櫛だった。
「これは…?」
 顔を上げると、真っ直ぐな瞳が射抜くように見つめている。もう、逸らせない。もう、逃げられないのだと悟った。
「女に渡すというのが、通例なのだろうが…これはあくまで、俺の意志表示だ…」
 男が女に櫛を贈るのは、婚姻の証。時羽は男だが、心は喜びで、痛いほど締め付けらた。
「時羽…お前を身請けさせてほしい…狭いが、別邸も見つけた…毎日とはいかないが、出来るだけお前の元へ通うつもりだ…共に…日々を、過ごして行きたい…」
 深々と頭を下げる雪安に、時羽は驚いた。こんな、ただの陰間に過ぎない自分に、武家の男が頭を下げるなんて、本来ならありえない事。困惑しながら、時羽は雪安の傍らに寄り添う。
「そ…そんな……顔を上げてください…!」
 そっと肩に手を添えると、逞しい肩が僅かに震えていて、さらに驚いた。
「お前は…遠い…何度抱いても、手中に堕ちない……」
 捨てられた子犬のような目を向けられ、思わずその頬に手を伸ばす。
「雪様…私の心は、とうに決まっていたんです…あの半月屋で過ごした夜に……」
「時羽…?」
「もうとっくに…貴方の手中に堕ちていました…手遅れになるほどに……」
 頬に触れた手を握る大きな手に、身体を引き寄せられ、またきつく抱き合った。雪安の腕の中、時羽は大粒の涙を零す。
「私の残りの人生…全て差し上げます……」
「…時羽ッ…」
 吐き出した真実は、梅の花が綻ぶように、時羽の心を溶かしていった。永い冬が終わり、光溢れる春が芽吹くように…。

 身体を預けた褥で、潤んだ瞳で見つめる。
 こんなにも幸せな心で抱かれる事など、今までなかった。いつも不安で、孤独で、どんなに艶やかな着物を纏っても、闇が消えなかった。自分を沈めるあの黒く冷たい闇が…。
「雪様…」
「綺麗だ…時羽…」
 緩やかに衣を脱がしていく行為に、雪安の指が震えている。
「今日は…丁寧に抱きたいんだが…それなのに…指が急いでしまう…」
 照れたように笑う雪安が愛おしく、身体の芯が熱くなる。見下ろしている漆黒の瞳に、行燈の灯りが揺らめく。幾度となく交わす接吻だけで、身体が疼いて眩暈を感じた。
 太腿が露わになった時、ふと、雪安の手が止まった。
「…どうか、しましたか?」
 時羽が半身を起こすと、自身の左内腿に紅い痣を見つけた。それを雪安の指がなぞる。
「これは…誰に付けられたんだ?」
「それは…おそらく…一昨日のお客さんが…」
 言いかけた所で、雪安の唇が痣を貪った。
「ッ…!」
 濡れた音を立てながら、執拗に何度も吸い上げた。その結果、ただの紅だった痣が、紅梅のように花開いた。
「お前の白い肌によく映える…もう誰にも、触らせない…」
 低く静かに呟く雪安の目は眼光を放ち、明らかな雄を宿していた。時羽の身体がまた一層熱くなる。もう互いに、想いを抑えられない。
「雪様…あの、もう…」
「…我慢、出来ないか?」
「はい…早くっ…」
 欲に疼く身体を擦り寄せながら、口吸いを強請る。脱衣を待ち切れず、乱れた裾から脚を絡ませた。
「早く、ください……」
「ああ、もう少し耐えてくれ…俺も早く欲しい…」
 飢えた口の中で通和散を溶かし、それをたっぷりと指に絡めた。唾液を含み飴のように艶々とした液体を、指と共に秘所へと侵入させる。時羽の身体は指だけで悦び、脚を開き膝を曲げ、腰を揺らす。潤んだ瞳で雪安を見つめ、震える唇で刺激を要求した。時羽はずっとこうして、男を惑わせていたのだ。雪安と出会う前から、ずっと…。誰が悪い訳でもないが、そう考えると雪安の胸は嫌でもざわついた。もっと早く出会っていれば、もっと早く、この腕に抱いていれば…時羽に触れる男の数を、減らせたのかもしれない。
「時羽…良いか?」
「お願いッ…」
 縋るように、雪安の手を握り締めた。
 腰を浮かせて、脚の間に男を誘い込む。上気した顔で視線を送れば、男の雄が猛り、肚の中を犯し始める。
「あ、あぁッ…あ、あ…あぁ…」
白い腿を雪安の脇腹に擦り付け、啼きながら肩にしがみ付いた。
「時羽ッ…すまん…抑えが、効かないッ…」
 時羽の身体を裏返し、後ろから一層深く中を穿った。
「あッ…!」
 胎内深く雄に抉られ、圧迫感で声が出せなくなる。喘ぎさえ塞がれ、ただただ背中を反らして涙を零した。それでも、雪安の掌が温かく優しいせいか、痛みも悦楽へと姿を変えていく。
 欲を塗り重ねた部屋の中に、赤く濡れた花弁が降り積もる。幾重にも幾重にも重なるように、唇の紅にも似た花弁が、二人の上に降り積もる。重ね合う肌の隙間を埋めて、もう離れぬように縫い合わせていく。
 首を捻ると、背後から覆い被さる雪安に、口を塞がれた。その状態のまま、止む事なく、肚の奥を抉られる。余裕のない雪安の追撃は、時羽の細い身体を激しく揺さぶった。時羽は髪を乱し、腰を震わせ、このまま褥の上で息絶えてもいいと、本気で思っていた。
「雪、様ッ…あぁッ…」
 声を放った瞬間、下腹が熱く満たされた。自身の精は、いつ達したか判らないほど、無惨な有り様で、肌や布を汚していた。
「時羽…好きだ…」
 乱れた息の合間に、乱れた髪を撫でながら耳元で囁く。
「もう…死んでもいい……」
 ぼんやりと呟く時羽の言葉に、雪安は苦笑いを浮かべた。
「それは困ったな…」

 潤んだ熱気漂う陰間部屋に、恍惚とした安息が充満していた。


***


 部屋の片隅で、火鉢の炭が爆ぜた。

 色欲に溺れた部屋なのに、今宵は酷く優しさで溢れているように感じる。
(此処は…奈落なのかもしれない…)
 気怠さと幸福感を覚えながら、時羽は天井を見つめた。
「雪様……私は…山深い村で生まれたんです……」
 雪安は少し驚いて時羽を見たが、時羽はただぼんやりと天井を見ていた。
「家が貧しくて、兄弟も多いから……」
「口減らしか…」
「はい…」

 四方を高い山々に囲まれ、まるで閉じ込められたような小さな村。時羽の眼裏に、あの深い緑色が蘇る。
「歌が好きだった俺は、親の手伝いもろくにせず…毎日空想にふけり、ぼんやりする事が多かった…ただ、容姿は良かった為、人買いに聞くと、結構いい値がついたらしいです…」
「そうか…」
 鬱蒼と茂る木々が、心を締め付ける。
「父は…親孝行の為に金になれと言いました…」
「母上は…?」
「母は…少し、泣いてました…」
 あの辺りは冬になると底冷えし、雪が降れば橋が凍結した。今頃はきっと、遅い春を待ち侘びているのだろう。
「でも…さほど辛くはなかったんです…町へ行けば、自由に歌を歌えると思ったから…」
 恵まれた身分、環境で生まれた雪安にとって、聞いているだけで辛くなる話だったが、時羽はただ淡々と話し続けた。
「…愚かでした…町へ行って待っていたのは…ただ、身売りでした…」
 雪安は手を伸ばし、乱れた時羽の髪を梳いた。その艶やかな黒髪は、過去の悲哀など微塵も感じさせない。
「最初は、舞台子と陰間を兼業していました…でも…いざ舞台で歌おうとすると、声が出ないんです…緊張して…声が掠れてしまう…そんな事を繰り返す内に…舞台の仕事は来なくなった…そして……」

 そして、時羽の言葉が途絶えた。どれくらい沈黙が流れたのか、炭が爆ぜる音だけが、時折部屋に響いていた。
「俺は…時羽に出会えて、本当に良かったと思っている…時羽が…この道を選ばなければ、出会う事もなかっただろう…」
「雪様…?」
「その時は最悪だと思う選択だとしても、後にそれが、最善だったと思える時が来る…今、この時のように…違うか?」
「雪様…」
 時羽の目に、また涙が滲んだ。
「幸せにする…いや、幸せになるんだ…そうならなければ、天はきっと許さないだろう…」
 四季が移り行くのを、何度もこの部屋から見ていた。特に何かを思う事もなく、巡る四季を、ただ瞳に映しているだけだった。
「時羽…これからは、俺の為に歌ってくれないか?」
 布団の中で、強く手を握る。
「俺の傍で、ただ笑って、何も恐れずに歌ってくれ…」
「…はい…」
 その声は、酷く震えていた。時羽は壁の方を向き、もう片方の手で顔を隠して泣いていた。

 信じられないほど、次にやって来る季節が待ち遠しいと思った。
 もう、あの頃とは違う。
 何もかも、すべてが。
 新しい道に立っている。愛すべき人と…。ならば、何も恐れずに、振り返らず、歩いて行けばいい。過去に重ねた数多の苦痛も、風が風化させるだろう。新しい風は、すぐ目の前に吹いている。それに身を任せればいい。

 冷たい夜風に吹かれて、丸く膨らんだ紅梅の蕾が、花咲く時を待ち焦がれていた。


***


 柔らかな霞の空が、頭上に広がっている。

 紗がかかったような青空が、優しく見下ろしている。空とは、こんなにも穏やかな表情を見せるものだったろうか。時羽は、自分の目が涙で滲んでいるのではないか、と思ってしまった。
「時羽…」
 振り返ると、雪安が微笑んでいる。大分はしゃいでいたのか、時羽は雪安より随分前を歩いていた。
「その着物…お前に譲って本当に良かった…本当によく似合っている…」
 そう言われて、改めて自身の姿に視線を落とす。淡い浅葱色の着物に濃紺の袴。二人で旅に行った時以来、袖を通す事がなく、仕舞い込んだままだった。
「これからは、沢山着る事になります…きっと…」
 おそらくもう、顔に白粉を塗る事も、唇に紅を引く事もないのだろう。髪を島田に結い上げ、振袖を着て、未婚の女の装いをする必要もない。素顔のままで、最愛の人と向き合い生きて行けるのだ。
「時羽のままで、良いのか?旅へ出た時、旅籠で名乗った名…あれが本名だろう?」
 少し心配そうに、雪安は尋ねた。やはりまだ、時羽は自分に対して、無理をしているような気がしたからだ。
「気に入っているんです。この時羽という名が…だって、名前の中に羽があるから…だから、何処へでも、飛んで行ける…行きたい場所へ…」
 屈託なく笑う時羽の姿に、雪安の胸は甘く締め付けられた。こんなにも、無邪気に笑う時羽を見たのは初めてだった。
「この名を貰った時に、運命は決まっていたのかもしれません…貴方に…出会う為に……」
 春風に吹かれながら微笑む時羽を、雪安はこの上なく愛おしいと思った刹那、腕の中に抱いていた。
「…ゆ、雪様…?」
「…好きだ……」
「私も……」
 時羽は目を閉じ、ただ、その背に手を回した。

 風に舞う花弁に誘われるように、二人は歩き出す。道の両端には、花の見頃を迎えた桜が、何処までも続くように立ち並んでいる。 今なら、これから進む先に、穏やかな幸せがあると、心から信じて行ける。そして、それは揺るぎなく続いていく。たとえ苦難が降りかかろうとも、きっと乗り越えて行ける。
(貴方となら…)
 時羽は、生まれて初めて感じていた。本当の幸福感を…。
 ふと見上げると、空の彼方に白い翼が見えた。二羽の白鷺が、大きく羽を広げ、ゆったりと羽ばたいている。囚われる事のない、自由な風を感じるように…。
(さよなら…そして、ありがとう…)



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