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第6話 「痛いですか」

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 レティシアが一歩も部屋に入らないまま帰った夕暮れ、また扉が叩かれた。
 エヴリーヌがさすがに少々警戒しながら扉を開くと、セルジュだった。
 ほっとしたが、彼いつもきっちりと結わえられているはずの黒髪が乱れていると気づく。

「聖女レティシアが来たと聞きました」
「耳が早いですね。来ましたよ。相変わらずどうして表では隠せているのかなあっていう勝ち気ぶりでした」
 
 お茶を出す間もなく、セルジュの視線が頬に注がれる。

「叩かれたのですか」
「大丈夫。痛がるけが人が暴れる手が当たることはよくありますから、慣れてます。さあてセルジュさんこんな時間になったら帰るの大変でしょう。ご飯食べていってください。最近はパンが焼けるようになったから、腹持ちも良いですよ。椅子に座って待っていてくださいね」

 明るく声を張りながら、エヴリーヌは台所へと向かおうとする。けれど、セルジュに手首を取られた。
 彼から触れてくることはない。だから明確に腕を掴まれたことに驚いて止まる。

「痛いですか」
「頬ですか? もう全然……」

 けれどなぞられたのは、掴まれた左手の甲……そこに刻まれた罪人の証しである焼き印だ。
 何度も見る機会はあっただろう。だがセルジュはまるで見えなかったように無視して触れず、それを良いことにエヴリーヌも平然と振る舞っていた。
 それを今更話題にされた。心の柔らかい部分にざらりとヤスリをかけられたような気がした。
 けれどすぐに飲み込んで、エヴリーヌはへらりと笑って見せる。
 
「まあ大したことありませんよ。今はもう動かせますしね。あなただって私が何度も料理をしている所を見てたでしょ。全然平気ですよって! それともそんなに心配ならあなたも手伝ってくださいます?」
 
 おどけを交えつつ腕を取り戻そうとしても、意外にもセルジュの拘束は強固で、ぐっと握り込まれたままだ。ずっと対等のように振る舞っていたが、彼が男性であることを今さら感じさせ、胸が撥ねた。
 エヴリーヌは困惑するしかなかったが、それでもからかいの色は消さなかった。

「わぁ、大胆! セルジュさん私なんかを捕まえてどうしちゃうんですか? はっここには男と女二人きり、なにも起きないわけがなく……! とかしちゃいます? 堅物なセルジュさんがそんなまさか品行方正を返上するようなまねするわけ……」
「嘘、でしょう」

 エヴリーヌの舌が固まった。セルジュの紫がどこかいつもと違う気がした。

「あなたは、いつも、笑っている」

 唐突さは、いつもの彼のはずだった。
 けれど、こちらが話を振らずとも、セルジュは珍しく饒舌に言葉を続けた。

「あなたの扱いは調べれば調べるほど粗雑で不当なものでした。聖女を広告塔にしていた大聖教の実情も目に余るものだった。にもかかわらず、私が知るあなたは、真摯に人を救っていた」
「そりゃあ。仕事だったし、現地ではいい人ばっかりでしたもん。レティは可愛いし広告塔としてめちゃくちゃしんどそうだったので、私はまだましな方かなあと思いますし」
「あなたの痛みはあなたのものです」

 へらりと笑いかけたのに、セルジュの言葉が許さない。

「あなたが、言った、言葉です」

 言った。まさにセルジュが誹謗中傷をされていたときに、襟首をひっつかんで怒鳴りつけた。
 セルジュは寡黙で、生真面目だ。合理を優先し軋轢が多かった。だから彼の意図がわからない人間には、冷血漢のように思われて、ガス抜き代わりの愚痴は日常茶飯事だったのだ。
 その行きすぎた言葉の数々をセルジュは黙って聞き流していたのを、エヴリーヌがやめさせたのだ。
 セルジュのおかげでここまでやってこられている人間たちが、ただ中傷するだけなのが許せなかった。しかも合理を優先するセルジュが彼らを切り捨てない理由が「部下達には養うべき家族がいるから」だったのにも気づかない者達に、セルジュを消費して欲しくなかった。
 エヴリーヌの私怨も少なからず入っていたけれど、自分にとっては些細なことだ。
 セルジュにとっては女に胸ぐらを掴まれて怒鳴りつけられたという屈辱的な記憶だっただろうに、持ち出すとは思わなかった。
 
「あなたは、感情を抑えない。罪人と呼ばれ、焼き印を付けられ、放り出されて、何も感じないわけがない」
 
 端的に、言葉を繋げられる。紫の瞳から逃げられない。
 
「痛いですか」  

 セルジュの低い声が耳朶を打つ。

「痛かったに決まっているじゃない!」

 今度こそエヴリーヌはセルジュの手を振りはらって叫んだ。
 鮮明に覚えている痛みが蘇るような気がして、左手をぎゅと握りしめて堪えた。
 体を無理矢理押さえつけられ、腕を伸ばされた先に押しつけられた焼きごては熱さよりも痛みをもたらした。
 その時の絶望は思い出したくもない。
 お前はもういらないと唾棄されて、今までにこにこと笑いかけてくれた人々から罵られて王都を後にしたのだ。
 仕方がない、しょうがないと何度も言い聞かせても次々に湧き上がるのは理不尽さに対する怒りだ。
 
「苦しくて、怖くて、どうして私だけって思ったわよ! 古戦場を浄化したのも私。ファヴニールの恨みを収めたのも私。戦地で病人やけが人を癒やしたのも私! けど起こした奇跡は、全部大聖教が誰がやったかを決めるのよ!? じゃあここにいる私はなんなの!? みんなのためだって言われ続けて多くの人を助けたのに、私に与えられたのは焼き印だけ! どうして私は助けてくれないの!?」
「……エヴ」

 名を呼ばれて、穢れのように淀んで凝った感情を思いだし、エヴリーヌは引きつった笑みを零した。

「逃げなかったのはね。だから、もういいやって思ったからよ。どこへ行く気力もなかったから、ここにいただけ。だってみんな私のことなんて知らないんだもの」
「私が知っています。聖女エヴリーヌ」

 生真面目で寡黙な美しい顔が、今はとても憎らしい。
 静かな絶望が再び押し寄せてくる。

「あなたが、認めてくれてももう、だめなのよ」

 表面上は平穏でも、今の自分たちの立場には明確な溝がある。
 エヴリーヌは追放された罪人で、彼は国で尊ばれ、尊敬される宮廷魔法使いだ。
 本来なら、ここに来るはずもない人間で、そもそもが自分に対してほとんど興味を持っていなかったはずのセルジュがどうして訪ねてくるのかわからない。
 でも、なぜか、今は会いに来てくれる。
 緩慢に生を手放そうとしていたエヴリーヌが、ここで生きていたのは、彼が訪ねてきたからだ。
 ここにいれば、セルジュに会えるかもしれない。毎日逃げ出そうとして、諦める。
 隣国に逃げれば、もう二度とこの国には戻れない。そうすれば、セルジュには会えなくなる。
 けれど、ここにいても、罪人である自分はセルジュの汚点であり続ける。
 暴き立てて欲しくなかった。彼の前では朗らかで脳天気でちょっと気に障ってもほぐしてやれる人物でいたかった。
 一筋だけ、涙をこぼしたエヴリーヌは、粗末なスカートをつまみ聖女が教え込まれる、会釈をする。
 
「セルジュ・ラ・ソルセルリー。今までの厚意に感謝を申しあげます。ですがあなたは高貴なお方です。罪人である私への面会は控えたほうがよろしいでしょう」

 あえて慇懃な言葉で線を引く。
 セルジュの思惑など知らない。だが、この男は察しは良いし、驚くほど悪意というものを他者に向けない。
 だからきっとこの拒絶を理解して、引き下がってくれるはずだ。
 あとは、この小屋を引き払い、死に場所を見つけに行こう。
 そう心に決めたエヴリーヌの眼前に、紫のローブがあった。
 え、と思った途端、エヴリーヌの体はそのまま包まれる。
 セルジュに抱きしめられたのだ、と気づくまでに優に三拍はかかった。

「嫌です」
「……は」
「嫌だ、と言いました」

 今までで一番よくわからない言葉を告げられた気がした。
 もがこうとした動きすら止めて、エヴリーヌは上を見上げると、このような蛮行をしているとは思えないほど、表情の変わらないセルジュが見下ろしている。
 しかし、その紫の瞳には何か知らないものがある気がした。
 こんな人を知らない。
 動揺のせいで、セルジュの顔が近づいてくるのも避けられなかった。
 唇が合わさり、エヴリーヌは微かに震える。
 彼の唇は意外と柔らかく、熱かった。
 だが、直後に視界で小さな魔法陣が展開したとたん、意識がぼんやりするのを感じる。
 なにか魔法を使われたのだと理解する。

「せる、じゅ」
「申し訳ありません。……責任は取ります」

 一体なんのか。という問いは形にならず、エヴリーヌはセルジュの腕の中で意識を失った。

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