財界貴公子と身代わりシンデレラ

栢野すばる

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1巻

1-1

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   プロローグ 身代わりの花嫁


 昭和五十一年、秋。
 都内でも最も格式ある神宮の一つで、近年まれに見る、盛大な挙式がおこなわれた。
 高砂たかさご席の緋毛氈ひもうせんの上にちょこんと座っている花嫁の名は、樺木かばきゆり子。
 二十二歳で、春に大学を卒業したばかりだ。
 かたわらにす新郎の名前は『斎川孝夫さいかわたかお』という。
 日本人ならば、誰もが名前を知っている『斎川グループ』のオーナー一族の御曹司おんぞうしだ。
 小柄こがらなゆり子は、そっとかたわらの孝夫を見上げた。
 孝夫は、どの角度から見ても完璧に整った顔立ちをしている。
 優雅で気品にあふれた美貌の主だ。
 普段から物静かな彼は、和の婚礼衣装を身にまとっていると、二十四歳とは思えないほど、大人びて威厳に満ちて見える。
 百五十二センチのゆり子よりも頭一つ以上背が高い。
 容姿、立ち振る舞い、引き締まった表情、身にまとりんとした威厳……なにもかもが完璧だ。座り姿勢もまったく崩れることなく、堂々としていて力強い。
 水もしたたるいい男とは、孝夫のような男性を言うのだろう。

「どうしました?」

 視線に気付いたのか、孝夫がかすかにこちらを向いて、低い声で問う。

「疲れたら言ってください。帯も打ち掛けも髪も、全部重いでしょう?」
「はい、ありがとうございます」

 ゆり子はちらりとおのれ装束しょうぞくに視線を走らせた。
 身にまとっているのは、お色直しで羽織はおった、金糸のきらめく素晴らしい打ち掛けである。
 京都きょうとの人間国宝の作品で、ただお金を積めば手に入るものではなく、縁のある名家に仲介を頼み、特別にあつらえてもらった逸品と聞いた。
 だが、なにより来賓らいひんの目を惹いているのは、髪を飾る絢爛けんらんな花々だ。
 先ほど、四度目……最後のお色直しをした。
 文金高島田ぶんきんたかしまだに結っていた髪をほどかれ、西洋風の結い髪に直されたのだ。
 驚くゆり子に、美容師の女性は言った。

『最後のお色直しは、新しい時代を築く夫婦の姿にふさわしく……と奥様がおっしゃいまして。素敵でしょう? 日本髪でなくても、これほどにお美しく整うのですよ』

 鏡で仕上がりを見たゆり子は、思わずため息を漏らした。
 ――こんな花嫁姿、見たことがない……なんて綺麗なの……
 生花のブーケと、ダイヤモンドのかんざしで飾られた結い髪は、燃え立つような華やぎにあふれていて、まさに新しい時代の象徴のように見える。
 来賓らいひんの人々は、最後のお色直しを終えて現れたゆり子の花嫁姿にどよめいていた。
 こうして大人しくたたずんでいるだけでも、人々の視線を絶え間なく感じる。
 ――よそおいは素晴らしいわ。問題は、花嫁衣装の中身である私……
 ゆり子は旧華族、樺木家のお嬢様。
 いわゆる『没落した名家の娘』である。
 樺木家の当主はゆり子の伯母だ。ゆり子の母の姉が、婿を取り家を継いだ。
 伯母と母は二人姉妹だった。
 だが、母は若くして樺木家を捨て、英語の個人教師だった父と駆け落ちしたらしい。その後、父母は交通事故で亡くなり、残されたゆり子は伯母夫婦に、『養女』として迎えられた。
 ゆり子が三歳のときだった。
 ――私は、実際には樺木家のお嬢様ではなく、居候いそうろう……そして家が没落した今は家政婦だわ。
 そう、本来ならば、この花嫁衣装をまとっているのは、樺木家の『本物の』お嬢様だった。
 ゆり子は身代わりの花嫁なのだ。
 樺木家には、小世さよという美貌の一人娘がいた。
 小世に縁談が舞い込んだのは、二年ほど前のこと。
 樺木家が斎川家に、政略結婚を打診したことが切っ掛けだった。
 元華族の樺木家は、都心の一等地に『千本町せんぼんちょう』という広大な土地を所有している。
 のんびりした下町で、今でも旧樺木侯爵家の邸宅が残っている場所だ。
 周囲は大都会なのに、千本町だけが別世界のようにレトロで、いまだに戦前の暮らしが残っているとされている。当然、日本の名だたる大企業は、千本町の土地を強く欲していた。
 買収をオファーしてきたたくさんの企業の中で、一番の資本力を誇っていたのが、斎川グループだった。
 伯父は小世を嫁がせることを条件に、千本町の売却を承知すると、斎川家に伝えた。
 もちろん斎川グループからすれば、落ちぶれた華族の娘と、自慢の嫡男ちゃくなんとの縁談などお断りだったはず。できれば呑みたくない条件だったろう。
 しかし斎川家は、小世の美貌と教養を評価し『こんなに素晴らしいお嬢様を、息子の嫁にお迎えできるなら』と、樺木家の申し出を呑んでくれたのだ。
 小世が病気にならなかったら、きっと様々なことがうまく行っていただろう。
 樺木家は小世の結婚を切っ掛けに立ち直って、斎川家の縁戚えんせきとして、まともにやり直せていたかもしれない。
 小世は、素晴らしい夫を得て、幸せな新妻として暮らし始めていたかもしれない……
 そこまで考え、ゆり子はゆっくりとまばたきをした。
 ――全部、仮定。そんなのは夢。だって、小世ちゃんはもういない。
 一生分の涙はしぼり尽くしたと思っていたのに、また涙が一粒だけ零れた。
 かたわらの美しい花婿の姿をちらりと見上げ、ゆり子はそっと目をそらす。
 孝夫は、小世の誠実な婚約者だった。
 余命幾ばくもない小世との婚約解消を周囲に勧められても『人としてできない』とがんとしてはねつけ、小世の入院費を支援し、小世と、彼女を看病するゆり子を励まし続けてくれた。

『体調が落ち着いたら、小世さんの負担にならないように工夫して式を挙げましょう。大丈夫。車椅子に乗ったままでいいですよ、俺が押しますから』

 迷惑を掛けてごめんなさいと泣いて謝る小世に、あんな優しい言葉を掛けてくれる男性が、他にいるだろうか。
 孝夫が誠実に小世を支え続けてくれて、本当にありがたくて嬉しかったのに……
 ――ごめんなさい……孝夫さん……
 最後のお別れのとき、小世は、孝夫ではなく、別の男の写真を胸に抱いて旅立った。
 小世に写真を持たせたのはゆり子だ。
 孝夫への裏切りだとわかっていながら、小世の胸に、小世が恋した人の写真をしっかりと抱かせた。
 あの悲しい別れから半年。
 運命の歯車は大きく空回りして、孝夫の花嫁になったのは……ゆり子だった。
 小世がこの世を去り、空中分解しかけた千本町の買収話をまとめるために、斎川家が仕方なく受け入れてくれた『身代わり』の縁談だ。
 ――歓迎なんて、誰からもされていない。でも、この結婚は自分の意志で決めたのよ。
 誰にも悟られないよう、ゆり子はそっと唇を噛んだ。

「なにか心配事でもありますか?」

 ゆり子の頭上から、不意に静かなささやきが降ってきた。
 驚いて顔を上げると、孝夫が真剣な眼差しでゆり子を見ている。
 心配を掛けまいと、ゆり子は慌てて頭を振った。
 ゆり子のうるんだ目に気付いたのか、孝夫は、形の良い唇をかすかに吊り上げ、優しい声で言った。

「大丈夫、俺がゆり子さんを守ります」

 澄み切った秋晴れの空から、まぶしい光が差し、孝夫の美しい顔を照らした。
 肌のなめらかさが一層際立ち、ゆり子は目を奪われる。

「孝夫さん……」

 ゆり子の胸が、罪悪感と感謝と、不思議な温かさでいっぱいになる。
 孝夫は、ゆり子がいた嘘のすべてを知りながら、助けの手を差し伸べてくれたのだ。
 ゆり子はぎこちなく、口の端を吊り上げる。彼を困らせてはいけない。ちゃんと花嫁らしく笑っていなければ。
 孝夫がふと、社交的な笑みを浮かべて、ゆり子に言った。

「ああ、首相の奥様がこちらにいらっしゃるようです。奥様は着物がとてもお好きですから、ゆり子さんの打ち掛けを間近でご覧になりたいのだと思いますよ」

 離れた席から歩み寄ってくる夫人の目は、きらきらと輝いている。少し離れた場所に立ち止まり、ためつすがめつ、あでやかな打掛の柄を楽しんでいるようだ。夫人は最後に、ゆり子の斬新で気品あふれる結い髪に視線を移して、ほう……と満足げなため息を吐きながら、席に戻っていった。
 ゆり子は頷き、孝夫に小声で尋ねた。

「首相ご夫妻の左隣の席は、出水いでみず製鉄の会長子息ご夫妻ですよね? そのさらに左隣はポーランドの元副大使ご夫妻。今は外資系の製薬会社の重役をなさっていて……合っていますか?」

 孝夫が形の良い目をみはり、口元をほころばせる。

「本当に、半月足らずで今日の来賓らいひん五百人を、全員覚えてしまったんですか?」
「はい。暗記は得意なので……」
「さすがです、噂通りの才女だ」

 大袈裟おおげさな褒め言葉に、ゆり子は頬を染めて、小声で孝夫に反論した。

「わ、私は、学生時代『ガリ勉チビ』とか『メモガッパ』とひどいあだ名を付けられていて、さ、さ、才女なんかではありませんでした。ご存じでしょう、私の身上調査をなさったんですから」

 孝夫は首を横に振り、ゆり子に微笑みかけながら、励ましの言葉をくれた。

「自信を持って。貴女は小世さんの自慢の『妹』でしょう? 胸を張ってください。貴女は誰よりも綺麗です。花婿の俺が保証します」

 力強い声に励まされ、ゆり子は勇気を振り絞って頷く。
 ――そうだ。私は今日、最高の花嫁を演じるんだ……。弱気になっては駄目。
 そう思い、ゆり子は精一杯の微笑みを浮かべた。

「はい、孝夫さん」



   第一章 私の大切な人


 昭和五十一年、二月。
 病室の壁に掛けたカレンダーが、今日が節分だと示している。
 大学四年生の樺木ゆり子は、二十一歳の冬を迎えていた。
 ――発病から、三百七十二日めか。緩和治療に変わって七十七日目。小世ちゃんは頑張っている。
 頭の中で計算し、ゆり子は唇を噛んだ。
 ひな祭り生まれのゆり子は、あと一月ひとつきで誕生日だ。
 もうすぐ大学も卒業する。卒論は完成させ、単位も取り終えて、必須授業を消化しながら卒業を待つ立場だ。お陰で、小世の看護に時間を割くことができる。
 ゆり子はあごのあたりで揃えた真っ直ぐな髪を耳に掛け、メモ帳をポケットから出した。
 ――そうだ、忘れないうちに控えておこうっと……
 小世の今日の様子、薬の量に変更があったかどうか。メモ魔のゆり子はひたすら書き込み続けている。
 看護師がカルテに記載している内容だけれど、ゆり子自身も覚えておきたい。
 彼女の具合にまつわるデータをいつでも確認できるように。
 あとで不安になったとき、少しでも、安心の材料を見つけられるように……
 ――こんなにメモばかりしてるから、大学で『メモガッパ』なんて呼ばれたんだろうな。
 メモを終えたゆり子は、横たわる小世の様子をうかがった。
 幼い頃からゆり子の姉代わりだった小世は、二十三歳の頃から、もう一年入院していた。
 回復のきざしは見られない。
 衰弱すいじゃくはひどくなる一方だ。今はもう鼻から吸入する酸素を手放せない。
 痩せ細った薬指には、婚約者から贈られた、美しいルビーの指輪が輝いている。椿の花のように鮮やかな赤だった。

「小世さん、次にお見舞いに来るとき、なにか持ってきましょうか」

 ベッドの脇に置かれた椅子に腰掛けた、スーツ姿の男が言った。
 背もたれのないパイプ椅子に腰を下ろし、前屈みになった姿が、絵に描いたように美しい。
 こんなに容姿のいい男をゆり子は他に知らない。
 男の言葉に、小世が思い出したように微笑んだ。

「そういえば、この前また幸太こうた君がお見舞いに来てくれたの。プリンをもらったわ。久しぶりに食べました。全部は食べられなかったけれど、美味しかったなぁ……」

 小世の言葉に、男が端整な顔をほころばせる。

「俺の弟にしては気が利いていますね。では、冷菓子なら召し上がれそうですか?」
「ええ……そうね、ゼリーとか……久しぶりに……」

 孝夫を見上げ、小世はそう答えた。
 ――小世ちゃんがなにか食べたいって言うの久しぶり!
 希望が見えた気がして、ゆり子は今の小世の発言をメモに書き付けた。
 ――小世ちゃんが、ゼリーが欲しいと言った。二月三日 十八時四十五分。
 書き終えたゆり子の前で、男が立ち上がった。

「わかりました。明後日またお見舞いに来ます、そのときにゼリーをお持ちしますね」

 告げた顔は、誠実そのものの笑顔だった。小世が彼を見送るために、身体を起こそうともがく。ゆり子は慌ててメモ帳をしまって小世に駆け寄り、痩せ細った身体を抱え起こした。

「ありがとう……ゆりちゃん……」

 小世を支えながら、ゆり子はかたわらの男を見上げる。
 改めて間近で見ると、息を呑むような美貌の持ち主だ。
 さらさらの黒い髪に、冷ややかに整っているのに、不思議な甘さを感じさせる端整な顔立ち。
 ――本当に、小世ちゃんにお似合いの、貴公子様だわ……
 彼の名前は、斎川孝夫。
 名門、斎川家の長男で、小世と同じ、二十四歳だ。
 二年前にイギリス留学から戻り、斎川グループの関連企業で勤め始めたと聞くが、若手社員とは思えないほど落ち着き払っている。
 孝夫は、周囲からそれとなく婚約解消を勧められても『闘病中の小世さんを失望させるような真似まねは、絶対にしない』と言い切ってくれた。
 口先だけではない。自分で言ったとおり、週に一度は十七時半の定時に会社を上がり、勤め先から二駅先のこの病院に、小世を見舞いに来てくれる。
 どうやら、とても朝早く会社に行き、定時に上がれるよう仕事をこなしているらしい。
 お見舞いを終えたあと、また会社に戻って仕事をしているようだ。
 孝夫は斎川家の御曹司おんぞうしという立場でありながら、小世のために貴重な時間を割き、常に気を配ってくれる。それだけ小世を大切にしてくれている証拠だろう。
 ゆり子は、孝夫に対して、感謝してもし切れない気持ちを抱いていた。

「斎川のおじさまとおばさまにも、ご心配をおかけしますとお伝えくださいませ。あと幸太君にも」

 ゆり子に支えられた小世が、か細い声で孝夫に言った。

「気を遣わないでください、うちの皆は、小世さんが元気になることを心から願っていますから」

 孝夫は、形の良い口元に、礼儀正しい笑みを浮かべた。

「では、次にお邪魔するとき、道灌堂どうかんどうパーラーのゼリーをお持ちしますね」

 孝夫が優雅な仕草で小世の手を取り、手の甲に口づける。
 ここが病室であることさえ忘れさせる、映画のワンシーンのような光景だった。
 イギリス留学を経験している上、幼少時には両親と海外を転々としていた孝夫は、時々外国の貴族のような振る舞いをする。
 手の甲に接吻せっぷんを受けた小世が、微笑んでゆり子を見上げた。

「ねえゆりちゃん、孝夫さんを、お見送りして……」

 ゆり子はそっと小世の痩せた身体を支え横たえさせて、孝夫に深々と頭を下げた。

「お忙しい中、小世ちゃんのお見舞いに来てくださって、ありがとうございました」
「気になさらないでください。俺も小世さんの変わりない様子を見に来られて安心しました」

 優雅で気遣いにあふれた口調だった。そう言ってもらえてほっとする。
 ――斎川さんがいてくださらなかったら、私一人では、小世ちゃんを支えきれなかった……
 ゆり子は伏し目がちに、心の中で思った。
 主治医や看護師、ヘルパーは、一丸となって小世を支えてくれる。
 でも、ゆり子を支えてくれるのは、赤の他人に等しい孝夫だけなのだ。
 ――私のお父さんとお母さんは天国で、まともな親戚も、知り合いの大人もいない……頼れる人がいなくて、本当に辛かった。斎川さんのお陰で、私は、とても救われたわ。
 連れ立って歩き出すと、孝夫が静かに病室の扉を閉め、小さな声でゆり子に尋ねてきた。

「あの……小世さんのご両親は、今日もお見えではないのですか?」
「……あ、あの、はい」

 ゆり子は三十センチ近く背の高い孝夫を見上げ、ぎこちなく返事した。
 伯父は壊れてしまった。元から気の強い伯母に振り回されている人だったが、樺木造船の倒産と、娘の余命宣告が立て続き、心身共に弱り切ってしまったのだ。
『夫』というストッパーが弱まったとき、伯母は誰よりも自分勝手な行動に出た。
 樺木家が先祖伝来持っていた芸術品や、軽井沢の別荘や様々な特許を売り払ったのだ。そして自分の『お小遣い』にするためにそのお金は懐に入れてしまった。
 小世の治療費にするのだと思っていた伯父とゆり子は驚愕きょうがくした。
 当時の樺木家は、経営する会社からの収入もなくなり、『千本町』にある小さな商店街からの家賃収入で暮らしていた。
 だが自宅と、大都会の真ん中にぽつんと残った下町『千本町』の分を合わせると、固定資産税は半端ではない額になる。
 とくに土地評価額に見合わない千本町からの家賃収入のせいで、生活は苦しかった。
 だが、伯母は家計に興味などなかったらしい。
 伯母は驚くほど高価な宝石や着物を山のように買って着飾り『最近気詰まりなことが多いから、気晴らしがしたい』と家に寄りつかなくなった。
 財産をほぼ売り払い、千本町からの収入でやりくりしているのに、伯母の遊興ゆうきょうまなかった。小世を見舞うこともなく、これまで付き合っていた上流の奥様達ではなく、怪しげな男達を侍らせて宴会だの旅行だのに勝手に出掛けるようになってしまったのだ。
 伯父と違い、伯母は娘の心配など一切しなかった。
 どんどんあらわになる伯母の身勝手さを、誰も止めることはできなかった。
 伯母と昼日中から、人目もはばからずいちゃいちゃと振る舞っている男達は……ゆり子の目にはまともな筋の者とも思えなかった。
 確かに伯母は、四十なかばを過ぎても、女優のように美しい。
 毒々しい深紅の薔薇のような美女だ。
 男達にとっては伯母は金づるであり、玩具おもちゃであり、上流階級への伝手つてとして使える道具に過ぎないのだろう。
 大人しい入り婿の伯父には、立て続いた不幸にあらがう気力はないようだった。
 妻の身勝手さにいきどおる元気もなく、妻の借金を返せと迫る人々に頭を下げては、なんとか小世の治療費を工面していた。家に戻ってこられないのも、お金をかき集めるためだ。
 一方、伯父に迷惑を掛け続けている伯母は、勝手に売り払った財産でかなりの金額を手にしていたはずが、最近どうもそのお金すら使い果たしたらしい。
 今では、勝手にゆり子の財布からお金を抜き、伯父がなんとか工面した小世の治療費までくすねていく有様だ。
 ゆり子は惨憺さんたんたる樺木家の内情を呑み込み、小さな声で答えた。

「樺木は今……夫婦共に仕事で……」
「そうですか。会社の清算の件も、大変でしょうからね」

 明らかに嘘とばれているだろうに、孝夫は話を合わせてくれた。きっと、ゆり子と小世に恥をかかせまいとしてくれたのだろう。

「ご両親が忙しくて、小世さんはなにか困っていませんか?」

 ゆり子の脳裏に、病室まで押しかけてきた借金取りのことが思い出された。
 ほとんど身体も動かせず、酸素吸入に頼ってやっと息をしている小世のそばに陣取り、ネチネチと小一時間『母親を隠したのではないか』と詰問してきたあの男。
 ナースコールなんて押しやがったら、この女の酸素吸入器をうっかり脚で引っかけて壊してやる、とおどされて、すさまじい怒りを覚えたことを生々しく思い出す。
 小世は気丈ににらみ返していたが、真っ青だった。衰弱すいじゃくしきった小世にあんなに怖い思いをさせてしまって、可哀相で……
 たまたま、主治医の田中たなかが顔を出してくれなかったら、どうなっていただろう。

『なにを勝手に器具に触っている! 誰だ、貴方は!』

 部屋に入ってきた田中は異様な雰囲気に気付いたのか声を荒らげた。
 小世の酸素チューブに脚を引っかけ、ニヤニヤしていた男は、医師の登場に慌て『彼女の父親に迷惑を掛けられているのだ』と言い訳した。これには脚が絡まっただけだ、何秒か外れるくらい、たいしたことじゃないだろう、と……
 だが、田中は、愚にもつかない言い訳には、耳を貸そうとしなかった。

『彼女は病気と闘っているんだぞ、あんたの相手をしている余裕なんかない。今すぐ出て行け!』

 小世の主治医の田中は、すさまじい怒声と共に一喝し、あのくずみたいな男を追い払ってくれた。
 ――のんびりした優しい先生が、あんな怖い声で怒ってくださるなんて……
 だが、田中が本気で怒ったことが伝わったのか、債権者はもう顔を出さなくなった。伯母さえまともならば、小世にあんな思いはさせずにすんだのに。
 かすかにゆがんだゆり子の表情を気遣ってか、孝夫が優しい声で励ましてくれた。

「小世さんは、貴女への感謝ばかり口にしていますよ。ゆりちゃんは私の本当の妹だって」
「はい、私にとっても……お姉ちゃんです……一生、ずっと……」

 自分が小世を守らなければ。唇を噛むゆり子に、孝夫が尋ねた。

「どうしました? なにか心配事が?」
「い、いえ、大丈夫です」

 静かな廊下を歩きながら、ゆり子は小声で答えた。

「そういえば田中先生は、他の偉い先生と違って、小世さんをこまめに気に掛けてくださるようですね。患者さん想いの主治医で良かった」

 ゆり子は、孝夫の言葉に深々と頷く。

「はい、本当に親身になってくださるので、安心して小世ちゃんをたくせます」

 その言葉に孝夫が微笑んだ。

「ゆり子さんも家に帰ったらゆっくり休んでくださいね、そういえば、大学のほうはどうですか?」
「もう、卒業前なのでほとんど授業もなくて……」

 曖昧あいまいに答え、ゆり子は心の中で思った。
 ゆっくり休む時間なんてない。
 家に帰ったら、樺木家の家政婦としての仕事が山積みだ、と。
 家政婦を雇えなくなってから、ゆり子は伯母から山のような家事を押し付けられている。気の弱い伯父はなにも言えずオロオロしていただけだった。
 あの家で必死にかばってくれたのは、小世だけだ。その小世も、伯父の目を盗んだ伯母によく平手打ちされていた。厄介やっかいもの居候いそうろうかばう、頭のおかしい娘はいらないと……
 ――伯母様は、自分より若い女も綺麗な女も大嫌い。両方満たしていて『美人で聡明そうめい』と評判の小世ちゃんのことは、自分の娘なのにとてもとても憎いのよ……なんて人なの。
 小世が入院してからは、伯母の態度は悪化する一方だ。
 伯父が金策のために不在がちになり、母親をいさめようとする小世もいない。
 ストッパーがなくなった伯母は『居候いそうろう厄介やっかいもの』を公然といたぶるようになった。
 だが、ゆり子は伯母に逆らわない。無駄な力を使わないためだ。
 命じられたとおり朝四時に起き、最低限の力で家事と掃除をこなし、大学に行く。残りの力は、なにより大事な小世の看病に注ぐことにした。
 ――今日も心を無にして家事を終えよう。
 そこまで思ったとき、病棟の出入り口の扉が見えた。
 孝夫が足を止め優雅にゆり子に会釈する。

「見送って頂いてありがとうございました、ゆり子さん」
「斎川さんこそ、今日も本当にありがとうございました。お見舞い、小世ちゃんも喜んでます」

 ゆり子の言葉に孝夫は微笑んだ。

「……そうだといいな」

 孝夫は、結婚の予定をなにも変えないでいてくれる。小世に対しても『なにも気にしないで、無理なら何度でも式の日程は調整するから、貴女はゆっくり身体を休めて』と約束してくれた。
 ――小世ちゃんがせめて車椅子にずっと乗っていられるくらい回復したらいいのだけど……
 表情をくもらせたゆり子の視界に、分厚い封筒が映る。孝夫が差し出したものだ。

「いつもの分です。預かってもらえますか」

 身体を強ばらせたゆり子は、ぎこちなく腕を伸ばしてそれを受け取り、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます……」

 孝夫が困窮した状況に気付いてくれたのは、数ヶ月前のことだ。
 彼が『良かったらこれを』と、封筒に入れたお金をくれたとき、安堵あんどで腰が抜けそうになった。
 ――神様みたいな人って、本当にいるんだな……なにもかも完璧で、優しくて……
 先月も、先々月も、ゆり子は孝夫にたくさんお金をもらった。
 今では小世の治療費と、入院費、その他、小世にまつわる諸々の費用はほぼ、孝夫がゆり子に渡してくれるお金から払っている。このお金は絶対に伯母に見つかるわけにはいかない。

「足りなかったらすぐに連絡をください」

 孝夫の声音はとても優しい。恩着せがましいところなどまるでない。
 孝夫がくれた『お見舞い』を手に、ゆり子は深く頭を下げた。

「本当に、申し訳ありません。お医者様への付け届けも、これで……払えます……」

 震え声のゆり子に、孝夫が優しく言う。

「回診のたびに教授への付け届けがいる、なんて、本当によくない習慣だと思いますけれどね……少しでも小世さんを気に掛けてもらうためですから、今は目を瞑りましょう」

 そう言って孝夫が長身を屈め、ゆり子の耳にささやいた。

「ゆり子さんも一人で悩みを抱え込まないようにしてくださいね。俺や田中先生になんでも相談して。俺も、できることはなんでもしますから」


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