どうやら貴方の隣は私の場所でなくなってしまったようなので、夜逃げします

皇 翼

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目を覚ました時、私は柔らかな布団に包まれていた。
木造の天井。温かな炉の火の音。ほのかに漂うハーブの清潔な香り。

「あら、目を覚ましたのね」

優し気な声の方に顔を向けると、そこには穏やかな表情を浮かべたおばあさんがいた。奥にはしかめっ面のおじいさんがいた。

「ここは……?貴女は?私は――森で倒れて……」

走りすぎたせいだろう、声を出すだけでも肺が苦しい。そのせいで掠れた声で問いかけると、おばあさんは優しく微笑んだ。

「私はマルグリット、向こうの怖い顔のがエルマンよ。そしてここはローデン村。あなた、森の中で倒れていたの。女の子があんなところで寝てちゃダメよ。危険じゃないの。エルマンが偶然貴女を見つけたからよかったものの――」

そう言って差し出されたカップから、温かな湯気が立ち上っている。警戒心が抜けないまま、それでも喉の渇きに耐えられず、私はゆっくりとそれを口に含んだ。

蜂蜜だ。蜂蜜が溶けた暖かいお湯だった。優しい甘みが広がり、乾いた喉が潤う。喉から肺にかけての痛みが和らぐような気がした。

「あの……助けてくれて、ありがとうございます」
「お礼なんていいのよ。人間、困ったときはお互い様よ。……なんだか事情もありそうだし、ね」
「…………私の素性は明かせませんが、助けてくれたことには何かお礼をします。あ、この宝石。ドレスから全て外すので、お金に――」
「良いのよ!貴女が目を覚ましてくれたから!!」

流石に助けられて何のお礼もせずにここからこのまま出ていくというわけにはいかない。だからこそ、少しでも高いものをと身に着けていたものに手をかけた。次期王妃ということで無駄にキラキラとした高い宝石がつけられたこのドレス。カイデンが誇らしげに私に持ってきた覚えがある。もう必要がないものだが。
しかし受け取りを拒否されてしまった。
そこで悟る。彼女達は私のボロボロになってはいるが明らかに高そうなドレスを見て助けたのではない。本当に私の身を案じてくれている。周囲の目の色や感情を細かに読み取らなければならない、他人の醜悪な感情に触れ続けてきたからこそ分かった。本当に全て善意で助けてくれている。久しぶりに純粋な優しさに触れた。

「そんなことより、あなた、帰る場所はあるの?」

突然放たれたその言葉に、私は言葉を失った。

帰る場所……そんなもの、もうどこにもない。
王都には戻れない。実家にも戻れない。カイデンの婚約者でいることはもう無理だ。だけど、それを理由に逃げ出した私を、侯爵家が受け入れるはずもない。それに戻るつもりもないのだ。

「……ない、です」

静かな声でそう呟くと、老婦人は少しだけ目を細めた。そして、そばにいた老紳士――おそらく彼女の夫だろう――が、静かに口を開く。

「ならば、しばらくここで休んでいくといい。村は狭いが、人々は温かい。お前のような若い娘がひとりでさまようのは危険すぎる」
「でも……」
「気にしなくていい。旅の途中で倒れた人間、そしてそれが困っている人間ならなおさら、助けるのは当たり前のことだ」

その言葉に、私は思わず唇を噛んだ。
こんなにもあたたかい言葉をかけられるのは、どれくらいぶりだろう。
王宮では、人の優しさすら駆け引きの道具だった。貴族の世界では、笑顔の裏にいつも計算が潜んでいた。けれど、この老夫婦は違う。そこに損得勘定はなく、ただ純粋に私を助けようとしてくれている。

ふいに、目の奥が熱くなった。

「……お世話になります」

そう言うと、老婦人は嬉しそうに微笑んだ。
こうして私は、ローデン村での新しい生活を始めることになった。
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