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一、イッスル ス オプタ(有り得ない)

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 徳恵をとくえと読むか、或るいはトッケェと読むか、それは読む
者がどうとでも好きに読めばいい。

 そんなことはどうだっていい。

 大事なのは武志(たけゆき)が徳恵を愛していたと言うこと。
 そして武志が日本人に、徳恵が朝鮮人に生まれて来さえしていな
ければ、二人は出会うことも、また引き裂かれることもなかったと
言うことだ。

 だからこそ自分は、何としても此処に来る必要があったのである。
 東京を、病棟を離れ、医師としてでは無く、武志同様韓国人女性
を愛してしまった、一人の日本人の男として。

 韓国に生まれた恵美(ヘミ)と、日本に生まれた自身。
 出会い、恋し、そして恵美との別離が受け入れられなくなった。
 諦めようとしても、諦め切れなかった恵美への思い。
 その思いに報いる為に、どうしても、何としても、この場所に辿
り着かなければならなかった・・・・・そう、求婚の前にこそ。

 ゴールデンウィークを直前に控えた今、来週からは此処鰐浦(わ
にうら)を埋め尽くすであろう観光客の姿も、自身を含めまだほん
の数えるほどだ。
 それに引き換え山々を純白に染め抜く数多の一つ葉田子(ヒトツ
バタゴ)は、今を盛りと咲き誇っている。
 海面をも純白に染め抜くこの一つ葉田子の別名は、「海照らし」。
 今から百年近く前の在りし日の鰐浦も、今と同じように一つ葉田
子の白に照らされていたことだろう。

 西暦一九十八年・大正七年、黒田家から旧対馬藩主宗伯爵家に養
子として入ることが決まり、対馬に渡って厳原(いづはら)尋常高
等小学校に通うことになった宗武志(そうたけゆき)。
 彼は大正十四年の三月に対馬中学を卒業して、四月に東京の学習
院高等科に入学する迄の七年間、小・中学校生活を通して毎年春に
なると、この穢れを知らぬ一つ葉田子の白を見ていた筈だ。
             ‐1‐





 
  ガイドブックにも書いてあったが、この韓国展望台の立つ小高い
丘からは、一つ葉田子の景観の他にも韓国の山並みが臨める。
 ちょうど今日は快晴で、くっきりとそれ等を臨むことが出来る。
 展望台こそ戦後に出来たものらしいが、此処からは戦前も海の向
こうの朝鮮の山並みが臨めたと言う。
 小・中学生の頃の武志は、この景観を見て何を思ったであろうか。
 まさかその海の向こうの王室から自身の花嫁を迎えることになろ
うなどと、少年期の彼には想像することさえ出来無かった筈だ。

 花嫁の名は徳恵翁主(とくけいおうしゅ/トッケェオンジュ【翁
主とは朝鮮王朝で後宮の生んだ王女の呼称】)。             
 朝鮮王朝最後の皇女であった。

 昭和六年五月、ちょうど一つ葉田子の花の咲く頃、徳恵を娶った
二十三歳の武志。
 そんな彼の事を韓国の小説や映画で、或いはネットの中の反日家
の書き込みには、思い遣りの無い冷血漢の如く描かれていた。

 当時のことは自分にも良く分からないが、唯、これだけは言える。
 彼は徳恵のことを愛していた、と
 徳恵が朝鮮の皇女であろうがあるまいが、そんなことに関係無く。
 彼は一人の男として、一人の女を愛しただけなのだ。

 私には分かる・・・・・武志と同様に韓国人女性を愛した一人の
日本人の男として、否、愛した女がたまたま韓国人女性だった、一
人の日本人の男として、彼の思いが。

 しかしそうしたごく普通の愛が、時代に、戦争に、踏み躙られた。
 それは彼の書いた詩を読んだ直後の自身の直感。
 と、でも言うべきか。
 それとも韓国人女性を愛してしまったが故に、ナショナリズムの
奔流に押し流されてしまいそうになった男の直感。
 と、でも言うべきか。

         
  島も痩せたが 友も痩せた

  魚形を削りながら だまって潮を見る

  だが俺には夢がある
             ‐2‐







  言いさして友は笑う

  深夜 世界図を開く コンパスを取る

  島を軸にぐるっと廻す

               宗武志 新対馬島詩「序」
          

 ここで武志の言う夢とは、きっとこうだ。


 戦争のせいで対馬の友も痩せたが、朝鮮の友も痩せた。

 魚形を削りながら、黙って海の向こうの朝鮮を見る。

 だが俺には・・・・・、
 
 再びこの世に生を受けたなら、
 その時は朝鮮人でも、日本人でも無く、
 いっそ対馬を住処にする番(つがい)の魚でも良いから、徳恵と
もう一度結ばれることは出来ないのだろうか・・・・・。

 と、言う夢がある。

 言いさして朝鮮の友は笑う。

 そんな夢叶う筈なんかないさ、と。

 深夜世界図を開き、コンパスを取って島を軸にぐるっと廻す。

 対馬も、日本も、そして朝鮮も無く、ひとつの円の中に仲良く暮
らすことが出きる筈だ・・・・・いつかきっと、必ず。


 武志はそのような自身の夢を、詩の中に籠めたのではないか。

 私の勝手な解釈かも知れない。
 しかし詩を書くこと以外徳恵について全く口外しない寡黙な武志
             ‐3‐








の思いは、詩を読んだ各人で想像するしかないではないか。

 もし徳恵について何か語れば、彼女の先天性精神疾患のことや、
知的障害のことについて触れざるを得なくなる。
 彼女を愛していた武志は、それを潔しとしなかったのだと思う。

 武志の生きた時代は、精神病患者に取って残酷な時代であった。
 憑き物であるとか、狂人であるとかして、精神病をまともな病と
して取り合わなかった時代。
 彼等を座敷牢に閉じ込め、監禁していた時代。
 そんな時代であったにも拘らず武志は文句一つ言わないで、自宅
で寝た切りの徳恵を献身的に支えた。

 やがて敗戦により臣籍降下が断行され、伯爵だった武志が平民に。
 医療保険制度が、今のように整備されていない時代であった。
 収入も心許無い折往時日本で唯一精神科の置かれている、東京郊
外の松沢病院に徳恵を入院させるのである。    
 治療費用は相当なものになった筈だ。
 愛してもいない女に、そこ迄のことをするだろうか?
 また徳恵にしても病を抱える身で子供を生んだのだ。
 少なからず自身の病を知った上でのこと、相当な覚悟だったろう。
 そんな彼女が、愛してもいない男の子供を産んだだろうか?

 しかし韓国の小説や映画の類は、それ等徳恵の病は後天性のもの
で、それ等は総て日本帝國或いは武志のせいであるとして譲らない。

 つまり徳恵が日本に行ったことにその原因がある。と。
 そして徳恵は日本に行ったのでは無く、連行されたのだ。と。
 無理矢理結婚させられた徳恵は、武志に虐め抜かれたのだ。と。

 そもそもそれ等の言い分は、徳恵の精神疾患についてのみ触れて
いるに過ぎず、彼女の知的障害については一切触れていない。
 そうして知的障害のことには触れず、精神疾患のことについての
み触れるのは、正に片手落ちと言わざるを得ないのだ。
 と言うのも、精神疾患と知的障害は密接な関係にあるからである。
 つまり徳恵の精神疾患を語るなら、先ず知的障害について語らな
ければならないのだ。

 所謂知的障害に於ける後天性のものは、胎生期、出世期、乳幼児
期、小児期に於ける脳の器質的損傷の結果生じるものであって、人
             ‐4‐






に虐められたり、政治的要因で生じるものでは決して無いのである。
 また先天性の知的障害は軽度のものが殆どで、病気の結果として
ではなく、通常の成長の中の偏位として表れる知的能力不足のこと
を指す。
 そしてそれとは逆に重度の知的障害の場合は、殆どが後天性のも
のであると言うことが言える。

 これ等の医学的見地から徳恵の精神疾患を診断するとすれば、先
天性の非常に軽度な知的障害に、合併して起こった症状だと言うこ
とになる。
 無論彼女のカルテを見た訳ではないが、幼少期から成人して武志
の妻となり、出産をする迄に残された写真の中の彼女を見る限りで
は、後天性の重篤な知的障害に見られる容態では決して無い。
 因って彼女が抱えていた知的障害は、先天性であったと言う診断
が下せる。

 以上のことから、強いて往時の帝國政府に責任の所在を問うとす
れば、徳恵の幼少期に於ける教育を治療教育とせず、京城(日本統
治下のソウルの呼称)の日の出小学校(在京城の日本人小学校)か
ら、学習院へと留学させたことについて為されるべきだ。
 つまり徳恵に通常教育を受けさせたことについてである。

 何故ならば知的障害者の場合、知能が遅れていたとしても発達は
し続けているのであるから、その子供に合った特別な教育が医学的
治療と共に為されなければならないからである。
 
 私も精神科医の端くれである。
 否、私でなくとも医師免許を持っている医師であれば、その程度
の診断は誰にでも下せる当たり前のものだ。

 しかしである・・・・・往時の医療レベル、殊に精神医療につい
ては惨憺たるものであったことから鑑みれば・・・・・。
 また仮にその時代の精神医療のレベルの低さを考慮にいれなかっ
たとしても、往時皇族に準ずる日本王族であった彼女に、知的障害
を抱えた患者としての特別教育や医学的治療を公に行うことが出来
たのか? と、言う疑問が生じる。

 そしてもう一つ、夫であった武志に強いて責任の所在を問うとす
れば、徳恵に子供(長女の正恵)の出産を許したことについて為さ
れるべきだ。 
             ‐5‐
             




 つまり出産と言う大事業に於けるストレスフルな状況に、精神疾
患を抱えた妊婦である徳恵が耐え得るかどうかも考慮に入れず、敢
えて出産させたと言うことについてである。

 何故ならば出産前診断に於いて、患者が出産や育児に耐えれない
病状であれば、今以上の症状の悪化や適応障害に至る可能性が非常
に高く、医師としては出産を薦めるべきではないからである。
 場合によってはより強い表現で、事実上のドクター・ストップを
掛けることもある。
 やはり徳恵のケースでも、子育てが出来るのか或いは家庭環境が
保てるのかと言う問題は、出産前に検討されて然るべきであった。
 出産と言うものは、そのように患者に取って様々な困難やリスク
を伴う重大事なのだ。

 それに精神疾患を、遺伝的に連続した症患群と捉える現代の医療
認識からすれば、母親が精神疾患を抱える場合、子が何らかの精神
疾患を発症するリスクが高まるのは必至である。

 しかし前述の徳恵に通常教育を受けさせたことと同様、往時の医
療レベル、殊に精神医療については惨憺たるものであったことから
鑑みれば、果たして往時の武志にそんな知識があったかどうか、益
してや精神科医でもない彼がである。
 また仮にそのことを或る程度考慮に入れたとしても、徳恵を愛す
る武志に『子供を産むな』などと、言えたのかどうか。
 益してや徳恵に於いても、出産の取り止めが如何ばかりの心痛を
伴うものであったかは、推して知る可しである。
 加えて史料によれば婚姻してから出産をする迄の徳恵は、病状が
悪化することもなく平穏な日々を過ごしていたと言う様子からも、
往時産科の医師は出産して問題無しと診断を下したのであろう。

 もし往時の医療レベルが現代に匹敵するものであれば、そうした
徳恵の症状が小康状態を保っていた時期は、彼女と武志の結婚生活
が非常に上手くいっていたから症状が表面化することが無かっただ
けで、出産と言うリスクを伴う行為を許してしまえば、それ以降彼
女がどうなるかくらいの判断は見習い医師にでも付いた筈だ。

 そうした往時の医療レベルの低さに相まって、皮肉にも武志と徳
恵が愛し合っていたが為に、悲劇は起こったのである。

 総ては徳恵に出産を許したことに起因する。
              ‐6‐





 無論実の母の死に際し日本王族であった徳恵が、そうでは無い母
の喪に服せなかったと言う悲しい出来事もある。
 十七歳の彼女に取っては、如何ばかりの心痛であったろうと思う。
 しかしそのことと、彼女の知的障害に合併して起こった精神疾患
とを結び付けるのは、医学的見地に立てば全くナンセンスであり、
また著しく精神医学を馬鹿にした発想である。
 
 しかし韓国の小説や映画の類は、武志と徳恵の気持ちや往時の医
療環境などにはお構い無しに、二人を反日の道具として利用する。

 何とも悲しかった。

 確かに当初は、日鮮融和と言う美名の下に為された政略結婚であ
ったかも知れない。
 しかしそれでも、武志と徳恵は愛し合っていたと思う。
 ならば何故純粋な二人の愛を、反日の為に踏み躙るのか?

 或いは嫌韓にしても同じことだ。
 ネットに於いての韓国の小説に対しての、不特定個人の書き込み。

「験し腹制度」を見ても、またアメリカの学者が発表した、「DN
‐Aの塩基配列上朝鮮民族は、長年に亘って近親交配を続けて来た
民族である」と言う論文を見ても、徳恵の知的障害や精神疾患が先
天性であることは明らかだ。と。

 つまり韓国では昔から近親交配を是として来たのであり、無論朝
鮮王族もその限りであるから徳恵もそうであった。と、言っている。
 それ等嫌韓の日本人の言うことも、反日の韓国人の言うことも、
 表面的には逆のことを言っているようで、そうでは無いと思う。
 結局は同じことを言っているのだ・・・・・。

 日本人と韓国人が恋をしてはいけない。
 日本人と韓国人は敵同士であり、結ばれること自体が罪なのだ。
 また日本人と韓国人が結婚することは、互いのナショナリズムに
於いて許されない。と、双方共そう言っているように取れる

 何故日韓共にそうした空疎な争いを続けるのか?
             
 やはりそれは伊藤博文暗殺の罪を、帝國政府が安重根(アン・ジ
ュングン)に擦り付けた時点で、最早始まっていたのかも知れない。
              ‐7‐






 ふと一年前の今日、論文作成時に色々と書き込んだデータのこと
を思い出し、鞄からUSBメモリーを取り出してみた。


二○十九年四月二十日(水)

【安重根による伊藤博文暗殺事件の真相】

 明治四十二年十月二十六日・午前九時二十五分、ハルピン駅のプ
ラットホームに降り立った伊藤博文。
 儀丈の兵を閲兵し、出迎える中村満鉄総裁、川上総領事等を始め、
待ち受ける日本人の許へと歩き出した刹那、銃声は響いた。
 
 随行員等日本人関係者の被弾数は七発で、うち三発が伊藤に命中。
 ロシア憲兵に捕縛される犯人。

「コリア(韓国)・ウラー(バンザイ)、コリア・ウラー」

 吼えたのは安重根であった。
 と、ここ迄が通常の伊藤博文暗殺の史実。
 しかし問題はこの先にあった・・・・・。

 安重根が拳銃を撃ったことは確かであるが、しかし安重根の撃っ
た弾は伊藤に当たっていない・・・・・と、言う説の存在。

 その説を裏付ける、先ず第一番目の理由。

 安重根は大柄なロシア兵の股座に潜り込み、そこから銃先を伊藤
に向けていた。
 ところが伊藤に撃ち込まれた三発の銃弾の射入角は、何れも上半
身の右側から、斜め下に向いている。
 つまり安重根以外の誰かがもっと高い位置から撃った銃弾が、伊
藤にヒットしたと言う推理が成り立つ。
 考えられる可能性で一番高いのは、例えば二階以上の建物などか
ら、狙撃手三人が同時に伊藤を狙ったと言うもの。

 次に第二番目の理由。

 伊藤に命中した銃弾の先端は殺傷能力を高める為十字を刻んでい
たが、そのような銃弾はフランスのカービン銃(騎兵銃)に使用さ
             ‐8‐







れるものであって、安重根の使用したブローニング銃(ベルギーの
FN社製)のものではない。

 そして第三番目の理由。

 安重根は伊藤に三発の銃弾を浴びせ、次いで七連発式銃の残りの
銃弾で、川上総領事、田中満鉄理事、宮内大臣秘書官の森に傷を負
わせ、且つ中村満鉄総裁、随行の室田の衣服をも貫通させている。
 しかし伊藤から約十歩と言う至近距離で、犯行に使用されたブロ
ーニング銃を安重根一人が連射することで、それ等総ての射撃が可
能なのかどうか。

 最後に第四番目の理由。

 証拠品として法廷に提出された、安重根の七連発式ブローニング
銃には未発射弾一発が残っていた。
 つまり発射弾数は六発である。
 しかし被弾数は、伊藤に三発、川上総領事の右腕に一発、随行の
室田の衣服を通り抜け、その流れ弾が宮内大臣秘書官の森の右腕か
ら肩にかけて貫通するのに一発。
 田中満鉄理事の右脚(靴)に一発、中村満鉄総裁の衣服を貫通す
るのに一発。
 結果発射弾数六発に対して被弾数が七発と、発射弾数と被弾数に
矛盾が生じているのである。


 前述の四つの裏付け理由は総て、室田義文(むろたよしあや)の
逝去後公刊された、『室田義文翁譚』に依るものであるが、安重根
の裁判時随員各氏の尋問調査が採用されているのにも拘らず、かく
も詳細な室田の陳述だけが無視されると言う、全く以て不可解な記
録が存在する。
 それと併せて室田の証言の部分だけが、公式書類から抜き取られ
ていたと言う有り得ない偶然。

 そうして最終的に、安重根が犯人と特定されるに及んだ。

 また室田は後に真相究明を求めて抗議するも、真犯人探しが外交
問題に発展するとして、山本権兵衛を始めとする帝國政府の官憲に
反対され、その声は封殺された。
 これ等の事実と裏付け理由から鑑みて、帝國政府が安重根に罪を
              ‐9‐






着せてこの事件の幕引きを図りたかったのではないか? 
 と、言う推論が成り立つ。

 無論それは飽く迄も推論の域を出ないものであって、列記した安
重根の銃弾が伊藤に当たっていないとする四つの裏付け理由も、飽
く迄裏付け理由であって証拠では無い。
 今となっては事実として特定出来るのも、室田の陳述だけが無視
されたことと、また彼の証言の部分だけが公式書類から抜き取られ
たこと、そしてその後の彼の抗議の声が封殺されたことの三点のみ
に限られる。

 つまり今以て真相は藪の中と言うことになる。 

 しかし仮に安重根が真犯人でないとすると、果たして伊藤を暗殺
した真犯人は、或いはもっと言えば黒幕は誰なのか? 
 と、言う疑問が生じるが、それについては諸説色々あるが大きく
分けて二つの解釈がある。

 一つは伊藤を恨んでいたロシア政府関係者が黒幕だと言う説。
 今一つは伊藤を快く思っていなかった、日本人が黒幕だと言う説。

 前者の場合はロシアの特務機関、或いはレーニンに近いグループ
の犯行だとする説で、仮にそうだと言うことを帝国政府側が既に知
っていたとすると、事件の追及の手を緩めることで、水面下に於い
て満州権益の確保など条件闘争を有利に進めたのではないか。
 加えて日韓併合に反対する伊藤が居なくなれば、日韓併合推進派
に取ってそれは正に天啓とも言うべき好機となるのであり、わざわ
ざロシアとの対立を蒸し返す道を選びたく無かった。
 また或いは安重根も加盟する、ロシア特務機関の影響下にあった
「韓民会」勢力を温存しておいたほうが、将来的にロシアの弱体化
に繋がると判断したのではないか。
 と、言う動機の下での、安重根への責任転嫁。

 そして後者の場合は、日韓併合に反対する伊藤を亡き者にしたい
と思っていた併合推進派が黒幕だとする説で、杉山茂丸を始めとす
る往時政界の黒幕的存在であった右翼勢力、或いはレーニンに接近
し日露戦争を勝利に導いた、明石元二郎を始めとする特務機関、若
しくは伊藤のライバルであった山県有朋などの名前が挙がる。
 この場合に於いては、それこそ適当な外国人に罪を擦り付けて、
この事件の幕を引くのが最良。
             ‐10‐





 と、言う動機の下での安重根への責任転嫁。
              
 前者或いは後者の何れが真相であったにせよ、共通項は伊藤の死
に依って日韓併合推進派が得をしたと言うこと、また帝國政府は安
重根に罪を擦り付けることに依って、この事件の幕引きを図ったと
言うことの二点である。

 何れの説が真相か今となっては特定する事は出来ないが、伊藤の
死に依って日韓併合が決定的となったことだけは確かだ。

 伊藤は死に際し犯人が朝鮮人であると聞くと、「そうか、馬鹿な
奴だ」と一言言ったそうであるが、それは朝鮮人の犯人が自らの手
で日韓併合を早めた事について、言及したかったのではなかろうか。

 
 と、その日はノートにそこ迄書いて、筆を置いたのだ。
 そしてそれを机上に置き忘れたことが、私の婚約者朴恵美(パク
へミ)との口論の始まりとなったのである。

 今思えば、何と無神経だったことか・・・・・あれはやはり自身
の、否、日本人の犯し続けている、知らないと言う不実のせいだっ
たのかも知れない・・・・・。

 先に部屋へ戻っていた彼女の口から出た、思いも寄らない激烈な
言葉の数々。
「あなたって所謂極右? それとも嫌韓家?
 徳恵(トッケェ)の精神疾患について研究してる筈よね。
 それなのに、なんで安重根なの。
 安重根と徳恵に、何の関係があるって言うの!」
 
 余りに唐突で、的確な返答に窮してしまった軟な自分。
 中途半端な反駁の言葉が、虚しく宙を舞った。
「勝手に見ないでくれよ、まだ研究の途中なんだ・・・・・」
 私の言葉を聴いて、より一層口元を歪め眉間に皺を寄せる彼女。
「勝手に見たのは悪いと思う。
 けど私に内緒で、こんなこと調べてるなんて酷いじゃない。
 そんなに韓国人が憎い?」

 詰め寄る彼女の瞳に宿っている憎悪の色は、とても将来を誓い合
った男に対してのそれでは無かった。
              ‐11‐





例えば他の女に心を動かされたとか、浮気をしたと言う類の嫉妬
から来る憎悪とは比較しようの無いもの。
 言うならば民族の敵、或いは親の仇、と、でも言ったところか。

 私は事態を収拾しようと笑みを繕いながら、「韓国を馬鹿にする
って、そんな大袈裟な・・・・・」と返す。
 しかし彼女はそのとき私の笑みを嘲笑と受け止めたらしく、「何
笑ってるの? 何で笑うのよ! 」と怒声をあびせ返してきた。
 まさに取り付く島も無い様相を呈し、深みに嵌まっていく。
 気が付けば私は必至で在り来たりな正論、つまりは自分以外の他
人の言葉を口にしていた。

「君は何か誤解している。
 僕はお互いの生まれた国のことをもっと知る為に、今こうしてそ
の論文を書こうとしているんだ。
 それに君のことが本気だからこそ、こうして安重根に纏わる史実
を調べてるんじゃないか。
 だからこそ、お互いの国の文化をもっと知って・・・・・」

 哀しい眼でこちらを凝視しながら顎を振る彼女を見るや、舌が絡
まり二の句も継げなくなる。
 型に嵌まった正論など、何の役にも立たない。
 火に油を注ぐようなものだった。
             
「何それ・・・・・。
 あなたの調べたそれが、正しい歴史認識って言う訳?
 あなたも安重根が韓国の英雄だってことくらい知ってるでしょ。
 国の英雄を馬鹿にされて、何処の国の人間が喜ぶって言うの。
 私のこと本気だなんて・・・・・良くそんなこと言えたわね」

 何でも良い、彼女の言葉に押し被せなければ。そう思った。
「今日はたまたまそこで書き終えたけど、未だその先を書くんだよ。
 どうせならそこを読んで欲しかったよ。
 それに元々安重根を調べたのも、徳恵のことを書いた韓国の『反
日小説』が冒頭で取り上げていたからなんだ」

 無心で言い放った言葉が彼女の心の琴線に触れる。
 滲むその瞳からは、堪え切れず熱い雫が滴り落ちた。
「反日小説って・・・・・どうしてそんな言い方をするの。
 韓国人からしたら、それは立派な文学なのよ! 」
              ‐12‐






 つい口を吐いて出たのは、憎悪と侮蔑が綯い交ぜになった無神経
な反駁の言葉。
 それこそ将来を誓い合った女に対して言う言葉では無い。
「あれが文学? あんなデタラメな史実を並べ立てたものが文学?
 言うならばSF漫画だよ、あんなものは。
 確かに小説はどれもフィクションだよ・・・・・それにしてもだ。
 良く調べもしないで、何でもかでも自分達に都合の良いように書
いちゃ駄目なんじゃないのか。
 幾ら反日無罪と言ったって、犯してはならない領域もある」

 そんなつもりは無かったのに・・・・・。

「それじゃ言わせて貰うけど、あなたの調べてる伊藤博文暗殺の真
相だって同じようなもんでしょ。
 それってどのくらい信憑性があるの?
 伊藤博文を死なせたのが、安重根の撃った銃の弾じゃないだなん
て余りに馬鹿げてるわ。
 それにそんなこと調べて、誰が喜ぶって言うの! 」

 言い募る彼女に、私は向きになって再び反駁の言葉を並べた。
 幾条もの熱い雫を頬に伝わせる彼女に、無我夢中で言い放った言
葉が、遂には最後通牒となってしまう。
「僕は真実を知りたいだけなんだ。
 多くの日本人のように、真実を知らないままで居たくは無い。
 それに・・・・・確かに君の言う通り安重根は英雄だと思う。
 自らの命を永ら得ることより、英雄であることを望んだんだから。
 伊藤の命を奪った弾丸が自身の撃ったそれでないことは、彼自身
が一番良く分かっていた筈だ。
 なのに彼はそのことを承知の上で、死刑台に上ることを選んだ。
 また帝國政府もそんな彼を利用した。
 その意味では、彼こそ英雄と呼ばれるに相応しい人物だと思うよ。
 日本に騙され、いいようにされながらも潔い死を選んだんだから。
 でも本当のところ安重根が、帝國政府に利用されていた自身のこ
とも、伊藤が日韓併合に反対していたことも、そのどちらも理解し
ていなかったとしたら、何とも哀しい英雄だと言えるけれどね」

 遂に彼女は、日本語で話すことを止めた。
ネイティブと言って良い程上達した、日本語なのにである。

「イッスル ス オプタ(有り得ない)」
             ‐13‐





 次いで顎を振った彼女は、こちらに背を向けた。
 追い縋る私は無意識に、唯、いつもそうと呼ぶ彼女の名を呼んだ。

「恵美(えみ)、ちょっと待ってくれ、恵美」

 振り返った彼女の瞳には、女々しく追い縋る私の姿がはっきりと
映っている。

 しかし最早それは・・・・・婚約者としての私ではなかった。
 そのときまるで体温を感じられない恵美の瞳の中に、私は日本人
と言う憎むべき仇の姿をした自身を見た・・・・・確かに。

 次いで部屋の扉が開かれると、彼女は背中で言い放った。

「今は待てない。
 それに、私は恵美(えみ)じゃない。
 私の名前は恵美(へミ)。
 韓国人の・・・・・朴恵美(パクへミ)」

 そして彼女が去った後、私はそのノートを引き裂く前に、総ての
内容をUSBメモリーに移し変えた。

 それは彼女に対して持った、自身の最初で最後の秘密。
 
 翌日の夕方のこと、勤務を終えた彼女を東都医科大病院の通用門
で待っていた私は、前日の件を詫びもう一度やり直そうと告げた。
 無論もう論文を書くのは止めると言う条件の下に、である。
 そうして部屋に戻った私は、彼女の目の前で引き裂いたノートを
キッチンのガスコンロの火で焼いて見せた。

 そんなことをしても、そんなものを焼いたところで、日韓の不和
や互いの歴史認識の齟齬が無くなる訳でも無いのに・・・・・。

 しかも姑息にも私は、USBメモリーにきちんとその内容を記憶
させていたのである。
 今から思えばそうして彼女に秘密を持ち、嘘を吐いた私は、韓国
政府に謝罪しない日本政府に酷似していた。

 韓国に経済援助をする際も、常に謝罪しなかった日本。
 その際の日本政府の胸中を台詞にするとすれば、こうである。
             ‐14‐






「この金を渡す代わりに、暫く黙っておいてはくれないか」

 まるで袖の下を渡すような、後ろ暗い言葉・・・・・。
 その時の私も同じだった。

「これを焼き捨てる代わりに、もう一度やり直してくれないか」

 何とも女々しく、情けない言葉を吐く日本人の自分。
 しかし、しかしどうしても、彼女との別離が受け入れられなかっ
たのだ・・・・・どうしても別れられなかった。
 仮令どんな手を使ってでも、恵美と添い遂げたい。
 その時はそれ以外、何も考えられなかった。
 無論、今も・・・・・だが。

 ソウルで病床数100規模の私立病院を経営する、朴恵美の実家。
 幸か不幸か一人娘の彼女は、どうしても養子を取って病院経営を
引き継がなければならなかった。
 対する自身はと言うと、私立であっても病床数300を超える大
病院の院長であり理事長でもある父を持つも、メスを持つことさえ
出来ない凡庸な精神科医である。
 おまけに次男坊で、実家の病院の跡継ぎは外科医の兄なのだ。

 普通に考えれば、恵美との結婚は有り得なくは無い。
 否、と、言うよりこれは、養子を取らなければならない恵美に取
って、この上ない良縁と言える。
 
 尤もそれは私や私の両親が韓国人であるか、逆に恵美や恵美の両
親が日本人であったならばの話であるが。
 或いはこうとも言える。
 もしも二人が別々の国に生を受けていたとしても、それが日本人
と韓国人以外の組み合わせであれば事足りたのである。

 ちょっとしたことなのに。
 否、ちょっとしたことなどではない。
 どう繕っても私と恵美は、日本人と韓国人なのだ。
 よりにもよって・・・・・何故、私と恵美は日本人と韓国人なの
だろうか・・・・・よりにもよって、私と恵美に限って。
 果たしてこう言う巡り合わせを、運命の悪戯とでも言うのか。

 それは武志と徳恵に於いても、同じだ。
             ‐15‐



 

 或いは私と恵美以上に、困難を伴う婚姻だったのかも知れない。
 彼等の意思になど全く関係無く、話は進められたのだから。
 それも政治絡みの、正しく政略結婚だったのだ。

 とは言え往時の日本には恋愛結婚などと言う慣習は無く、殊に皇
族や華族の婚姻に於いては、それを破廉恥、或いはふしだらなこと
として忌み嫌っていた節があり、二人の身分を考えればその婚姻の
有り様自体は至極当然のことと言えた。

 そうは言っても宗家と李王家双方に取って、武志と徳恵の婚姻は
まるで不本意な婚姻であったことに違いは無い。
 
 江戸期には朝鮮王朝との通商貿易と交際のみが、藩の存立意義で
あった対馬藩。
 その朝鮮王朝に対し臣下の礼を取っていた対馬藩主の宗家など、
李王家に取っては異国の御抱え貿易商程度の感覚であったろうし、
一方宗家に取っても、仮令皇女と言えど日韓併合により亡国の王家
となった李王家の継嗣など、今更嫁に貰っても何の得にもならない
無用の長物であったに違いない。
 益してや御相手は、知的障害を抱える徳恵なのだ。
 武志を取り巻く宗家の家人としては、総じて帝国政府に損な役回
りを強いられたと言う、負の感覚しか無かった筈である。

 そうした往時の二人を取り巻く環境から鑑みれば、もし武志が徳
恵のことを愛していなかったとすれば、終戦で爵位を喪失した時点
で彼女を韓国に突き返していた筈である。
 しかし事実はその逆で、徳恵の快復を祈り懸命に看病する武志に
対し、徳恵の実家が彼女を返せと執拗に迫った。
 また恐らく往時の日本政府も、武志の説得に廻ったことだろう。
「言う通りにして下さい」、と。
 終戦後利用価値の無くなった李王家の皇女の存在は、往時の日本
政府に取っても、韓国の日本に対する批判の火種となるだけの唯の
御荷物だったのではあるまいか。

 その時の徳恵との別離を、武志は一体どんな気持ちで迎えたのだ
ろうか。
 私には分かる。
 到底受け入れられるものではなかったと言うことが。
 ところがその時の武志の気持ちに関しては、反日家も嫌韓家も一
切触れようとしない。
             ‐16‐






 彼等に取っては双方共反日や嫌韓のナショナリズムの方が、人を
愛すると言う純粋な気持ちよりも尚、優先されるものなのだろう。

 しかしその考え方は、絶対に間違っていると思う。
 そして私は今、心底思うのである。  
 一人の男が一人の女を、また一人の女が一人の男を愛すると言う
純粋な気持ちに、それに優先されるナショナリズムなど絶対に存在
しないし、また存在してはいけない。と。

 私の愛する恵美にもこの言葉を贈りたい。
 或いはまた、今は亡き武志と徳恵にも。

 今私の身体に降り注ぐ、この一つ葉田子の花のように、白く純粋
な気持ちに勝るものなど、何も無いのだ。

 この純白の一つ葉田子の花言葉は、清廉。

 反家や嫌韓家が何と言おうと、武志と徳恵の二人が互いを思う気
持ちは、この一つ葉田子の花言葉のように清廉であった。
 無論自身の恵美に対する気持ちも、それと同じ。

 そして私と恵美も武志と徳恵同様、日本人と韓国人に生まれた。
 とは言え武志と徳恵に比べれば、自分と恵美の方が幾らかは増し。
 自分達は作為的に出会わされたのでは無く、普通に恋愛が出来た
のだから。
 唯・・・・・周囲の環境たるや、武志と徳恵の婚姻が為された時
代よりも、更に悪化しているのではないかと思う。
 恵美との結婚を打ち明けた時に返って来た父の言葉に於いては、
反駁する気さえ失せた。

 眉間に皺を寄せながら、口角泡を飛ばす父。

「女は星の数ほど居るんだ。
何も朝鮮人の女を選ぶ必要などないだろう。
 お前はどんな女が良いんだ。
 好みの感じを言ってみろ。
父さんが連れて来てやるから、その朝鮮人の女だけは止めろ」

 そのとき私は父に対してと言うよりもむしろ、そんな父を持つ自
身に対して嘆息を吐いた。
             ‐17‐





 
「父さん。恵美は朝鮮人じゃなくて、韓国人だよ」

 ジョークめいた言い方をしたつもりも無かったのだが、次の瞬間
である・・・・・父の顔色が変わったのは。
 それこそ土気色と言うか、見る見る父の顔から血の気が失せて行
くのを見た。

「朝鮮人も、韓国人も同じだ! 詰まらんことを言うな!」

 傍らの母が堪え切れずに嗚咽し始める。
 それは私が何とか言葉を紡ごうとした、その刹那のことだった。
 やがて母の嗚咽が慟哭に変わって行く。

「お願いよ。何が悲しくて韓国人なんかと、どうしてなの。
 どうして史樹(ふみき)は・・・・・あんたはいつだってそう。
いつも勝手なことばかり。
でも、母さんは何時だってそんなあんたを庇って来た。
お父さんがどんなに怒った時でも、代わりに叱られてもあげた。
でもね、今回だけは無理。
あんたを外科医にしたかったお父さんを説得したあの時とは、何
もかもが違うわ。
 今回だけは、お願いだから今回だけは諦めて。
お願いよ史樹。考え直して・・・・・お願いだからこれ以上母さ
んに何も言わせないで」

 正気を失い危うく頽れてしまいそうな母の身体を、兄が背後から
両腕で支えた。
「母さん部屋に戻っててよ。史樹には僕から言い聴かせるから」
 促す兄に顎を振りながらいやいやをする母が、終には兄の腕を振
り解き私にしがみ付いて来る。
 
 私は口にしようとしていた言葉を、喉の奥に仕舞い込むしかなか
った・・・・・「そんな大袈裟な」と、言うつもりの二の句を。
 それが日韓関係のことを、何故「近くて遠い国」と表現するのか
痛感させされた、私に取っての記念日になった。

 その頃は日韓に纏わる歴史の数々を、何も知らなかったのだ。
 そう、日本と韓国に穿たれた、大きな穴の奥底の闇を。
 自分も多くの日本人と同じく、知らないと言う不実を犯していた。
 困難に立ち向かう知識も、経験も、何も持たなかった過去の自身。
             ‐18‐







 その頃の私は次男坊の自分に対して、両親がパートナーの選択に
迄指図して来ることなど無いだろうと高を括っていたのだ。
 何とも無知で、甘かったその頃の自身。

 あのとき両親に対して、理に適った反駁の言葉を何一つとして言
えなかったその頃の私は、凡その日本人と同様日韓に纏わる歴史や、
その認識に於ける両民族間での齟齬、或いは互いの国民感情など知
らないことが多過ぎた。
 無論今も尚知らないことだらけではあるが、少なくともあの頃よ
りは幾許(いくばく)か成長したように思う。

 恵美と巡り会って始めて口論になったあの日も、最後迄書き切れ
ていなかった文章を彼女に読まれてしまった。
 もしあの日に戻れるのなら、激昂した彼女が読んだ安重根につい
て記した文章の、その後の自分が書いたその先を読んで欲しかった。

 このUSBメモリーに記憶させた数々の言葉も、恵美と巡り会っ
て居なかったら導き出せていなかったろう。
 それはあの恵美との口論の後それまで以上に様々な文献を読み、
在日であったり或いは韓国語教室で知り合った仲間であったりと、
色んな韓国人に出会って、漸く導き出せたものだった。
 恵美と口論したあの時期には、到導き出せなかった言葉の数々。
 今であれば・・・・・恵美のあんなに哀しい顔を見ずとも済んだ
かも知れない。

 何も知ろうともせず、教えようともせず、
総ての臭い物に蓋をして来た日本と言う国家と日本人。
 
 今にして思えば、やはりあの恵美との結婚を両親に否定された日
こそ、日本人としてその国家と民族の犯してきた罪に対する罰を、
自身が身を以て受けた瞬間だったのである。

 そして今、日本人であると言うことの総てを捨て去り、韓国人に
なることにしか、恵美と添い遂げる方途を見出すことが出来ないと
落胆する自身に、私自身で活を入れるべき時なのだ。

 それはまた人を愛すると言うことの尊さが、内向きなナショナリ
ズムになど決して屈してはならないのだと言う自負に、或いは逆ら
うことになるのかも知れないが、そうまでしても添い遂げたいと言
う思いを、やはり恵美と兄の洋樹には伝えておかなければなるまい。
             ‐19‐





 否、私には伝えなければならない義務が有るのだ。
 精神科医として、そして恵美を愛した一人の日本人の男として。
 それに武志と徳恵の深い愛を、知ってしまった自分だからこそ。

今を遡ること六十四年前の、一九五十五年六月。
徳恵と離縁せざるを得なかった武志。
その時反日のナショナリズムに、そし今よりも尚脆弱な終戦後間
もない日本の国体の前に、彼は膝を屈せざるを得ないことになる。
それは彼が徳恵との間に儲けた正恵が、自殺を目的に失踪する前
年のことであった。
 言い方を替えれば、彼一人の力でどうにかなるものでは無い国家
的重大事を、彼一人が背負ったようなもの。

 その上彼は爵位を喪失したと言っても、対馬藩宗家の継子を上げ
ねばならぬと言う、血を絶やしてはならぬと言う使命があった。
果せるかな武志は徳恵との別離を余儀なくされたその年の秋、日
本人女性の勝村良江女史と再婚する。
 そしてその後の武志は二男一女を儲けるのであるが、そのことを
韓国の小説や映画では、まるで罪科のように非難する嫌いがある。

 つまり徳恵を愛していたのであれば、再婚などする筈はない。と。
 徳恵と離縁した年に良江女史と再婚するとは、何事だ。と。
 或いは正恵が失踪した理由も、武志にこじつけもする。
 総じて武志だけが平穏な暮らしを送るのは、如何なものか。と。

 当然のことながらそれ等の類のものには、武志と良江のその後の
生活を追ったものは一切無い。
仮にそのようなものがあったとしても、悪戯に二人を中傷するだ
けのものとなっていたであろうが・・・・・。

 私は武志を信奉している訳でも、庇護する立場の者でもない。
 しかし武志の再婚の件で、ひとつだけ明らかなことがある。
武志と良江の生活が、単に平穏なものではなかったと言うことだ。

 徳恵との別離に、正恵の自殺を目的とした失踪を経た武志の胸中。
察するには余りあるものがある。

 そんな武志を支え、子を為し、そして育てた良江の心労は如何ば
かりであったか。
 間接的ではあるかも知れないが、武志の再婚相手の良江もまた先
              ‐20‐




の大戦と日韓の不和が生んだ被害者だったと言えよう。

 そんな当時の人達に比べれば、自分はずっとましだと思う。
 自分には恵美と添い遂げる方途が、曲がりなりにもあるのだから。
 しかし武志に、そんな方途を選択する余地は無かった。
 日本人の立場を捨て韓国人になることなど、彼には・・・・・。
 それが最善の策とは言えないまでも、最低限武志と徳恵のように
二人の仲を引き裂かれずとも済む。

 二十二歳を既に過ぎてしまった今、法律で二重国籍を許して貰え
ない自身に取って、それは自分自身を捨てることと同義。
 否、死ぬことと同義。と、言っても過言ではない。
 韓国籍を取得すると言うことは、日本国籍を放棄すると言うこと
に繋がるからだ。
 つまりは自ら進んで日本人を辞める。と、言うことになる。

 先ずは韓国で、養子に入れる家を探すことから始めた。
 友人の弁護士に韓国の弁護士を紹介して貰う。
 そして継嗣無き独り身の老人男性を探した。
 相応の金品を支払い、それと引き換えに彼の跡継ぎになることを
許してくれる老人男性をだ。
 それも親戚が居ないか、若しくは居てもその親戚も金銭で買収出
来て、しかも極僅かの人数しか居ない等々、色んな条件を付けて。
 そうしてやっとのことで、先月その養子に入れる先が見付かった。
 要は私が韓国人に成り済ますのである。

 そんな犯罪紛いのことを考えるとは、自身想像だにしなかった。
 今思えば、仮令恵美との生活を手に入れる為とは言え、よくもま
あそんな途方も無いことを思い付いたものである。

 しかも恵美の両親が興信所を使って戸籍を穿り返しても分からぬ
よう、転籍を数回繰り返したことにして。
 その上韓国語も完璧に習得。 
 無論韓国での医師免許取得の手続きも、その殆どを済ませている。
 準備は完璧だと思う。

 但しそれ等のことの成就に、金銭的な貯えは総て使い果たしてし
まった。 
 そんな自分の無鉄砲とも言える行動を、恵美は何と言うだろう?
 喜んでくれるだろうか。
             ‐21‐




 それとも・・・・・何て馬鹿なことをしたの? 
 と、言って、怒るだろうか。
 或いは両親に一生嘘を吐いていなければならい、そんなおかしな
な真似は出来ないと、私との結婚を取り止めてしまうだろうか。

 韓国人の精神科医だと嘘を吐き、彼女の両親や親戚を欺くのだか
ら大それたことと言えばそうだし、また不実を犯すと言えばそうだ。

 しかし彼女と結婚出来る方途と言えば・・・・・それしかない。
 私はその方途を思い付いた時、そう確信した。

 幸い私は次男坊であり、或る日を境に失踪したとしても、長男の
兄が失踪するほど家族に迷惑を掛ける訳でもない。
 私自身にしても、貯金は使い果たしはしたが、幸い借金も無い。
 無論両親も、兄も、私の行方を捜すだろう。
 しかしそれも数年のことだ。
 日本に帰国しないまま何処かで野垂れ死んだと思われても良し、
或いは適当な時期を目処に帰国して事情を説明しても良い。
 死ぬつもりはないと書き置きさえ残せば、何とかなるだろう。

 何故こんな大胆な方途を思い付いたのか・・・・・。
 それは武志と徳恵との間に生まれた一人娘、正恵の最後を知って
しまったからなのかも知れない。

 一九五十五年婿と共に大田区雪谷に所帯を持ったが、神経衰弱に
悩み、その僅か一年後の一九五十六年八月二十六日早暁、「山梨県
赤薙、駒ケ岳方面で自殺する」との遺書を残し失踪した宗正恵。
 その後捜索隊の努力も虚しく行方は判明せず、そのまま正恵不在
のまま夫との離縁が成立する。
 しかし武志は自身の生きている間、頑として正恵の失踪宣告を提
出することはなかった。
 つまりは生涯を通して、娘の死を認めようとしなかったのである。

 武志は正恵が生きていると信じて疑わなかったのだ。
 
 私も信じたい。正恵が何処かで生きていたと言うことを。
 そのことがきっかけだった・・・・・自身が韓国人になると言う
大胆な方途に辿り着いたのは。

 現代に生きる精神科医としては、正恵の失踪事件を彼女の抱える
             ‐22‐





精神疾患故の行為と捉え、やはり彼女は自殺したと言うのが順当な
判断なのかも知れない。
 それは正恵の精神疾患を、徳恵からの遺伝的に連続した症患と捉
える現代の医療認識に照らし合わせれば、至極当然のことだ。
 即ち子を為したことが武志と徳恵の悲劇の端緒だとするなら、正
恵の失踪事件はそれ等悲劇の帰結と言うことになる。
 無論医師としてはそのことに抗うことは出来ないし、また抗って
はいけないと思う。
 そう言う意味では正恵が何処かで生きていたと私が考えることは、
至極非科学的で医師としてあるまじき考えなのかも知れない。

 何故なら昨今、障害者を天使や神の子などと誉めそやす風潮が蔓
延り、障害を『神から与えられた試練』などとして美化する傾向が
あるからだ。
 特にお気楽主義の週刊誌や、低レベルなテレビのバラエティ番組、
或いは製作者の主観が入り過ぎた報道番組などで、多々見受けられ
る現象である。
 無論障害者の存在は社会から排除されるべきものでは無いし、逆
に彼等が積極的に社会参加出来るよう促していかなければならない。
 しかしそのことと障害そのものとは、全く別に考えられて然るべ
きものだと思う。
 言うならば障害は自慢出来る個性でも、神から与えられた試練な
どとして美化されるべき物では決してなく、やはりそれは治療に依
って治癒すべき症患でしかないのである。
 そうして障害を三流のマスコミ媒体が美化して、例えば治療をさ
えしないように助長すると言った風潮を兆すことにでもなれば、我
々医師の存在は意味を為さなくなり、忽ち現代の医療レベルを武志
と徳恵の時代のそれにまで貶めてしまう破目に陥る。

 そうして障害と障害者を同一視して考える愚を、我々医師は何と
してでも糾弾しなければならない。
 と、同時にそのようなマスコミ業界の障害をこそ、排除すべきな
のだ。と、切に思う。
 尤もそれは我々医師の仕事では無く、日本政府の仕事ではあるが。
 
 とまれそうして私と同じような考えを抱く精神科医は正常であり、
またそうでなければならないと自身で確信している。
 しかしまたその一方で、そのような考え方を批判の標的とする一
部人権団体や、一部新興宗教が存在するのも確かだ。
 我々医師に取ってそのように障害を美化する連中は、現実の医療
             ‐23‐





現場から乖離して議論を為す狂信者であり、言ってみればコペルニ
クスの地動説を糾弾した十六世紀の天動説者達と同じだ。
 それに能く能く考えてみれば韓国の小説や映画も、それ等障害を
美化する連中と同じ穴の狢である。
 反日の目的の為とは言え徳恵の知的障害を認めず、彼女の症患に
対しての治療の必要性についてはまったく言及しない。
 徳恵が知的障害者ではなく、飽く迄彼女が日本のせいで精神疾患
に陥ったとするのは、単に彼女の疾患を忌み嫌うことの裏返しで、
それ等の症患と向き合うつもりはないのだから。

だからこそ、そのような考え方に異を唱える為にも、私は敢えて
正恵が生きていたと信じたいのである。
 彼女が生きて、そして何処かで私と志を同じくする精神科医が、
彼女を懸命に治療していたと信じたいからだ。
 つまり正恵の精神疾患の治療よりも、彼女と彼女の母が日本に蹂
躙されたことの方が重大事だとする連中や、精神医学を蔑ろにする
連中に、私は異を唱える義務があるのである。

そう、決して武志と徳恵の物語から、徳恵と正恵の症患は治癒す
べき症患であったと言う事実を、排除してはいけないのである。
 逆に排除、即ち治癒しなければならないのは二人の症患なのだ。
 だからこそ私は日本人で無くなっても良い、韓国人に成り済まし
でも恵美と添い遂げ、それ等のことを私の身の周りに居る僅かな人
達だけにでいいから、伝えていかなければならない。
 正恵の死を、無駄にしてはならないのだ。

 何を伝えていかなければならないのか、今一度胸中に誓う。
 
 それは人が人を愛すると言う行為を、何人も否定してはいけない。
 仮令それが、日本人と韓国人であっても。
 仮令それが障害者と健常者であっても。と、言うこと。

 恵美を愛した、韓国人を愛した日本人の一人の男として、最低限
私の両親と家族に、或いは恵美の両親と家族に、そして誰よりも恵
美自身に、私はそれ等のことを伝える義務がある。
 武志と徳恵そして正恵のことを、正確に伝えることも忘れずに。
 せめて私の身の周りに居る極僅かな人達だけでいいから、そのこ
とを、私自身で、必ず。

 ついつい熱くなってしまった。
             ‐24‐

 



 冷静にならなければ・・・・・自制を促すべく、大きくひとつ息
を吸い込む。
 するとどうしたことか、私の全身に降り注ぐ一つ葉田子の花弁が
舌先に一片。

 指先で摘んでみる。
 次いでじっと見入る。

 やがて全身にも降り注ぐこの花の白が、自身の身体から発する熱
を、そしてこの身体に取り付いた瘴気を徐々に取り払っていく。
 この花の白はまるで恵美の肌のよう・・・・・と、大切なことを
思い出した。
 もう直ぐ恵美が、この対馬へ来ることを。
 ソウルの実家を抜け出して、私の二回目の求婚を受ける為に。

 一月前恵美も私同様、結婚の報告をした後に両親の反対を受けた。
 しかも、猛烈に激しく。
 ここ一月の間、ほぼ軟禁状態だったらしい。
 日本人と結婚したいと言った、その次の瞬間から。
 私と同様激昂する父と、慟哭する母の洗礼を受けたのだ。
 そして彼女の両親は、私の顔など見たくもないと言ったらしい。
 つまりは私の写真さえ、見ようとしなかったのである。 
 しかしそれは或る意味、僥倖と言えた。
 そのとき私は、自身が韓国人になる計画を実行に移す決断を下し
たのである。
 早速、恵美にメールを送った。
「それじゃ僕の顔写真は見せないで欲しい。もし見せるなら他の誰
かの写真と差し替えて、見せておいてくれないか」、と。

 つと、展望台の中の掛け時計を見遣れば九時四十分を指している。
 そろそろ厳原の港に、釜山からの船が着く頃だ。
 午前中にこちらへ到着する便に、彼女は乗ると言っていた。
 迎えに行かねば・・・・・そしてこのUSBメモリーを渡し、総
てを話そう。二度目の求婚の前に。
 それとこの一つ葉田子の花を集め、花束にして渡すのも忘れずに。
 この花を恵美と、それから彼女と一字違いの徳恵と正恵にも。
 確か金石城の公園内に記念碑があった筈。そこへも行こう。
 しかし先ずは、恵美を迎えに行ってからだ。

 さて、そろそろ行くとしようか、厳原の港に。
             ‐25‐


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