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第1章 風の悪戯、運命の始まり
第6話 「我が妻(め)となる者へ」二度目の口づけ
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東宮は香子のすぐ隣に腰を下ろすと、彼女の黒髪を一房掬い上げ、その香りを深く吸い込んだ。香子は逃げることもできず、獲物を前にした小鳥のように、ただ小さく嗚咽を漏らすことしかできなかった。
東宮の指先が、香子の絹のように滑らかな黒髪を梳き上げる。 中将・頼嗣との数年間、文を交わし、御簾越しに語らうことはあっても、このように髪に触れられ、ましてやその香りを深く吸い込まれるようなことは一度もなかった。
「……っ……」
香子の背筋に、得体の知れない戦慄が走る。 男性の体温、その力強い指の感触。すべてが初めての経験であり、彼女の清らかな世界が、東宮の放つ濃密な男の気配によって侵食されていく。
「お、お戯れは……おやめくださいませ……」
蚊の鳴くような、震える声。
それは香子にとって必死の拒絶であったが、潤んだ瞳で上目遣いに自分を見やるその姿は、東宮の目には、獲物が最後に見せる、たまらなく愛らしい足掻きに映った。
「戯れだと? ……あやつには許して、私には許さぬというのか。お前のその弱々しい声は、男を焚きつけるためにあるようだな」
東宮の瞳の奥に、昏い炎が宿る。 彼は香子の耳元に唇を寄せると、次の満月の夜に控えた「元服の儀」――そしてその夜の「添臥」の詳細を、低く、湿り気を帯びた声で語り始めた。
「儀式が終われば、お前は私の寝所に据えられる。重い装束を脱がせ、その白い肌に、私が一晩中……余すところなく印を刻むのだ。逃げる場所など、どこにもないぞ」
生々しい情景が、香子の脳裏に無理やり突き立てられる。あまりの恐ろしさと羞恥に、香子が顔を覆おうとした瞬間、東宮の声がさらに冷たく、決定的な事実を告げた。
「父の大納言も、既に快諾した。お前を私に捧げるとな。……もう、決まりだ。あの中将に二度と会うことは叶わぬ。あやつが今、お前を想って涙していようとも、お前を抱くのはこの私だ」
「ああ、そんな……」
絶望に唇を震わせた瞬間、視界が大きく傾いた。 東宮の逞しい腕が香子の細い肩を抱き寄せ、有無を言わさぬ力で、彼女の桃色の唇を塞いだ。
「――んっ!?」
それは、香子が夢見ていた中将との穏やかな口づけとは程遠い、嵐のような略奪だった。 強引に口内を侵食する、熱く、苦しいほどの情熱。呼吸を奪われ、視界が火花を散らしたように明滅する。 香子の小さな手は、彼の装束の胸元を必死に押し返そうと彷徨ったが、その抵抗さえも、東宮の独占欲を煽る火種でしかなかった。
逃げられない。 この国の、若き支配者の腕の中から。 香子の頬を、絶望の涙が静かに伝い落ちた。
嵐が過ぎ去った後の静寂の中で、香子は自分の呼吸の音さえも恐ろしく感じていた。 初めて触れ合った唇から、火傷しそうな熱が流れ込んでくる。拒絶しているはずなのに、痺れるように脈打っている。
抵抗する術を失い、崩れ落ちるように座り込む香子の傍らで、東宮はふっと表情を和らげた。先ほどまでの、すべてを焼き尽くさんばかりの刺々しい野心はどこへ行ったのか。彼は膝をつき、震える香子の髪を、今度は壊れ物を扱うかのような手つきで、そっとなぞった。
「……酷い顔だな。だが、それもまた愛おしい」
東宮の長い指先が、香子の濡れた唇をゆっくりと、愛しむように辿る。
「……お前の唇は、蜜よりも甘い」
その言葉に含まれた濃密な熱に、香子は喉の奥を震わせた。 あの方は、本当に私を壊してしまいたいのか、それとも――。 混乱する香子の瞳を覗き込むようにして、東宮はふっと少年のような、しかし底知れぬ色気を孕んだ笑みを浮かべる。
「我が妻(め)となる者へ、もう一度だけ、口づけを送ってもよいか?」
それは「問い」の形をしていたが、拒絶など許さぬ甘い命令だった。 香子は、彼が発した「妻」という言葉の重さに、頭がくらくらとした。中将と歩むはずだった未来を、この若き支配者が今、力ずくで自分の方へと引き寄せている。
逆らう力は、もう残っていない。 香子は、力なく、ほんのわずかだけ頷いた。
その瞬間、東宮の口角がにやりと妖しく跳ね上がった。心底嬉しそうな、そして勝利を確信した男の顔。香子の視界が、再び近づいてくる彼の整った美貌に覆い尽くされる。
二度目の口づけは、先ほどとは違った。 逃げようとする彼女を追うのではなく、じっくりと、その甘みを確かめるような、深く、とろけるような口づけ。 鼻腔をくすぐる龍脳の香りと、東宮の熱い吐息が、香子の理性を少しずつ溶かしていく。
「……儀式の日を、首を長くして待っているぞ。香子」
唇が離れた後、彼は耳元でそう低く囁き、一度も振り返ることなく部屋を去っていった。
残された香子は、乱れた衣を整えることも忘れ、ただぼうぜんと虚空を見つめていた。 唇に残る、消えない熱。 指先を掠めた、彼の装束の感触。 あの方は、確かに「妻」と言った。
中将・頼嗣の穏やかな愛とは正反対の、激しく、痛烈な、暴力的なまでの求愛。 香子は、一週間後の「儀式」が、自分のすべてを奪い、そして書き換えてしまうものであることを、身体の芯で理解していた。
東宮の指先が、香子の絹のように滑らかな黒髪を梳き上げる。 中将・頼嗣との数年間、文を交わし、御簾越しに語らうことはあっても、このように髪に触れられ、ましてやその香りを深く吸い込まれるようなことは一度もなかった。
「……っ……」
香子の背筋に、得体の知れない戦慄が走る。 男性の体温、その力強い指の感触。すべてが初めての経験であり、彼女の清らかな世界が、東宮の放つ濃密な男の気配によって侵食されていく。
「お、お戯れは……おやめくださいませ……」
蚊の鳴くような、震える声。
それは香子にとって必死の拒絶であったが、潤んだ瞳で上目遣いに自分を見やるその姿は、東宮の目には、獲物が最後に見せる、たまらなく愛らしい足掻きに映った。
「戯れだと? ……あやつには許して、私には許さぬというのか。お前のその弱々しい声は、男を焚きつけるためにあるようだな」
東宮の瞳の奥に、昏い炎が宿る。 彼は香子の耳元に唇を寄せると、次の満月の夜に控えた「元服の儀」――そしてその夜の「添臥」の詳細を、低く、湿り気を帯びた声で語り始めた。
「儀式が終われば、お前は私の寝所に据えられる。重い装束を脱がせ、その白い肌に、私が一晩中……余すところなく印を刻むのだ。逃げる場所など、どこにもないぞ」
生々しい情景が、香子の脳裏に無理やり突き立てられる。あまりの恐ろしさと羞恥に、香子が顔を覆おうとした瞬間、東宮の声がさらに冷たく、決定的な事実を告げた。
「父の大納言も、既に快諾した。お前を私に捧げるとな。……もう、決まりだ。あの中将に二度と会うことは叶わぬ。あやつが今、お前を想って涙していようとも、お前を抱くのはこの私だ」
「ああ、そんな……」
絶望に唇を震わせた瞬間、視界が大きく傾いた。 東宮の逞しい腕が香子の細い肩を抱き寄せ、有無を言わさぬ力で、彼女の桃色の唇を塞いだ。
「――んっ!?」
それは、香子が夢見ていた中将との穏やかな口づけとは程遠い、嵐のような略奪だった。 強引に口内を侵食する、熱く、苦しいほどの情熱。呼吸を奪われ、視界が火花を散らしたように明滅する。 香子の小さな手は、彼の装束の胸元を必死に押し返そうと彷徨ったが、その抵抗さえも、東宮の独占欲を煽る火種でしかなかった。
逃げられない。 この国の、若き支配者の腕の中から。 香子の頬を、絶望の涙が静かに伝い落ちた。
嵐が過ぎ去った後の静寂の中で、香子は自分の呼吸の音さえも恐ろしく感じていた。 初めて触れ合った唇から、火傷しそうな熱が流れ込んでくる。拒絶しているはずなのに、痺れるように脈打っている。
抵抗する術を失い、崩れ落ちるように座り込む香子の傍らで、東宮はふっと表情を和らげた。先ほどまでの、すべてを焼き尽くさんばかりの刺々しい野心はどこへ行ったのか。彼は膝をつき、震える香子の髪を、今度は壊れ物を扱うかのような手つきで、そっとなぞった。
「……酷い顔だな。だが、それもまた愛おしい」
東宮の長い指先が、香子の濡れた唇をゆっくりと、愛しむように辿る。
「……お前の唇は、蜜よりも甘い」
その言葉に含まれた濃密な熱に、香子は喉の奥を震わせた。 あの方は、本当に私を壊してしまいたいのか、それとも――。 混乱する香子の瞳を覗き込むようにして、東宮はふっと少年のような、しかし底知れぬ色気を孕んだ笑みを浮かべる。
「我が妻(め)となる者へ、もう一度だけ、口づけを送ってもよいか?」
それは「問い」の形をしていたが、拒絶など許さぬ甘い命令だった。 香子は、彼が発した「妻」という言葉の重さに、頭がくらくらとした。中将と歩むはずだった未来を、この若き支配者が今、力ずくで自分の方へと引き寄せている。
逆らう力は、もう残っていない。 香子は、力なく、ほんのわずかだけ頷いた。
その瞬間、東宮の口角がにやりと妖しく跳ね上がった。心底嬉しそうな、そして勝利を確信した男の顔。香子の視界が、再び近づいてくる彼の整った美貌に覆い尽くされる。
二度目の口づけは、先ほどとは違った。 逃げようとする彼女を追うのではなく、じっくりと、その甘みを確かめるような、深く、とろけるような口づけ。 鼻腔をくすぐる龍脳の香りと、東宮の熱い吐息が、香子の理性を少しずつ溶かしていく。
「……儀式の日を、首を長くして待っているぞ。香子」
唇が離れた後、彼は耳元でそう低く囁き、一度も振り返ることなく部屋を去っていった。
残された香子は、乱れた衣を整えることも忘れ、ただぼうぜんと虚空を見つめていた。 唇に残る、消えない熱。 指先を掠めた、彼の装束の感触。 あの方は、確かに「妻」と言った。
中将・頼嗣の穏やかな愛とは正反対の、激しく、痛烈な、暴力的なまでの求愛。 香子は、一週間後の「儀式」が、自分のすべてを奪い、そして書き換えてしまうものであることを、身体の芯で理解していた。
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