君はまだ、本当の自分を知らない

小説練習家

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あなたが居なくなった日

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その日は、ただのデートだった。

 特別な記念日でもなく、予定をぎっしりと詰めたわけでもない。

 拓真と二人で、少し遠くの街まで出かけて、他愛もない話をして、夕方には帰るつもりだった。

 水族館の出口で、彼が
「楽しかったな。クラゲが可愛かった」
と言って笑った。

その顔を見て、私は思った。

(この時間が、ずっと続けばいいのに)

──それが、最後の願いだった。

 横断歩道を渡っていた時だった。信号は青。車も、ちゃんと止まっていた。そのはずだった。

次の瞬間、視界の端で、異様な速さの影が跳ねた。

「拓真――!」

叫ぶより早く、衝撃音が街に響いた。

鈍く、重い音。

彼の体が、私の手を離れて、宙に浮いた。

一瞬だった。

 耳鳴りがして、世界が遠くなった。地面に叩きつけられる音を、私は、はっきりと聞いてしまった。目の前の光景に耐えられず倒れそうになった。

 拓真は、道路の上に倒れていた。動かない。赤いものが、アスファルトに広がっていく。

「……嫌だっ!」

 足が、動かなかった。近づきたいのに、近づけない。視界が滲んで、拓真の顔が、うまく見えない。

 それでも、さっきまで笑っていた顔だということだけは、分かった。

 救急車のサイレンが、遠くから近づいてくる。私は、その場に立ち尽くしたまま、ただ名前を呼び続けていた。
 
    ───

病室の匂いは、現実を嫌というほど突きつけてくる。

拓真は、まだ生きていた。

 意識は、辛うじてある。でも、それが"いつまでか"は、誰の目にも明らかだった。

医師は、静かな声で言った。

「正直にお話しします。脳への損傷が大きく、これ以上の回復は、見込めません」

頭が、真っ白になった。

「少し、一人にして貰ってもいいですか」

辛うじて絞り出した声でそう言った。

「はい。では、失礼いたします」

 医師の冷たい声と、扉の閉まった音だけがその場に残った。

───

病室は、夜になると音が消える。

 機械の規則正しい電子音だけが、拓真がまだ"ここにいる"ことを教えてくれていた。私は、ベッドの横に座って、ただ彼の手を握っていた。

冷たくはない。でも、力はほとんど返ってこない。

ノックの音がして、医師が一人、入ってきた。

「……少し、よろしいですか」

 その声は、昼間よりも低く、そして慎重だった。
医師はカーテンを閉め、誰もいないことを確認してから、小さく息を吐いた。

「公式には、これ以上の回復は見込めません」

 それは、もう何度も聞いた言葉だった。でも、次の一言が、私の世界を完全に変えた。

「……非公式の話があります」

私は、顔を上げた。

「私の知人に、の研究組織を、秘密裏に運営している人がいます」

一瞬、意味が分からなかった。

「亡くなる直前の脳情報を記録し、新しい肉体に再構築する。そういう研究です」

心臓が、強く打った。

「そ、それって……」

「"彼を生かす"という意味ではありません」

医師は、はっきり言った。

「彼の意識が保たれている今、記憶の情報を取得する必要があります」

その言葉の意味が、遅れて理解された。

「それはつまり……」

「回復の可能性を、完全に捨てるということです」

頭の中で、何かが崩れた。

「そんなの……」

声が、震えた。

「そんなの、選べないじゃないですか……」

 医師は、何も言わなかった。ただ、少しだけ目を伏せてから、こう言った。

「……彼と、話し合ってください」

 拓真は、意識がはっきりしていた。私は、どう切り出せばいいか分からず、ただ黙っていた。

「……緋依」

先に、拓真が口を開いた。

「さっき、先生が来てたよな」

私は何も言えなかった。

「……何か、隠してるだろ」

 その声は、驚くほど穏やかだった。私は堰《せき》を切ったように話し始めた。

研究の話。クローンの話。記憶を記録する条件。

 そして、それを選ぶということは、"今の拓真"が助かる可能性を捨てることだということ。

全部話し終えたとき、私は泣いていた。

「……そんなの、私には決められない」

 拓真は、しばらく天井を見ていた。それから、小さく笑った。

「……なるほどな」

私は驚いて顔を上げた。

「俺、もう分かってた気がする」

「え……?」

「この体、もう限界だって」

拓真は、ゆっくりと、私を見た。

「なあ、緋依」

私は首を振った。

「聞きたくない……」

「聞いてくれ」

その声は、弱いのに、確かだった。

「俺がいなくなったあと、お前が一人で生きるの、想像したらさ」

息が、止まる。

「それが一番、耐えられなかった」

 拓真は、私の手を、ぎゅっと握った。かすかな力だったけれど、確かに、彼の意思だった。

「もしさ、俺がクローンになっても、記憶が続いて、お前の隣に立てるなら」

涙が、止まらなかった。

「……それで、いい」

「よくない……!」

私は、声を荒げた。

「それじゃ、今の拓真が、消えるじゃん……!」

拓真は、少しだけ困ったように笑った。

「……もう、十分生きたよ」

「嘘……」

「嘘じゃない」

拓真は、私の額に、自分の額をそっと近づけた。

「俺がいなくなっても、お前が誰かに支えられるなら……それが俺なら、なおさらいい」

 私は、頭を抱えた。選べない。選べるはずがない。でも、この人は、もう選んでしまっていた。

「……緋依。俺を、置いて行かないでくれ」

その一言で、私は負けた。

「……分かった」

声が、自分のものじゃないみたいだった。

「私、全部背負う。だから……」

私は、拓真の手を、強く握り返した。

「……戻ってきて」

拓真は、安心したみたいに、目を閉じた。

「……ありがとう」

 その言葉が、生きている拓真から聞いた、最後の声だった。
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