血と束縛と

北川とも

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第13話

(5)

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 思わず立ち上がると、中嶋が驚いたように見上げてきた。
「先生?」
「ちょっと酔ったみたいだから、顔を洗いに行ってくる」
 そう告げて、パウダールームに向かう。
 店内以上に、和彦にとってこのパウダールームは、恥辱の記憶に満ちていた。ここの洗面台に押さえつけられ、秦に――。
 これ以上思い出すと、秦だけでなく、中嶋の顔までまともに見られなくなりそうだった。和彦は唇を噛むと、鏡に映る自分の顔から視線を逸らす。
 水で濡らした手を頬に当て、熱を冷ます。秦が作ってくれたミモザを飲んだら、あとはソフトドリンクをもらって今夜の締めにしようと思った。深酔いして、明日に響くのは避けたい。
 パウダールームを出た和彦が店内に戻ったとき、思いがけない光景が繰り広げられていた。
「なっ――……」
 秦と中嶋がキスしていた。正確には、カウンター内にいる秦のシャツの襟元を掴み寄せ、身を乗り出すようにして中嶋が強引にキスしているのだ。
 キスしているほうの中嶋はこちらに背を向けているため、どんな顔をしているかは見えない。ただ、必死さは伝わってくる。一方の秦は、落ち着いていた。和彦と目が合うと、まるで子供の駄々を許す大人のような、ひどく優しい眼差しをしているとわかった。
 どういう状況なのだと、和彦は軽く混乱する。混乱しながらも、自分はここにいてはいけないと――中嶋の邪魔をしてはいけないと思い、慌てて自分が座っていた席へと戻る。
 あたふたしながらダッフルコートとマフラーを取り上げたところで、やっと中嶋が振り返った。
 店内には、なんとも気まずい沈黙が流れる。そんな中で、秦だけは艶やかな笑みを浮かべていた。
 優しいのか冷たいのかよくわからない笑みだなと思った途端、和彦はむしょうに秦に対して腹が立った。


「――恥ずかしいところをお見せしました」
 コンクリートの冷たい階段に腰掛けると、中嶋は自嘲気味に言った。缶入りの熱いお茶を啜りながら和彦は、つい眉をひそめる。
「ぼくに対して、謝らなくていい。……酔っていたんだから仕方ない、なんて慰める気はないからな」
「……いざとなると、キツイですね、先生は」
 別に、あんな光景を見せた中嶋を責めたいわけではないのだ。責めたいのは、あんな行動に出るまで中嶋を追い詰めた、秦のほうだ。
 こう思ってしまう時点で、和彦は物事を冷静に見ていないのだろう。きっと、中嶋に肩入れしている。思いがけないキスシーンを見ただけで、そこに至るまでに何があったのか、実はまだ説明を受けていないというのに。
 中嶋に腕を掴まれ、足早に秦の店をあとにした。そのまま帰宅するのかと思ったが、連れてこられたのは人気のない公園だった。冷たい風が容赦なく吹きつけてくるが、頭を冷やすには最適かもしれない。
「最近、秦さんと前みたいにつき合えないんですよ。微妙に避けられているというか、距離を置かれているというか。今夜は、先生をダシに使わせてもらいました」
「そんなことだろうと思った」
「迷惑かけついでに、すみませんが、俺を慰めてくれませんか」
 本気で言っているのだろうかと、和彦は隣に座った中嶋の顔をまじまじと見つめる。中嶋は、ヤクザらしくふてぶてしい笑みを浮かべていた。もしかしてからかわれているのだろうかと思ったぐらいだが、気弱な表情を見せられるよりはいいかもしれない。
 和彦はもう一口お茶を飲んでから、ふっと息を吐き出す。
「――彼なりに、君を気づかっているんじゃないか。自分は集団で襲われて、そのトラブル処理のために、長嶺組に後ろ盾になってもらった。多分、長嶺組長に何か弱みを握られたんだろ。一方で、君は総和会の中で確かな地位を築き始めた。……自分の事情に巻き込んで、元後輩の足を引っ張りたくないのかもしれない、と甘いぼくは考えてしまう」
「本当に先生は甘いですよ。ヤクザの世界なんて、そう甘くもないし、綺麗事は大抵通じない」
「ぼくだって、無理してこの理屈を捻り出してやったんだ。黙って頷いておいてくれ」
 ヤクザの体面を取り繕ってやるのも大変だと、和彦はお茶を飲みながら思う。
 本当は中嶋も、和彦が今言ったようなことを薄々感じているはずだ。それを素直に認められないのは中嶋が、甘くなく、綺麗事も通じないと言い張るヤクザだからだ。秦は秦で、正体の掴めない男であるが故に、容易に本心など晒したりはしないだろう。
「……秦さんは、一体何者なんですか」
「さあな。長嶺組長は知っているようだが、ぼくは知りたいとは思わないし、聞いたところで話さないだろうな。一応、ヤクザの世界に限りなく近い場所にはいても、彼は普通の実業家だ。胡散臭くても」
 和彦の表現に、中嶋は苦しげに笑い声を洩らす。その姿を横目で見ながら和彦は、こう思わずにはいられなかった。
 やはり中嶋は、秦に関することだけは、〈女〉を感じさせる。猜疑心が強くて、粘着質で、嫉妬深くて――健気だ。
「罪な男だな。秦静馬って男は」
 和彦の言葉に、ニヤリと笑って中嶋が乗った。
「秦さん以上に罪な男の先生が、何言ってるんですか」
「そういうことを言うと、今後君を慰めてやらないからな」
 次の瞬間、ふいに首の後ろに手がかかり、引き寄せられた。驚く和彦の眼前で、中嶋は真剣な顔をしていた。
「だったら、もう少し慰めてください」
 中嶋に唇を塞がれ、さすがに体を強張らせた和彦だが、不思議に抵抗しようという気にはなれなかった。スポーツジムで中嶋に初めてキスされたときも思ったが、どれだけ唇を吸われようが欲情を刺激されない、しかし心地のいいキスだった。
 和彦は中嶋の唇を吸い返しながら、探るように舌先を触れ合わせる。数回それを繰り返したところで、中嶋に求められるまま緩やかに舌を絡め合っていた。
 あくまで、中嶋を慰めるために。

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