678 / 1,289
第29話
(23)
しおりを挟む
「面倒や迷惑っていうなら、それはこっちの台詞だ、先生。俺たちはとっくに、先生に面倒も迷惑もかけ通しだ。いや、そんな言葉じゃ足りない。先生の順風満帆な人生を奪ったんだからな。寝首を掻かれても、文句は言えない」
「……そんなこと、ぼくにできるはずがないと、思ってるんだろ」
和彦がきつい視線を向けると、予想に反して賢吾は表情を引き締め、自分の首筋に片手をかけた。
「やりたいなら、やっていいぞ。組の跡目はもういるからな。こっちの古狐が睨みを効かせている間は、うちの組にちょっかいを出す輩もいないだろうし、千尋でもなんとかなるだろう」
賢吾が本気で言っているわけではないとわかってはいるが、冗談にしても毒気が強すぎる。さきほどから黙っている守光が、さすがに苦笑を浮かべていた。
「自分の父親の前で、よくそんなことが言えるな」
「――さすがのあんたも困るか? 俺がいなくなると」
こう言ったときの賢吾の声には冷たい刃が潜んでいるようで、聞いていた和彦が驚いてしまう。一体何事かと思い、父子を凝視する。守光は、穏やかな口調で応じた。
「困る、困らないという話ではないだろう。息子を失うということは。それにお前は、長嶺組の大黒柱だ。折れることはもちろん、亀裂一本、入ることは許されん。その点では、千尋は柱どころか、ただの若木だ。すんなり伸びて美しいし、しなやかではあるが、弱い。あれはこれからもっと、わしとお前とで鍛えてやる必要がある」
「長嶺組に大事があれば、それは、総和会に細い亀裂が一本入りかねない、ということか」
「亀裂一本とは、控えめな表現だな。巨体が傾ぎかねんと、わしは考える」
「巨体とは、何を指しているんだ。総和会か、それとも――」
賢吾が意味ありげな視線を、守光に向ける。守光は堂々とその視線を受け、笑った。守光のこの余裕は一体どこからくるものなのだろうかと、和彦は考えていた。賢吾を育ててきた父親としてのものなのか、巨大な組織の頂点に立つ者としてのものか。
無意識のうちに息を詰め、二人のやり取りを見つめていた和彦に気づいたのだろう。ふいに賢吾がこちらを見て、わずかに表情を和らげた。
「びっくりさせたな、先生。気にするな。俺とオヤジは、昔からこうだ。二人揃って理屈っぽいからな。こうやって言い合うせいで、総和会会長と長嶺組長は不仲なんて噂がたびたび流れるんだ。だから、外で控えていた連中も、ピリピリしていただろう? 先生のことで殴り合いでも始めるとでも思っているのかもな」
「ぼくのことって……」
「――もうしばらく佐伯家の動きを警戒して、あんたをうちで預かりたいという話を、電話で賢吾にしたんだ。すると、連絡もなくここに押しかけてきてな。そのときの賢吾の剣幕を見て、うちの者たちがいろいろと気を回していたようだ」
また賢吾から引き離されるのかと、愕然とした和彦は、そう感じた自分自身に奇妙な気持ちを抱く。これまで、この世界で頼れるのは賢吾と長嶺組だという現実を受け入れてきたつもりではあったが、それは、そうせざるを得ない状況があってのことだとも考えていた。
しかし今、咄嗟に感じた心細さは明らかに、信頼に裏打ちされた感情だ。
うろたえる和彦に対して、賢吾が静かに問うてくる。
「どうする、先生? 不安だというなら、俺は無理強いはしない」
一緒に帰るぞ、という言葉を望んでしまうのは、わがままなのだろうか――。
和彦は、軽い失望感を表に出すことなく、懸命に自分の考えを口にした。
「……実家は、探偵を雇ってまで、ぼくを捜したと言っていた。だけど、前に住んでいたマンションを出てからの動きを追えなかったそうだ。長嶺組が上手く対処してくれたからだ。今回は、長嶺組だけじゃなく、総和会も動いてくれたから……、もう大丈夫だと思う。早く、落ち着きたい」
賢吾は何も言わない代わりに、どうだ、と言いたげな表情で守光を見遣った。
守光は短く息を吐き出したあと、柔らかく笑んだ。
「ここは、落ち着かんかね」
思いがけない一言に、和彦は激しく動揺し、救いを求めるように賢吾を見る。賢吾は忌々しげに唇を歪めた。
「自分のわがままが通らないからって、先生をからかうな、オヤジ。困ってるじゃねーか」
「お前は、先生の口から、自分の希望通りの答えが聞けて、満足そうだな」
「俺が言ったところで、聞きやしないだろ。あんまりわがままが過ぎると、若い者から嫌われるぞ」
そう言いながら、賢吾の口元が緩む。和彦はようやく、自分が抱いた失望感が単なる勘違いだったことを知る。賢吾は、和彦が帰りたがると確信していたのだ。
「話はこれだけだ。さっさと先生を休ませてやりたいから、帰るぞ」
「……そんなこと、ぼくにできるはずがないと、思ってるんだろ」
和彦がきつい視線を向けると、予想に反して賢吾は表情を引き締め、自分の首筋に片手をかけた。
「やりたいなら、やっていいぞ。組の跡目はもういるからな。こっちの古狐が睨みを効かせている間は、うちの組にちょっかいを出す輩もいないだろうし、千尋でもなんとかなるだろう」
賢吾が本気で言っているわけではないとわかってはいるが、冗談にしても毒気が強すぎる。さきほどから黙っている守光が、さすがに苦笑を浮かべていた。
「自分の父親の前で、よくそんなことが言えるな」
「――さすがのあんたも困るか? 俺がいなくなると」
こう言ったときの賢吾の声には冷たい刃が潜んでいるようで、聞いていた和彦が驚いてしまう。一体何事かと思い、父子を凝視する。守光は、穏やかな口調で応じた。
「困る、困らないという話ではないだろう。息子を失うということは。それにお前は、長嶺組の大黒柱だ。折れることはもちろん、亀裂一本、入ることは許されん。その点では、千尋は柱どころか、ただの若木だ。すんなり伸びて美しいし、しなやかではあるが、弱い。あれはこれからもっと、わしとお前とで鍛えてやる必要がある」
「長嶺組に大事があれば、それは、総和会に細い亀裂が一本入りかねない、ということか」
「亀裂一本とは、控えめな表現だな。巨体が傾ぎかねんと、わしは考える」
「巨体とは、何を指しているんだ。総和会か、それとも――」
賢吾が意味ありげな視線を、守光に向ける。守光は堂々とその視線を受け、笑った。守光のこの余裕は一体どこからくるものなのだろうかと、和彦は考えていた。賢吾を育ててきた父親としてのものなのか、巨大な組織の頂点に立つ者としてのものか。
無意識のうちに息を詰め、二人のやり取りを見つめていた和彦に気づいたのだろう。ふいに賢吾がこちらを見て、わずかに表情を和らげた。
「びっくりさせたな、先生。気にするな。俺とオヤジは、昔からこうだ。二人揃って理屈っぽいからな。こうやって言い合うせいで、総和会会長と長嶺組長は不仲なんて噂がたびたび流れるんだ。だから、外で控えていた連中も、ピリピリしていただろう? 先生のことで殴り合いでも始めるとでも思っているのかもな」
「ぼくのことって……」
「――もうしばらく佐伯家の動きを警戒して、あんたをうちで預かりたいという話を、電話で賢吾にしたんだ。すると、連絡もなくここに押しかけてきてな。そのときの賢吾の剣幕を見て、うちの者たちがいろいろと気を回していたようだ」
また賢吾から引き離されるのかと、愕然とした和彦は、そう感じた自分自身に奇妙な気持ちを抱く。これまで、この世界で頼れるのは賢吾と長嶺組だという現実を受け入れてきたつもりではあったが、それは、そうせざるを得ない状況があってのことだとも考えていた。
しかし今、咄嗟に感じた心細さは明らかに、信頼に裏打ちされた感情だ。
うろたえる和彦に対して、賢吾が静かに問うてくる。
「どうする、先生? 不安だというなら、俺は無理強いはしない」
一緒に帰るぞ、という言葉を望んでしまうのは、わがままなのだろうか――。
和彦は、軽い失望感を表に出すことなく、懸命に自分の考えを口にした。
「……実家は、探偵を雇ってまで、ぼくを捜したと言っていた。だけど、前に住んでいたマンションを出てからの動きを追えなかったそうだ。長嶺組が上手く対処してくれたからだ。今回は、長嶺組だけじゃなく、総和会も動いてくれたから……、もう大丈夫だと思う。早く、落ち着きたい」
賢吾は何も言わない代わりに、どうだ、と言いたげな表情で守光を見遣った。
守光は短く息を吐き出したあと、柔らかく笑んだ。
「ここは、落ち着かんかね」
思いがけない一言に、和彦は激しく動揺し、救いを求めるように賢吾を見る。賢吾は忌々しげに唇を歪めた。
「自分のわがままが通らないからって、先生をからかうな、オヤジ。困ってるじゃねーか」
「お前は、先生の口から、自分の希望通りの答えが聞けて、満足そうだな」
「俺が言ったところで、聞きやしないだろ。あんまりわがままが過ぎると、若い者から嫌われるぞ」
そう言いながら、賢吾の口元が緩む。和彦はようやく、自分が抱いた失望感が単なる勘違いだったことを知る。賢吾は、和彦が帰りたがると確信していたのだ。
「話はこれだけだ。さっさと先生を休ませてやりたいから、帰るぞ」
76
あなたにおすすめの小説
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
奇跡に祝福を
善奈美
BL
家族に爪弾きにされていた僕。高等部三学年に進級してすぐ、四神の一つ、西條家の後継者である彼が記憶喪失になった。運命であると僕は知っていたけど、ずっと避けていた。でも、記憶がなくなったことで僕は彼と過ごすことになった。でも、記憶が戻ったら終わり、そんな関係だった。
※不定期更新になります。
かわいい美形の後輩が、俺にだけメロい
日向汐
BL
過保護なかわいい系美形の後輩。
たまに見せる甘い言動が受けの心を揺する♡
そんなお話。
【攻め】
雨宮千冬(あめみや・ちふゆ)
大学1年。法学部。
淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。
甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。
【受け】
睦月伊織(むつき・いおり)
大学2年。工学部。
黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。
帝は傾国の元帥を寵愛する
tii
BL
セレスティア帝国、帝国歴二九九年――建国三百年を翌年に控えた帝都は、祝祭と喧騒に包まれていた。
舞踏会と武道会、華やかな催しの主役として並び立つのは、冷徹なる公子ユリウスと、“傾国の美貌”と謳われる名誉元帥ヴァルター。
誰もが息を呑むその姿は、帝国の象徴そのものであった。
だが祝祭の熱狂の陰で、ユリウスには避けられぬ宿命――帝位と婚姻の話が迫っていた。
それは、五年前に己の采配で抜擢したヴァルターとの関係に、確実に影を落とすものでもある。
互いを見つめ合う二人の間には、忠誠と愛執が絡み合う。
誰よりも近く、しかし決して交わってはならぬ距離。
やがて帝国を揺るがす大きな波が訪れるとき、二人は“帝と元帥”としての立場を選ぶのか、それとも――。
華やかな祝祭に幕を下ろし、始まるのは試練の物語。
冷徹な帝と傾国の元帥、互いにすべてを欲する二人の運命は、帝国三百年の節目に大きく揺れ動いてゆく。
【第13回BL大賞にエントリー中】
投票いただけると嬉しいです((꜆꜄ ˙꒳˙)꜆꜄꜆ポチポチポチポチ
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
好きなあいつの嫉妬がすごい
カムカム
BL
新しいクラスで新しい友達ができることを楽しみにしていたが、特に気になる存在がいた。それは幼馴染のランだった。
ランはいつもクールで落ち着いていて、どこか遠くを見ているような眼差しが印象的だった。レンとは対照的に、内向的で多くの人と打ち解けることが少なかった。しかし、レンだけは違った。ランはレンに対してだけ心を開き、笑顔を見せることが多かった。
教室に入ると、運命的にレンとランは隣同士の席になった。レンは心の中でガッツポーズをしながら、ランに話しかけた。
「ラン、おはよう!今年も一緒のクラスだね。」
ランは少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑み返した。「おはよう、レン。そうだね、今年もよろしく。」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる