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 お風呂上り、ドライヤーで髪を乾かし寝ようとした時だ。

 部屋のチャイムが鳴った。

「こんな時間に誰だろ」

 瑞穂は呟いたが、なんとなくリナであろうとは予測していた。

 玄関扉の覗き窓からは、誰の姿も見えない。

『瑞穂の住んでいる隣の102号室。1年前に児童虐待による死亡事件があったの』

 菜月の声が、頭の中で蘇る。

 本当にリナは、その死亡事件となにか関係があるのだろうか。瑞穂は事件に対する嫌悪感はあったが、リナに対する恐怖心はなかった。

 いや、全く恐怖心が湧かないと言えば嘘になるが、リナを心配する気持ちの方が強かった。

 遅い時間だったが、瑞穂は躊躇せずに扉を開けた。扉がギーッと錆びついた音を立てて開く。

「リナちゃん」

 瑞穂は、目の前でうつむいているリナの前にしゃがんだ。

「こんな時間にどうしたの?」

「お母さん、まだ帰ってこないの」

 リナが顔を上げる。昨日よりも更に頬がこけたように見える。目の下にも隈ができているようだ。

「部屋、入る?」

 瑞穂が招き入れると、リナは土間まで入ってきた。だが、部屋には上がろうとしない。

「上がらないの?」

 瑞穂は部屋の方を指さした。

 リナは部屋の奥に視線を送ると、驚いたように目を見開いた。

「どうかした?」

 瑞穂の問いに、リナは真っ直ぐに腕を上げ、部屋の中を指さした。

「やっぱりいるじゃん。マミちゃん」

「え?」

 瑞穂はリナの指さす方を振り返った。

 部屋のベッドが見えるだけで、誰の姿もない。

「誰も、いないよ」
 
 瑞穂の声は震えていた。

「やっぱりお姉さんが、マミちゃんのママなんでしょ? 昨日はマミちゃんのこと知らないって、嘘をついたの?」

 瑞穂は、リナに責め立てられているような気がした。

「嘘じゃないよ。マミちゃんって、どの子のこと言っているのかわからなかったの」

 声が上ずる。

「お姉さんの赤ちゃんなのに? 忘れちゃったの?」

 やはりリナの言っているマミとは、あのマミちゃんのことだったのだ。

 信じられない話だが、疑う余地はない。

 瑞穂は首を横に振った。

「忘れてないよ」

 忘れるわけがない。毎日ずっとマミのことを考え続けている。

「マミちゃん、本当にこの部屋にいるの?」

 リナはすぐさまうなずく。

 瑞穂は嬉しい反面、怖さもあった。霊的なものに対する怖さではなく、愛する我が子に恨まれているのではないかという恐怖心だった。

 マミは、本当はこの世に生まれてきたかったのかもしれない。その希望を無慈悲にも絶ったのは、瑞穂に他ならないのだ。

 ひょっとしたらマミは、瑞穂のことを恨んで成仏できていないのではないだろうか。

「マミちゃんのこと、見えないの?」

 リナは不思議そうな顔をする。

「うん、わたしには見えない。リナちゃんには見えるの?」

「見えるよ。それにね、お話もできるの。マミちゃんはね、まだ赤ちゃんだからママとお喋りできないんだって。でも、リナちゃんにはマミちゃんの言葉が聞こえるんだよ」

 リナは自慢げに胸を張った。

「それでね、ママに伝えて欲しいってマミちゃんから頼まれたの。だからリナちゃんは、マミちゃんのお話を伝えるためにこの部屋に来たの」

 リナの視線は、部屋にいるというマミと瑞穂の間をいったりきたりした。

「マミちゃん、きっと怒っているよね。わたしのせいで、死んじゃったから」

 瑞穂は喉につかえている言葉を吐き出すように言った。

「怒ってないよ」

 リナが両手を振りながら言う。

「マミちゃんはね、ママが大好きなんだって。だからママに幸せになって欲しいの。そうだよね、マミちゃん?」

 リナがにこっと笑った。

 瑞穂は部屋の中を振り返った。

 誰もいないし、気配すら感じることができない。瑞穂には霊感なんてない。

 本当にマミがここにいるのだろうか。わからない。わからないが、喉の奥が痛いほどに熱くなって、視界がぼやける。

「泣かないで。マミちゃんが心配してる。マミちゃんはね、ママが幸せになるのを見届けてから、天国に行くんだって」

 リナの言葉に、瑞穂は目頭を指で拭った。

 瑞穂はクリアになった視界で、リナを見下ろした。死産したはずのマミが見えて、話もできるというリナ。やはりリナは幽霊なのだろうか。

「リナちゃんも、リナちゃんのお母さんが幸せになったら天国に行くの?」

 瑞穂が遠慮がちに尋ねると、リナは首をかしげた。

「なんで? リナちゃんは天国に行かないよ。だって死んでないもん」

 きょとんとするリナに、瑞穂は慌てて謝った。

 いつの間にか、勝手にリナを幽霊だと思い込んでしまっていた。やはり、リナは生きている。確かにこうして、瑞穂の前に立っている。

「ねぇ、さっきリナちゃんのお部屋に、誰かと一緒に来たでしょ?」

 リナが突然思い出したように、話を変えた。

「あの女の人、誰?」

 リナは少し怒っているような顔をしている。

「あぁ。リナちゃん、覗き窓から見てたの? 彼女はわたしの友だち。高校の時の同級生だよ」

「ふーん。それならいいけど」

 リナは不審そうに眉を歪めると、クルリと向きを変えて扉を開けた。

「帰るの?」

 瑞穂の問いには答えず、外に出ていく。

「どうやって、覗き窓から見たのかな」

 瑞穂は首をかしげた。リナの背丈は、玄関扉の覗き窓よりも随分と下の方だった。

 瑞穂は耳を澄ませたが、リナの帰っていく足音も、隣の部屋の扉を開けた音もしなかった。

 リナの存在が、急に輪郭を失ったように不確かなものになる。

「やっぱり明日、大家さんに話を聞きに行ってみようかな」

 呟きながら瑞穂は、玄関扉の鍵を閉めた。鍵を回すとカチャリと音を立てた。静かな部屋に、その音はやけに大きく聞こえた。
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