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幕間
~白石菘~
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彼と氷川さんが飲みに行った次の日、氷川さんが単身で西病棟三階のナースステーションへやってきた。たまたま通りかかったという雰囲気を醸し出しながら、私に向かって左手の人差し指をピンと立てる。
これは……昨日彼に送ったサインと同じだと受け取っていいのだろうか。仕方なく私は右手でグッドのサインを返すと、氷川さんは満足したようにナースステーションを後にした。
氷川さんに誘われるのは初めてだし、私自身彼女を避けていた節はある。本当は非常に気乗りのしない誘いではあったが、昨日の今日だ。とても何か嫌な予感がする。
仕事が終わると、私は氷川さんにいきつけだというバーに連れてこられた。昨日も彼とここに来たらしい。
カウンター席に座り、甘くて弱いやつ、とバーテンさんに希望を伝えるとファジーネーブルが出てきた。氷川さんの前にはオリーブの添えられたアルコールの強そうな飲み物が置かれている。
「こうやって二人きりで話すのは初めてね」
氷川さんは余裕のある態度で飲み物を一口飲んだ。
「そうですね……本当はものすごーく気乗りがしなかったんですけど」
私がぶっきらぼうに応えると、氷川さんはクスクス笑った。
「あら? もしかして私、嫌われているのかしら?」
「……そういうところですよ」
私が氷川さんを避けていることは本人も知っているだろうし、それを知った上で言っているのだから質が悪い。この常に上から目線で何もかも見透かしているような態度が苦手だ。
「ふふ。まあ、今日誘ったのは昨日、鷹司くんと何を話したかを教えてあげようかと思って」
「それは是非教えて頂きたいですね」
「あら、意外と素直なのね。じゃあとりあえず、最初に彼自身について話そうかしら。白石さんは、鷹司くんの悪いところっていったら何を思い浮かべる?」
「……鈍感、なところですかね」
「それは何に対して?」
「……見ていれば分かりますよね? 私の恋心に対してですよ」
「随分とハッキリ言うのね。まあ、ここから先は私も茶化さないで話すわ」
やっぱりさっきまでは茶化していたんだと思うと割とイラっとくる発言だった。
「そう、鷹司くんは鈍感よね。でも周りに気遣いが出来ない、というわけではない。患者と接している姿を見れば、むしろ男性にしてよく気が利く方だと思うわ。何に鈍感かと言えば、女性の気持ちに対する理解が著しく欠けている、というのが周りの見解よね」
今ここでこの話題を持ってくる意味はすぐに理解できた。
やっぱりこの人は、彼の秘密に気付いている。
「私も最初は色々思うところはあったわ。ゲイなのかしら? 女性嫌いや女性不信? もしかしたら性的不能なのかも? とかね。でもどれも違うようだった。鷹司くんは、自分に向けられる女性の好意に特化して鈍感だった。いえ、鈍いなんて生易しい。正確には、目を逸らして拒絶している、といったところかしら」
「……そう断言できることでもあったんですか?」
「だって私が色目を使っても全くの無反応なのよ。これは普通じゃないと感じたわね」
ピタっと身体に吸い付くようにタートルニットを着こなしている氷川さんは、その豊満なバストから綺麗なくびれまで、ボディラインがはっきり見て取れる。女性の理想とするような体型を顕わにした氷川さんは、女の私から見てもめちゃくちゃエロいと感じた。
確かに、こんな人に色目を使われて無反応っていう男の人は普通じゃないのかもしれない。
「まあ、本当に女性に対して興味がないんだと思ってしまえばそれまでだったのだけれど、この話はそこで終わりにはならなかった。鷹司くんにもフラれて凹むことがあると知った時から、僅かに感じていた違和感がどんどん肥大化していったわ。何故、特定の女性にのみ関心を示すのか。しかもその相手を好きだったり未練があるわけでもないらしい。私は、それについて色んな可能性を考えた」
私は黙って氷川さんの話を聞く。やはりこの人は、彼についての違和感を考察していた。
私が氷川さんから避けていた理由は、やはりそこに起因する。
「彼は普通じゃない。異常よ。異常なものは、病気と呼ぶの。そして私は、ひとつの可能性を最も疑った」
そして氷川さんは、目の前のグラスに口を付けてから言った。
「解離性健忘症――――心的外傷や過大なストレスによって特定の情報を忘れてしまう精神疾患。記憶喪失の一種ね。鷹司くんは、昔女性に関するトラブルか何かでその情報を忘れてしまった。それでも、女性に対する恐怖心かその出来事に対する拒絶反応で女性の気持ちを理解できなくなっているんじゃないかと私は思ったの」
「……凄いですね。よくそれだけの情報で、こじつけのようにそこまで結び付けられるものだと感心しますよ」
氷川さんの言葉を認められず、私はまだ悪足掻きをする。
「そうね。これだけではそこまで結びつけることは難しい。でもね、もう一人居たのよ。私から見て普通じゃない人が」
そう言いながら、氷川さんは私の横顔を見つめる。
「……私……ですか……」
こうなると思ったから避けていたのに、その努力もまるで意味がなかったようだ。
「私たちはいつまでも子供じゃない。恋愛や結婚を本気で考えているんだったら、全く自分に関心を示さない相手に執着している時間はないのよ。鷹司くんは女性の好感度は高いのだけど、あまりに関心を示さないからみんな諦めて離れていっただけ。そんな中、白石さん一人だけがいつまでも彼に執着し続けていた。しかもウチに入職した頃からずっとときたものよ」
そこは純真な一途だと受け取ってもらいたかったけれど、氷川さんの前ではそうはならなかったらしい。割とそう見える努力はしたつもりなんだけどな。
「貴女に興味もなかったしどうでもよかったからあまり気にしていなかったのよ。でも、鷹司くんに解離性健忘症の可能性を思い浮かんだ時、もしかしたら白石さんは、彼の忘れた記憶を知っていて近づいたんじゃないか、って思ったら私の中で辻褄が合ってしまったのよね」
ここらへんがチェックメイト。これ以上言い訳しても、私自身が空しくなるだけだ。
「それとも、彼に執着する理由が他にあるのかしら?」
「他の理由なんかありませんよ。全て氷川さんが言った通りです。鷹司さんは昔の記憶の一部を忘れていて、私はその全てを知っています」
「……でも、あなたがトラウマの原因、っていうわけじゃないのよね?」
「私と鷹司さんの間には何もなかったですよ。あったのは――私の姉です」
「……お姉さん?」
「鷹司さんは、姉に関する全ての記憶を忘れています。もちろん、妹である私の事も……」
そうして私は、あの頃を思い出す。
「あれは――私が中学一年生の時の事でした――――」
「い、いいのよ! 事情は話さなくて! 私もそこまで踏み込むつもりはないわ!」
珍しく慌てた様子で氷川さんが私を制止する。
「……じゃあ、どうしてこの話を……?」
私が聞きくと、氷川さんは表情を曇らせた。
「……話を最初に戻すわね。昨日、鷹司くんと何を話したかについてだけど、主に思い出の二人についての話だった。ずっとその思い出に縛られているのが嫌だった。そのせいで自分は先に進めない。何も変われない。同窓生の結婚式でさらにそれを感じてしまった。そうして追いつめられた彼は――自分に忘れている記憶があることに気付いてしまった」
「え――――」
思わず声にならないものが漏れる。
「まだ何かを思い出したわけじゃない。それでも、思い出の二人がその記憶の邪魔をしているというところまで気付いてしまった。そして、二人の思い出を断ち切るという決断をした」
「……そう、ですか」
思ったよりもショックではなかった。とうとうここまで来てしまったという感じ。
いつまでも――――逃げ続けられないのは、最初から分かっていたから。
「二人の思い出は、お姉さんの記憶の蓋なのよね? 本当に思い出したくない思い出の上に、さらに昔の輝かしい思い出を蓋にした。彼が二人の思い出に必要以上に縛られていたのは、そのためなんじゃないかというのを感じていた。だから白石さんは彼の相談に乗っていたのよね? 二人の思い出を、お姉さんの記憶の蓋を、壊さないために」
この人は本当に全て見透かしていた。それを知ったうえで、余計な手出しをしなかったということなのだろう。今更ながら、最初から私も氷川さんに相談していれば、何かが早く変わっていたかもしれない。
「記憶の蓋……ですか。本当になんでも見透かしているんですね」
そうして私はそのまま話し続ける。
「彼と再会したのは本当にただの偶然でした。私のことを忘れたまま、姉のことも忘れたまま。再会した彼と接するうちに、彼が昔を思い出さないのは、かつて仲の良かった幼馴染二人の存在が大きいことが分かりました。だから、それを守ろうと思ったんです。結果的にどちらかに鷹司さんを取られるかもしれない。それでもいいと思ったんです。あんな辛いことを、思い出すくらいなら……」
「その判断は私も同感ね。恐らく、近いうちに鷹司くんはなんらかの形で思い出の二人との関係を終わらせてしまうと思うわ。そうしたら、その記憶を思い出してしまうのは時間の問題……。私には、鷹司くんの決断を止めることを出来なかった。私の言葉では、きっと彼の心に届かないから……。でも、白石さんなら――――」
「もう、いいですよ」
「……本当に……いいの?」
「はい。私も、いつまでもこのままでいられるとはとは思っていなかったですから。だから私も、鷹司さんの決断を尊重しようと思います」
「でも、本来ならば精神科医のカウンセリングが必要なことよ。そんな記憶をこじ開けるようなことをして、彼の精神は耐えられるのかしら……? 最悪、記憶を思い出したことによって、PTSDになるってことも――――」
「大丈夫です。私が、なんとかしますから」
「なんとかって言っても――――」
「精神科医の先生でも無理ですよ。これは、私にしかできません」
「……そう。……後を頼むわね」
「思い出って、呪いみたいですよね。その頃の想いが強ければ強いほど、その時間に縛り付けられる」
いつしか彼の前で言った言葉。
他の誰でもない、私自身に言い聞かせていた言葉だった。
あの頃の思い出は、いつまでも呪いのように。
だから私は――――先に進めない。
氷川さんと話をした数日後。仕事終わりに、彼から珍しく食事に誘われた。いや、珍しいなんてもんじゃない。これが初めてだ。色んな可能性を考慮しつつ、私は誘いに乗った。
「ごめん、白石さん。大切な思い出……守れなかったわ」
食事の途中、彼は苦笑いを浮かべながら言った。
氷川さんの言った通り、彼は二人の関係を終わらせてしまっていたようだ。
宮藤先輩は遊馬先輩と仲直りをすると言っていたが、うまくいかなかったのだろうか。
それでも、そんな結果を受けても安心している自分がいた。
本当は私も、そんな簡単に仲直りをしてほしくはなかった。
だってそのままだと、私と彼はいつまでも過去に縛られたままだから。
「鷹司さんは明日お休みですか?」
「うん、休みだけど?」
明日私は夜勤の入りだから、夕方までは時間がある。
なら―――――動くならこのタイミングしかない。
「じゃあ今日はとことん飲みましょう! 私もお付き合いしますよっ!」
彼は――いや、昴太くんは先に進む決意をした。
そして今、確実にその一歩を踏み出している。
だったら次は――――私の番だ。
私はこれから、彼の思い出を取り戻す。
私自身が先に進むために――――
これは……昨日彼に送ったサインと同じだと受け取っていいのだろうか。仕方なく私は右手でグッドのサインを返すと、氷川さんは満足したようにナースステーションを後にした。
氷川さんに誘われるのは初めてだし、私自身彼女を避けていた節はある。本当は非常に気乗りのしない誘いではあったが、昨日の今日だ。とても何か嫌な予感がする。
仕事が終わると、私は氷川さんにいきつけだというバーに連れてこられた。昨日も彼とここに来たらしい。
カウンター席に座り、甘くて弱いやつ、とバーテンさんに希望を伝えるとファジーネーブルが出てきた。氷川さんの前にはオリーブの添えられたアルコールの強そうな飲み物が置かれている。
「こうやって二人きりで話すのは初めてね」
氷川さんは余裕のある態度で飲み物を一口飲んだ。
「そうですね……本当はものすごーく気乗りがしなかったんですけど」
私がぶっきらぼうに応えると、氷川さんはクスクス笑った。
「あら? もしかして私、嫌われているのかしら?」
「……そういうところですよ」
私が氷川さんを避けていることは本人も知っているだろうし、それを知った上で言っているのだから質が悪い。この常に上から目線で何もかも見透かしているような態度が苦手だ。
「ふふ。まあ、今日誘ったのは昨日、鷹司くんと何を話したかを教えてあげようかと思って」
「それは是非教えて頂きたいですね」
「あら、意外と素直なのね。じゃあとりあえず、最初に彼自身について話そうかしら。白石さんは、鷹司くんの悪いところっていったら何を思い浮かべる?」
「……鈍感、なところですかね」
「それは何に対して?」
「……見ていれば分かりますよね? 私の恋心に対してですよ」
「随分とハッキリ言うのね。まあ、ここから先は私も茶化さないで話すわ」
やっぱりさっきまでは茶化していたんだと思うと割とイラっとくる発言だった。
「そう、鷹司くんは鈍感よね。でも周りに気遣いが出来ない、というわけではない。患者と接している姿を見れば、むしろ男性にしてよく気が利く方だと思うわ。何に鈍感かと言えば、女性の気持ちに対する理解が著しく欠けている、というのが周りの見解よね」
今ここでこの話題を持ってくる意味はすぐに理解できた。
やっぱりこの人は、彼の秘密に気付いている。
「私も最初は色々思うところはあったわ。ゲイなのかしら? 女性嫌いや女性不信? もしかしたら性的不能なのかも? とかね。でもどれも違うようだった。鷹司くんは、自分に向けられる女性の好意に特化して鈍感だった。いえ、鈍いなんて生易しい。正確には、目を逸らして拒絶している、といったところかしら」
「……そう断言できることでもあったんですか?」
「だって私が色目を使っても全くの無反応なのよ。これは普通じゃないと感じたわね」
ピタっと身体に吸い付くようにタートルニットを着こなしている氷川さんは、その豊満なバストから綺麗なくびれまで、ボディラインがはっきり見て取れる。女性の理想とするような体型を顕わにした氷川さんは、女の私から見てもめちゃくちゃエロいと感じた。
確かに、こんな人に色目を使われて無反応っていう男の人は普通じゃないのかもしれない。
「まあ、本当に女性に対して興味がないんだと思ってしまえばそれまでだったのだけれど、この話はそこで終わりにはならなかった。鷹司くんにもフラれて凹むことがあると知った時から、僅かに感じていた違和感がどんどん肥大化していったわ。何故、特定の女性にのみ関心を示すのか。しかもその相手を好きだったり未練があるわけでもないらしい。私は、それについて色んな可能性を考えた」
私は黙って氷川さんの話を聞く。やはりこの人は、彼についての違和感を考察していた。
私が氷川さんから避けていた理由は、やはりそこに起因する。
「彼は普通じゃない。異常よ。異常なものは、病気と呼ぶの。そして私は、ひとつの可能性を最も疑った」
そして氷川さんは、目の前のグラスに口を付けてから言った。
「解離性健忘症――――心的外傷や過大なストレスによって特定の情報を忘れてしまう精神疾患。記憶喪失の一種ね。鷹司くんは、昔女性に関するトラブルか何かでその情報を忘れてしまった。それでも、女性に対する恐怖心かその出来事に対する拒絶反応で女性の気持ちを理解できなくなっているんじゃないかと私は思ったの」
「……凄いですね。よくそれだけの情報で、こじつけのようにそこまで結び付けられるものだと感心しますよ」
氷川さんの言葉を認められず、私はまだ悪足掻きをする。
「そうね。これだけではそこまで結びつけることは難しい。でもね、もう一人居たのよ。私から見て普通じゃない人が」
そう言いながら、氷川さんは私の横顔を見つめる。
「……私……ですか……」
こうなると思ったから避けていたのに、その努力もまるで意味がなかったようだ。
「私たちはいつまでも子供じゃない。恋愛や結婚を本気で考えているんだったら、全く自分に関心を示さない相手に執着している時間はないのよ。鷹司くんは女性の好感度は高いのだけど、あまりに関心を示さないからみんな諦めて離れていっただけ。そんな中、白石さん一人だけがいつまでも彼に執着し続けていた。しかもウチに入職した頃からずっとときたものよ」
そこは純真な一途だと受け取ってもらいたかったけれど、氷川さんの前ではそうはならなかったらしい。割とそう見える努力はしたつもりなんだけどな。
「貴女に興味もなかったしどうでもよかったからあまり気にしていなかったのよ。でも、鷹司くんに解離性健忘症の可能性を思い浮かんだ時、もしかしたら白石さんは、彼の忘れた記憶を知っていて近づいたんじゃないか、って思ったら私の中で辻褄が合ってしまったのよね」
ここらへんがチェックメイト。これ以上言い訳しても、私自身が空しくなるだけだ。
「それとも、彼に執着する理由が他にあるのかしら?」
「他の理由なんかありませんよ。全て氷川さんが言った通りです。鷹司さんは昔の記憶の一部を忘れていて、私はその全てを知っています」
「……でも、あなたがトラウマの原因、っていうわけじゃないのよね?」
「私と鷹司さんの間には何もなかったですよ。あったのは――私の姉です」
「……お姉さん?」
「鷹司さんは、姉に関する全ての記憶を忘れています。もちろん、妹である私の事も……」
そうして私は、あの頃を思い出す。
「あれは――私が中学一年生の時の事でした――――」
「い、いいのよ! 事情は話さなくて! 私もそこまで踏み込むつもりはないわ!」
珍しく慌てた様子で氷川さんが私を制止する。
「……じゃあ、どうしてこの話を……?」
私が聞きくと、氷川さんは表情を曇らせた。
「……話を最初に戻すわね。昨日、鷹司くんと何を話したかについてだけど、主に思い出の二人についての話だった。ずっとその思い出に縛られているのが嫌だった。そのせいで自分は先に進めない。何も変われない。同窓生の結婚式でさらにそれを感じてしまった。そうして追いつめられた彼は――自分に忘れている記憶があることに気付いてしまった」
「え――――」
思わず声にならないものが漏れる。
「まだ何かを思い出したわけじゃない。それでも、思い出の二人がその記憶の邪魔をしているというところまで気付いてしまった。そして、二人の思い出を断ち切るという決断をした」
「……そう、ですか」
思ったよりもショックではなかった。とうとうここまで来てしまったという感じ。
いつまでも――――逃げ続けられないのは、最初から分かっていたから。
「二人の思い出は、お姉さんの記憶の蓋なのよね? 本当に思い出したくない思い出の上に、さらに昔の輝かしい思い出を蓋にした。彼が二人の思い出に必要以上に縛られていたのは、そのためなんじゃないかというのを感じていた。だから白石さんは彼の相談に乗っていたのよね? 二人の思い出を、お姉さんの記憶の蓋を、壊さないために」
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「記憶の蓋……ですか。本当になんでも見透かしているんですね」
そうして私はそのまま話し続ける。
「彼と再会したのは本当にただの偶然でした。私のことを忘れたまま、姉のことも忘れたまま。再会した彼と接するうちに、彼が昔を思い出さないのは、かつて仲の良かった幼馴染二人の存在が大きいことが分かりました。だから、それを守ろうと思ったんです。結果的にどちらかに鷹司さんを取られるかもしれない。それでもいいと思ったんです。あんな辛いことを、思い出すくらいなら……」
「その判断は私も同感ね。恐らく、近いうちに鷹司くんはなんらかの形で思い出の二人との関係を終わらせてしまうと思うわ。そうしたら、その記憶を思い出してしまうのは時間の問題……。私には、鷹司くんの決断を止めることを出来なかった。私の言葉では、きっと彼の心に届かないから……。でも、白石さんなら――――」
「もう、いいですよ」
「……本当に……いいの?」
「はい。私も、いつまでもこのままでいられるとはとは思っていなかったですから。だから私も、鷹司さんの決断を尊重しようと思います」
「でも、本来ならば精神科医のカウンセリングが必要なことよ。そんな記憶をこじ開けるようなことをして、彼の精神は耐えられるのかしら……? 最悪、記憶を思い出したことによって、PTSDになるってことも――――」
「大丈夫です。私が、なんとかしますから」
「なんとかって言っても――――」
「精神科医の先生でも無理ですよ。これは、私にしかできません」
「……そう。……後を頼むわね」
「思い出って、呪いみたいですよね。その頃の想いが強ければ強いほど、その時間に縛り付けられる」
いつしか彼の前で言った言葉。
他の誰でもない、私自身に言い聞かせていた言葉だった。
あの頃の思い出は、いつまでも呪いのように。
だから私は――――先に進めない。
氷川さんと話をした数日後。仕事終わりに、彼から珍しく食事に誘われた。いや、珍しいなんてもんじゃない。これが初めてだ。色んな可能性を考慮しつつ、私は誘いに乗った。
「ごめん、白石さん。大切な思い出……守れなかったわ」
食事の途中、彼は苦笑いを浮かべながら言った。
氷川さんの言った通り、彼は二人の関係を終わらせてしまっていたようだ。
宮藤先輩は遊馬先輩と仲直りをすると言っていたが、うまくいかなかったのだろうか。
それでも、そんな結果を受けても安心している自分がいた。
本当は私も、そんな簡単に仲直りをしてほしくはなかった。
だってそのままだと、私と彼はいつまでも過去に縛られたままだから。
「鷹司さんは明日お休みですか?」
「うん、休みだけど?」
明日私は夜勤の入りだから、夕方までは時間がある。
なら―――――動くならこのタイミングしかない。
「じゃあ今日はとことん飲みましょう! 私もお付き合いしますよっ!」
彼は――いや、昴太くんは先に進む決意をした。
そして今、確実にその一歩を踏み出している。
だったら次は――――私の番だ。
私はこれから、彼の思い出を取り戻す。
私自身が先に進むために――――
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