あの頃の思い出は、いつまでも呪いのように。

gresil

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思い出の終わり

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 終電を逃すほど飲み明かした俺は、タクシーで帰路についている途中だった。

「あ~! ここ~! ここれふよ~」

 同乗していた白石さんに言われ、一旦 タクシーを止める。どうやら目の前にある四階建てのマンションが自宅のようだ。

「ここで大丈夫?」
「はーい、お疲れさまでした~」

 タクシーを降りた白石さんはパタパタ手を振っている。

 今日は白石さんに、夏花と碧生との関係が終わってしまったことを簡単に報告した。あんなに親身になって協力してくれたのに、こんな結果になってしまって本当に申し訳なく思う。

 落ち込んでいる様子の俺を励ますように、白石さんが今日はとことん飲もうと誘ってくれた。
 そしてとことん飲んだ。白石さんが。

 どこからどう間違ったのか、気付いたら俺が白石さんの愚痴を聞いてあげるだけの時間に変わっていた。通勤電車での愚痴だったり仕事の愚痴だったり他愛のないものばかり。
 俺としては済んでしまったことをヘタに思い返すこともなかったので、意外と悪くない時間だったとは思う。

 しかし、当の白石さんは完全に出来上がっており、もう自分の足では歩けないほどに泥酔していた。口はずっと回りっぱなしだったが、アルコールはそんなに飲んでいなかったような気もする。確かカシスソーダ3杯くらいだぞ。飲んでいたのはほとんどコーラだ。

 そのまま放っておくわけにもいかず、歩けない白石さんを終電時間までに駅まで介抱出来そうにもなかったので、二人でタクシーに乗り込んだという流れだった。
 タクシーからは自力で降りられたし自宅も目の前だ。これくらいならなんとかなるだろう、と思っていたのも束の間。白石さんは歩道の上で横になった。

「おい! そんなところで寝るつもりなのかよ!? すみません!! やっぱり俺も降ります!!」

 タクシーの支払いを済ませ、横になっていた白石さんの元に駆け寄る。

「おい、風邪ひくぞ」
「じゃあおんぶ~。おんぶしてくらは~い」

 白石さんはそう言いながら俺に鍵を差し出した。

 自分で動く気配がなかったので仕方なく鍵を受け取り、白石さんをおぶってマンションへ向かう。エントランスの自動ドアが開かなかったので、受け取った鍵でドアを開けた。女性の一人暮らしだから、セキュリティはしっかりしたところに住んでいるらしい。

「部屋はどこ?」
「302号室で~す」

 エレベーターに乗り込み三階のボタンを押す。三階に着いたら302号室へ向かい、鍵を開けて玄関の扉を引いた。

 玄関に一歩踏み入れると、背中の白石さんが電気を点けた。廊下が一本伸び、奥にはリビングらしき部屋が見える。その廊下の横にいつくか扉があった。

「そこー。左の部屋が寝室でーす」

 白石さんがそのうちの一つを指さす。

「はいはい」

 俺は靴を脱ぎ、指示された部屋へ向かった。ドアを開けると、玄関からの光が僅かに差し込み、部屋の様子が薄っすら見て取れる。ベッドがある場所も把握できた。

「ベッド~。早くベッドに降ろして下さいよ~」

 言われて俺は電気を点けないまま部屋に入り、白石さんをゆっくりベッドに下ろす。

「もうこれで本当に大丈夫だろ? じゃあ俺は帰るから……」

 そう言いながら部屋を後にしようとするも、俺はその場から動けなくなっていた。ベッドに腰かけた白石さんが、俺の腕を掴んでいたからだ。

「……いや、帰りたいんだけど?」
「まあまあ、今日はゆっくりしていっていいですよ」

 白石さんは笑顔のまま俺の腕を掴む力を強める。

「ゆっくりって……そういうわけにもいかないだろ……」
「私、実はまだ話し足りないんですよ。もっとゆっくりお話ししましょ?」
 さっきまでマシンガントークをしていた人が話足りないとは。女性は話のネタが尽きることはないのだろうか。
「さすがに愚痴に付き合うのは疲れたんだけど?」
「え~!? ダメですかあ~!?」
「うん。もう無理。それなら帰る」 

「そうですか……じゃあ――私の思い出について、なんてのはどうでしょう?」

 白石さんの思い出……。焼き肉の時に聞いても答えてくれなかったやつか。あの時は、俺に共感してくれたという点で少し気になったけど、なんだろう……今は別の何かで気になる。

「それ聞いたら帰ってもいい?」
「うーん……時と場合によりますねえ」
「どんな時と場合なら帰れないんだよ……ていうか白石さん。もう酔いの方は大丈夫なの?」

 ベッドに下ろしてからの白石さんは話し方が流暢になっているし、俺の腕を掴む強さは先ほどまで自分で歩けなかった人の物とは思えないほどだった。

「あー……なんか鷹司さんにおんぶしてもらったらすっかり覚めちゃったみたいです」
「なんでもう少し早く覚めてくれないかな……」
「まあまあ、とりあえず座りましょうよ」

 そう言って白石さんは俺の腕を引っ張る。俺は半ば強制的に白石さんの横に座らされた。
 薄暗い部屋の中、白石さんから語られる言葉に耳を傾ける。

「私の大切な思い出は……初恋の思い出です。私の初恋は小学六年生の頃でした。相手は一つ年上の男の子。その男の子はよく家に遊びに来てくれていましたが、もともと私と面識があったわけではありません。その男の子は……私の二つ年上の姉に連れてこられていたんです」
「……二つ上の、お姉さん?」
「はい。二人は同じ部活の先輩と後輩の間柄で、ある日唐突にその男の子を家に連れてきたんです。当時の私は、よくちょっかい出してきたりイジったりしてくる同い年の男子が苦手でした。そこで姉は、私の男嫌いに対してなんとかしようとその男の子を連れてきたんです。最初は凄く嫌だったんですけど、一つしか違わないその男の子がなんか大人に見えていたんですよね。そして私は意外とちょろかったみたいです。気付くとその男の子のことを本気で好きになっていました。でも……その男の子は、姉のことが好きでした」

 好きになった人が、既に他の誰かを好きだった。初恋の体験談としてはよく聞くような話だと思う。あまりそういう話を誰かとしたことがないからよく分からないけど。

「まあ、なんとなく予想できるとは思いますが、私の初恋は実りませんでした。百歩譲って姉に取られるなら多少は納得のいくところだったんです。でも……姉とその男の子も、結局付き合うことはありませんでした」
「え? なんで? その男の子がお姉さんにフラれたの?」
「あー……フラれましたね。それからその男の子は家にくることもなくなって、私とも疎遠になってしまった、みたいな感じです」
「はあ……なるほどね」

 その男の子がフラれたんなら白石さんにとってチャンスになるんじゃないか、とも思ったけどそういう単純な話ではないんだろう。恋愛未経験者の俺にとって、誰かと付き合うことの難しさを教えてくれるような話だった。

 そんなことを考えていると、白石さんが俺の顔をジッと見ている。

「え? 何?」

 俺の問いかけにも応えず白石さんはジーっと見続けている。そして深いため息を吐いた。

「はあ…………やっぱりこれだけじゃあ思い出してはくれませんか……」

 とてもガッカリした様子で白石さんは言う。

「え? 思い出す? 何の話?」
「鷹司さんはここ数日、何か忘れていたものを思い出しそうな感じとかありませんか?」

 白石さんはいつになく真剣な眼差しで俺を見つめる。

「……中学の時、夏花と碧生に告白されたことがあるんだ。その時の俺は他に好きな人がいるからと断ったんだけど、それが誰だったのかが思い出せない……」
「それはきっと、私の姉です」
「え? お姉さんって今の話に出てきたお姉さんだよね?」
「そうですよ。そして、今の話に出てきた男の子が鷹司さんです」
「いや、でも俺はそんなの全然覚えて――――」

 薄っすらと記憶が蘇る。確かに俺は中学時代、とても仲良くしていた姉妹がいた。

「――――あ」

 不意に奔った頭痛の衝撃に、思わず両手で頭を抱える。

「鷹司さんは、姉との記憶を思い出したいですか?」

 酷く冷たい声色で白石さんが言う。

「思い出したい……でも……まだ、思い出せない……」

 違う。思い出せないんじゃない。この頭の痛みは、思い出すことを拒絶している痛みだ。

「じゃあ……少し強引にいきますね」

 すると白石さんはスッと立ち上がり、俺をベッドの上に仰向けに寝かせる。さすが看護師さんの手際というか、ベッド介助の要領で一瞬の出来事。俺は抵抗する間もなかった。

 白石さんは、横になった俺の上に馬乗りで跨る。

「……なんのつもり? 白石さん」

 手に汗が滲み出る。

「そんな余所余所しい呼び方じゃなくて、昔みたいにすずなちゃん、って呼んでくださいよ」

 すずなちゃん……確かに、そう呼んでいた女の子がいたような気がする。

「それに、男女が二人きりなんですよ? やることって言ったら限られてるじゃないですか」

 白石さんはそう言うと、上着を脱ぎ、隠れていた下着と素肌を顕わにした。

「……いや、俺はそういうつもりはないから、早く服を着た方がいいよ」
「そんなこと言わないでこっちを見て下さいよ。そして――私に触れてください」

 白石さんはそういいながら俺の手を取り、自分の胸元まで近づける。

「辞めるんだ! こんな真似!」

 俺は咄嗟に手を引いた。

「やっぱり鷹司さんは――怖いんですね」
「…………」

 その問いかけには答えられなかった。だって、その通りだったから。
 今、俺の感情を支配しているのは間違いなく恐怖だった。

 女性の身体に触れるのが怖いわけじゃない。その先に待っている行為に恐怖を感じているんだ。だって――それは相手をとても深く、傷つける行為だと、思っているから。

「そりゃあ怖いですよね……こういうことで、とても深く傷つく人を目の当たりにしたんですから」

 白石さんはさらに下着のホックを外す。俺は思わず視線を逸らした。

「まずはその恐怖と向き合うところから始めましょう。大丈夫です。私は、鷹司さんに何をされても傷つかないですから」

 上半身を裸にした白石さんが俺の身体に覆いかぶさる。服越しに白石さんの体温を感じた。それと同時に、少しだけ震えている様子も感じる。

「白石さんも……震えてるみたいだけど……」

 顔も近くなり、耳元で囁くように言った。

「ふ、震えてますか? ま、まあ軽そうな女に見えますが、これでも処女なので優しくお願いしますね……」

 白石さんは明らかに無理をしている様子だった。どうしてここまでするのだろう?

 それはきっと、俺のためだ。

 さっきの口ぶりから恐らく白石さんは、俺の忘れているもの全てを知っているんだろう。それなのに、今までそれを俺に伝えることはおろか、悟らせることすらしなかった。
思えば、しつこく俺に絡んできていたのも、俺に二人の思い出についてアドバイスしてくれたのも、全部俺を見守っていたのかもしれない。

 そうして今も、俺の記憶が戻る手助けをしてくれようとしている。
 とても、とても長い年月、色んな想いをずっと抱え込んできたのだろう。
 それはどれだけ、辛いことだったのだろうか。

「今までごめん……きっと俺のせいで、ずっと辛い思いをしてきたんだよね?」

 不思議とそんな言葉が漏れた。先ほど感じていた恐怖も少し和らいでいる。

「気にしないで下さい。……全部鷹司さんのためですから」

 まだ震えたまま、白石さんはか細く言った。

「ありがとう。でも、まだ思い出せそうにもないんだ。だからとりあえず、いったん離れよう」

 顔を反らしたまま、白石さんの肩を掴み押し起こす。
 すると、俺の頬に一粒の水滴が落ちた。

「……ごめん……なさい」

 その雫は白石さんの涙だった。その瞳からは無数の涙が溢れ出ている。

「本当は……昴太くんのためだなんて……ウソなんです……。 ただ私が怖いだけだった! お姉ちゃんの記憶が戻ったら、私はお姉ちゃんに本当の意味で負けてしまう! だったらお姉ちゃんの事なんて忘れたままでいい! ずっとそう思ってた! でも、そんなふうに思う自分の事も嫌いで、どうしたらいいか分からなくなっていたのは私の方だったんです!!」

「お姉ちゃんのことを忘れたままの昴太くんが嫌いだった! それを見過ごす自分も嫌いだった! やっぱり私は、どんなに辛くても思い出して欲しい!! だから!!
 のことを、思い出してあげて!!!」

 白石さんは嗚咽交じりで声を張る。

 その瞬間――――俺の瞳から涙が零れ落ちた。

「なずな……? なずな、先……輩?」

 さらなる頭痛が俺を襲う。


 あまりの痛みに、俺はそのまま意識を失った。
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