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10. 恋慕
➀ 愛妻
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自分の吐息の熱さに、燦蔵は目を覚ました。
ぼんやりと霞む視界の中に、やつれた妻の顔が見えた。
「朱実……」
妻の名を呼ぶが、思うように声が出ない。
一命を取り留めた夫の生還に、朱実はただ泣きながら頷くだけであった。そして弱々しく宙に差し伸べられた燦蔵の手をしっかり両手で握りしめたのであった。
「望月の爺様が持たせてくれた薬が効いたんだね。わかるかい? 私が見えるかい」
朱実が夫の元に辿り着いてから、既に五日が経過していた。望月の里に燦蔵の重体が知らされてからは既に八日を数えている。
「ここは」
ひどく痛む頭で、燦蔵は辺りを見回した。
「姥子の湯治場だよ。医者がね、少なくとも一昼夜は湖に浸かっていた筈なのに、命を取り留めるなんて化け物だって驚いていた。金太郎もここの湯で怪我を治したんだって。おあつらえ向きだろ」
軽口を言いながらも、朱実の声は喜びで震えていた。
燦蔵は、志免と鶴丸に化けた若い下忍二人と、敵討ちを装って投宿していた。
既に風魔の監視を感じていた燦蔵は、大願成就の願掛けと称して箱根神社へ赴いたのだった。敢えて襲撃の隙を与える事で的の注意を自分達に集めさせ、別行する仁介達をより遠くへ逃がす為であった。
だが、箱根での鶴丸抹殺に賭けていた御伽衆は、十重二十重《とえはたえ》に風魔一党で燦蔵らを取り囲み、凄絶な覚悟で挑んできたのであった。
志免,鶴丸と、二人に化けていた下忍は瞬く間に倒れ、三十人余の風魔の下忍衆を殲滅した燦蔵も無傷ではなかった。立って息をするのもやっとの燦蔵の前に漸く姿を見せたのが、御伽衆の女頭領、辰姫だったのである。
こうして朱実に手を握られながらも、あの戦いを思い出すだけで燦蔵の心底が悔しさに震えた。
女の髪で編んだ気味の悪い縄で縛り上げられ、動けなくなった体をただ膾のように切り刻まれ、ただの一太刀とて返せぬまま、湖に打ち捨てられたのである。
「そう言えば……」
水の中でもがく余力さえ無く、ただ沈んで行くだけの体を、誰かがもの凄い力で引き上げてくれたのであった。
あれは芦ノ湖あたりの漁師か、付近の百姓か。だが、暗い湖の底から陽の光の下に連れ戻された時、あの優しい声を聞いた様な気がしたのだ。
「燦坊、しっかりしろ、燦坊……」
果たしてあれは、仁介の声だったのだろうか……。だが、隣にいるのは朱実であり、ここは芦ノ湖からは箱根山を隔てた北西に位置する湯治場である。
「どうしたんだい」
ここに居る理由を探っているかの様な夫の様子に、朱実が夫の額を撫でながら問うた。
「仁……」
「そうだよ。湖岸の杭に引っかかっていたあんたを引き上げて、背負ってここまで運んでくれたのは、あの仁兄だよ」
「やはりな。仁の声を聞いた気がしたのだ」
朱実は、自ら燦蔵の焼けそうに熱い胸元に頭を乗せるようにして添い寝した。
「悔しいねぇ。こんなに女房が心配してるってのに、夢に出てきたのは兄貴かい」
包帯だらけの腕で、燦蔵が朱実の細い肩を抱いた。
久しく嗅ぐ事のなかった妻の芳香を吸い込んだ時、漸く燦蔵は取り留めた命を実感したのであった。
「必ず、おまえを抱くのだと、暗い水の中で己に言い聞かせた。動かぬ体で沈みながらも、お前の元に戻りたいと、必死に念じた」
朱実の体温を感じた途端に、死の淵を彷徨った恐怖を思い起こした燦蔵は、母を求める幼子のように嗚咽を漏らした。
まだ傷跡も生々しいその唇を、朱実が優しく吸った。
「本当に、良く帰って来ておくれだね。あたしはおまえさんの側に、ずぅっといるよ」
肩を抱いていた燦蔵の手を、朱実は自ら胸元に引き込んだ。
豊かな乳房に触れた燦蔵の手が、一瞬、現実のものである事を疑うかの様に硬直した。だが、朱実が自分の手を重ねて柔らかな肌に触れさせると、燦蔵の手は安心したようにその乳房を掴んだのであった。
「ほら、おまえさんはちゃんと生きてる」
だが、高熱に苦しむ体で女を抱ける筈も無い。
もどかし気に顔を歪める燦蔵の体の上に、朱実は着物を脱ぎ捨てて重なった。
豊満な白い体を、燦蔵が眩しそうに見上げた。
「あたしが必ず、元に戻してあげる」
ここの燦蔵を運んだときの仁介が傷だらけであったこと、ここに燦蔵を運んで間もなく姿を消してしまっていた事は、しばらく燦蔵には言うまいと、朱実は心に蓋をした。
今はただ、妻の自分だけに甘えて生への執着を取り戻し、元の強靭な男に戻って欲しい、その一念のみであった。
ぼんやりと霞む視界の中に、やつれた妻の顔が見えた。
「朱実……」
妻の名を呼ぶが、思うように声が出ない。
一命を取り留めた夫の生還に、朱実はただ泣きながら頷くだけであった。そして弱々しく宙に差し伸べられた燦蔵の手をしっかり両手で握りしめたのであった。
「望月の爺様が持たせてくれた薬が効いたんだね。わかるかい? 私が見えるかい」
朱実が夫の元に辿り着いてから、既に五日が経過していた。望月の里に燦蔵の重体が知らされてからは既に八日を数えている。
「ここは」
ひどく痛む頭で、燦蔵は辺りを見回した。
「姥子の湯治場だよ。医者がね、少なくとも一昼夜は湖に浸かっていた筈なのに、命を取り留めるなんて化け物だって驚いていた。金太郎もここの湯で怪我を治したんだって。おあつらえ向きだろ」
軽口を言いながらも、朱実の声は喜びで震えていた。
燦蔵は、志免と鶴丸に化けた若い下忍二人と、敵討ちを装って投宿していた。
既に風魔の監視を感じていた燦蔵は、大願成就の願掛けと称して箱根神社へ赴いたのだった。敢えて襲撃の隙を与える事で的の注意を自分達に集めさせ、別行する仁介達をより遠くへ逃がす為であった。
だが、箱根での鶴丸抹殺に賭けていた御伽衆は、十重二十重《とえはたえ》に風魔一党で燦蔵らを取り囲み、凄絶な覚悟で挑んできたのであった。
志免,鶴丸と、二人に化けていた下忍は瞬く間に倒れ、三十人余の風魔の下忍衆を殲滅した燦蔵も無傷ではなかった。立って息をするのもやっとの燦蔵の前に漸く姿を見せたのが、御伽衆の女頭領、辰姫だったのである。
こうして朱実に手を握られながらも、あの戦いを思い出すだけで燦蔵の心底が悔しさに震えた。
女の髪で編んだ気味の悪い縄で縛り上げられ、動けなくなった体をただ膾のように切り刻まれ、ただの一太刀とて返せぬまま、湖に打ち捨てられたのである。
「そう言えば……」
水の中でもがく余力さえ無く、ただ沈んで行くだけの体を、誰かがもの凄い力で引き上げてくれたのであった。
あれは芦ノ湖あたりの漁師か、付近の百姓か。だが、暗い湖の底から陽の光の下に連れ戻された時、あの優しい声を聞いた様な気がしたのだ。
「燦坊、しっかりしろ、燦坊……」
果たしてあれは、仁介の声だったのだろうか……。だが、隣にいるのは朱実であり、ここは芦ノ湖からは箱根山を隔てた北西に位置する湯治場である。
「どうしたんだい」
ここに居る理由を探っているかの様な夫の様子に、朱実が夫の額を撫でながら問うた。
「仁……」
「そうだよ。湖岸の杭に引っかかっていたあんたを引き上げて、背負ってここまで運んでくれたのは、あの仁兄だよ」
「やはりな。仁の声を聞いた気がしたのだ」
朱実は、自ら燦蔵の焼けそうに熱い胸元に頭を乗せるようにして添い寝した。
「悔しいねぇ。こんなに女房が心配してるってのに、夢に出てきたのは兄貴かい」
包帯だらけの腕で、燦蔵が朱実の細い肩を抱いた。
久しく嗅ぐ事のなかった妻の芳香を吸い込んだ時、漸く燦蔵は取り留めた命を実感したのであった。
「必ず、おまえを抱くのだと、暗い水の中で己に言い聞かせた。動かぬ体で沈みながらも、お前の元に戻りたいと、必死に念じた」
朱実の体温を感じた途端に、死の淵を彷徨った恐怖を思い起こした燦蔵は、母を求める幼子のように嗚咽を漏らした。
まだ傷跡も生々しいその唇を、朱実が優しく吸った。
「本当に、良く帰って来ておくれだね。あたしはおまえさんの側に、ずぅっといるよ」
肩を抱いていた燦蔵の手を、朱実は自ら胸元に引き込んだ。
豊かな乳房に触れた燦蔵の手が、一瞬、現実のものである事を疑うかの様に硬直した。だが、朱実が自分の手を重ねて柔らかな肌に触れさせると、燦蔵の手は安心したようにその乳房を掴んだのであった。
「ほら、おまえさんはちゃんと生きてる」
だが、高熱に苦しむ体で女を抱ける筈も無い。
もどかし気に顔を歪める燦蔵の体の上に、朱実は着物を脱ぎ捨てて重なった。
豊満な白い体を、燦蔵が眩しそうに見上げた。
「あたしが必ず、元に戻してあげる」
ここの燦蔵を運んだときの仁介が傷だらけであったこと、ここに燦蔵を運んで間もなく姿を消してしまっていた事は、しばらく燦蔵には言うまいと、朱実は心に蓋をした。
今はただ、妻の自分だけに甘えて生への執着を取り戻し、元の強靭な男に戻って欲しい、その一念のみであった。
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