聖女だった私

山田ランチ

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23 ハイスの結婚

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 大きな屋敷の中、集まっていた侍女達の騒がしい声が玄関まで届いていた。

「本当に旦那様がご結婚なさるの? という事は近い内にここに奥様がいらっしゃるのね!」

 リンドブルム公爵家の使用人達は色めき立ちながら、玄関から入ってすぐの大広間の掃除をしていた。

「旦那様ったらあまりこのお屋敷にはお戻りになられないじゃない? だから公爵家なのに来客もほとんどないし、せっかくピカピカに磨いていても誰にも見てもらえないんだもの。だから奥様が来たらとっても素敵だわ」
「でも凄く嫌な奥様だったらどうするの。何度も掃除をやり直させられるかもしれないし、真夜中に叩き起こされるかもしれないわよ」

 すると、扉の装飾を一つ一つ丁寧に拭いていた侍女はあからさまに溜息を吐いた。

「あのね二人共! 旦那様がそんな性悪女に捕まる訳がないでしょう! きっと旦那様に似合いのお優しくて美しい奥様がいらっしゃるのよ」

 ぎゅっと布巾を握り締めた侍女の後ろに目をやった侍女達は、一気に口を噤んだ。布巾を握り締めたまま階段を恐る恐る見上げた侍女は小さな悲鳴を上げた。

「決してさぼっていた訳ではございません。ちゃんと手は動かしていました」

 眼鏡の奥から鋭い視線が落ちてくる。侍女は思わず後退すると、それとは反対に思い切り腰に手を回された。何が起きたのか分からずに目を瞑った瞬間、整った顔から呆れたような溜息が溢れた。

「そのまま下がればバケツを足で蹴飛ばすところでしたよ。掃除をして汚すつもりですか」

 とっさに振り返ると、汚れた水が入ったバケツに踵がギリギリ当たらない位置で止まっていた。

 その途端、玄関が勢いよく開く音がする。入ってきたのはこの家の当主ハイス・リンドブルムだった。侍女は自分を抱きしめている者越しにその姿と視線がかち合った。

「……私の事は気にしなくていいぞ」

 そう言うとハイスはスタスタと階段を上がって行ってしまう。そしてすれ違いざまに小さく笑った。

「シモンの事を宜しく頼むよ」

 侍女は顔を真っ赤にすると抱き締められている腕の中から飛び出そうと身体を動かした。その瞬間、乾いた音と共に侍女達の呆れたような声が上がった。バケツは後ろに倒れ、水は絨毯に染み出している。その瞬間、拘束されていた身体がぱっと離され自由になった。上を見る事は恐ろし過ぎて、侍女はスカートを握り締めたまま俯いていた。

「早く片付けてしまいなさい。それと屋敷内だからとはいえ迂闊な噂話はしないように。お前達もですよ」

 凍ってしまうような静かな声が頭上から落ちてくる。そして足音はあっという間に遠ざかって行ってしまった。

「……今日の執事長も素敵よね。ああ! 私がそこに立っていれば良かった!」

 シモンがいなくなった途端歓声が湧き上がる。シモンは再び遠くから聞こえてきた侍女達の声にこめかみを押さえると小さく頭を振った。




「事前にご連絡頂けましたらお迎えに上がりましたのに」

 家紋の入ったカフス釦を外しながら振り向いたハイスは、悪びれる事なく言い放った。

「テスラに乗った方が早いのにわざわざ馬車を使う必要があるのか?」
「大ありです。公爵家当主が共も連れずに単騎であちこちに現れるなど聞いた事がありません。それに、愛馬に女性の名前を付けるのはお止めくださいと再三申し上げているのにやはりご変更なさる気はないようですね」

 冷静に捲し立ててくるシモンを気にも止めずハイスは更に首元のタイも緩めた。

「しかしなあ、テスラもすでにその名前が自分の事だと認識しているし、今更変えるのも可哀相だろう?」
「テスラは利口なので問題ないかと存じます。それに、馬に女性の名前を付けるような男性はモテませんよ。知られたらきっと引かれます」
「そういうものか。祖母の名前だから大切にしたかったんだが」
「お祖母様もご自分の名前を馬に付けていると知ったらどうお思いになるのでしょうか」
「いつも呼べる愛する物に付けたんだ。きっと喜んでくださるさ。とは言っても祖母の記憶はないから実際は分からないが」

 あっけらかんとしたハイスに軽い目眩を覚えながら、目の前に近寄った。

「旦那様のご婚約についてもう噂が流れております。人の口に戸は建てられないものですね」
「そのようだな。しかし十中八九向こうが流したんだろう」
「ネグルアーデリアン侯爵ですか。ご息女のルイーズ様は教養高く、大変お美しいとのお噂でございますが、不思議と今まで縁談の話は持ち上がらなかったのが気になります」
「それは私にも分からない。なにせネグルアーデリアン領は土地柄かなり閉鎖的なんだ。私もまだ会った事はないし、向こうも城の夜会や舞踏会には毎回不参加だったから容姿については噂程度に受け取っておくさ。縁談の話がなかったのかも実際の所はわからないし、今日も返事を持って城に来ていたのは当主の代わりにと長男のヴィクトル殿だけだった」
「まさかこのままお会いしないでご婚約を決められるのですか? それはあまりに無謀な気も致します。仮にも公爵家の奥方となられるお方ですよ」

 それにはハイスも深い息を吐いた。

「それは流石に避けたいが、このままではそうなるかもしれないな。向こうはどうあってもルイーズ嬢を連れて来たくないらしい。距離的な問題でそう言っているのならいいが、仮にルイーズ嬢がこの婚約を承諾してないのであれば申し訳ないと思ってな」
「全く、どこまで人がいいんですか。旦那様のお年ならばもうとっくに三、四人お子がいてもおかしくはないというのに。確かルイーズ様は二十六歳でございましたね。お子はまだまだ産めるでしょうが、あとは旦那様の体力の方が心配です」
「俺はまだ三十四歳だ! 体力を心配されるような年じゃない」
「しかしもし本当に承諾していないとしてそのまま結婚し、ルイーズ様が子作りを拒否されたら? 愛妾を持つのも良いでしょうが多忙で不器用な旦那様にそれが出来るとも思えません」
「私は愛妾は持つつもりはない。もしルイーズ嬢が嫁いできてくれるのなら、生涯女は妻だけだ」
「崇高なお考えですが、ルイーズ様がどんな理由であれお子を生まない場合には愛妾も考えて頂きます」
「……まだ婚約もしていないのに話が飛躍し過ぎだ」

 シモンはさも当然と言わんばかりに言いながら、眼鏡を押しながら今度は難しい顔をした。

「また少しお会いしない間にお痩せになられましたね。ちゃんとお食事は召し上がっていますか? やはりこちらから人を派遣致しましょうか」
「グレブがちゃんと気に掛けてくれているよ。先日も真夜中だというのに私が起きた時の為にと食べれる軽食を……しまった! ちゃんと料理長に話したのか確認していなかったな」
「何をです?」

 ハイスはソファに深く座ると背もたれに寄り掛かった。

「いやなに、最近入った使用人の中で火が苦手な者がいたようで、配慮するように伝えようと思っていたんだ」
「使用人の一人一人にまであなたが心を砕いていたらそれこそ倒れてしまいます。そういう事はグレブに任せて下さい」
「それもそうだな。さて、このまま婚約の話が進めばいずれルイーズ嬢がここの女主人になる訳だ。お前には色々負担を掛けると思うが宜しく頼むぞ」
「使用人達も来るかもしれない奥様に色めき立っておりますよ。きっと代わり映えのしない毎日に飽き飽きなのでしょうね。今の所飾り立てる女性がいないのでそういった事も楽しみなのでしょう」
「それにしてもどうしてまた重い腰を上げる気になったのですか? 正直、旦那様は親族から養子でも取られるのかと思っておりました」

 シモンの良さはこうした繊細な話も遠慮なく言葉にする所だった。それはグレブにも言える事だが、実際こうした者は少ない。だからこそ、神殿でも公爵家でも人材には恵まれていると痛感していた。

「そろそろ果たすべき責任から逃げ回る事も出来なくなって来ただけだ。自分が結婚するとは思いもしなかったが、実際の実感もない」
「でもそのお考えに行き着いたきっかけがあったはずです」
「お前はいつも鋭いな」

 シモンは言葉の続きを待つようにじっとこちらを伺っていた。

「最近、祈りの最中によくブリジット様を視るようになったんだ」
「……私に祈りの最中に起きる現象については分かりかねますが、それは珍しい事なのでしょうか?」
「この八年間で初めてだ。夢で視る事はたまにあっても、起きている時にそのお姿を拝見するのは妙な気分なんだ」
「それは精霊様の啓示か何かなのでしょうか?」

 ハイスはおもむろに首を振った。

「きっとこの心が未熟なのだろう。視なければならない事は他にあるというのに、それが視えずに自分が望んだものが視えている。それでもその姿をずっと追ってしまうんだ。それの何が祈りだと思う? ただ幸せな妄想の中にいたいだけなんだ」
「それがどうして妄想だと言えるのでしょうか?」

 祈りの最中に起きる事を説明するのは難しい。それは人それぞれ感じ方が違うからだ。何か映像を視る者もいれば、音を聞く者もいる。または匂いを嗅ぐ者や、全体的な情景を感じ取る者もいる。精霊からの啓示は同じ内容であっても、受け取る側によって様々な解釈が得られるものだった。

「妄想だろう。視えるブリジット様はあの頃のお姿のままなのだから」
「八年前のまま、という事ですか?」
「そうだ。たまに共に出てくるネリーもあの頃のままだ。もし啓示だとしたら姿はもっと変わっているはずだろう?」

 それにはシモンも頷くしかなかった。その時、部屋の扉が叩かれた。

「なんの用です?」

 シモンが少しだけ扉を開くと、侍女が困ったように立っていた。

「旦那様にお客様です。パトラトと名乗る男性なのですが、旦那様とは知り合いだから会わせて欲しいと申しております。いかが致しましょうか」
「ああ、来ると思っていたから大丈夫だ。応接間に通してくれ」

 パトラトに会う為に神官の衣装へと着替えると、心の持ちようも変わってくる。つい先程までは自身の結婚で頭が一杯だったというのに、今はもう神官長としてパトラトから受けた相談事が頭を占めている。待っていたパトラトは先日会った時よりも痩せてしまったように見えた。

 進展がない事は手紙を出して知らせていた。そしてこれ以上の協力は出来ないという趣旨の手紙を送ったのは今朝の事だった。
 パトラトは入ってきたハイスを見るなり、目前まで迫る勢いだった。執事の制服を着ているシモンはどちらかというと薄い身体のようにも見えるが実はかなり身体を鍛えている。パトラトは軽々と押さえられ少し暴れ、観念したように動きと止めた。

「手紙は届きましたね?」

 手には見覚えのある封筒が握り締められている。秘密のやり取りである以上、手紙は呼んだら燃やすように最後の一文に書き加えていたが燃やされていなかった。憔悴し、一気に老け込んで見えるが正直あまり同情する気にはなれなかった。祈りと同時進行で調べた内容によれば、リアムは約束通りフランドルの商会に多額の寄付をしていた。その金で商会が潤ったのは事実だし、実際他国との貿易に向けて動き出しているという情報も掴んでいる。それなのに商会の頭であるパトラト自身が今にも倒れそうになっているのは一体どういう事なのか。若干の苛立ちを飲み込むと、痺れを切らして先に口を開いてしまった。

「手紙を読んだのにわざわざここまで来たんですね」

 手紙を握っていた手に力が籠もる。それを視線の端にとらえていると、シモンが僅かに警戒を強めたのが分かった。 

「……どうして神官長ともあろうお方が娘を見つけられないのですか。大精霊様は我々庶民は助けてくれないんですか?」
「最初に言ったはずです。神殿は人探しをする場所ではないから期待しないでほしいと」
「ですが! ですがなんの罪もない娘が連れ去られたかもしれないのにあんまりです!」
「パトラト殿」
「何でしょうか」
「この国で年間どのくらいの失踪者がいるか知っていますか?」

 パトラトは言葉の意味を捉えきれずに黙った。

「私が把握しているだけでも三百人以上の人々がある日突然姿を消しています。邪気がない今でもそれだけの人数が消えているのです」
「だから娘一人どうでもいいと!?」
「違う! 私が今回あなたからの申し出を受けたのは、あのままではあなたが殿下に殺されてしまう可能性があったからです」
「私がですか? 娘ではなく?」
「王族を人殺し扱いしたんです。場所が神殿でなかったら私はあなたを捕らえなくてはならなかった」
「それなら娘は諦めろというのですね」
「……私兵に探らせている所です。こちらはもう少し継続してみます」

 その時、パトラトの目から大粒の涙が溢れ出した。

「自業自得だとお思いでしょう。娘を差し出し売ったも同然です。でも私は沢山の者達の生活を預かっています。あのままではいずれ商会はなくなっていたでしょう。派手に儲けているように見せていても、あの時は危機的な状況だったんです」
「私もあなたの娘が無事に帰って来る事を祈っています」
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