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9ー1 夫の帰還
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二年後
「ジェニー、こっち!」
「はいはい、フェリックス様はお早いですね」
二歳になったフェリックスは、やたらジェニーを気に入り、モンフォール家に連れて行った時にはすぐにジェニーを連れ回すのが日課になっていた。とは言ってもトコトコとしか歩けないその足取りに、ジェニーが付き添って歩いているのだが、本人はジェニーの指を二本ぎっちりと掴み、エスコートしているかのように前を歩いている。そんな姿を微笑みながら紅茶を飲んでいると、扉が思い切り開かれた。
入ってきたのはルイスは、フェリックスを見るなり仁王立ちになった。
「女に囲まれてばかりいては腑抜けになるぞ!」
「ルイスいや、きらいッ」
フェリックスはプイッとそっぽを向くとジェニーのドレスをぎゅっと掴んだ。
「フェリックス、そんなにしてはジェニーのドレスが傷んでしまうわよ」
しかしルイスから隠れるように更にドレスの中に入り込もうとするフェリックスを、ルイスがひょいと持ち上げる。一気に開けた視界に驚き、ドレスを掴んでいた手が離された。その瞬間、屋敷中に甲高い泣き声が響き渡った。フェリックスは手足を何度も伸ばしながらルイスの手の中から逃れようとする。しかしこの二年ですっかり背が伸び、日々の訓練で体つきもしっかりしたルイスから脱走する事は不可能だった。
「ルイスももう大人なのねぇ。あんなに小さかったのに……」
感慨深くその光景を見つめていると、ルドルフが部屋の中に入ってきた。手には包みと花束を抱えている。それを見た瞬間、その包みが自分の物だと理解したフェリックスは、今度こそルイスの手から這い出ようとこれでもかという程に大きく跳ねた。さすがのルイスもフェリックスを床に降ろしてやると、フェリックスはルドルフに突進していった。
「お父様からですよ」
「とうさま! とうさまから!」
まだ幼いフェリックスが“とうさま”と呼ぶ意味は分かっていないと思う。プレゼントを送ってくれる人が“とうさま”だと思っている可能性の方が高いかもしれない。
アルベルトは半年に一度フェリックスに贈り物をしてくれていた。もちろん戦場では準備出来ないから、おそらくリストを見て選んだのだろう。戦場にいる者達が妻や恋人、子供などに贈り物を選ぶ為のリストがあると聞いたのは、初めて贈り物が届いたフェリックスが五ヶ月の時だった。一番最初に届いたのは、大きなクマのぬいぐるみ。あまりに大きいので置き場には困るし、フェリックスはまだ遊べないし、しばらくは部屋の隅に放置されていた。まだ一歳くらいの頃はその大きさ故に、そのクマのぬいぐるみを見る度に大泣きされたのを思い出してしまった。しかし二歳になった今は、むしろそれに寄りかかったり抱きついたりして遊び方を覚えていた。最初の贈り物は赤子の興味を引くような物がいいのではと、その巨大なぬいぐるみを見て冷静に思ったのを思い出していた。
でも、もしリストが商品名だけだったら大きさは分からないかもしれないし、他の者が選んでいたならもっと分からないかもしれない。
今度は何が来たのかと見ていると、バリバリと開けられた包みの中から出てきたのは、木で出来たチェス盤だった。
「まだ二歳なのよ……」
カトリーヌは呆れたように言ったが、フェリックス自身は意外と気に入っているようで、特に分かりやすい形状だからかナイトの駒を持つと部屋の中を走り出した。
「おうまーー!」
その様子を見ながらルドルフが花束を差し出してくる。そこには“妻へ”とだけ書かれたカードが必ず付いている。半年に一回貰うそのカードも四枚目になり、カトリーヌはほとんど心が動かないまま受け取った。
「毎回、花の指定もあるそうですよ」
「そうかもしれないけれど、旬な物を選んで下さっているだけよ」
思わず零れ出た本音に思わず口を花束で隠すと、さっと顔に笑みを貼り付けた。
「お礼のお手紙を書いておいてくれる? それと寒いだろうから身体の温まるお酒も一緒に送ってちょうだい。種類はあなたに任せるわ」
離婚を切り出されたあの日から、こうして贈り物への礼状も、そしてお返しの品も、全てルドルフに準備してもらっていた。意地を張っていると言わればそれまでだが、それがせめてもの矜持だった。
ふと、そのチェス盤に視線を落とすと、キラキラと輝いているのが目に入る。フェリックスが興味ない方の駒やチェス盤に触れると、そこには宝石が埋め込まれているのが目に入った。キングやクイーンにはダイヤモンドとルビーが嵌め込まれている。盤の縁は、ベルトラン家一族の髪色と同じ濃紺が美しいサファイアが並んでいた。
「とても美しいわ」
あまりの綺麗な輝きと装飾に惚けていると、そばでビリビリに破かれた紙の中から一通の手紙が見えた。
「なにかしら……」
それはアルベルトの筆跡。急に手が震え出してしまう。そして開いた手紙には、短くこう書いてあった。
ーー戦争が終結したので、近日中に帰還する。息子に会えるのを楽しみにしている。
「奥様? 大丈夫ですか?」
「……アルベルト様がご帰還されるそうよ」
自分でも信じられない程に声が震えていた。そのままずるりと床に座り込んでしまう。ナイトを持って遊んでいたフェリックスは、床に座ったカトリーヌの膝へと飛び込んできた。
「かあさま見て、おうまの目!」
目にはオブシディアンが嵌め込まれている。無邪気に持って遊ぶにはこのチェス盤は今のアルベルトそのものを表しているように思えた。
「本当、キラキラしていて綺麗ね」
「うん! きれい!」
フェリックスは屈託ない笑顔を向けて、母親の膝でコロコロとしながらナイトを握り締めていた。
「送らなくても大丈夫ですよ? ルイス様も王城に戻られるのでしょう?」
ジェニーは屋敷まで送っていくというルイスを何度か断ったが、ルイスは一步も引かなかった。
「フェリックスに振り回されて疲れているだろ、悪かったな。そんなに遠回りじゃないから気にするな」
「気にしますよ。うちは貧乏男爵家ですから、モンフォール家の方々に我が家をお見せするのは恥ずかしいんです」
ジェニーの家は一応王都にはあるが、庶民の家々がある場所に近かった。屋敷と言ってもむしろ商家の方が大きな家を持っているし、使用人も多い。ジェニーの家には数人の使用人がいるだけでほとんど庶民の暮らしと変わらないものだった。洗濯をする時もあるし、料理もする。そして長男以外は、例えばカールのように他の貴族の家へ使用人として勤めに出ていた。
「別に気にするような間柄じゃないだろ? 第一、お前を一人で帰したと姉様に知られたら私が怒られるんだ」
「そんなもんなんですねぇ」
ルイスは騎士団に入団したと同時に自分の事を私と言うようになった。背もぐっと伸びたし、声変わりもしてずっと大人っぽくなった。それでいて母親譲りの金髪をしているのだから、ジェニーは狭い馬車の中で、今まで感じた事のないような緊張感の中にいた。
「どうかしたのか?」
無造作に覗き込んできた薄青い瞳と、目の前にはらりと掛かった金色の髪が美しくて、ジェニーは悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっと離れてください! もう少し離れてください!」
「……なんだよ、変な奴だな」
そう言いながら窓枠に頬杖を付いたルイスの顎の線やしっかりした腕に視線を向けてしまったジェニーは、とっさに視線を外すと勝手に熱くなってしまった顔を押さえていた。
馬車はやがてゆっくりと止まり、扉が開いた。
「それじゃあ、お帰りもお気を付け下さいね」
見送る為、馬車から降りようとするルイスを慌てて手で押し込んでいると、笑っていたルイスが一瞬表情を固めた。手でルイスを押したまま、ジェニーもその方向に視線を向ける。そこには丁度通り掛かったと思われる庶民の女性達が立っていた。しかし貴族の馬車だと分かるとすぐに頭を下げてしまう。ジェニーはルイスを仰ぎ見た。
「ルイス様が行かないとあの子達が帰れませんよ」
「あぁ、そうだな……」
しかしルイスはもう一度頭を下げている女達を見ると、強張った表情で馬車の中へと戻っていった。
「どうかしたのかしら」
ルイスの表情が気になってしまい、離れていく馬車を見送りながらジェニーは再びその女達に視線を戻すと、一人の女は上げかけた顔を再びパッと下げた。
「お嬢様? もう暗くなりますから中にお入り下さい」
「そうね、風が冷たくなってきたみたい」
門の向こうから出迎えに出てきた侍女の声に、ジェニーは足早に屋敷の中へと入っていった。
「ジェニー、こっち!」
「はいはい、フェリックス様はお早いですね」
二歳になったフェリックスは、やたらジェニーを気に入り、モンフォール家に連れて行った時にはすぐにジェニーを連れ回すのが日課になっていた。とは言ってもトコトコとしか歩けないその足取りに、ジェニーが付き添って歩いているのだが、本人はジェニーの指を二本ぎっちりと掴み、エスコートしているかのように前を歩いている。そんな姿を微笑みながら紅茶を飲んでいると、扉が思い切り開かれた。
入ってきたのはルイスは、フェリックスを見るなり仁王立ちになった。
「女に囲まれてばかりいては腑抜けになるぞ!」
「ルイスいや、きらいッ」
フェリックスはプイッとそっぽを向くとジェニーのドレスをぎゅっと掴んだ。
「フェリックス、そんなにしてはジェニーのドレスが傷んでしまうわよ」
しかしルイスから隠れるように更にドレスの中に入り込もうとするフェリックスを、ルイスがひょいと持ち上げる。一気に開けた視界に驚き、ドレスを掴んでいた手が離された。その瞬間、屋敷中に甲高い泣き声が響き渡った。フェリックスは手足を何度も伸ばしながらルイスの手の中から逃れようとする。しかしこの二年ですっかり背が伸び、日々の訓練で体つきもしっかりしたルイスから脱走する事は不可能だった。
「ルイスももう大人なのねぇ。あんなに小さかったのに……」
感慨深くその光景を見つめていると、ルドルフが部屋の中に入ってきた。手には包みと花束を抱えている。それを見た瞬間、その包みが自分の物だと理解したフェリックスは、今度こそルイスの手から這い出ようとこれでもかという程に大きく跳ねた。さすがのルイスもフェリックスを床に降ろしてやると、フェリックスはルドルフに突進していった。
「お父様からですよ」
「とうさま! とうさまから!」
まだ幼いフェリックスが“とうさま”と呼ぶ意味は分かっていないと思う。プレゼントを送ってくれる人が“とうさま”だと思っている可能性の方が高いかもしれない。
アルベルトは半年に一度フェリックスに贈り物をしてくれていた。もちろん戦場では準備出来ないから、おそらくリストを見て選んだのだろう。戦場にいる者達が妻や恋人、子供などに贈り物を選ぶ為のリストがあると聞いたのは、初めて贈り物が届いたフェリックスが五ヶ月の時だった。一番最初に届いたのは、大きなクマのぬいぐるみ。あまりに大きいので置き場には困るし、フェリックスはまだ遊べないし、しばらくは部屋の隅に放置されていた。まだ一歳くらいの頃はその大きさ故に、そのクマのぬいぐるみを見る度に大泣きされたのを思い出してしまった。しかし二歳になった今は、むしろそれに寄りかかったり抱きついたりして遊び方を覚えていた。最初の贈り物は赤子の興味を引くような物がいいのではと、その巨大なぬいぐるみを見て冷静に思ったのを思い出していた。
でも、もしリストが商品名だけだったら大きさは分からないかもしれないし、他の者が選んでいたならもっと分からないかもしれない。
今度は何が来たのかと見ていると、バリバリと開けられた包みの中から出てきたのは、木で出来たチェス盤だった。
「まだ二歳なのよ……」
カトリーヌは呆れたように言ったが、フェリックス自身は意外と気に入っているようで、特に分かりやすい形状だからかナイトの駒を持つと部屋の中を走り出した。
「おうまーー!」
その様子を見ながらルドルフが花束を差し出してくる。そこには“妻へ”とだけ書かれたカードが必ず付いている。半年に一回貰うそのカードも四枚目になり、カトリーヌはほとんど心が動かないまま受け取った。
「毎回、花の指定もあるそうですよ」
「そうかもしれないけれど、旬な物を選んで下さっているだけよ」
思わず零れ出た本音に思わず口を花束で隠すと、さっと顔に笑みを貼り付けた。
「お礼のお手紙を書いておいてくれる? それと寒いだろうから身体の温まるお酒も一緒に送ってちょうだい。種類はあなたに任せるわ」
離婚を切り出されたあの日から、こうして贈り物への礼状も、そしてお返しの品も、全てルドルフに準備してもらっていた。意地を張っていると言わればそれまでだが、それがせめてもの矜持だった。
ふと、そのチェス盤に視線を落とすと、キラキラと輝いているのが目に入る。フェリックスが興味ない方の駒やチェス盤に触れると、そこには宝石が埋め込まれているのが目に入った。キングやクイーンにはダイヤモンドとルビーが嵌め込まれている。盤の縁は、ベルトラン家一族の髪色と同じ濃紺が美しいサファイアが並んでいた。
「とても美しいわ」
あまりの綺麗な輝きと装飾に惚けていると、そばでビリビリに破かれた紙の中から一通の手紙が見えた。
「なにかしら……」
それはアルベルトの筆跡。急に手が震え出してしまう。そして開いた手紙には、短くこう書いてあった。
ーー戦争が終結したので、近日中に帰還する。息子に会えるのを楽しみにしている。
「奥様? 大丈夫ですか?」
「……アルベルト様がご帰還されるそうよ」
自分でも信じられない程に声が震えていた。そのままずるりと床に座り込んでしまう。ナイトを持って遊んでいたフェリックスは、床に座ったカトリーヌの膝へと飛び込んできた。
「かあさま見て、おうまの目!」
目にはオブシディアンが嵌め込まれている。無邪気に持って遊ぶにはこのチェス盤は今のアルベルトそのものを表しているように思えた。
「本当、キラキラしていて綺麗ね」
「うん! きれい!」
フェリックスは屈託ない笑顔を向けて、母親の膝でコロコロとしながらナイトを握り締めていた。
「送らなくても大丈夫ですよ? ルイス様も王城に戻られるのでしょう?」
ジェニーは屋敷まで送っていくというルイスを何度か断ったが、ルイスは一步も引かなかった。
「フェリックスに振り回されて疲れているだろ、悪かったな。そんなに遠回りじゃないから気にするな」
「気にしますよ。うちは貧乏男爵家ですから、モンフォール家の方々に我が家をお見せするのは恥ずかしいんです」
ジェニーの家は一応王都にはあるが、庶民の家々がある場所に近かった。屋敷と言ってもむしろ商家の方が大きな家を持っているし、使用人も多い。ジェニーの家には数人の使用人がいるだけでほとんど庶民の暮らしと変わらないものだった。洗濯をする時もあるし、料理もする。そして長男以外は、例えばカールのように他の貴族の家へ使用人として勤めに出ていた。
「別に気にするような間柄じゃないだろ? 第一、お前を一人で帰したと姉様に知られたら私が怒られるんだ」
「そんなもんなんですねぇ」
ルイスは騎士団に入団したと同時に自分の事を私と言うようになった。背もぐっと伸びたし、声変わりもしてずっと大人っぽくなった。それでいて母親譲りの金髪をしているのだから、ジェニーは狭い馬車の中で、今まで感じた事のないような緊張感の中にいた。
「どうかしたのか?」
無造作に覗き込んできた薄青い瞳と、目の前にはらりと掛かった金色の髪が美しくて、ジェニーは悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっと離れてください! もう少し離れてください!」
「……なんだよ、変な奴だな」
そう言いながら窓枠に頬杖を付いたルイスの顎の線やしっかりした腕に視線を向けてしまったジェニーは、とっさに視線を外すと勝手に熱くなってしまった顔を押さえていた。
馬車はやがてゆっくりと止まり、扉が開いた。
「それじゃあ、お帰りもお気を付け下さいね」
見送る為、馬車から降りようとするルイスを慌てて手で押し込んでいると、笑っていたルイスが一瞬表情を固めた。手でルイスを押したまま、ジェニーもその方向に視線を向ける。そこには丁度通り掛かったと思われる庶民の女性達が立っていた。しかし貴族の馬車だと分かるとすぐに頭を下げてしまう。ジェニーはルイスを仰ぎ見た。
「ルイス様が行かないとあの子達が帰れませんよ」
「あぁ、そうだな……」
しかしルイスはもう一度頭を下げている女達を見ると、強張った表情で馬車の中へと戻っていった。
「どうかしたのかしら」
ルイスの表情が気になってしまい、離れていく馬車を見送りながらジェニーは再びその女達に視線を戻すと、一人の女は上げかけた顔を再びパッと下げた。
「お嬢様? もう暗くなりますから中にお入り下さい」
「そうね、風が冷たくなってきたみたい」
門の向こうから出迎えに出てきた侍女の声に、ジェニーは足早に屋敷の中へと入っていった。
応援ありがとうございます!
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