30 / 58
2ー4 力の代償〜フランツィス②〜
しおりを挟む
午前の仕事を終えて王城を出たのは、昼を過ぎてからだった。
結界が消え去る前に開催されたヴォルフ侯爵家主催での夜会では大した情報の収穫はないまま、その後に起きた慌ただしく変化する事態に、ヴォルフ侯爵家の調査は後回しになっていた。
ヴォルフ侯爵への面会理由を探していた所、向こうから声がかかるという願ってもみない好機に、フランツィス達は若干警戒しながらも、今日の訪問へと至っていた。
約束の時間はとうに過ぎ、フランツィスはヴォルフ侯爵家の応接間でいたずらに過ぎる時間を持て余していた。付き添いに連れてきたのは侍女のグレタと、護衛の二人のみ。あえて登城しない日を狙って面会の申し出をしたはいいが、肝心のヴォルフ侯爵は待てど暮らせど顔を見せる気配はない。前髪をかき上げながら小さく息を吐くと、ちょうど紅茶を入れ替えに来たヴォルフ侯爵家の侍女と近くで目が合った。侍女は固まったかと思うと途端に顔を真っ赤にし、カップを落として、こともあろうか湯気の出ている紅茶を手に掛けた。
「も、申し出ございません!」
侍女は熱さのあまり一瞬手を引いたが、すぐにこぼした紅茶を拭こうとしたので、フランツィスはその手首を掴んだ。
「すぐに冷やさないと駄目だ。給仕場はどこにある?」
侍女は驚きながらも場所を告げる。フランツィスは手首を掴みながら急いで給仕場に行き、驚く使用人達を押し退けて蛇口から直接水を掛けた。
「あの、アインホルン侯爵様、これは一体何事でしょうか?」
いつの間にか後ろには料理人と使用人達が集まり、誰が口を出すのかと決めかねていたようだった。
「火傷をしたんだ。誰かこの者の手当を頼みたいんだが」
「あの、私は大丈夫です! 侯爵様のお手を煩わせるなど」
見下げると侍女は羞恥で顔を真っ赤にし、今にも泣き出してしまいそうだった。
「なんの騒ぎなの?」
給仕場の入り口に集まっていた者達は驚きながら一斉に道を開けた。
「あら、フランツィス様でしたか。なぜこのような場所に?」
「ソフィア嬢、お久しぶりです。勝手をして申し訳ないがこの者の手当てが先です」
ヴォルフ侯爵家の次女ソフィアは一瞬目を細めたが、すぐに微笑むと使用人に扇子を向けた。
「あの者の手当てを。フランツィス様はこちらへ。お客様がいていい場所ではございません」
フランツィスは掴んでいた侍女の手首を離す際にひと撫でした。
「綺麗な手なのだから無理をしないように」
「は、い」
侍女は顔を赤くしたまま頷いた。
「フランツィス様!」
フランツィスは連れて行かれるまま、先程までいた部屋に戻った。目の前に座るのは思わず目を瞠る程の美しい姿だった。プラチナブロンドの髪は緩くうねり、前髪を上げて丸い額が見えている。少し目尻が上がった丸い目に、整った鼻筋、小さいが形の良い唇が品の良さをか持ち出していた。
ーーこれで確かまだ十七歳とは驚きだな。エーリカといい勝負だな。
そんな事を考えていると、不意にソフィアと目が合った。
「そんなに見つめられては困ります」
「すまない。大人になったと思ってね。確か最後に挨拶をしたのはデビュタントの舞踏会でだったね。あれから二年か」
するとソフィアは優雅に紅茶を飲みながら真っ直ぐにフランツィスを見た。
「違いますわ。その後も一度夜会でお会いしております」
軽く挨拶をしただけの会話ではフランツィス自身は覚えていなかったが、本当はグレタから事前にその情報を貰っていた。しかし敢えて覚えていない振りをした。ソフィアの表情が強張ったのを見て、フランツィスは内心微笑んだ。
ーー呼び出しておいて当主が一向に現れず、娘がこうして居座るとは。やはり最初に釘を刺しておいた方がいいな。
「それはすまなかったね。ところでお父上は今どちらに? 今日は約束をしているのだけれどまだいらっしゃらないんだ」
「申し訳ありません。父も多忙なのです、もう少しお待ち下さい」
「それではまた日を改めるとしようか」
するとソフィアは慌てて立ち上がった。
「お待ち下さい! もう少ししたら参りますから!」
「それならあと少しだけ待たせてもらうが、ソフィア嬢の貴重な時間を割いてもらうのも申し訳ない。どうか私の事は気にせずに退出して構わないよ」
「どうして追い出そうとするのです?」
「どうしてって、例えばこうして二人きりになるのは、君の婚約者に申し訳ないだろう?」
するとソフィアはパタンと扇を閉じた。
「私、婚約などしておりません!」
「そうだったのか。それは悪かったね」
「ソフィア、フランツィス殿に何という口の効き方だ」
部屋に入ってきたのはヴォルフ侯爵だった。やっと登場かと思いながら立ち上がると、待たせた事には触れずにソフィアの隣りに座った。
「婚約と言えば、フランツィス殿もまだ結婚どころか婚約者すらいなかったな。うちのソフィアはどうかね? 家を継ぎ、その若さで宰相にまでなったのだから、すぐにでも跡継ぎが欲しいだろう? ソフィアにも色々進めるんだが、理想が高くて首を縦に振らないのだ。しかしフランツィス殿ならソフィアも納得だろう?」
ソフィアは否定も肯定もせず、ただ微笑んで俯いていた。
「家同士は過去に色々あったが、そちらの当主が変わった今、我々の関係も良い方向に向かわせられると思わないか?」
「魅力的なお申し出ではありますが、まだ当分は家庭を持つ余裕は出来そうにありません」
「妻を娶り、子が出来れば責任も生まれる。余裕など後から付いてくるものだ。そうは思わないか?」「妻と言えば、本日のお話は先日のヴォルフ侯爵から陛下へのご提案についてです」
「そうだったな。そして陛下はなんと?」
ヴォルフはすっかり目の色を変え、利益の矛先を変えたようだった。
「前向きにご検討下さるとの事です。候補者を伺っても?」
するとヴォルフ侯爵は隣りに座っていたソフィアを目配せをした。視線からするに部屋を出ろとの事なのだろう。ソフィアは自分の結婚話が国王の話題へとすり替わった事に不満そうにしながらも、部屋を後にした。それを見送ると、ヴォルフ侯爵はソファに浅く座り直した。
「候補はバーナード伯爵家のエミリア嬢と、ベルガー家のミラ嬢、そして魔術師から数名と思っておる。魔術師から候補を選ぶのはハンナ殿とルー殿が戻って来てからになるが、他の二人ならばすぐにでも構わん」
「両家にお話は通っているという事でしょうか?」
「もちろんだ」
エミリアの父親は何かと野心の強いバーナード伯爵なのだから二つ返事で承諾した事だろう。そもそも会議でこの話を持ち出したのはバーナード伯爵だった。ミラの方は、男爵家が侯爵家に打診されたものを断る事が出来るだろうか。ミラが承知していなくとも、ベルガー男爵が許可を出せば側室にならざるおえないだろう。
ーーそれに、あの二人は何かと噂があるからな。
それでも長年見ていれば友人関係である事は分かっていた。ただそう周りに誤解させる様な態度を取るなら、エーリカはやれないと思い傍観していただけだ。
「分かりました。とりあえず候補者の皆様にはご説明も兼ねてしばらく王城にお留まり頂きますが、宜しいでしょうか?」
「ふむ、すぐにでも良いと思うが?」
「側室になられるのであればもちろん陛下のお子を授かる可能性がございます。まずは医師の検査と数ヶ月の経過を待ってからとなるでしょう」
「娘達が生娘ではないと疑うつもりか?」
フランツィスは膝の上で両手を組みながら微笑んだ。
「疑うなど、そのような感情的な事ではありませんよ。ただ陛下のお子以外が生まれる可能性を排除したいだけです。ヴォルフ侯爵ならお分かり頂けますよね?」
ヴォルフは目を見開いた後、やがて渋々頷いた。
「承知した。そなたも、しっかりとアインホルンの血を継承しているのだな」
フランツィスは微笑むと立ち上がった。その時、突然扉が叩かれた。ヴォルフが返事をするなり開かれた扉から護衛が飛び込んでくる。手には無理矢理腕を掴まれているグレタが引き摺られる様に入ってきた。
「お話し中申し訳ございません。急ぎご報告したい事がございます」
ヴォルフ家の護衛は、掴んでいたグレタの腕をねじり上げながら前に突き出した。
「これはフランツィス殿の使用人ではないか」
「この者が屋敷を詮索しており、明らかに不審な動きでしたので捕らえました」
「フランツィス殿、どういう事ですかな? アインホルン家当主に長く仕える使用人がまさか迷ったなどと、安易な嘘はつかないでしょうな?」
フランツィスはグレタの元まで行くと、腕を強い力で握り締めている護衛の手を掴んだ。
「離してもらおう」
しかし護衛は手を全く緩めない。グレタの眉間が僅かに歪んだ。フランツィスはヴォルフを強く見返した。ヴォルフの顎が動くと護衛は振り払うようにグレタの腕を投げ捨てた。
「大丈夫か? 見せてごらん」
ブラウスの腕を捲り上げると、細い腕には掴まれた跡が赤く、くっきりとついていた。
「こちらの護衛は随分と女性に対して乱暴なのですね」
「こそこそと汚い真似をする者を丁重に扱えとは教えていないからな」
「グレタすまなかったね。私が妙なお願いをしたばっかりに」
「フランツ様!」
「妙なとは? フランツィス殿、はっきりとお答え頂かなくてはその女を帰す事は出来ぬぞ」
「まさかこんな所で知られてしまうとは」
フランツィスはグレタの手を取ると、甲に口付けを落とした。
「実は先程のソフィア嬢との縁談はお受けできない理由があるのです。私にはすでに愛しい人がおりますので」
全員があ然とする中、フランツィスは更にグレタの腰を引いた。
「いい場所は見つかったかい?」
「いい場所、ですか?」
「隠れて愛し合う場所だよ」
口をパクパクとするグレタの唇を指で触れると微笑んだ。
「愛しき人の名誉の為に申しておきますが、外でそういった行為を望んでいるのは私の方です。人目を気にしていないと興奮しないもので。これは内緒ですよ?」
さも好きな天気を答えるかのように爽やかに言ってのけたフランツィスに、誰もが言葉を失っていた。
「まぁ、人の好みは様々だからな。しかし我が家では止めて頂きたい」
「そうですね、もう知られては人目を忍ぶ事も出来ないですし。ではこれで失礼致します」
フランツィス達が出ていった扉を見つめながらヴォルフは溜め息をついた。
「フランツィスもああ見えて好色という事か。分かっただろう? あの男は止めておけ」
廊下から出てきたソフィアは怒りと涙を湛えて入ってきた。
「私は絶対にフランツィス様がいいのですッ!」
「もれなくあの愛妾が付いてくるぞ」
「引き離して下さい」
「引き離した所でまた別の使用人に手を出すものだ。見かけによらずフランツィスも好き放題していたと言う訳だな。まあ、あの見た目なら女に不自由する事はなかっただろうがな」
笑い出す父親ソフィアは睨み付けた。
「駄目です、侍女になんて渡せません!」
「どこがそんなにいいんだ。女みたいな奴じゃないか」
唇を噛み締めたまま黙り込むソフィアの頭を撫でた。
「唇を噛むな。傷がついたらどうする。せっかくの美しさが損なわれてしまうぞ」
「クラウスをどうにかしたらフランツィスなどお前にくれてやるわ」
「本当に? お父様、約束ですよ?」
ヴォルフは娘の頭を撫でる力を強くした。
馬車の中は険悪な空気に包まれていた。王城に戻る予定を変更して屋敷に向かう間も、フランツィスは黙ったまま。流石にグレタも主の不機嫌さに言葉を掛けられずにいた。
居間に飛び込んできたフランツィスとグレタを見るなり、他の使用人達は驚いた様に手を止めた。
「すぐに薬箱を持ってきてくれ」
「お怪我をされたのですか? すぐに医師を……」
「薬箱を早く!」
静かだが怒りを湛えている声色に違和感を感じた使用人は、すぐさま薬箱を取りに行くと机の上に置いた。
「処置は私どもが致します、旦那様」
しかしフランツィスはその場を動こうとせず、グレタの手を取った。
「私がやるからお前達は下がっていい」
グレタは同僚達に首を振ると、不憫そうな視線を向けられながら出ていく背中を見送った。フランツィスはぎこちない手付きで打ち身用の薬を取ると、指で丁寧に赤くなった場所に塗り始めた。優しく触れてくる手にどうしていいのかわからずに、グレタは手を引いた。
「もう大丈夫ですから離して下さい」
しかし手は離れない。引くと腕は抜けたが掌で止まった。握手する様に繋がったまま、フランツィスは下を向いた。
「フランツ様? どうしました?」
「……してやりたい」
「なんです? もっとはっきり」
「殺してやりたい。あの護衛ッ」
グレタは息を呑んで肩を掴んだ。ピンクブロンドの髪が揺れて顔が間近に上がる。とっさに離れようとした頬を掴まれると、目を逸らすことも顔を離す事も出来なかった。
「お前に傷をつけたんだから死に値するだろう?」
「なんですかその俺様思想は。そんな事で死には値しませんよ」
「お前はアインホルン侯爵家当主が重宝する侍女だぞ」
「それですよ! フランツ様は侯爵家の当主様なんです! さっきのはどう弁解するつもりです? あんな噂が流れたらどうするつもりですか!」
するとフランツィスは首を傾げて笑った。
「別に構わないだろう? 遊びではないとお前の名誉は守ったんだ」
「からかわないでください! 侯爵家の当主が侍女とそんな関係だなんて、絶対に許されません! というかそんな関係じゃありませんけど! それにフランツ様が、変な、変な……」
「変な?」
「変な性癖があると噂されたらどうする気です!」
グレタは顔を真っ赤にして叫んだ。しかしフランツィスは満足したように笑った。
「心配するな、あんな性癖は序の口だ」
「……え?」
「冗談だ。真に受けるなよ」
「そ、そうですよね」
ようやく顔は開放されたが繋いだ手が離れる事はなかった。
「それで見つかったのか?」
急に表情を変えたフランツィスに、グレタも居住まいを正した。
「恐らく裏門から入った部屋に隠し部屋へと続く扉があると思われます。あるとすれば魔石はそこに隠しているのでしょう」
「子爵を隠れ蓑にして交渉をし、屋敷に運び込ませるのか。良くやった。あとは‘’猫‘’の番だな」
「でも‘’猫‘’は今全てエーリカ様の捜索に出ているのではありませんか?」
「俺がやる」
グレタは手を繋いだまま立ち上がった。
「私がやります! 私は本来‘’猫‘’として訓練を受けてますから、私の方が適任です」
「俺よりも?」
「いや、それはフランツ様の方が適任ですが、もう当主なのですから危険な事はお控え下さい」
「今日みたいに護衛に見つかったらどうするつもりだ? いくらお前が優秀でも男との力の差は歴然なんだ、捕まれば終わりなんだぞ」
「今日はわざとです。どこで止められるかを確認しながら動いておりました。それに例え捕まったとしても私は戦えます」
すると強い力で手を引かれた。そのままフランツィスの上に腰掛けてしまう。グレタはすぐさま起き上がろうとしたが、掴まれた腰と崩した体制に起き上がる事は出来なかった。
「拷問は痛みだけでないぞ。相手は男でお前は女だ。こんな風に簡単に抑え込める」
「……それでも、例えそうだとしても私も出来ます。フランツ様がそうしてお家の為に働いているように、私もいつでもこの体をアインホルン家の為に使う覚悟は出来ています!」
「そうか。でもお前は分かっていないらしい。男と女がどういう事をするのか」
そう言うとフランィスは首に顔を埋めてきた。首を舐め、耳朶に舌を這わせてくる。
「フランツ様止めてください!」
「同じ事が出来るというならもっと、色気のある声を出せ」
耳元で囁かれた声に体が跳ねる。顔が上がりすぐ目の前で、世のご婦人ご令嬢方がしなだれ掛かりたくなる美しい顔が迫っていた。唇があと少しで触れ合う所で、不意に顔が逸らされた。体も開放されて膝の上から放り出される。よろけて机に手を付いた。
「フランツ様?」
「お前は二、三日療養しろ。分かったな、腕は使うなよ」
なぜか怒りながら部屋を出ていくフランツにグレタは混乱する頭で床に座り込んだ。
「腕を使うなですって? そんなの無理よ」
結界が消え去る前に開催されたヴォルフ侯爵家主催での夜会では大した情報の収穫はないまま、その後に起きた慌ただしく変化する事態に、ヴォルフ侯爵家の調査は後回しになっていた。
ヴォルフ侯爵への面会理由を探していた所、向こうから声がかかるという願ってもみない好機に、フランツィス達は若干警戒しながらも、今日の訪問へと至っていた。
約束の時間はとうに過ぎ、フランツィスはヴォルフ侯爵家の応接間でいたずらに過ぎる時間を持て余していた。付き添いに連れてきたのは侍女のグレタと、護衛の二人のみ。あえて登城しない日を狙って面会の申し出をしたはいいが、肝心のヴォルフ侯爵は待てど暮らせど顔を見せる気配はない。前髪をかき上げながら小さく息を吐くと、ちょうど紅茶を入れ替えに来たヴォルフ侯爵家の侍女と近くで目が合った。侍女は固まったかと思うと途端に顔を真っ赤にし、カップを落として、こともあろうか湯気の出ている紅茶を手に掛けた。
「も、申し出ございません!」
侍女は熱さのあまり一瞬手を引いたが、すぐにこぼした紅茶を拭こうとしたので、フランツィスはその手首を掴んだ。
「すぐに冷やさないと駄目だ。給仕場はどこにある?」
侍女は驚きながらも場所を告げる。フランツィスは手首を掴みながら急いで給仕場に行き、驚く使用人達を押し退けて蛇口から直接水を掛けた。
「あの、アインホルン侯爵様、これは一体何事でしょうか?」
いつの間にか後ろには料理人と使用人達が集まり、誰が口を出すのかと決めかねていたようだった。
「火傷をしたんだ。誰かこの者の手当を頼みたいんだが」
「あの、私は大丈夫です! 侯爵様のお手を煩わせるなど」
見下げると侍女は羞恥で顔を真っ赤にし、今にも泣き出してしまいそうだった。
「なんの騒ぎなの?」
給仕場の入り口に集まっていた者達は驚きながら一斉に道を開けた。
「あら、フランツィス様でしたか。なぜこのような場所に?」
「ソフィア嬢、お久しぶりです。勝手をして申し訳ないがこの者の手当てが先です」
ヴォルフ侯爵家の次女ソフィアは一瞬目を細めたが、すぐに微笑むと使用人に扇子を向けた。
「あの者の手当てを。フランツィス様はこちらへ。お客様がいていい場所ではございません」
フランツィスは掴んでいた侍女の手首を離す際にひと撫でした。
「綺麗な手なのだから無理をしないように」
「は、い」
侍女は顔を赤くしたまま頷いた。
「フランツィス様!」
フランツィスは連れて行かれるまま、先程までいた部屋に戻った。目の前に座るのは思わず目を瞠る程の美しい姿だった。プラチナブロンドの髪は緩くうねり、前髪を上げて丸い額が見えている。少し目尻が上がった丸い目に、整った鼻筋、小さいが形の良い唇が品の良さをか持ち出していた。
ーーこれで確かまだ十七歳とは驚きだな。エーリカといい勝負だな。
そんな事を考えていると、不意にソフィアと目が合った。
「そんなに見つめられては困ります」
「すまない。大人になったと思ってね。確か最後に挨拶をしたのはデビュタントの舞踏会でだったね。あれから二年か」
するとソフィアは優雅に紅茶を飲みながら真っ直ぐにフランツィスを見た。
「違いますわ。その後も一度夜会でお会いしております」
軽く挨拶をしただけの会話ではフランツィス自身は覚えていなかったが、本当はグレタから事前にその情報を貰っていた。しかし敢えて覚えていない振りをした。ソフィアの表情が強張ったのを見て、フランツィスは内心微笑んだ。
ーー呼び出しておいて当主が一向に現れず、娘がこうして居座るとは。やはり最初に釘を刺しておいた方がいいな。
「それはすまなかったね。ところでお父上は今どちらに? 今日は約束をしているのだけれどまだいらっしゃらないんだ」
「申し訳ありません。父も多忙なのです、もう少しお待ち下さい」
「それではまた日を改めるとしようか」
するとソフィアは慌てて立ち上がった。
「お待ち下さい! もう少ししたら参りますから!」
「それならあと少しだけ待たせてもらうが、ソフィア嬢の貴重な時間を割いてもらうのも申し訳ない。どうか私の事は気にせずに退出して構わないよ」
「どうして追い出そうとするのです?」
「どうしてって、例えばこうして二人きりになるのは、君の婚約者に申し訳ないだろう?」
するとソフィアはパタンと扇を閉じた。
「私、婚約などしておりません!」
「そうだったのか。それは悪かったね」
「ソフィア、フランツィス殿に何という口の効き方だ」
部屋に入ってきたのはヴォルフ侯爵だった。やっと登場かと思いながら立ち上がると、待たせた事には触れずにソフィアの隣りに座った。
「婚約と言えば、フランツィス殿もまだ結婚どころか婚約者すらいなかったな。うちのソフィアはどうかね? 家を継ぎ、その若さで宰相にまでなったのだから、すぐにでも跡継ぎが欲しいだろう? ソフィアにも色々進めるんだが、理想が高くて首を縦に振らないのだ。しかしフランツィス殿ならソフィアも納得だろう?」
ソフィアは否定も肯定もせず、ただ微笑んで俯いていた。
「家同士は過去に色々あったが、そちらの当主が変わった今、我々の関係も良い方向に向かわせられると思わないか?」
「魅力的なお申し出ではありますが、まだ当分は家庭を持つ余裕は出来そうにありません」
「妻を娶り、子が出来れば責任も生まれる。余裕など後から付いてくるものだ。そうは思わないか?」「妻と言えば、本日のお話は先日のヴォルフ侯爵から陛下へのご提案についてです」
「そうだったな。そして陛下はなんと?」
ヴォルフはすっかり目の色を変え、利益の矛先を変えたようだった。
「前向きにご検討下さるとの事です。候補者を伺っても?」
するとヴォルフ侯爵は隣りに座っていたソフィアを目配せをした。視線からするに部屋を出ろとの事なのだろう。ソフィアは自分の結婚話が国王の話題へとすり替わった事に不満そうにしながらも、部屋を後にした。それを見送ると、ヴォルフ侯爵はソファに浅く座り直した。
「候補はバーナード伯爵家のエミリア嬢と、ベルガー家のミラ嬢、そして魔術師から数名と思っておる。魔術師から候補を選ぶのはハンナ殿とルー殿が戻って来てからになるが、他の二人ならばすぐにでも構わん」
「両家にお話は通っているという事でしょうか?」
「もちろんだ」
エミリアの父親は何かと野心の強いバーナード伯爵なのだから二つ返事で承諾した事だろう。そもそも会議でこの話を持ち出したのはバーナード伯爵だった。ミラの方は、男爵家が侯爵家に打診されたものを断る事が出来るだろうか。ミラが承知していなくとも、ベルガー男爵が許可を出せば側室にならざるおえないだろう。
ーーそれに、あの二人は何かと噂があるからな。
それでも長年見ていれば友人関係である事は分かっていた。ただそう周りに誤解させる様な態度を取るなら、エーリカはやれないと思い傍観していただけだ。
「分かりました。とりあえず候補者の皆様にはご説明も兼ねてしばらく王城にお留まり頂きますが、宜しいでしょうか?」
「ふむ、すぐにでも良いと思うが?」
「側室になられるのであればもちろん陛下のお子を授かる可能性がございます。まずは医師の検査と数ヶ月の経過を待ってからとなるでしょう」
「娘達が生娘ではないと疑うつもりか?」
フランツィスは膝の上で両手を組みながら微笑んだ。
「疑うなど、そのような感情的な事ではありませんよ。ただ陛下のお子以外が生まれる可能性を排除したいだけです。ヴォルフ侯爵ならお分かり頂けますよね?」
ヴォルフは目を見開いた後、やがて渋々頷いた。
「承知した。そなたも、しっかりとアインホルンの血を継承しているのだな」
フランツィスは微笑むと立ち上がった。その時、突然扉が叩かれた。ヴォルフが返事をするなり開かれた扉から護衛が飛び込んでくる。手には無理矢理腕を掴まれているグレタが引き摺られる様に入ってきた。
「お話し中申し訳ございません。急ぎご報告したい事がございます」
ヴォルフ家の護衛は、掴んでいたグレタの腕をねじり上げながら前に突き出した。
「これはフランツィス殿の使用人ではないか」
「この者が屋敷を詮索しており、明らかに不審な動きでしたので捕らえました」
「フランツィス殿、どういう事ですかな? アインホルン家当主に長く仕える使用人がまさか迷ったなどと、安易な嘘はつかないでしょうな?」
フランツィスはグレタの元まで行くと、腕を強い力で握り締めている護衛の手を掴んだ。
「離してもらおう」
しかし護衛は手を全く緩めない。グレタの眉間が僅かに歪んだ。フランツィスはヴォルフを強く見返した。ヴォルフの顎が動くと護衛は振り払うようにグレタの腕を投げ捨てた。
「大丈夫か? 見せてごらん」
ブラウスの腕を捲り上げると、細い腕には掴まれた跡が赤く、くっきりとついていた。
「こちらの護衛は随分と女性に対して乱暴なのですね」
「こそこそと汚い真似をする者を丁重に扱えとは教えていないからな」
「グレタすまなかったね。私が妙なお願いをしたばっかりに」
「フランツ様!」
「妙なとは? フランツィス殿、はっきりとお答え頂かなくてはその女を帰す事は出来ぬぞ」
「まさかこんな所で知られてしまうとは」
フランツィスはグレタの手を取ると、甲に口付けを落とした。
「実は先程のソフィア嬢との縁談はお受けできない理由があるのです。私にはすでに愛しい人がおりますので」
全員があ然とする中、フランツィスは更にグレタの腰を引いた。
「いい場所は見つかったかい?」
「いい場所、ですか?」
「隠れて愛し合う場所だよ」
口をパクパクとするグレタの唇を指で触れると微笑んだ。
「愛しき人の名誉の為に申しておきますが、外でそういった行為を望んでいるのは私の方です。人目を気にしていないと興奮しないもので。これは内緒ですよ?」
さも好きな天気を答えるかのように爽やかに言ってのけたフランツィスに、誰もが言葉を失っていた。
「まぁ、人の好みは様々だからな。しかし我が家では止めて頂きたい」
「そうですね、もう知られては人目を忍ぶ事も出来ないですし。ではこれで失礼致します」
フランツィス達が出ていった扉を見つめながらヴォルフは溜め息をついた。
「フランツィスもああ見えて好色という事か。分かっただろう? あの男は止めておけ」
廊下から出てきたソフィアは怒りと涙を湛えて入ってきた。
「私は絶対にフランツィス様がいいのですッ!」
「もれなくあの愛妾が付いてくるぞ」
「引き離して下さい」
「引き離した所でまた別の使用人に手を出すものだ。見かけによらずフランツィスも好き放題していたと言う訳だな。まあ、あの見た目なら女に不自由する事はなかっただろうがな」
笑い出す父親ソフィアは睨み付けた。
「駄目です、侍女になんて渡せません!」
「どこがそんなにいいんだ。女みたいな奴じゃないか」
唇を噛み締めたまま黙り込むソフィアの頭を撫でた。
「唇を噛むな。傷がついたらどうする。せっかくの美しさが損なわれてしまうぞ」
「クラウスをどうにかしたらフランツィスなどお前にくれてやるわ」
「本当に? お父様、約束ですよ?」
ヴォルフは娘の頭を撫でる力を強くした。
馬車の中は険悪な空気に包まれていた。王城に戻る予定を変更して屋敷に向かう間も、フランツィスは黙ったまま。流石にグレタも主の不機嫌さに言葉を掛けられずにいた。
居間に飛び込んできたフランツィスとグレタを見るなり、他の使用人達は驚いた様に手を止めた。
「すぐに薬箱を持ってきてくれ」
「お怪我をされたのですか? すぐに医師を……」
「薬箱を早く!」
静かだが怒りを湛えている声色に違和感を感じた使用人は、すぐさま薬箱を取りに行くと机の上に置いた。
「処置は私どもが致します、旦那様」
しかしフランツィスはその場を動こうとせず、グレタの手を取った。
「私がやるからお前達は下がっていい」
グレタは同僚達に首を振ると、不憫そうな視線を向けられながら出ていく背中を見送った。フランツィスはぎこちない手付きで打ち身用の薬を取ると、指で丁寧に赤くなった場所に塗り始めた。優しく触れてくる手にどうしていいのかわからずに、グレタは手を引いた。
「もう大丈夫ですから離して下さい」
しかし手は離れない。引くと腕は抜けたが掌で止まった。握手する様に繋がったまま、フランツィスは下を向いた。
「フランツ様? どうしました?」
「……してやりたい」
「なんです? もっとはっきり」
「殺してやりたい。あの護衛ッ」
グレタは息を呑んで肩を掴んだ。ピンクブロンドの髪が揺れて顔が間近に上がる。とっさに離れようとした頬を掴まれると、目を逸らすことも顔を離す事も出来なかった。
「お前に傷をつけたんだから死に値するだろう?」
「なんですかその俺様思想は。そんな事で死には値しませんよ」
「お前はアインホルン侯爵家当主が重宝する侍女だぞ」
「それですよ! フランツ様は侯爵家の当主様なんです! さっきのはどう弁解するつもりです? あんな噂が流れたらどうするつもりですか!」
するとフランツィスは首を傾げて笑った。
「別に構わないだろう? 遊びではないとお前の名誉は守ったんだ」
「からかわないでください! 侯爵家の当主が侍女とそんな関係だなんて、絶対に許されません! というかそんな関係じゃありませんけど! それにフランツ様が、変な、変な……」
「変な?」
「変な性癖があると噂されたらどうする気です!」
グレタは顔を真っ赤にして叫んだ。しかしフランツィスは満足したように笑った。
「心配するな、あんな性癖は序の口だ」
「……え?」
「冗談だ。真に受けるなよ」
「そ、そうですよね」
ようやく顔は開放されたが繋いだ手が離れる事はなかった。
「それで見つかったのか?」
急に表情を変えたフランツィスに、グレタも居住まいを正した。
「恐らく裏門から入った部屋に隠し部屋へと続く扉があると思われます。あるとすれば魔石はそこに隠しているのでしょう」
「子爵を隠れ蓑にして交渉をし、屋敷に運び込ませるのか。良くやった。あとは‘’猫‘’の番だな」
「でも‘’猫‘’は今全てエーリカ様の捜索に出ているのではありませんか?」
「俺がやる」
グレタは手を繋いだまま立ち上がった。
「私がやります! 私は本来‘’猫‘’として訓練を受けてますから、私の方が適任です」
「俺よりも?」
「いや、それはフランツ様の方が適任ですが、もう当主なのですから危険な事はお控え下さい」
「今日みたいに護衛に見つかったらどうするつもりだ? いくらお前が優秀でも男との力の差は歴然なんだ、捕まれば終わりなんだぞ」
「今日はわざとです。どこで止められるかを確認しながら動いておりました。それに例え捕まったとしても私は戦えます」
すると強い力で手を引かれた。そのままフランツィスの上に腰掛けてしまう。グレタはすぐさま起き上がろうとしたが、掴まれた腰と崩した体制に起き上がる事は出来なかった。
「拷問は痛みだけでないぞ。相手は男でお前は女だ。こんな風に簡単に抑え込める」
「……それでも、例えそうだとしても私も出来ます。フランツ様がそうしてお家の為に働いているように、私もいつでもこの体をアインホルン家の為に使う覚悟は出来ています!」
「そうか。でもお前は分かっていないらしい。男と女がどういう事をするのか」
そう言うとフランィスは首に顔を埋めてきた。首を舐め、耳朶に舌を這わせてくる。
「フランツ様止めてください!」
「同じ事が出来るというならもっと、色気のある声を出せ」
耳元で囁かれた声に体が跳ねる。顔が上がりすぐ目の前で、世のご婦人ご令嬢方がしなだれ掛かりたくなる美しい顔が迫っていた。唇があと少しで触れ合う所で、不意に顔が逸らされた。体も開放されて膝の上から放り出される。よろけて机に手を付いた。
「フランツ様?」
「お前は二、三日療養しろ。分かったな、腕は使うなよ」
なぜか怒りながら部屋を出ていくフランツにグレタは混乱する頭で床に座り込んだ。
「腕を使うなですって? そんなの無理よ」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
244
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる