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2ー20 帝国の侵攻

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「ベリエ隊長……あれはまさか」
「すぐに大公様にご報告してくる。皆には厳戒態勢を敷くように伝えておけ!」

 ベリエはさっと身を翻す瞬間、目の前の大きく割れた大地に視線を投げた。前後に大陸を割るようにして走る亀裂は四ヶ月前のヴィルヘルミナ帝国との戦いで結界魔術師のオルフェンがつけたもの。その亀裂は今日まで目に見えてアメジスト王国を守る盾となっていた。

「もうしばらく頼みます、オルフェン殿」 

 ベリエは慌ただしくなる見張り塔の中を駆け下りていった。



 王城の前に馬車が着くと、エーリカは身体の末端が冷えていくのを感じていた。そして斜め向かいに座っているヘルムートを見つめた。ヘルムートの手には手錠が掛けられている。今のヘルムートには不要な気もするが、いつ魔力が戻るか分らないからとのフランツィスがわざわざ魔力を抑える魔術師用の手錠を用意していた。

「なんだそんなに見つめて。もっと近づきたいのか?」

 ヘルムートが軽口を叩いた瞬間、フランツィスがフードを被せて視界を遮る。ヘルムートの胸には姿を変える魔石の首飾りが掛けられている。今からヘルムートは王城に入るまでフランツィスの侍従として付き従う事にした。とはいっても、手に掛けられている手錠を見えなくさせる訳ではないので、すっぽりと身体を覆うような格好になっていた。
 フランツィスに続いてエーリカも降りる。場内の者達の視線は行方不明になっていた結界魔術師のエーリカが戻って来た事に向き、全身をマントで覆った侍従に気を留める者はいなかった。こそこそと聞こえるか聞こえないか位の声量で、変化した髪の事や今までどこに? などの言葉が聞こえてくる。さらには偽物説まで聞こえてきた時には思わず足を止めそうになった。しかしその声も、フランツィスの視線が辺りを巡るとぴたりと止んだ。

「クラウス様はどちらに?」

 前を歩くフランツィスは王の間ではない方向に向かっている。その先の場所には心辺りがあり、なんとなく行きたい場所ではなかった。

「紫の離宮だ。今は改装して魔術師達の住居になっているがな。そこの方が非魔術師達は敬遠して近づかないから好都合との事だ」

ーー改装したのね。

 二人の思い出の場所がもうなくなってしまったらしい。という事は、あの夜の事はクラウスにとってはあまり大事な出来事ではなかったのだろう。そう思うと少しだけ胸が傷んだ。

「紫の離宮には陛下が集めた臣下のみがいるから安心していいぞ。お前達に会った後、その者達と審議をすると仰せだ」

 なんとなくフランツィスも緊張しているようにも思う。当たり前だろう、今日の決定次第ではフランツィスは宰相の任を解かれるかもしれないし、アインホルン家もお咎めなしとはいかないだろう。爵位剥奪になってしまえば、両親にも一族にも申し訳がたたない。考えは悪い方向にばかり進み、足取りはいつしか重たくなってしまった。

「陰気な顔をするな。大丈夫だ」
「なんであなたがそんなに楽観的なのよ。一番危険なのはむしろあなたなのよ? 分かっているの?」

 今のヘルムートは若い少年が口端を上げて笑っているように見えた。

「俺が殺される事はないと断言出来る。だからなんの心配もない」
「処刑されなくても拷問は出来るぞ。ヴィルヘルミナ帝国の弱点を吐かせることもな」
「ヴィルヘルミナ帝国の弱点は俺だよ。言っただろう? 俺を恐れて皇帝は襲ってこないと」

 紫の離宮は大きく改築されていた。美しい庭は残っていたが屋敷は増築され、数人の魔術師が歩いている。皆エーリカを見ると驚きはしたものの、近付いて来る事はない。不思議に思うまでもなく、魔術師達は城内の者達と違い、侍従の姿が魔石を使って姿を変えていると気がついているからなのだろう。マントを被っていて誰かまでは分らないが、得体の知れない者には近づかないようにしようという、実に懸命な判断だった。

「こちらだ。離れの中にいらっしゃっる。あの部屋は音が外に漏れないようになっているから何を話ても大丈夫だ」

 屋敷から少し離れた場所にとんがり屋根が可愛らしい離れがあった。扉の護衛が頭を下げると扉を押し開いた。

「アインホルン家の皆様がご到着です」

 フランツィスに続き部屋の中に入った瞬間、フェンゼンとマイカーはエーリカと目が合い驚いていたが、ハンナとルーは違った。一瞬にして部屋の中に冷気と熱気が巻き起こる。その二つの魔力はうねる蛇のように絡み合い、ヘルムートの目前で止まった。ハンナとルーには魔石で姿を変えても意味はない。妙な事をすればすぐにでも魔力で貫くといわんばかりの鋭さで牙をむいていた。

「二人共何をしている。ハンナやめろ」

 マイカーは魔術を放つ妻に近付く事が出来ないまま手を伸ばした。指先に霜がつく。それでもハンナは魔力を弱めようとはしない。

「会わせたい者がいるというのはこいつの事か?」

 低い声には魔力が宿り、更に冷えた空気が肌を擦った。

「そうだ。事前に誰かを教えなかったのは、万が一にも他の者達に知れ渡らない為だ」
「最悪だ。今すぐにでも凍り付けにしてしまいたいくらいに」
「おいおい、俺に灰にさせてくれよ」
「二人共! 陛下のお近くでそこまで魔力を放出するな! それにこいつには今魔力はない!」

 するとハンナは鼻で笑った。

「魔力がないだと? 痛いくらいに伝わってくるぞ! 憎きヴィルヘルミナ帝国の魔力をな!」

 フランツィスはヘルムートを振り見た。ヘルムートは静かに胸元から首飾りと外すと床に投げた。

「やっぱり駄目か。それじゃあもう必要ないよな」

 目の前にある二つの魔術で出来た双頭の蛇を恐れもせずにそう言った。

「生かす理由は? 納得できる理由がるのだろうな?」
「その者はエーリカと命が繋がっている」
「……それだけでは理由にならない。必要があればそうだとしても殺す」
「第三皇太子を捕虜にしているとヴィルヘルミナ帝国に使者を送る。魔力があるというのは騙されたがやる事は同じだ。そいつを盾にしてヴィルヘルミナ帝国が侵攻出来ないようにする」

 ハンナはしばらく考えた後、魔力を解いた。ルーの魔術だけになった室内の気温は一気に熱くなったが、ルーは魔術を解く気はないらしい。一匹の蛇の姿になった輪郭から飛んできた火の粉に髪が若干燃えた。その瞬間、ルーは魔術を解いた。

「すまないエーリカ……」

 しょんぼりとするルーに笑みを浮かべると少し歩み寄った。

「二人がそうなるもの分かるけれど、ここはヘルムートを利用しましょう。この国を守るために」

 フランツィスは手錠を引くと前に歩かせた。

「貴様、魔力がある事を隠していたな!」

 引いた鎖が金属音を立てて揺れた。

「まあすぐにバレると思っていたけど、やっぱり見破ったのは結界魔術師だったか」
「お前は何を企んでいるんだ。魔力があるのに国には戻らず、なぜこの国に残ろうとするんだ」

 ヘルムートは部屋の中を見渡しながら目を閉じた。それ意向全く動かない。心配になり近づき掛けた時、ヘルムートはぱちっと目を開けた。

「オルフェンはどこにいるんだ? 城の中にはいないようだな」
「そんな事まで分かるのか? つくづく食えない奴だ。オルフェンはずっと大公領にいる」
「生きているのか?」

 言い淀んだように見えたクラウスだったが、それは見間違えだと思うほどに一瞬だった。

「会いに行けば分かるさ。今言える事は今も昔もオルフェンはアメジスト王国を守護しているいう事だけだ」

 その時、外から扉が激しく叩かれた。護衛の騎士達は許可を求めると、クラウスの声と共に一人の兵士が飛び込んできた。そしてその兵士はエーリカの姿を見るなり、膝から崩れ落ちた。

「エーリカ様、エーリカ様ご無事で……」

 戸惑ったままでいると、クラウスは耳元に顔を寄せた。

「この者を覚えていないか? エーリカを誤って刺した兵士だ」

 驚いて見下げると、兵士は涙を流しながら肩を震わせていた。エーリカは堪らず膝を着くとその肩にそっと触れた。肩がびくりと跳ねる。上がった顔はくしゃくしゃに歪み、涙と鼻水で濡れていた。

「あの状況であなたは恐れもせずによく立ち向かったわね。兵士の鑑だわ。守護山を救えなくてごめんなさい」

 すると兵士は更に顔を歪めて泣き崩れた。ずっと小さく謝りながら。

「だからエーリカは責めないと言っただろう?」

 兵士ははっとしたように顔を上げると、膝を付けたままクラウスの前に進んでいった。

「陛下! 申し上げまます! 大公領の地平にヴィルヘルミナ帝国の軍を確認致しました!」
「軍だと!?」
「結界魔術師長様の魔術によりそう簡単に進軍はされないでしょうが、ヴィルヘルミナ帝国は本格的に戦争を仕掛けてくるようです!」

 クラウスは怒りの籠もった目でヘルムートを見た。

「お前の読みは外れたようだな。ヴィルヘルミナ帝国は第三皇太子を見捨てたらしい」
「……なるほど」
「なるほどだと? あれだけ息巻いておいて情けないとは思わないのか?」

 するとヘルムートは兵士に近付くとその顔を間近で見るようにしゃがんだ。

「掲げていた旗の紋章は何だった?」

 目の前に迫る男の気迫に圧倒され、兵士は少し身体を引いた。ヘルムートの手が兵士の後頭部に差し込まれる。とっさにクラウスとフランツィスが剣を抜き、ヘルムートの首に押し当てた。 

「旗の紋章など見える訳がないだろう、その者から手を離せ」

 しかしヘルムートは更に瞳を覗き込んだ。

「そういう事か。皇帝はどうやら殺されたらしいな。次はよく知っている旗のようだ」
「なぜ分かる? それも魔術なのか?」
「水の魔術にも長けているようだね。敵というのが実に惜しいよ」

 ハンナは苛立ったようにクラウス達の刃の間から流れ込ませていた氷の刃をしまった。

「水は身体に満ちている。脳が、瞳が、感情が体中の水分や血液が覚えている。魔力を通してその者の記憶を見ただけだ」
「随分簡単に言ってくれるな。なぜ皇帝を弑したと言えるのか」
「皇帝は元々身体は丈夫な方だった。それに掲げられていた旗の紋章である三本の羽根は公爵家のもの。第一皇女と第二皇太子の母親の実家だ」
「謀反よ、許されないわ!」
「それが許されるのさ。おそらく証拠がないのだろう。そうやって第一皇女は王位継承権のある腹違いの兄と弟を二人殺している。数えた事はないが、王位継承権のない兄弟達や使用人を含めればその数はもっとだろうな」

 フェンゼンとマイカーはクラウスのそばに近付いた。

「大至急で兵団を全て大公領へ送る。魔術師は地理的に相性の良い火の魔術師がよいだろう。火の魔術師の全てを大公領へ送る! 水の魔術師と騎士団は王都を死守せよ!」

 クラウスはヘルムートの手に掛かっている手錠を引き上げた。クラウスよりも小さな体が上に持ち上がった。 

「こいつは地下牢に入れておけ。そして効果はないかもしれないが、ヴィルヘルミナ帝国には第三皇太子を預かっていると使者を送れ。そうだな、使者を危険には晒したくないし、効果も最大限に発揮させたい。ルー、出来るか?」
「火の鳥でも飛ばしてやるか! 奴ら度肝を抜かれるぞ!」
「クラウス様、私は屋敷に帰らせて頂きます。足手まといにはなりたくありませんから」
「王城にいるよりもその方がいいだろうが、こいつと離れればエーリカにとって良くないんだろう?」
「それなら良い提案があるぞ。わざわざ魔術で知らせなくても、俺自らが堂々と姿を見せてやろう、その方がずっと効果的だ」
「その手には乗らん。お前はそうやってヴィルヘルミナ帝国に帰るだけだろう。そんな手助け出来るわけがない」
「馬鹿言うな。俺だって単身で戻れば勝てるとは限らない。今の帝位はむしり取ったとはいえ第二皇太子が継いだんだ。そこに歯向かえば俺が謀反人になってしまう」
「それならどうするんだ? まずは俺が生きていると知らせる。そうすれば誰が帝位を継ぐにふさわしいか明確になるだろう。なにせヴィルヘルミナ帝国は魔術至上主義だからな」
「陛下、どうなさいますか」

 クラウスは周りを逡巡した後、フランツィスの肩に手を置いた。

「王城はお前に任せる。俺もこの者達と共に大公領へ行こう」



 優しい水音と共にジークフリートとパールは何度も舌を絡ませていた。息が上がり、パールがジークフリートの胸元の釦を外そうとした所で、ジークフリートにその手首を掴まれた。

「パール駄目だよ。この先へ進むのはきちんと、せめて婚約をしてからだ」

 しかしいやいやと駄々をこねるように首を振りながら、パールはジークフリートの首筋に吸い付いた。

「パールっ! やめてくれ。もう、本当に、一線を越えてしまいそうになるじゃないか」
「どうして駄目なのです? 好きなのは私だけですか?」
「そうじゃない! 僕もパールが大好きだ。だからこそちゃんと正式に婚約を結びたいんだよ」
「そんな事しなくても結ばれますよ?」

 パールの手が下肢に伸びていく。びくりと身体を震わせたジークフリートは、思わず甘い溜め息をこぼした後、強引にパールの肩を押した。急性に引き離されたパールは不満そうに唇を尖らせた。 

「ここへきてから数日が経ちますが、ジーク様は口付けしかして下さいません。そんなにお嫌ですか?」

 するとジークフリートは痛々しい顔で俯いた。

「そんなにしたがると言う事は、その、パールはもうすでに、その……」
「純潔じゃないと? そうお聞きになりたいのですか?」

 ジークフリートは顔を上げると、すぐに頬に触れてきた。

「そうじゃない、疑っている訳じゃないんだ。でも平民は貴族と貞操観念が違うと聞くから、もしも僕と出会う前にそうしたいと思う男がいたら自然なのかと」

 パールは下から掬うような口付けをすると、ジークフリートの胸に飛び込んだ。

「私は誰も受け入れた事はございません。こんな事もジーク様とが初めてでございます。ただ、平民の友人達の話などは聞いた事がありますので、貴族のご令嬢の方々よりは知識があるかもしれませんね」
「知識。そうか、そうだな。でもこういう事はここまでにしよう。口付けをしておいてなんだが、僕は君を大事にしたいんだ。必ず陛下のお許しを頂くよ」

 パールはジークフリートの胸に、無表情で擦り寄った。その時、部屋の扉が叩かれる。最初は返事をしなかったジークフリートだったが、扉を叩く音は次第に激しくなりとうとう扉を開けた。

「良かった、ジーク! 部屋にいたのね?」

 母親は開いた部屋の隙間から見えた女に目を見開いたが、それには何も言わずにジークフリートの腕を掴んだ。

「ヴィルヘルミナ帝国が攻めて来たの。戦争が始まるのよ!」
「……それがなにか? 陛下がどうにかなさるでしょう。それよりも一大事なのなら、僕などの所に来るのではなくもっと行きたい場所あるのでは?」 
「どういう意味? ジーク、あなたは誤解をしているわ。私が悪いのだけれど……」
「認めるですね! もうあなたを母とは思っておりません! 僕には構わず逃げて下さい。ああ、父上にも構わないで下さいね。きっと死に際まであなたの顔など見たく……」

 激しい平手打ちが飛ぶ。ジークフリートの身体がよろけて扉にぶつかった

「ジーク様! 大丈夫ですか?」
「あなたも早くヴォルフ侯爵家に戻り、家に返してもらいなさい。貴族の娘が一人敵国にいるなど、ご家族もさぞご心配しているわよ」
「?!」
「知っているわよ。ヴォルフ侯爵が囲っているヴィルヘルミナ敵国からの間者だという事をね」

 その時、今度はジークフリートの平手打ちが飛んだ。母親は廊下に倒れ、すぐに護衛の騎士が支える。驚いたまま固まっている母親の横を大股で通り過ぎると、ジークフリートはパールお腕を掴んで歩き出した。

「ジーク様、あの方は?」
「……母だった人だよ」

 パールが後ろを振り返り掛けた所で手を引くジークフリートの力は強くなった。

「あんな女、君が気にしなくていいよ。汚らわしい!」
「汚らわしいとは? ジーク様?」

 すると大股で歩いていた足は突如止まってパールの両肩に手を置かれた。

「あの女は不貞行為を働いていたんだ。夫がいるのに」
「でも貴族間では珍しい事ではないのでは?」

 すると驚いた様にジークフリートは目を見開いた後、ふっと息を吐いた。

「確かにそうかも知れないね。珍しい事ではないよ。でもあの女は王妃だった。だからそれは国を裏切る事にもなると思うんだ。だから僕は貞淑な妻を望むし、相手にもそうありたいと思う」
「だから私を抱かれなのですか?」

 怒りで強張っていたジークフリートの頬にさっと赤みが指す。年相応に恥ずかしがった態度でそっとパールの身体を包み込んだ。

「大事にしたいんだ。落ち着いたらアメジスト王国に住まいを移してくれないか? もちろん僕が君のご両親を説得にいくよ。何不自由ない暮らしを約束する」

 返事のないパールの顔を覗き込もうとした時、パールの視線はジークフリートの肩越し、廊下の先へと釘付けになっていた。ジークフリートも不審ながらその視線を追う。そこにはクラウスを先頭とした今のこの国の権力者達が回廊を進んでいた所だった。

「兄上達だ。君を紹介したい所だけど今はやめた方がいいみたいだね」

 その瞬間、パールは走り出していた。
 突然現れた見ず知らずの女に護衛の騎士が前に出る。しかし後ろから第二王子がやめろと叫ぶ声に剣を抜くのを押し留めた。パールはクラウスの前を通り過ぎると、後ろでマントを被っていた者の前に膝を着いた。

「よくぞご無事で。私は生きていると信じておりました!」

 気怠そうにマントが外され、さらりとした白銀の髪が流れる。パールは眩しいものでも見るように目を細めながら小刻みに身体を震わせていた。

「パール? 何をしている! 立つんだ!」

 無理やりパールの腕を引いたジークフリートは、マントを被っていた男の姿を見て言葉を失っていた。

「ジーク、驚いただろうが騒ぐなよ」

 クラウスがジークフリートの腕を掴んだ瞬間、勢いよく振り払われる。驚愕したままジークフリートはパールを見た。

「まさかこの男を知っているのか? 違うよな? そうじゃないだろう?」
「ヘルムート様、よくぞご無事で」

 もうジークフリートなど見えていないかのような態度に、ジークフリートはパールの身体を思い切り引き寄せた。細い身体は軽々と腕の中に収まる。しかしパールは今までに見た事のないような顔で睨みつけてくると、その腕から逃れようと身を捩った。

「殿下が行方不明と知り、居ても立っても居られずこうして秘密裏に入国していたのです。さあヘルムート様、共に帰りましょう!」
「状況をよく見ろ、お前らしくもない。どうやったら帰れるように見える? 俺は囚われているんだぞ」

 手錠を掛けられた手を上げて見せると、パールは激しい怒りを湛えてクラウスを睨みつけた。

「この方をどなたか分かっているの? ヴィルヘルミナ帝国の皇太子殿下なのよ!」

 するとヘルムートは手錠の掛かった手でクラウスに噛みつこうとするパールの身体を押し退けた。

「馬鹿者。お前こそ二度目はないぞ。この方はアメジスト王国の国王陛下だ。お前ごときがそう話しかけてよい相手ではない」
「申し訳ございません! パールはなんでもお言いつけを守りますから捨てないで下さいませ!」
「今は時間がないんだ。もうそのへんで終わりにしてくれ。というかその女がヴィルヘルミナ帝国の手の者なら見過ごす訳にはいかないのだが?」
「パールの身分は僕が保証します! 決して間者ではありません!」

 すると、ヘルムートは鼻で笑った。

「お前も随分上手く入り込んだものだな。おっと、俺の指示ではないぞ。なにせずっと誰とも接触せずにエーリカと暮らしていたんだからな」
「エーリカ?」

 パールの視線が隣りにいたエーリカに向く。思わず怯む程に強い視線で見られたが、こちらが気後れする必要は全くない。見つめ返すと、苛立ったようにクラウスが声を荒げた。

「これ以上は意図的な足止めとみなし捕えるぞ!」

 一行に着いていこうとするパールの腕を掴んだジークフリートは、今まで向けられていた優しい顔とは似ても似つかない表情を向けてくるその姿に、無意識に手を離していた。パールはヘルムートを追って後と着いていく。一人取り残されたジークフリートは震えながら立ち尽くしていた。



 ジークフリートは気がつくと父親の病室の前に立っていた。開ける事もせずただ部屋の前に立ち尽くしていると、扉が静かに開いた。

「誰かいるとは思ったのだけれどあなただったのね?」

 母親の頬は赤くなっており、その痛々しさに顔を歪める。その瞬間、優しい腕が背中に回っていた。

「中へ入りましょう。お父様がずっとお待ちよ」

 四ヶ月振りに入る部屋の中は思っていたよりもずっと質素だった。静かで寂しい寝台の上で、父親は眠っていた。

「先程、息を引き取られたの。ずっと頑張っておられたからもう良いわよね?」
「いいも何も、僕は」

 言葉にならない言葉が出ない代わりに視界が歪み、涙が次から次に溢れてくる。そのまま膝から崩れ落ちた。

「私のせいでこの人にもあなたにも誤解を招いたまま、苦しめてしまったわ」
「誤解?」
「あなたは紛れもなくこの人の子よ。それは断言出来ます」
「それならなぜ! なぜはっきりとそう言ってくれなかったのですか!」
「それは半分真実で、半分が嘘だったから。あなたはこの人の子。でも不義を働いたのも事実だったの」
「なぜ? 父上を愛してはいなかったのですか?」
「周囲の目に耐えきれなくなってしまったの。このまま子が出来なければ側室を、妾をという声が日に日に大きくなり、寝所へ女が送り込まれる事態も起きたわ。この人は怒ってその当事者だった臣下を処罰したけれど、私はそれで心が壊れてしまったの。なんとしても子を授からなければと追い詰められてしまった。その時、ふと近付いてきた者と関係を持ってしまった。その相手が悪かったわ。今思えば策略だったのかもしれないけれど、あの時の私には正常な判断が出来ていなかった」
「相手、とは?」

 言い淀んでいたが、ジークフリートはふと呟く様にその名を口にした。

「ヴォルフ公爵ですか?」
「だからあの男はお前が自分の子だと思っている。お前を王位につけようとしていたわ」
「だから僕に近付いてきたのか」
 ジークフリートはゆらりと立ち上がると、部屋を出ていこうとした。
「どこへ行くの? ジーク?」
「僕はここに居るべき人間ではありません。少しだけ時間を下さい」
「ジーク! 危険な事はしないで。お願いだから!」

 その言葉には返事も振り返りもせずに、ジークフリートは部屋を出ていった。

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