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春の夜の夢。
春の夜の夢。一
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桜の花びらが舞い落ちる。その散る姿は儚く最後の輝きを放ち美しく。
花弁に朝露が輝き、音もなく零れるような、綺麗で音もない、朝。
ホテルのモーニングコールで起こされた。
何も身に纏っていないはずが、バスローブがかけられている。
なんとか電話まで這って、そのモーニングコールへ出た。
「お、おはようございます?」
『おはようございます。鹿取様。既に御連れの方から代金を頂いています。10時がチャックアウトですのでごゆっくりされて下さい』
「え?」
『起きたらルームサービスを運ぶよう言われてますが大丈夫でしょうか?』
「ええ!?」
まだ半分眠っていた意識の中、つい大きな声を上げてしまった。
そして呆然となって辺りを見渡す。
昨晩、月の光が淡く射し込んでいた窓からは、駅の近くの高層ビルが並んでいるのが見える。うちからそう遠くない場所だ。
静かに流れるBGMは、昨日の夢のような時間を奏でているように聴こえてくる。
『鹿取様?』
「はい。あの、ルームサービスは大丈夫、です」
受話器を置いてカバンからスマホを取り出す。
まだ8時になったばかりだ。昨日から10時間も経っていない、のに。
裸足でペタペタと歩きまわる。
クローゼットを開けるが、デイビットさんの服もあの桜色のワンピースも無かった。
代わりに残っているのは、ソファに皺にならないようにと広げてかけられている着物。
デイビットさんが頑張って奮闘してくれたのだろうか。
帯やシュシュも並べられている。
けれど、デイビットさんは何処にもいなかった。
テーブルの上を探しても、私宛のメモは何一つない。
信じたくなかったけど、これが現実なのかもしれない。
デイビットさんは私を鳥籠から出す為だけに、一晩戯れてくれただけ。
まるで春の夜の夢のごとしという言葉にピッタリな、現実だ。
春の夜の 夢ばかりなる 手枕(たまくら)に
かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
そんな言葉と、母が扇子を優雅に広げ舞う姿が脳裏に浮かんでしまう。
『短い春の夜の、夢のようにはかない、たわむれの一夜のせいでつまらない浮き名が立ったりしたら、口惜しいではありませんか』
確かこの歌は上手に一夜の御誘いを断るんだ。
でも私は、――後悔なんてしていない。
感謝と、甘酸っぱい気持ちとそして胸を締め付ける思いだけ。
泣くだけ泣いたら、また今日から頑張ろう。
そう思えた。
朝帰りした家では、お手伝いさんもお弟子さんたちもぴりぴりした空気の中、口を閉ざしていた。きっと母が不機嫌なのだろう。
今まではその空気が伝わって私も怖かったけど、今はもう平気。
逆に、私に怒っているのを他の人たちにも伝染させて張りつめた空気にするのはどうかと思う。
と思いつつ、朝は稽古で母は居ないし、私が仕事から帰ってきたらご飯を済ましているか仕事で出かけているから、此処の所呼び出される以外は会っていない。
もちろん、美鈴とも。
「あの、麗子さんに謝られた方が」
シャワーだけ浴びて、出勤しようと靴を履いていたら、一番若いお弟子さんがすすすーっと私の隣にやって来て耳打ちした。
だから私は、首を傾げる。
「何を?」
この年で外泊くらいで何故親に謝罪?
外泊する連絡はした。
跡取りではない私を用無しだと放り投げたのは向こう。
放り出した後も、私の監視や働く場所、出かけるのに誰かの車を出させる。
そんな鳥籠の生活はもううんざりだ。
「いってきます」
昨日の夜、初めて知らない世界に飛び立った。
舞い降りた先は、春の夢の中だったけれど。
文句を言われたくないのなら、――貯金してここから出て一人で頑張るしかない。
自由を手に入れるのは、私次第。Up to me.
==-----
「へぇ。鹿取ちゃん、一人暮らししたいんだ」
コンビニで貰って来たアパートなど住宅の情報誌を見ながら、賄いのうどんを食べていたら日高さんが覗いて来た。
「お金ってかかりますね」
「そうねぇ。もう少し実家に甘えて貯金してからがいいわよ。結婚して妊娠しちゃったら悪阻が酷いと先に休職しなくちゃだし、家を出るなんて結婚してからでいいって」
御煎餅を豪快に歯で割りながら、日高さんは言った後、思い出したように身を乗り出して、小声で言う。
「昨日、あの外人さんとデートどうだった?」
「何でそれを!」
びっくりして後ずさった私に、不敵な笑みで見つめてくる。
「だって、私服持ってきてたし。幹太の御迎えを断ったんでしょ? 小百合さんがおろおろしてたよ」
小百合さんと言われてまだ幹太さんの親だとはどうもピンと来ない。
おっとりして綺麗で、テキパキとしてるけど。
「小百合さんもなんで幹太さんに送迎頼んだんだろ。うちの親にどんな事言われたんですかね」
さり気なくデートの件から話を逸らしと、一瞬日高さんが黙って煎餅に伸ばした手を止める。
「そりゃあ、幹太が28にもなって浮いた話が一個もないからじゃない? もう妙齢なのに」
「浮いた話……」
「幹太もさ、私を心配して送迎してくれたりするのは有り難いけどね。ちょっと距離が近いかな。私があのパートさんたちになんて影口を叩かれてるか」
「でも日高さんは何倍も言い返してて凄いです」
未だにパートの山元さんと森田さんは仕事内容を確認したり話しかけると嫌な顔をされてしまうから私も苦手意識が消えないし。
「ふふふ。母は強しよ。お腹に子供が居なかったら影口なんて殴り合いで解決してたわ」
時計を見て休憩時間を確認すると、私に優しく微笑んだ。
「話が逸れちゃってごめんね。でも、鹿取ちゃんがあの外人さんが好きならいいの。家の事とか小百合さんのこととか気にしないのよ?」
好き――。
その言葉を反芻すると、未だに甘い疼きを思い出す。
身体を繋げる行為は、そんなに綺麗な事だけじゃないし、痛みも恥ずかしい格好もするし全部見られちゃうし。
でも、ううん。だから好きな人としか出来ない行為だと思う。
デイビットさんの気持ちはもう私には一生分からないけど、きっと私への優しさから抱いてくれたのだと思いたい。
花弁に朝露が輝き、音もなく零れるような、綺麗で音もない、朝。
ホテルのモーニングコールで起こされた。
何も身に纏っていないはずが、バスローブがかけられている。
なんとか電話まで這って、そのモーニングコールへ出た。
「お、おはようございます?」
『おはようございます。鹿取様。既に御連れの方から代金を頂いています。10時がチャックアウトですのでごゆっくりされて下さい』
「え?」
『起きたらルームサービスを運ぶよう言われてますが大丈夫でしょうか?』
「ええ!?」
まだ半分眠っていた意識の中、つい大きな声を上げてしまった。
そして呆然となって辺りを見渡す。
昨晩、月の光が淡く射し込んでいた窓からは、駅の近くの高層ビルが並んでいるのが見える。うちからそう遠くない場所だ。
静かに流れるBGMは、昨日の夢のような時間を奏でているように聴こえてくる。
『鹿取様?』
「はい。あの、ルームサービスは大丈夫、です」
受話器を置いてカバンからスマホを取り出す。
まだ8時になったばかりだ。昨日から10時間も経っていない、のに。
裸足でペタペタと歩きまわる。
クローゼットを開けるが、デイビットさんの服もあの桜色のワンピースも無かった。
代わりに残っているのは、ソファに皺にならないようにと広げてかけられている着物。
デイビットさんが頑張って奮闘してくれたのだろうか。
帯やシュシュも並べられている。
けれど、デイビットさんは何処にもいなかった。
テーブルの上を探しても、私宛のメモは何一つない。
信じたくなかったけど、これが現実なのかもしれない。
デイビットさんは私を鳥籠から出す為だけに、一晩戯れてくれただけ。
まるで春の夜の夢のごとしという言葉にピッタリな、現実だ。
春の夜の 夢ばかりなる 手枕(たまくら)に
かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
そんな言葉と、母が扇子を優雅に広げ舞う姿が脳裏に浮かんでしまう。
『短い春の夜の、夢のようにはかない、たわむれの一夜のせいでつまらない浮き名が立ったりしたら、口惜しいではありませんか』
確かこの歌は上手に一夜の御誘いを断るんだ。
でも私は、――後悔なんてしていない。
感謝と、甘酸っぱい気持ちとそして胸を締め付ける思いだけ。
泣くだけ泣いたら、また今日から頑張ろう。
そう思えた。
朝帰りした家では、お手伝いさんもお弟子さんたちもぴりぴりした空気の中、口を閉ざしていた。きっと母が不機嫌なのだろう。
今まではその空気が伝わって私も怖かったけど、今はもう平気。
逆に、私に怒っているのを他の人たちにも伝染させて張りつめた空気にするのはどうかと思う。
と思いつつ、朝は稽古で母は居ないし、私が仕事から帰ってきたらご飯を済ましているか仕事で出かけているから、此処の所呼び出される以外は会っていない。
もちろん、美鈴とも。
「あの、麗子さんに謝られた方が」
シャワーだけ浴びて、出勤しようと靴を履いていたら、一番若いお弟子さんがすすすーっと私の隣にやって来て耳打ちした。
だから私は、首を傾げる。
「何を?」
この年で外泊くらいで何故親に謝罪?
外泊する連絡はした。
跡取りではない私を用無しだと放り投げたのは向こう。
放り出した後も、私の監視や働く場所、出かけるのに誰かの車を出させる。
そんな鳥籠の生活はもううんざりだ。
「いってきます」
昨日の夜、初めて知らない世界に飛び立った。
舞い降りた先は、春の夢の中だったけれど。
文句を言われたくないのなら、――貯金してここから出て一人で頑張るしかない。
自由を手に入れるのは、私次第。Up to me.
==-----
「へぇ。鹿取ちゃん、一人暮らししたいんだ」
コンビニで貰って来たアパートなど住宅の情報誌を見ながら、賄いのうどんを食べていたら日高さんが覗いて来た。
「お金ってかかりますね」
「そうねぇ。もう少し実家に甘えて貯金してからがいいわよ。結婚して妊娠しちゃったら悪阻が酷いと先に休職しなくちゃだし、家を出るなんて結婚してからでいいって」
御煎餅を豪快に歯で割りながら、日高さんは言った後、思い出したように身を乗り出して、小声で言う。
「昨日、あの外人さんとデートどうだった?」
「何でそれを!」
びっくりして後ずさった私に、不敵な笑みで見つめてくる。
「だって、私服持ってきてたし。幹太の御迎えを断ったんでしょ? 小百合さんがおろおろしてたよ」
小百合さんと言われてまだ幹太さんの親だとはどうもピンと来ない。
おっとりして綺麗で、テキパキとしてるけど。
「小百合さんもなんで幹太さんに送迎頼んだんだろ。うちの親にどんな事言われたんですかね」
さり気なくデートの件から話を逸らしと、一瞬日高さんが黙って煎餅に伸ばした手を止める。
「そりゃあ、幹太が28にもなって浮いた話が一個もないからじゃない? もう妙齢なのに」
「浮いた話……」
「幹太もさ、私を心配して送迎してくれたりするのは有り難いけどね。ちょっと距離が近いかな。私があのパートさんたちになんて影口を叩かれてるか」
「でも日高さんは何倍も言い返してて凄いです」
未だにパートの山元さんと森田さんは仕事内容を確認したり話しかけると嫌な顔をされてしまうから私も苦手意識が消えないし。
「ふふふ。母は強しよ。お腹に子供が居なかったら影口なんて殴り合いで解決してたわ」
時計を見て休憩時間を確認すると、私に優しく微笑んだ。
「話が逸れちゃってごめんね。でも、鹿取ちゃんがあの外人さんが好きならいいの。家の事とか小百合さんのこととか気にしないのよ?」
好き――。
その言葉を反芻すると、未だに甘い疼きを思い出す。
身体を繋げる行為は、そんなに綺麗な事だけじゃないし、痛みも恥ずかしい格好もするし全部見られちゃうし。
でも、ううん。だから好きな人としか出来ない行為だと思う。
デイビットさんの気持ちはもう私には一生分からないけど、きっと私への優しさから抱いてくれたのだと思いたい。
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