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第三章 路のとちゅう
三の九
道の脇に、お結の三度笠が落ちている。
信十郎は走る馬の背から飛び降りた。
そのまま草むらに走り込む。
たしかに、信十郎を呼ぶお結の声が、聞こえた。こっちの方角から聞こえたはずだ、とそこに向かって、一散に駆けた。
信十郎は憎んだ。桐野と清彦の陋劣なたくらみを。そしてくやんだ。清彦の心底を見抜けなかった自分を。
――甘かった、まったく甘かった。
視界のふち、草の陰で人影らしきものが動いたようだった。
目をむけると、清彦がお結にまたがり、彼女の尻を打擲しているのが、ぼうぼうとはえた草のあい間に見えた。
「清彦っ」
信十郎は叫び、走る。
声が聞こえたのだろう、清彦があわててたちあがって、きゃあきゃあと癇にさわる悲鳴をあげながら逃げはじめた。
「清彦おっ」
憎しみのまま叫びながら、信十郎は剣を抜いた。
まったくのへっぴり腰で逃げる清彦に、すぐに追いついた。
刀を振り上げ、その背中を叩き斬ろうとした、瞬間、
「おじちゃん、だめっ」
お結の制止する声が聞こえた。
その声に反射的に腕が動いたのか、それとも、逆上していたせいもあるだろうか、手がすべって刀がまわり、峰で清彦の肩を打ちつけた。
ぎゃっと悲鳴をあげて、清彦が倒れ、転がる。確実に肩の骨は折れているはずだ。彼は痛みでわめきながら、右に左にと無様にのたうちまわっていた。
「おじちゃんっ」
しがみついてくるお結の肩を、信十郎は抱きしめた。
やがて、はあはあと喘ぎながら、清彦の動きがとまった。
「ありがとう」しぼりだすように、震えながら彼は云った。「ありがとう、おゆい。わたしの身を案じてくれたんだね、優しい子だね、お前は」
――馬鹿な。
信十郎は、唾棄したい気分におそわれた。
お結が信十郎をとめたのは、けっして清彦のためではない。
お結が案じたのは、信十郎だった。襲い来る刺客を斬るのは生きるためのしかたのない行為だとしても、清彦のような、武器を持たないただの町人を怒りにまかせて斬れば、信十郎にまっているのは、破滅だけだ。
清彦にはそれがわからない。
この男には、心というものがない、と信十郎は思った。優しさとか思いやりといった人の情がないのだ。そういう優しい感情のない人間は他人の心がわからない。他人の思いを自分の都合のいいように曲げて受けとってわかったつもりになるだけだ。
しかも、清彦には、意志というものの存在が希薄に思えた。気丈な母親のいいなりに育ち、桐野にあやつられて信十郎たちに近づき欺いた。苦痛のなかで這いつくばっているこの大きな図体は、がらんどうなのかもしれない。心がまったくからっぽで、ただ生きているだけの、でくのぼうなのかもしれない。
そんな人間に、けっして明るい未来は訪れないだろう。
信十郎は刀を鞘にしまった。沸騰していた煮え湯が、急激に冷めてしまったように、感情がしずまったのだった。
「お前を斬っても、刀の穢れだ」
吐き捨てるように云って、信十郎はお結を抱き上げた。
立ち去るふたりの背中に、おゆい、おゆい、と泣くような声が聞こえた。それは、うめくように、まるで犬かなにかの動物が迷子になって、どこにいるともしれない仲間にむかって自分の居場所を知らせるように、どこか哀愁をおびた声色で鳴いているようであった。
おゆい、おゆい、行かないでおくれ。お前がいなくなったら、私はなににすがって生きていけばいいんだい。お願いだ、お願いだ。
そんな、嘆くように哀願する声が、風にのって、信十郎とお結の耳に運ばれてくるのだった。
だが、ふたりは、けっしてふりかえることはなかった。
やがて、その鳴き声は、風の音に流され、草々のざわめきのなかへ消えていった。
信十郎は走る馬の背から飛び降りた。
そのまま草むらに走り込む。
たしかに、信十郎を呼ぶお結の声が、聞こえた。こっちの方角から聞こえたはずだ、とそこに向かって、一散に駆けた。
信十郎は憎んだ。桐野と清彦の陋劣なたくらみを。そしてくやんだ。清彦の心底を見抜けなかった自分を。
――甘かった、まったく甘かった。
視界のふち、草の陰で人影らしきものが動いたようだった。
目をむけると、清彦がお結にまたがり、彼女の尻を打擲しているのが、ぼうぼうとはえた草のあい間に見えた。
「清彦っ」
信十郎は叫び、走る。
声が聞こえたのだろう、清彦があわててたちあがって、きゃあきゃあと癇にさわる悲鳴をあげながら逃げはじめた。
「清彦おっ」
憎しみのまま叫びながら、信十郎は剣を抜いた。
まったくのへっぴり腰で逃げる清彦に、すぐに追いついた。
刀を振り上げ、その背中を叩き斬ろうとした、瞬間、
「おじちゃん、だめっ」
お結の制止する声が聞こえた。
その声に反射的に腕が動いたのか、それとも、逆上していたせいもあるだろうか、手がすべって刀がまわり、峰で清彦の肩を打ちつけた。
ぎゃっと悲鳴をあげて、清彦が倒れ、転がる。確実に肩の骨は折れているはずだ。彼は痛みでわめきながら、右に左にと無様にのたうちまわっていた。
「おじちゃんっ」
しがみついてくるお結の肩を、信十郎は抱きしめた。
やがて、はあはあと喘ぎながら、清彦の動きがとまった。
「ありがとう」しぼりだすように、震えながら彼は云った。「ありがとう、おゆい。わたしの身を案じてくれたんだね、優しい子だね、お前は」
――馬鹿な。
信十郎は、唾棄したい気分におそわれた。
お結が信十郎をとめたのは、けっして清彦のためではない。
お結が案じたのは、信十郎だった。襲い来る刺客を斬るのは生きるためのしかたのない行為だとしても、清彦のような、武器を持たないただの町人を怒りにまかせて斬れば、信十郎にまっているのは、破滅だけだ。
清彦にはそれがわからない。
この男には、心というものがない、と信十郎は思った。優しさとか思いやりといった人の情がないのだ。そういう優しい感情のない人間は他人の心がわからない。他人の思いを自分の都合のいいように曲げて受けとってわかったつもりになるだけだ。
しかも、清彦には、意志というものの存在が希薄に思えた。気丈な母親のいいなりに育ち、桐野にあやつられて信十郎たちに近づき欺いた。苦痛のなかで這いつくばっているこの大きな図体は、がらんどうなのかもしれない。心がまったくからっぽで、ただ生きているだけの、でくのぼうなのかもしれない。
そんな人間に、けっして明るい未来は訪れないだろう。
信十郎は刀を鞘にしまった。沸騰していた煮え湯が、急激に冷めてしまったように、感情がしずまったのだった。
「お前を斬っても、刀の穢れだ」
吐き捨てるように云って、信十郎はお結を抱き上げた。
立ち去るふたりの背中に、おゆい、おゆい、と泣くような声が聞こえた。それは、うめくように、まるで犬かなにかの動物が迷子になって、どこにいるともしれない仲間にむかって自分の居場所を知らせるように、どこか哀愁をおびた声色で鳴いているようであった。
おゆい、おゆい、行かないでおくれ。お前がいなくなったら、私はなににすがって生きていけばいいんだい。お願いだ、お願いだ。
そんな、嘆くように哀願する声が、風にのって、信十郎とお結の耳に運ばれてくるのだった。
だが、ふたりは、けっしてふりかえることはなかった。
やがて、その鳴き声は、風の音に流され、草々のざわめきのなかへ消えていった。
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