湖水のかなた

優木悠

文字の大きさ
30 / 62
第三章 路のとちゅう

三の九

 道の脇に、お結の三度笠が落ちている。
 信十郎は走る馬の背から飛び降りた。
 そのまま草むらに走り込む。
 たしかに、信十郎を呼ぶお結の声が、聞こえた。こっちの方角から聞こえたはずだ、とそこに向かって、一散に駆けた。
 信十郎は憎んだ。桐野と清彦の陋劣ろうれつなたくらみを。そしてくやんだ。清彦の心底を見抜けなかった自分を。
 ――甘かった、まったく甘かった。
 視界のふち、草の陰で人影らしきものが動いたようだった。
 目をむけると、清彦がお結にまたがり、彼女の尻を打擲しているのが、ぼうぼうとはえた草のあい間に見えた。
「清彦っ」
 信十郎は叫び、走る。
 声が聞こえたのだろう、清彦があわててたちあがって、きゃあきゃあと癇にさわる悲鳴をあげながら逃げはじめた。
「清彦おっ」
 憎しみのまま叫びながら、信十郎は剣を抜いた。
 まったくのへっぴり腰で逃げる清彦に、すぐに追いついた。
 刀を振り上げ、その背中を叩き斬ろうとした、瞬間、
「おじちゃん、だめっ」
 お結の制止する声が聞こえた。
 その声に反射的に腕が動いたのか、それとも、逆上していたせいもあるだろうか、手がすべって刀がまわり、峰で清彦の肩を打ちつけた。
 ぎゃっと悲鳴をあげて、清彦が倒れ、転がる。確実に肩の骨は折れているはずだ。彼は痛みでわめきながら、右に左にと無様にのたうちまわっていた。
「おじちゃんっ」
 しがみついてくるお結の肩を、信十郎は抱きしめた。
 やがて、はあはあと喘ぎながら、清彦の動きがとまった。
「ありがとう」しぼりだすように、震えながら彼は云った。「ありがとう、おゆい。わたしの身を案じてくれたんだね、優しい子だね、お前は」
 ――馬鹿な。
 信十郎は、唾棄したい気分におそわれた。
 お結が信十郎をとめたのは、けっして清彦のためではない。
 お結が案じたのは、信十郎だった。襲い来る刺客を斬るのは生きるためのしかたのない行為だとしても、清彦のような、武器を持たないただの町人を怒りにまかせて斬れば、信十郎にまっているのは、破滅だけだ。
 清彦にはそれがわからない。
 この男には、心というものがない、と信十郎は思った。優しさとか思いやりといった人の情がないのだ。そういう優しい感情のない人間は他人の心がわからない。他人の思いを自分の都合のいいように曲げて受けとってわかったつもりになるだけだ。
 しかも、清彦には、意志というものの存在が希薄に思えた。気丈な母親のいいなりに育ち、桐野にあやつられて信十郎たちに近づきあざむいた。苦痛のなかで這いつくばっているこの大きな図体は、がらんどうなのかもしれない。心がまったくからっぽで、ただ生きているだけの、でくのぼうなのかもしれない。
 そんな人間に、けっして明るい未来は訪れないだろう。
 信十郎は刀を鞘にしまった。沸騰していた煮え湯が、急激に冷めてしまったように、感情がしずまったのだった。
「お前を斬っても、刀のけがれだ」
 吐き捨てるように云って、信十郎はお結を抱き上げた。
 立ち去るふたりの背中に、おゆい、おゆい、と泣くような声が聞こえた。それは、うめくように、まるで犬かなにかの動物が迷子になって、どこにいるともしれない仲間にむかって自分の居場所を知らせるように、どこか哀愁をおびた声色で鳴いているようであった。
 おゆい、おゆい、行かないでおくれ。お前がいなくなったら、私はなににすがって生きていけばいいんだい。お願いだ、お願いだ。
 そんな、嘆くように哀願する声が、風にのって、信十郎とお結の耳に運ばれてくるのだった。
 だが、ふたりは、けっしてふりかえることはなかった。
 やがて、その鳴き声は、風の音に流され、草々のざわめきのなかへ消えていった。
感想 2

あなたにおすすめの小説

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

双葉病院小児病棟

moa
キャラ文芸
ここは双葉病院小児病棟。 病気と闘う子供たち、その病気を治すお医者さんたちの物語。 この双葉病院小児病棟には重い病気から身近な病気、たくさんの幅広い病気の子供たちが入院してきます。 すぐに治って退院していく子もいればそうでない子もいる。 メンタル面のケアも大事になってくる。 当病院は親の付き添いありでの入院は禁止とされています。 親がいると子供たちは甘えてしまうため、あえて離して治療するという方針。 【集中して治療をして早く治す】 それがこの病院のモットーです。 ※この物語はフィクションです。 実際の病院、治療とは異なることもあると思いますが暖かい目で見ていただけると幸いです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 続き……ではないですが、双葉病院の提携先の歯科クリニックの話『痛いのは、歯だけじゃない』を現在更新中です。 そこでは黒崎先生はもちろん、双葉病院の先生もチラッと出てきたりしますので、そちらもぜひ。

獅子の末裔

卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。 和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。 前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。

大和型重装甲空母

ypaaaaaaa
歴史・時代
1937年10月にアメリカ海軍は日本海軍が”60000トンを超す巨大戦艦”を”4隻”建造しているという情報を掴んだ。海軍はすぐに対抗策を講じてサウスダコタ級戦艦に続いてアイオワ級戦艦を12隻建造することとした。そして1941年12月。日米は戦端を開いたが戦列に加わっていたのは巨大戦艦ではなく、”巨大空母”であった。 表紙はNavalArtというゲームの画像で、動画投稿者の大和桜花さんに作っていただきました

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。