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第九章 宝よ、いずこ
九の五
入り口の戸を開けると、昨夜の雨はすでにやんでいて、目を射るような日の光に小源太は目を細めた。見上げれば空には一面薄い雲が覆っていたが、奇妙に眩しいのはほとんど寝ていないせいだろう。
顔を洗いに井戸端へ行くと、すでに長屋のかみさん連中は五、六人かたまって何かのよもやま話に盛り上がっていて、今朝は珍しく大家の久右衛門もその輪に加わっていた。
あくびをしつつ、おはようと言いながら近づく小源太を、皆がいっせいに一瞥すると、すぐに顔を見合わせてくすくすと笑うのだった。
感じの悪いものである。
「栗栖の旦那」と隣のおしまが声をかけた。小源太の顔色をさぐるような目で見て来、嫌な笑いを目もと口もとに浮かべている。「夜中まで、ずいぶん楽しそうでしたこと」
小源太はおしまが何を言いたいのかわからず、眉根を寄せた。
「栗栖様」と久右衛門が引き継ぐように話しはじめた。「あなたも、そのような男の身なりをしていると言っても、やはり女人だったのですなあ。私は安心しましたよ。しかし、隣近所に聞こえるほど、大きな声を出してはいけません。仮にもお侍というご身分なんですから、そのようないとなみの時でも慎みを持っていただかなくては、下下にしめしがつきません」
小源太の頭は、半分寝ているようなものだから、いささかまわらない。長屋の連中が何を言っているのか、さっぱり理解できないでいた。
「で、相手はどこの誰なんです?」向かいのおけいが訊いた。
訊かれてやっと、皆が何を勘違いしているのか、小源太はわかった。
世間というものは、男女がひとつ部屋にいると、必ずそういう行為をするのだと決めつけてしまうものらしい。
「いや、違う違う。みんなの思い違いだ」あきれる思いで小源太はかぶりを振った。
「隠し事はなしだよ」「もう長いお付き合いなんだし、家族みたいなものでしょ」「あらいざらい喋っちまいなよ」かみさん達は口口に言うのだった。
「いや、本当に違うんだから」
と小源太が真実を話そうとした時、噂の種が小源太の家から出てきた。
皆一斉に押し黙り、あるいは口をぽかんとあけ、あるいは好奇の目を向け、あるいはにたにたと笑いながら、着流し姿の冬至郎を見つめた。
「やあ、おはよう、皆さん」冬至郎がさわやかに言った。「いつも小源太が世話になっているね。兄の冬至郎だ」
「え、お兄さん」おしまが頓狂な声をあげた。
「これは、捜しておられたお兄君と、とうとう再会できたのですな」久右衛門が目を丸くしている。
「まあ、なんと凛凛しいお姿」「まさに眉目秀麗なおかた」「水の滴るいい男とはお兄様のことを言うのですわね」かみさん連中は、声を一段高くして、むりにたおやかな調子で言って、冬至郎を熱のこもった目で見つめている。
冬至郎は顔を洗って口をすすいで、
「これからも、妹のことをよろしく頼むよ」
そう言ってにっこりとほほ笑んだ。白い歯が日光を受けてきらりと輝いたようだ。
かみさん達は、吐息とも感嘆ともとれる声を漏らして、家にもどる冬至郎を見送った。
たちまち、かみさん達が堰を切ったようにいっせいに口を開いた。
「お兄さん、お歳はいくつ?」「これからこの長屋に住むの?」「まさか、もう結婚されているんじゃないでしょうね」「お兄様に女房、子がいたってかまわないわ、あたし」
小源太はひきつったように苦笑して、答えにするしかなかった。
帰った小源太が土間で朝餉の支度をしていると、入り口の戸が開いて、おしまが顔をだした。
「これ、残り物ですけど」と鍋を持ってずかずかと勝手に上にあがって、兄にしなだれかかるようにして何やら話しかけている。ところへ、向かいのおけいが漬物を持って現れ、「ぬけがけはずるい」などと言って上がり込み、他のかみさん達も手に手に魚の干物やら、菜っ葉の煮びたしやらを持って押しかけてくるものだから、部屋はたちまち人であふれかえった。
しまいには、久右衛門まであらわれ、「どうせ茶碗も箸もひとそろいしかないのでしょう」と食事道具を抱えて来るしまつである。
小源太はむっとした。なんだか兄が長屋の連中に取られたような気分だ。座る場所もなくなって、しかたがないから、土間に立ったままおひつを抱えてしゃもじで飯を食った。
顔を洗いに井戸端へ行くと、すでに長屋のかみさん連中は五、六人かたまって何かのよもやま話に盛り上がっていて、今朝は珍しく大家の久右衛門もその輪に加わっていた。
あくびをしつつ、おはようと言いながら近づく小源太を、皆がいっせいに一瞥すると、すぐに顔を見合わせてくすくすと笑うのだった。
感じの悪いものである。
「栗栖の旦那」と隣のおしまが声をかけた。小源太の顔色をさぐるような目で見て来、嫌な笑いを目もと口もとに浮かべている。「夜中まで、ずいぶん楽しそうでしたこと」
小源太はおしまが何を言いたいのかわからず、眉根を寄せた。
「栗栖様」と久右衛門が引き継ぐように話しはじめた。「あなたも、そのような男の身なりをしていると言っても、やはり女人だったのですなあ。私は安心しましたよ。しかし、隣近所に聞こえるほど、大きな声を出してはいけません。仮にもお侍というご身分なんですから、そのようないとなみの時でも慎みを持っていただかなくては、下下にしめしがつきません」
小源太の頭は、半分寝ているようなものだから、いささかまわらない。長屋の連中が何を言っているのか、さっぱり理解できないでいた。
「で、相手はどこの誰なんです?」向かいのおけいが訊いた。
訊かれてやっと、皆が何を勘違いしているのか、小源太はわかった。
世間というものは、男女がひとつ部屋にいると、必ずそういう行為をするのだと決めつけてしまうものらしい。
「いや、違う違う。みんなの思い違いだ」あきれる思いで小源太はかぶりを振った。
「隠し事はなしだよ」「もう長いお付き合いなんだし、家族みたいなものでしょ」「あらいざらい喋っちまいなよ」かみさん達は口口に言うのだった。
「いや、本当に違うんだから」
と小源太が真実を話そうとした時、噂の種が小源太の家から出てきた。
皆一斉に押し黙り、あるいは口をぽかんとあけ、あるいは好奇の目を向け、あるいはにたにたと笑いながら、着流し姿の冬至郎を見つめた。
「やあ、おはよう、皆さん」冬至郎がさわやかに言った。「いつも小源太が世話になっているね。兄の冬至郎だ」
「え、お兄さん」おしまが頓狂な声をあげた。
「これは、捜しておられたお兄君と、とうとう再会できたのですな」久右衛門が目を丸くしている。
「まあ、なんと凛凛しいお姿」「まさに眉目秀麗なおかた」「水の滴るいい男とはお兄様のことを言うのですわね」かみさん連中は、声を一段高くして、むりにたおやかな調子で言って、冬至郎を熱のこもった目で見つめている。
冬至郎は顔を洗って口をすすいで、
「これからも、妹のことをよろしく頼むよ」
そう言ってにっこりとほほ笑んだ。白い歯が日光を受けてきらりと輝いたようだ。
かみさん達は、吐息とも感嘆ともとれる声を漏らして、家にもどる冬至郎を見送った。
たちまち、かみさん達が堰を切ったようにいっせいに口を開いた。
「お兄さん、お歳はいくつ?」「これからこの長屋に住むの?」「まさか、もう結婚されているんじゃないでしょうね」「お兄様に女房、子がいたってかまわないわ、あたし」
小源太はひきつったように苦笑して、答えにするしかなかった。
帰った小源太が土間で朝餉の支度をしていると、入り口の戸が開いて、おしまが顔をだした。
「これ、残り物ですけど」と鍋を持ってずかずかと勝手に上にあがって、兄にしなだれかかるようにして何やら話しかけている。ところへ、向かいのおけいが漬物を持って現れ、「ぬけがけはずるい」などと言って上がり込み、他のかみさん達も手に手に魚の干物やら、菜っ葉の煮びたしやらを持って押しかけてくるものだから、部屋はたちまち人であふれかえった。
しまいには、久右衛門まであらわれ、「どうせ茶碗も箸もひとそろいしかないのでしょう」と食事道具を抱えて来るしまつである。
小源太はむっとした。なんだか兄が長屋の連中に取られたような気分だ。座る場所もなくなって、しかたがないから、土間に立ったままおひつを抱えてしゃもじで飯を食った。
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